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Neil Young 来日公演

2003.11.15 SAT.

Neil Young
日本武道館

 同時期にクラプトンが来ていたけれど、クラプトンではなくニール・ヤングに行くのである。それは終った人間の現在よりも、進化し続けている人間の現在の方がスリリングだし、楽しめるから。確かにニールも禿げたし太った。出立ちとしてはいつまでもスタイリッシュなのはクラプトンの方で、一見すると、終った終ってないは逆のようにも思える。しかし、それは一見であり、ちゃんと見てみるとやはり逆ではないのである。クラプトンは年相応の音を出し、年齢に逆らわず、老いを引き受けている。いわゆる、いい歳の取り方をしている。ニールはめちゃくちゃだ。加齢とか老いとかまったく気にしていない。いい歳の取り方とは、なんて考えてもみない。ただ「ロックンロール・キャン・ネヴァー・ダイ」と歌い続けているだけ。「徐々に消え入るぐらいなら燃え尽きた方がまし」とまだ歌い続けるのである。要するに精神は少年のままなのだ。肉体は物質だから時の流れに抗えない。だからルックスはスタイリッシュのスの字もないけれど、い方は図らずもスタイリッシュなのである。
 前半2時間、演劇をバックにストーリー仕立ての最新作「グリーンデイル」を全曲披露。ブレイクを挟んで、「ヘイヘイ・マイマイ」「ライク・ア・ハリケーン」など必殺メドレー。この必殺メドレーが必殺なところがニールの現役ぶりを物語る。クラプトンがレイラをやったところで、やっぱり懐メロメドレーなのである。曲自体の善し悪しを言うのではない。今の本人が昔の曲をやることの説得力なのである。
 ただ、やっぱりクラプトンの「ワンダフル・トゥナイト」や「レイラ」のアウトロは聴きたかった。あれはとんでもないのだ。また、ニールにおいて「シナモンガール」を聴けなかったのも残念だった。

by ichiro_ishikawa | 2003-11-15 11:40 | 音楽 | Comments(0)  

布袋寅泰、ドーベルマンの意味

 布袋のクラブギグを見て久しぶりに思索が促された。ひとつは、布袋の青春歌謡ロックという方向性がひとつの頂点を極めたという実感、及びクリアになった布袋のキャリアの変遷。ひとつは、ギタリズムの、布袋における、そしてロックにおける位置。ひとつは「ヒムロックも怖くない」発言が単純に意味するところ。メロディ・メイカーとしての布袋の特徴、力量。リズム、リフについて。ソロについて。これらは各々が関連するので筆に任せて乱筆していく。

 最新作『ドーベルマン』は90s以降のデジタルビートをふんだんに取り入れながらも大筋において目新しさはない楽曲が並んだアルバム。というか、これまでの世界中のロックの美味しいところを随所に盛り込んだ、“ロック大全集”的なアルバムになっている。ロック・ファンなら誰しもニヤリとさせられる王道フレーズのオンパレード。こうした直球勝負のやり方は、現在の布袋の生きる道を明確に物語っている。ここで布袋のキャリアを振り返る必要がある。
 いう間でもなく布袋の出発点はBOφWYで、ブリティッシュ・ポップのスパイスを利かせた日本歌謡メロディ、ダンサブルなリズム、ギターリフが基調となっている。今でこそ音楽的には当たり前の路線として猫も杓子も歌謡ロックを奏でているけれど、日本の音楽シーンに確立、定着させたのは布袋であり、それこそがBOφWYにおいて最も評価されるべき布袋の偉業だ。だが、BOφWYはわずか6年の活動で、氷室の美的価値観により急きょ解散する。布袋は、氷室とワンセットで一ギタリストとして生きていく覚悟だったに違いない。前に立つボーカリストを失った布袋は、自分が前に出ることはとりあえずナシとした。旧知の吉川晃司を迎え新しいバンドを組む。その前にまず、ギターメインのBOφWYを極めるべく『ギタリズム』を作る。コンプレックスの誤算は、ロックアーティストとしてのステイタスを獲得したかった吉川晃司が、布袋のマリオネットにはならなかったことによる。単純な音楽的指向の相違ではない。当人たちが希望していた主従関係のバランスの崩壊だ。主導権を握って当然と考えていた布袋と、対等でぶつかりたい吉川。
 このバンドの短命で布袋はひとつ別のステップを生み出す。フロントに出て歌うということだ。ここで、そうはせず、「アンダーグラウンドなギタリスト」に向かえば、ロック界からは絶賛されたに違いないが、ヴェルヴェットアンダーグラウンドよりもTレックスが好きな布袋という、もともとの気質からして、ギンギラギンのロックンロールに向かったのは自然な流れと言える。ただしストレートにBOφWYをひとりでやるという方向に足を向けなかったのは布袋のいい意味での若さで、ポップとアヴァンギャルドの微妙なバランスを保っていくと行くという命題を自らに課したことは特筆しなければならない。かくして『ギタリズムII』は、BOOWYの“現在”、コンプレックスの“3枚目”とも言え、ギターリスト、ミュージシャンとしての新しいステップが、つまった大傑作となる。
 『II』のツアーで、布袋は、シンガーとしての自分に少なからず自信をつけたようだ。『II』がうまくマニアック性を追求できたことで肩の荷を下ろした布袋は、初期衝動をストレートに具現化した『III』を作り上げる。
 こうして自分なりのロックをやり尽くした布袋が次に目指したのは、お茶の間であった。『IV』の誕生である。『IV』製作にあたって非常に重要なのが、旅である。デヴィッド・ボウイとの再会を始めとする、さまざまな人々との出会い。布袋はこの時31~2歳。ひたすら自分の美意識を追求して来た、美神との格闘だった若き20代を鳥瞰できる目を獲得した。核ができた、あとはそれが他者にどう響くかという実践をしたくなったこと、あるいは外の刺激をよくも悪くも迎え入れていこうという、温和になった布袋がそこにはいる。「さらば青春の光」ではじめてテレビで歌い、「サレンダー」では歌謡番組にも出演。
 そしてギタリズム終了の最後の公演で「ポイズン」を披露し、いよいよギター・マエストロは、女子供からおじいちゃんおばあちゃんまで、お茶の間、世間という怪物に対して自分をさらけだしていくことになる。そこからは、ロックンロールという核を持ちながらいかに万人に届く楽曲を作っていくかという戦いになるのである。その実は厳しい戦いが、最新作『ドーベルマン』で完了したといっていい。一介の優れたギター弾きで終ることを由とせず、ギターを奏でるエンターテイナーとしてのシンガーとして、ひとつの地位を築き上げた。その試行錯誤がいよいよ名実共に終ったのではないか。「永ちゃんも、ヒムロックも怖くない。まっちゃんはちょっと怖いけど」。まっちゃんは愛嬌としても、これはギター弾きがフロントのシンガーと同じ土俵で戦い続けた末、同じ位置までたどり着いたという実感の現れである。これは凄いことである。キース・リチャーズはミック・ジャガーとセットなのであり、ジョニー・マーはモリッシーの後ろで最も輝く。バーナード・バトラーとブレット・アンダーソンしかり。氷室と布袋はやっぱりジョンとポールなのである。どちらもミュージシャンでフロントマンとしてのシンガーなのだ。

  『ドーベルマン』は一聴して限り無く元気でエネルギッシュなアルバムだ。キャッチーなギターリフ、ギターソロ、メロディアスな歌メロという布袋マエストロの技は相変わらず冴え渡っている。そして布袋の軸であるリズム。ギタリズム。ギターだけで完結できるリズム感覚こそが布袋の真骨頂で、これに松井常松のベースはただ厚みを加えているに過ぎない。布袋のギターには自己をいい意味で殺せるベーシストが必須なのだ。
 たしかに中学生がお気に入りにしそうなアルバムだ。だが、大人が楽しめないかといえばそうでもない。かっこいいリズムにかっこいいリフ、つぼに利くメロディ。普遍的な3分間のロックンロール・チューンが宝石のごとくキラキラ輝いている、ギンギラギンのロックンロールがここにはある。大人が楽しめないのはその大人に元気がないのだろう。体力がないのだ。その体力のなさを否定する資格はないし否定しても何も生まない。ただ、そういう理由を摺り替えて、「布袋は終ってる」と布袋の評価を下げるのはあまりに自分本意過ぎると少し憤る。趣味じゃないのなら構わない、ロックじゃないとかお子さまミュージックだとかいう批評はもはや批評の態を成していない。

  『キング&クイーン』から本格的に始まった、お茶の間ロックを極めた布袋。次にどこへ向かうのか、興味深い。布袋とはひとつのことを極めたら同じところには留まっていない男なのだ。そういうスタンスなのではない、そういう気質なのだ。

by ichiro_ishikawa | 2003-10-14 00:10 | 音楽 | Comments(0)  

Elvis Costello 来日公演

Elvis Costello
東京芸術劇場

 何度来てもどれもすごいという。フェスであったり、バンドであったり、今回のようなナイーブとのデュオであったり、その都度、編成が違うからサウンドも違うし、選曲も同じではないけれど、そのいずれもがものすごいという。テンションが高い。といってもバカ騒ぎ的な高さでも、ピリピリするような緊張感の高さでもない。演奏と歌に没入する態度が常にハイレベルなところにあるのだ。最近は大抵、ヒットメドレーで終るのだけれど、ファーストの曲から最新作まで、楽曲のクオリティが高いところで一定というのが驚きだ。だから、コステロは毎回行かざるを得ないことになる。できれば、セットリストも違うだろうからどの公演も行くべきなのだけれど。 

by ichiro_ishikawa | 2003-10-01 11:35 | 音楽 | Comments(0)  

Television 来日公演

Television
渋谷AX

トム・ヴァーラインはやはり本物だった。こういうインテリ・ロックンローラーは知的に音楽を捉えることができるから、いいオッサンになるとプロデューサーになったり、現代アヴァンギャルドに走ったりするのだけれど、ヴァーラインは頭がおかしいのでそうはなっていない。デイヴィッド・ボウイやエリック・クラプトンのような資本主義的インテリではなく、ゴッホやピカソ、ニーチェ的な白痴インテリだ。だからこそ誰も真似できない。自分にだけしか聴こえない音楽が見えていて、そこに達することで精一杯。俺はこういうミュージシャンを愛する。

by ichiro_ishikawa | 2003-09-25 11:34 | 音楽 | Comments(0)  

Lou Reed 来日公演

Lou Reed
東京厚生年金会館

 そこにいる、というだけで成立してしまう恐るべきカリスマ性。正直、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド~ソロ初期がすべてて、あとは余興なのだけれど、その余興によって、黄金の数年間のキャリアが損なわれるというのはおかしな考え方だ。
 ルー・リードの声が鳴っただけで、高校2年の冬が立ち現れるのには辟易するが、もしかしたらあの暗黒の高校時代へのノスタルジイに酔いしれているだけかもしれない。だが、楽しかった青春を懐かしむなら可愛げがあるが、苦しく哀しかった青い時をあえて懐古するという行為はマゾヒズム以外の何かであろうか。できれば思い出したくないのである。だが、そういう時代は一番精神が瑞々しいのかもしれない。いや瑞々しいからこそ哀しかったのか。いずれにせよ、あの時の自分の感覚がもっとも正しいということが、年齢を重ねるに連れて明らかになってくるとは、世界の構造というのはよく分からない。 

by ichiro_ishikawa | 2003-09-20 11:33 | 音楽 | Comments(0)  

WIRE 03

WIRE 03
さいたまスーパーアリーナ

卓球ちゃんでさえ今イチ。田中フミヤがよかった。でも如何せん、さいたまスーパーアリーナというのはどうなのか。俺にはレイヴは向いてないな。密室のダンスが好き。

by ichiro_ishikawa | 2003-08-30 11:32 | 音楽 | Comments(0)  

The Strokes in Summer Sonic 03

The Strokes
Summer Sonic 03千葉マリンスタジアム

 カッコいいリフ、シンプルなギターカッティング、リズム、ルート連打のベース、低音ボーカル、ロックンロールメロディ。ニューヨークアンダーグラウンド臭の濃いガレージ系ロックンロールバンドという、俺のもっとも好きなスタイルのひとつを体現。でも心から惚れることがないのは、バンドがアマいのではなく、もちろん俺が歳をとりすぎているせいで、これはもう取り返しがつかない。そういうとき俺はどうすればいいすればいいのだろう。

by ichiro_ishikawa | 2003-08-03 17:00 | 音楽 | Comments(0)  

Fuji Rock Festival 03

2003.07.27 SUN.

Nick Lowe
 ギターを抱えた本人だけのステージ。日ざしが強い4時前。グラサンにスーツ。長身のダンディ。「Cruel To Be Kind」「(What's So Funny 'bout) Pease,Love And Understanding」に感涙。

Elvis Costello
 すげえ勢いで出てきてグワーッと演奏して、最後は「(What's So Funny 'bout) Peace,Love And Understanding」。直前の曲との間でギターを交換したが、そのギターが調子が悪く、肝心の出だしで音が出なかった。あの音が出てたらすげえ決まっていたが、それを差し引いてもすげえ演奏、そして声。ニック・ロウの飛び入りは誰もが期待しただろうがなかった。

Steve Winwood
 スペンサー・デイヴィス・グループもトラフィックも、ソロもそんなに聞き込んではいないものの、いつ聴いてもすげえいい、スティーヴ・ウィンウッドを、初めて観る。すげえいい演奏、声、つら。いい皺。イギリス人らしい神経質さもいい。

Massive Attack
 あの声がエフェクト・ヴォイスじゃなかったことにまず驚き。CDがすげえいいけれど、ライブはどうなのかこの手のアーティストは、と思っていたが、CD通りの良さを体感できてよかった。サウンドはCDの方がいい。当たり前か。夜、というのもよかった。終演後、急いでホワイトステージのモグワイに駆け付けたが、残念ながら終っていた。

by ichiro_ishikawa | 2003-07-27 02:11 | 音楽 | Comments(0)  

内藤遊人インタビュー by 富沢えいち

富沢えいち「ジャズ四ツ谷口」より転載

 11月14日復刊予定の「ジャズライフ」誌の“噂の真相”について、前・編集顧問、内藤遊人氏にインタビューしました。

「ジャズライフ」復刊記念
編集長・内藤遊人インタビュー

版元の立東社が倒産したことによって「ジャズライフ」誌が休刊したのは今年の7月。熱烈な各方面からのラヴ・コールを受け続け、絶えず「すわ復刊っ!」という噂が流れ続けていたが、この10月初頭にようやく“正式な見通し”を受けることができた。当「ジャズ四谷口」では、あまたの噂を払拭するべく、出入りライターの特権を最大限に行使して、別会社を新設して「ジャズライフ」制作の陣頭指揮にあたることが決まった内藤遊人氏に直撃インタビューを試みた。業界でも有名な“出たがらない”人物の、オフレコ部分もまだ多いという内容であることをお断りして、待ち望んでいた“「ジャズライフ」どうなるの?”の現時点での真相をお届けしよう。

The shape of jazzLife to Come!
「“ジャズライフ”来るべきもの!(仮)」
業界の“奇蹟”が起きた背景とは?

——まず、「ジャズライフ」休刊というニュースには驚きました、という質問からさせていただこうかと思っていたのですが。
内藤 そりゃ、驚きましたよ、こちらも(笑)。
——その時の内藤さんの立場はどう説明すればいいのでしょう。前は社員ということでしたが。
内藤 編集顧問という名前でやってはいましたが、編集長を補佐する立場とでもいえばいいでしょうか。ジャズライフの歴史的にいえば、元・編集長(2代目)だったということにはなりますが。
——編集長を辞めた時点で立東社はお辞めになっていた?
内藤 ええ、そうです。この4〜5年は、皆さんがどのぐらい原稿料をもらっているとか、いくら経費がかかっているのかとかはみてなかったけど、雑誌の方向性に関しては責任を持つ、というスタンスで関わっていました。
——ということは、立東社倒産というニュースは……。
内藤 そういう意味では、仲間の編集部員と同じ感覚で受け止めた、ということになりますね。
——「ジャズライフ」はどのような形で復刊するのでしょうか。
内藤 まあ、「ジャズライフ」に関わっているときから、立東社という会社の中にあっても、独立採算というか、切り離して単独で考えた場合に採算がとれる雑誌にしようと自分では考えながらやってましたし、こうなってからも、発行してくれる会社さえ見つかればなんとかなるだろう、ということは当然考えていました。もっとカンタンに言ってしまえば、自分たちにお金があれば、自分たちで「ジャズライフ」を出してしまおう、ということも当然考えたわけですよ。ところが、どう計算しても、最低でも4〜5千万の開業資金と当初の運転資金がなければ難しいという現実がハッキリと見える(笑)。それで、どこか発行してくれるところはないか……、とそういった状況のなかで、幸せの青い鳥が見つかった、というところでしょうか。
——カンタンに考えてみると、「ジャズライフ」というバンドがあって、今までリリースしていたレコード会社と契約の面でうまくいかなくなったので、別の会社を探した、というようなことなのかな、と。
内藤 ええ、そういう感じかもしれませんね。立東社にも「ジャズライフ」という雑誌に対してそういう自由さを許していたところがありましたから。だからこそ、今回のような早期復刊も可能だったんじゃないかと思います。
——一般に、雑誌の復刊は“奇蹟”と言われますが。
内藤 そうですね。我々も“まさか”という気持ちが確かにありますね。冗談のつもりで言ってるうちに、なんとなくそうなってきた、というのが正直なところなんです(笑)。「そこまで言うなら」と拾ってくれた優しい人たちがいた、と。人生は何でもそうでしょうけど、出会いがあったということですよね。ラッキーには違いないんでしょうけど。
——誰もが助けられるという立場にはないだけに、やはり奇跡的なことですよね。
内藤 ただ、我々は好きなように雑誌を作っていて、これからもそれは変わらないだろうし、以前と同じような発行形体はだめでも、バンドで言う“ストリート・ミュージシャン”みたいな立場でもやろう、とは考えていました。できたかどうかは別ですが(笑)。自費出版して、大手書店に持ち込んで売るのはタイヘンでしょうけど、なんらかの形で、名前は違っても、雑誌を作り続けたいなというのはありました。実際にはいくつも難しい問題を解決しながらやっていかなければならないわけですから、決して簡単にできると思って「雑誌を続けよう」と考えていたわけではないんですけどね。ただ、ストリートで元気良くやっていれば、誰かがいいねと共感してくれるという未来もあるじゃないですか。それもまた、ヒトとの出会いや相性が関係してくるんですけど、可能性がなくなるわけじゃないから。
——三栄書房という名前は出していいんでしょうか。
内藤 もういいでしょう。挨拶状も作りましたから(笑)。
——三栄書房という版元が「ジャズライフ」編集部に「ジャズライフ」を作らせて、それを流通させるということですね。内藤 そうですね。こちらは「ジャズライフ」を制作するための新しい会社を立ち上げました。復刊に伴う内藤遊人復活の奇跡とは?
——最初、内藤さんはヤマハに入社されてたんですよね。
内藤 大学出てからはね。本当はミュージシャンになるつもりで早稲田のダンモに入ったんですが、やっぱりカタギになろうと思って。
——カタギじゃなかったという噂ですよ(笑)。ヤマハの渋谷店にはミュージシャンが来ると半額にしてくれる店員がいるって有名だったって(笑)。
内藤 いえいえ、そんなことないですよ(笑)。噂が噂を呼んでそうなっているんでしょう。
——でも安くしてくれたって言ってましたよ。
内藤 まあ、多少は、ね。だって、ジャズやってる人に高い値段で売るような、そんなかわいそうなことはできないですよ。多少は、ね。
——何で「ジャズライフ」に?
内藤 これは話せば長いんですよ(笑)。ヤマハって、当時は音楽だけじゃなくて、バスタブ作ってたり、アーチェリーも売ってたし、ゴルフ・クラブとか、金属事業部で中国行った同期の人間もいたんですよ。当時は日本楽器製造株式会社と言っていたんだけれど、楽器だけでなく手広く事業をやってた時期だったんですから。で、入社させてもらえたのはいいけれど、最初にピアノとかエレクトーンとかのセールスの研修を受けるんだけれど、これがぜんぜんダメで(笑)、ほかの部署に行っても使いモノにならないってことで、それで渋谷店に配属になったんです。もともと渋谷の店っていうのがヤクザなところで(当時の直営店のなかではやっぱり銀座とか池袋の方がクラシックな雰囲気があった)、そこでまあ、楽器を売るとかはあんまり得意じゃなかったから(笑)、店に遊びに来てくれるミュージシャンに頼んでジャズ教室を始めたり、そんなことばっかりやっていた。当然、ボクの売上は上がらないから、2年半ぐらいで、もう他のことをやった方がいいんじゃないのと言われて、それで辞めたんですけどね(笑)。それでフラフラしているころに、「オマエ、フラフラしているなら一緒に雑誌をやらないか」って早稲田の頃のバンド仲間から誘われたのが実は、立東社だったんです。当時はまだ「ジャズライフ」創刊前でしたから、「ロッキンf」編集部の机に座って手伝いながら、ジョン・デンバーのムックとか、ジャズ・ギタリストやブルース・ギタリストの単行本とか、わけわからんこといろいろとやってたんですよ(笑)。それをやりながら、半年後ぐらいに「ジャズライフ」を作る、ということでスタートしたんです。それが77年。
——内藤さんが編集長になられたのは。
内藤 創刊から2年ぐらい経って、世に言う“フュージョン・ブーム”に火がつき始めたころ、雑誌がようやく軌道にのってきた。始めるときには、「某誌以外はぜったいに成功しないから無謀なことはするな」とみんなに言われましたけどね(笑)。ましてや譜面を入れるなどというような余計なことを考えていたから、ぜったいダメだと言われ続けて、ボクも実はそう思っていたんだけど(笑)、やっているうちに、世の中がこっちに向いてくれた。軌道にのったから今度はオマエが編集長をやれと言われて、別に、引き受けたくはなかったけれど、断る理由もなかったし(笑)、流れのまま、ですよ。編集長になったからって、別にラクになるわけじゃなく、やることも変わりなかったし、かえって余計なお金の計算とかまでしなければならなくなって、楽しくはなかったけど(笑)。まあ、肩書きでどう変わるわけじゃなかったから引き受けたんですけれど、それ以後も「ジャズライフ」自体はどんどん支持されていって、その点ではおもしろかったですね。10年ぐらいやったかな。それでもういいかということもあって、一時は引退していた。まあ、引退といっても、原稿は書いてたから、「ジャズライフ」との関係は続いてたことは続いていたわけだけど。その後、さっき言った編集顧問という形で、また編集に関わるようになったわけです。
——今、不況ですよね。そんななかで「ジャズライフ」が復刊するというニュースは数少ない“良いニュース”だと受け取られているんですが、実は、それほど楽な船出ではないんじゃないかとも思っているんですが。
内藤 間違いなくラクな船出じゃないですよ。やらない方がよかったという意見もあるだろうし、実際にそういう思いも一方にあることは確かです。雑誌を作っても給料が出るかどうかわからないわけだから。24年の歴史が築いた“強み”とは?
——これまでの歴史で、「ジャズライフ」スタイルというものができあがっていたと思うのですが、このアクシデントによって何か変わるということはあるんでしょうか。
内藤 それはないでしょうね。結局、雑誌が20年以上保つというのは、外部から見ればタイヘンなことだと思うんですよ。自分が関わっていた雑誌だということを抜きにしても、ね。すごいことだと思いますよ。
——その20年がダメでこの結果を導いたわけではないんですよね、今回の場合は。
内藤 そうそう。だから、中身がダメになって休刊になっていたのなら、20年が何の意味もないことになるわけだけれど、そうじゃない。「ジャズライフ」は、続いていたことによって自然にスタイルというものができていたんじゃないかと思うんですよ。そうした支持されている部分を継続することが、今回の復刊の使命でもあると思っています。それがなかったら、たぶん、復刊できなかったかもしれない。そんな大儲けできるような雑誌じゃないんだけれど、「ジャズライフ」にはそういう“なにか”があるから、それはほかにはないものだと評価してくれる人がいるわけですよ。それが「ジャズライフ」の持つ強さで、そういう点が認められたから復活が許されたんじゃないかと、手前ミソですが思うんですよ。ユニクロにはユニクロの特色がある。吉野家には吉野家の特色がある。エルメスのビルがオープンすれば並んでまで買いに行く。ブランドという幻想はもちろんありますけれど、そこにしかないから買いに行く、魅力があるから行く、高いけれど行く、安くていいものがあればもちろん行く。強いものにはその根底に何かある。何かないと世の中に受け入れられないわけですよね。それぞれにコスト計算やらなにやらの事情はあるでしょうけれど。同じ強さが、24年続いた「ジャズライフ」にはあったんじゃないかと思うんですよ。それは大事にしたいと思っています。
——結論としては、「ジャズライフ」は変わらない?
内藤 ええ。
——ちょっと休んだだけ。
内藤 ということでしょうね。まあ、これでスタッフが変わるのなら変わるんでしょうけど……。ボクがいなければもちろんリードするヒトによっては変わるだろうけど、いるから変わらないということでもなくて、「ジャズライフ」には「ジャズライフ」を作ってきたものがあるから変わらない、という部分が大きいと思いますよ。でも、版元が変わるということは、まったく同じ状況ではないということでもあるわけです。さて何が変わるか、それは乞うご期待なんですが(笑)。
——広告料が高くなるとか、記事に金を取るとか(笑)。
内藤 そういう部分では変わりません(笑)。変わるということに関して言えば、すでに「ジャズライフ」は歴代で何回も変わってきましたからね。AB版でスタートしたのにA4版に変えたり、平綴じから中綴じに変えたり、まあ、変えたのは主にワタシですけど(笑)。やっぱり飽きるんですよ、昨日と同じことをしていてもつまらないという性格ですから。同じコトをやっていると飽きちゃって続かないんですよ。でも、今は、切れた部分をなんとかつないでいきたい、ということを第一に考えて、つなぐからにはその間の空白を埋める何かを付けなければ! ということで、期待して欲しいと思っています。
——定食に小鉢が1品付く……。
内藤 計画通り行けば、小鉢は付きます。いや、小鉢じゃないかもしれないな、本当にささやかなオマケかもしれないけど(笑)。

by ichiro_ishikawa | 2001-10-14 03:39 | 音楽 | Comments(0)