無私の精神


 プラトニック・ラブというと、今日では、性行為を伴わない純愛みたいなつまらない意味で使われる場面が多いけれど、本来はプラトン的愛、プラトンが言うところの愛ということで、すなわち、知もしくは知者への恋心(エロース)なのだが、池田晶子の小林秀雄への愛とは、自分でも「新・考えるヒント」で言っているとおり、まさにこのプラトニック・ラブである。そして俺の、小林秀雄と池田晶子への愛もこのプラトニック・ラブである。
 小林秀雄も池田晶子も強烈な個性の持ち主で、一見、俺、俺、言っている独善家のように見えるかもしれないが、その「俺」をよくよく眺めると、完全な「無私の精神」であることは、実は明瞭だ。俺はこの「無私の精神」、つまり、逆説めくが、「モノホンの個性」に、狂おしく惚れている。読後必ず、俺は本を抱きしめられずにはおれなくなる。
 デカルトの学説はこうであり、ヘーゲルの学説はこうである、したがって両者は相反するなどということは、完全にどうでもいいことであった。そんなことよりも、なぜデカルトはデカルトであったのか、なぜ彼は彼であり、彼以外の人にはなれなかったのか、その個性の秘密こそが関心事であった。この秘密を見るためには、彼と我とが相違わない場所へと降りてゆかねばなるまい。彼が見たもの考えたものを、同じく見て考えられるのでなければなるまい。これがすなわち無私の場所である。すべての個性的な精神が、個性的であるがゆえに普遍的であるような場所である。

 小林秀雄は実行家を愛した。一言で言えば、彼が愛したのは職人であり、嫌ったのは理屈屋だということだ。職人は己を空しくし、物の動きに準じて実作する。答えは目前の作品に明瞭である。転じて理屈屋はどうか。空想の議論に熱中し、現実の物は何一つ作らない。それで社会的現実がどうの、しょせんは言葉に過ぎないの、よく言えたものだな。
 言葉とは、明らかに現実の物である。私の賢(さか)しらな意図や目論見を越えた、向こう側の実在である。詩人という人々がこの事実を最も敏感に察知している。詩人は実作する。言葉という物を扱う職人である。彼等は何も主張しない。彼らには無私がある。だからこそ彼らの魂には言葉が宿り、その魂にふさわしい独自の作品が生まれ出ることができるのだ。
「新・考えるヒント」池田晶子
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by ichiro_ishikawa | 2008-03-23 04:25 | 文学 | Comments(0)  

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