カテゴリ:音楽( 377 )

 

氷室がついにBOΦWYを解禁した

 今年2月、himuro.comに衝撃の告知が載った。「氷室がBOΦWYをやる」。即、チケットをプレオーダーで申し込む。4人分と2人分を同時に、ぴあとe+へ。結局e+の2人分が抽選の結果、奇跡的に当たった。どのくらいの倍率だったかは分からないが、15分で売り切れたらしいので、相当なものだったろう。ちなみに、普通のツアーは取れなかった。運がよかった。

 今回のライヴは、BOΦWYの曲とソロの曲を交互にやっていくという構成だった。
 幕開けは、まさかのあのドラムの響きだった。最後期のライヴのオープニング・ナンバー「
B・BLUE」。クワッときた。これでもう決まった。なんてことだ。これはBOΦWYのプチ再結成ライヴだ。その後も、ソロを間に挟みながら、「Rouge of Grey」「Runaway Train」「Welcome to the Twilight」といったマニアックなものから、「JUSTY」「Blue Vacation」「B・E・L・I・E・V・E」「Longer Than Forever」「RENDEZ-VOUS」「Memory」といったあまり聴けないナンバー、ソロでも度々披露している「ハイウェイに乗る前に」、そして「Image Down」「No! N.Y.」「Beat Sweet」「Dreamin'」といった大代表曲まで。「Cloudy Heart」と「わがままジュリエット」はやらなかった。もはや氷室ソロ・ヴァージョンとして、最近のレパートリーに定着しているからだろう。俺としても特に聴く必要はなかった。
 「Image Down」「No! N.Y.」「Beat Sweet」「Dreamin'」は凄かった。一番凄かったのは「Image Down」だ。あれはすごいライヴ・ソングだ。あまりのオーディエンスのリアクションのあまりのよさに、氷室も思わず吹き出していた。氷室は実によく笑い、BOΦWYを披露した。お祭りなのだろう。一方、氷室はソロをBOΦWYに並べても絶対劣らないという自信を見せつけたというのもある。いいことだ。

 俺は3rd『BOΦWY』の頃から追っているファンだけれど、BOΦWYのギグには行ったことがなかった。千葉の片田舎の中学校で生きる部活少年には、「コンサートに行く」というのは、行為の選択肢になかった、というか思いつきもしなかった。音楽とは、テレビかレコードで聴くものだった。
 高校1年の冬、BOΦWYがいきなり解散したというニュースがどこからか俺の耳に入る。え、そんなことってあんの!? と素頓狂な声を心中で上げた。春に後楽園にできる「ビッグエッグ」でラストコンサートをするという。俺のなかで、「コンサートに行く」というのはアリかもしれない、という思いが初めて芽生えた。だが、チケットの取り方がよくわからない。友達は1人もいないので聞くに聞けず、いろいろてめえで調べた結果、並ぶか電話、ということがわかった。並ぶといってもどこに並べばいいのかよく分からないし、手軽なので電話を選び、発売日に電話をした。だが結局一切つながらず、気がついたら完売していた。俺は悔しさのあまり心中でむせび泣いた。物理的な痛み以外で泣いたのは、長州が藤波に3カウントで負けた84年以来3年ぶりだった。

 実に17年を経て、俺は今、始めてBOΦWYのコンサートを目撃した。あり得ないことが起こったのだった。これは、疑似再結成だ。布袋はもしかしたら「うん」と言うかもしれないが、氷室が「やる」ということはまずあり得なかった。最強のカッコつけ野郎・氷室はの、そのカッコつけは半端じゃない。再結成しないのは、単純に「カッコ悪いから」以外の何かではないのだ、氷室にとって。
 何%BOΦWYなんだろう。物理的には25%だけれど、演奏はまるっきり完全コピーだし、歌っているのは、歌い方や声質は変わっているけれど、それにしても世界一BOΦWYの氷室に近い人間だ。というか本人だ。まあ、目を瞑ってそのサウンドだけ聴けば100%に近くBOΦWYのコンサートだ。だが、目を開けると、やっぱり25%だった。物理的なことだけじゃなく、布袋のアクションと微妙なリズムが決定的に違うため、サウンドはBOΦWYではない。ベースとドラムは、ひょっとしたら松井や高橋でなくてもいいのかもしれない。でも、ギターは布袋でなければならなかった。

 今回のライヴの感想は、BOΦWYを観れた、氷室は最高にカッコいいという感激と、もうひとつは「布袋ってやっぱすげえ」ということだった。俺は『メモリーズ・オブ・ブルー』『メロウ』『フォロー・ザ・ウインド』で、氷室はBOΦWYと対等かそれ以上になったと思っていたが、立続けにBOΦWYとソロを比べて聴くと、圧倒的にBOΦWYが凄かった。その差異とは、ズバリ、リズム。あの「ギャッ、(ン)ギャー、ギャッ、(ン)ギャー」というダンサブルなリズム。BOΦWYの曲は踊り出してしまうが、氷室のソロは聞き入ってしまう。
 BOΦWYの聞き入る系の曲、たとえば「B・E・L・I・E・V・E」や「わがままジュリエット」などにしても、布袋がギターを弾くと、そこにダンス感が加わる。ロックンロールとなる。氷室はノリのいい曲でも、ここまでダンサブルにはならない。
 もうひとつ付け加えるならば、布袋のポップだ。BOΦWYとソロの聴き入る系の曲をくらべると、やはり氷室のクセのあるポップは、それはそれでいいのだけれど、大局的に、布袋の恐るべしポップにかなわない。
 BOΦWYの曲は、特にルースターズやローザ・ルクセンブルクといった本物のロックを好む輩からは「カラオケ・ソング」と吐き捨てられ蔑視されることが多いが、BOΦWYのポップは非常にロックンロールだ。ミスチルやサザンやグレイのポップとは大きく違う。そこには、布袋のリズム・ギターが常にロックンロールのダンスの神様を宿しているからなのだ。ストーンズではないかもしれないが、エルヴィス・プレスリーなのだ。

 BOΦWYとは氷室&布袋であり、今回は、80%BOΦWYだった。ボーカルというのはやはりでかいので、逆に同じような感じで布袋がコンサートをやったら、50%BOΦWYとはいえまい。20%ぐらいだろう。そういうわけで、「80%BOΦWYのプチ再結成ギグ」、あるいは「BOΦWYコピーバンド全国大会優勝バンドfeat.氷室」を、俺は満喫した。それ以外に何が必要だろう。

by ichiro_ishikawa | 2004-08-23 03:11 | 音楽 | Comments(0)  

ヴィム・ヴェンダース『Soul Of A Man』を観て

 マーティン・スコシージ総指揮による映画シリーズ『THE BLUES』からの第1弾、ヴィム・ヴェンダーズ監督『Soul Of A Man』を観た。この映画はブラインド・ウィリー・ジョンソン、スキップ・ジェイムス、J.B.レノアーという3人のブルース・ミュージシャンにスポットライトをあてた作品。彼らは、20~60年代にかけてレコーディング活動を行い、少しは知られた存在となったが、最後は貧困の中、人知れず亡くなっていったという。
 本作は、3人のアーカイヴ映像や役者を使ったドラマを中心に、当時を知る関係者らのインタビューと、現代のミュージシャンによる彼らの曲のカバー演奏を随所に盛り込みながら、彼らのミュージシャンとしての生涯を紹介していくというもの。
 現代のミュージシャンは、こんな面々。マーク・リーボウ、Tボーン・バーネット、ニック・ケイヴ&ザ・バッド・シーズ、ロス・ロボス、ボニー・レイット、ルー・リード、ベック、ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン、イーグル・アイ・チェリー、ジェイムズ・ブラッド・ウルマー、ヴァ‐ノン・リード、カサンドラ・ウィルソンほか。そして、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズとクリームはアーカイヴ映像で登場ときた。
 これだけの人たちを一挙に見られるというだけでもすごい。特に、ニック・ケイヴ&ザ・バッド・シーズ、ベック、ジョン・スンサー・ブルース・エクスプロージョン、ジェイムズ・ブラッド・ウルマーがよかった。カッコよかった。
 ただいかんせん、各々の演奏時間が短い。ストーリーなどどうでもいいから、スキップらのアーカイヴ映像をバックにひたすらレコードを流し続け、ひたすらこいつらの演奏を映し出してほしかった。

 ブルースはよくアメリカの演歌といわれるけれど、それは気の利かないジョーク、間の抜けた洒落にすぎない。確かにどちらも哀しみを歌うけれど、演歌が「哀しい、そんな俺および俺の人生悪くない」という隠れた自己肯定があるのに対して、ブルースは「哀しい、ただ哀しい」という叫びであるという点が決定的に違う。ブルースは同情を求めない、媚びない、つるまない。
 音楽面でいえば、ブルースとは、すごく音楽的に優れていると再認識した。劇中で流れるスキップやJ.B.のあのギターの音色はどうだ。あの弾き様はどうだ。そして、あの声はどうだ。歌詞もストレートで素晴らしいけれど、なんといってもあの音楽がとてつもない。僕は、特にブルース愛好家ではないし、実はあまり好きではないけれど、あの音色と弾き様と声には圧倒されずにいられなかった。グワッと暴力的で高揚感に溢れ、かつデリケートでせつない。はっきり言ってブルースだどうだはどうでもよくなってくる。ただ、いい音楽に触れたということだ。それ以上でも以下でもない。

 バンバンバザールという楽団は、憂歌団をカバーすることからも分かる通りブルース好きの集まりだけれど、音楽がブルース的というわけではない。だが、どこを切ってもブルースが出て来る、ということは特筆すべきことかもしれない。バンバンバザールに限らず、優れた楽団、ミュージシャンは、テクノだろうが、ロックだろうが、ソウルだろうが、R&Bだろうが、ましてやポップスだろうが、ブルースが滲み出ているというのは面白い現象だ。この場合のブルースとはもはや7thだ、3コードだとかそういうモノではなく、「暴力的で高揚感に溢れ、かつデリケートでせつない」という想念の、便宜上の代名詞といったところだ。
 この映画はブルース生誕100年ということで、ブルース・ミュージシャンをフィーチャーしているが、結局、「音楽の根源的なパワー」というものを再確認させてくれる作品だ。ブルースをはじめ、まだまだ知らない過去の素敵な音楽すべてを聴きたいという欲望に駆られたし、現代の音楽もどん欲に聴き込みたいと思い直した。そして、自分で楽器を奏で歌いたいと強く思った。
 音楽の魅力を久々にリアルに感じた33歳の盛夏。まだまだ下腹部にぜい肉をつけている場合じゃない。今日から僕はシャドー・ボクシングを始めることにする。
 以下。あ、以上。

『ソウル・オブ・マン』
配給:日活
2003年/アメリカ/104分/ビスタ/DOLBY/日本語字幕:石田泰子
2004年8月28日、ヴァージンシネマズ六本木ヒルズほかにて公開。

by ichiro_ishikawa | 2004-08-18 03:12 | 音楽 | Comments(0)  

バンバンバザール& jazz in Yokohama

『バンバンバザール& jazz in Yokohama』〔第2部〕
2004年8月14日(土)
 横浜・BAR BAR BAR

 JR横浜駅から根岸線で関内へ。南口を出て横浜市役所を抜けると、近くの横浜スタジアムではTUBEのライヴが行われており、音と歓声が漏れ聞こえてくる。「夏といえばTUBEだよなあ。あそこに飛行機突っ込まねえかな…」と危険な考えが頭を過った。と、ドーン! という爆音。曲終りか何かにのどかな花火が打ち上げられたのだった。そんな、人にはあまり言えないエピソードをこっそり削除しながら、横浜信用金庫脇の道を入る。3ブロック目右角に老舗ジャズライブレストラン「BAR BAR BAR」はあった。品のいい、ちょっとブルジョワジーな雰囲気の店内。今宵、サタデーナイトライヴは、ちょっと大人のライヴが観れそうだ。

 10時少し前、ステージに福島康之、富永寛之、黒川修の3人が集まり、第2部の幕が開けた。1曲目は会場で先行発売されていた最新アルバム『夏はあきらめた』収録の「たくわん」。憂歌団のナンバーだ。富永はウクレレ、黒川はウッドベース、福島はギターをそれぞれ奏でる。ウクレレでブルースを弾く富永のなんてカッコいいこと。福島はいよいよ声がしわがれてきて、まるでブルースシンガー。2曲目は「スウィート・スー」。福島はサックス風スキャットを披露した。ここで、「昼間、船上でトランペットを吹いていた」下田卓が登場。トレードマークのロカビリー風リーゼントは、前髪を降ろしたルーズなヘアースタイルに変わっている。グラサンは変わらない。「I'VE GOT THE WORLD ON A STRING」を、福島がレイドバックしたルーズでジャジーなヴォーカルでキめる。次に、富永はウクレレからギブソンのセミアコ・ギターに持ち替え、下田率いるカンザスシティ・バンドの最新作『だいぶジャイブ』から「モーニング・グローリィ」を下田がメインヴォーカルをとって披露。コケコッコーのコーラスは福島が。ギターを弾きながらも右手をきちんと頭に載せてトサカを作るアクションは欠かさない。というか、このアクションありきでのコーラス担当ということをきちんと踏まえている。もちろん気持ち猫背だ。ポカスカジャン大久保乃武夫を「嫉妬」させた、芸人・福島康之の凄さがチラッと現れたひとコマだった。
 「恋はねずみ色」「歌は終わりぬ」と続く。この辺りは富永のギターがものすごかった。下田のトランペットと富永のギターが交互にリードを取る形でのイントロで始まった「家庭教師2003」で、その凄さは爆発。コードの響きがすごくいいことと、下田がソロをとるときのバッキングのストローク。ザッザッザッザッズラーン! クワッと来る。極め付けは「明るい表通りで」。ここでギターのソロパートを富永はストロークで魅せた。この日の富永は恐るべしストローカーぶりを如何なく発揮していた。

 ここまでは、福島がブルージーでジャジーなヴォーカルをかましていたが、次に始まったのは、な、なんと! 「別にわざわざお前に会いに来たんじゃないぜ」!!! 「5年ぶり」という、つまり21世紀初披露となったこの初期の名曲が、今宵、甦った。ライヴでは初めて聴く人も多かっただろう。この辺りの名曲は前ギタリストの安立クンのキャラとセットで成り立っていた感も多かったため、福島は封印してるのだろうと思っていたが、まさか、である。そして絶品だったのが、富永の「奇遇だなあ」のセリフ。顔、トーン、完璧だった。「昔は良かった」ということとはまったく違うのだけれど、下手なお笑いより、いや結構凄いお笑いより面白かった初期のライヴのあの空気が甦ったことは、嬉しい限りだ。また、「ひよこを買ってきたぜ」も秀逸だった。
 そのあと続いたのが「盛り場に出ていこう」。銀座、赤坂、六本木、歌舞伎町をライヴ場所によって適宜変換する、例の“地元の盛り場回し”では「横浜、関内、石川町、長者町(ちょうじゃまち)、浅間下(せんげんした)」と並べた。長者町あたりから空気はヤバくなってきて、いわずもがな、浅間下がものすごい。名ライヴアルバム『HIGHLIGHT』での牛込柳町に匹敵するものすごさがあった。
 「明るい~」からのラインナップに、いい意味での変な汗が出てきた頃、「FRIDAY NIGHT エビフライ」が爆発。そしてインストゥルメンタル・ナンバー(ちょっと歌アリ)の「スウィングしなけりゃ意味ないね」。コード進行もカッコいいこのジャズ・ナンバーは、最近のバンバンのレパートリーのスパイスだ。しっとり&激しい、デリケートでフラジャイルな富永のギター。ストロークも相変わらずすごい。思わず目を閉じて聞き惚れる。目をあけると体重0.1トンの富永。このギャップがカッコいい。あの富永がこういうギターをグワッと弾く、ここがいい。
 富永と下田のソロ・バトルも凄まじかった。この時の福島の嬉しい顔ったらない。ジャズ・ナンバーはやはり演奏者が一番楽しいのだろう。そして黒川がソロをとる。黒川はMCのツッコミもさることながら、最近のベース・プレイにはかなり注目だ。バンバンのネクスト・レベルのカギを握る男、黒川オサーミー。渾身のソロに、ジャズリスナーよろしく「イェイ!」が思わず口をついた。今宵のハイライトはここだった。
 いよいよ終盤。「FREE 」「君微笑めば」、そしてメンバー紹介を経て、「四回も五回も 」でしめた。「ヒーリヒーリヒー!」「まーるだーいハ~ム」では福島は和田アキ子ばりのソウルフルなヴォイスを響かせる。「まーるだーいハ~ム」の「~」が素晴らしかった。「丸大ハム、伊藤ハム、プリマハム、高崎ハム、明峰ハム(岐阜)、札幌ニッポンハム」と並べ、やたら嬉しそうに「まーるだーいハ~ム」とコーラスで叫んでいた黒川にニヤリ。「四回も五回もできないぜ、赤玉出ちゃうぜ」までイッたサタデーナイトライヴは終えんを迎え、アンコールナンバー「ほんじゃね」を、福島はウクレレに持ち替えてさよならの挨拶とした

セットリスト
1.たくわん(『夏はあきらめた』)

2.スウィート・スー(『歌は廻る』)

3.I'VE GOT THE WORLD ON A STRING(『HIGHLIGHT』)

4.モーニング・グローリィ(カンザスシティ・バンド『だいぶジャイブ』)vo.下田卓

5.恋はねずみ色(『夏はあきらめた』)

6.歌は終わりぬ(『できました』)

7.家庭教師2003(『Suge・Ban・Ba!!』『ALL NIGHT POTATO LONG』)

8.明るい表通りで(『リサイクル』『HIGHLIGHT』『Suge・Ban・Ba!!』)

9.別にわざわざお前に会いに来たんじゃないぜ(『できました』『HIGHLIGHT』)

10.盛り場に出ていこう(『リサイクル』『Suge・Ban・Ba!!』)

11.FRIDAY NIGHT エビフライ(『4』『Suge・Ban・Ba!!』)

12.スウィングしなけりゃ意味ないね(アルバム未収録)

13.FREE (『Suge・Ban・Ba!!』『ALL NIGHT POTATO LONG』)

14.君微笑めば(『夏はあきらめた』)

15.「四回も五回も 」(『リサイクル』『ALL NIGHT POTATO LONG』)

16.ほんじゃね(『歌は廻る』)


by ichiro_ishikawa | 2004-08-16 03:12 | 音楽 | Comments(0)  

吉川晃司 Live at AX '04

 2/8(土)、AXで吉川晃司を見た。
 ほぼ定刻通りに客電が落ちると、バンドに続いて、グラサンに、胸まではだけたラメシャツを着込んだスーツ姿の吉川が登場。鳥肌が立った。すげえカッコいいのである。底の厚いブーツを穿いているため、とんでもなく長身で、その大きくしなやかな身体が、痙攣しているようなダンスを続ける。頭からハイテンション。出てきただけでやられるなんてことはそうそうない。吉川はいるだけでものすごいというレア中のレアなミュージシャンだ。
 吉川の真骨頂は、その派手なステージングにある。約2メートルの高さにシンバルを単体で設置して、曲終わりの度に蹴りあげるパフォーマンス。モニターに足をかける氷室バリのアクションも足がすげえ長いので、よりカッコいい。狭いライブハウスのステージを非常に窮屈そうに暴れ回る。そうしたクレイジーさが実に美しい。考える前に走る系の単純でストレートなバカなやつ、吉川晃司が俺は大好きだ。横幅もでかくなっていた。デビュー時より20kgは太ったであろう。往時のシャープネス・狂気こそ失われたものの、すこぶる健康的なバカ、吉川がそこににはいた。「大きな声では言えないけど」を「大きな口では」と間違えたり、シンバルを蹴りあげる代わりに洒落で頭突きしたら中心の金具に脳髄をぶつけて痛がるなど、天然ボケを連発。また、カツゼツが悪く内容も私利滅裂というか言葉不足のため何を言っているか分からないMCといい、最高なのであった。
 「ユー・ガッタ・チャンス」「さよならは8月のララバイ」といったアイドル時代のヒットチューンで幕を開けた後は、新作と思われる楽曲が中心のラインナップ。97年まで丹念に追っていた俺が知っていた曲は、「Baby, Baby」「アクセル」「スピード」「ボンバー」。
 アンコールでは、「A-LA-BA-LA-M-BA」「BOY'S LIFE」と畳み掛けてくれ、満足がいった。たとえ知らない曲でも、吉川のその存在感のデカサと歌う姿を見ているだけで楽しいし高揚してくるので、まったく退屈しない。こんな、派手なパフォーマンスがカッコよくさまになるのは吉川がミュージシャンである前に根っからのアイドルである証左だ。音楽性うんぬんといった意味性をまったく無効にする圧倒的なパワー。吉川は日本のエルヴィス・プレスリーであり、ジョン・レノンである。
 ロックンロールとはなんて考えていた自分はいかに頭でっかちか。吉川晃司はそのいかたが既にナチュラルにロックンロールだった。吉川を見ればそれで充分なのであった。

by ichiro_ishikawa | 2004-02-09 03:21 | 音楽 | Comments(0)  

ロックとは何か

 「ロックとは何か」という、手垢に塗れまくった問いを改めてシリアスに考えたい。
 まず、最初に細かいことで、ある意味どうでもいいことだけれど、ロックとは言わずロックンロールと言いたい。ロック&ロールなのであって、つまり、揺れて転がる、といった意味で、ロールは、転がる石にコケは生えない、の転がるである。ロックは物理的側面を、ロールは精神的有り様を言っている。だから、ロックというと「皮パンにエレキギター」「不良」といった、怠惰な発想に基づく微妙な誤解がはびこる。ロックンロールと言うと長いからロックと言うのなら問題ないのだけれど、ロックンロールと言うと古臭いからロックと言うのだったら、大問題だ。とりあえず、ここではロックンロールと言うことにする。
 ロックンロールは音楽的意味と精神的意味の2様がワンセットとなっている。
 ロックンロールの父はやはり、エルヴィス・プレスリー(54年)だろう。
 黒人のブルーズ、R&B、白人のロカビリー、フォーク(民族音楽)をごちゃ混ぜに消化したエルヴィス・プレスリーが、1954年にギターをかき鳴らして腰を揺れ動かしてシャウトした、そこに音楽的起原がある。

well you can do anything but lay off my blue suede shoes
何をしたっていいけどな、俺の青いスウェードの靴は踏むんじゃねえぜ
「blue suede shoes」ELVIS PRESLEY(カール・パーキンス作・石川一郎訳)
 これは、ロックンロールの精神面の何たるかを最も言いえたフレーズとして人口に膾炙しているが、異存はない。これがロックンロールである。
 この感じを別の言葉で説明することは難しい。詩だからだ。
「Don't Think. Feel」とブルース・リーの名言を拝借して済ませたい。
 以上、俺も正しいと思う一般論。
 これから、俺の考えを述べる。
 たとえば、「貫く」ということか? という。みんなが右向きゃ右を向くという愚行に対するアンチなのかと。
 結果としてそうなる場合もある、とは言える。
 実は、ロックンロールとは何々だの何々は人の数だけある。そのすべてが正解であると同時に間違いだ。ロックンロールは何々だ、と言った瞬間にそれはもうロックンロールでなくなってしまうからだ。
 たとえば、「ロックンロールとは貫くこと」。正解のひとつだ。しかし、もし「つらぬく」ことが目的になってしまった時点で、あるいはモットー、スローガン、生き方になってしまった時点で、それはロックンロールではない。カッコ悪いからだ。

 ロックンロールはもっと柔軟でしなやかなものだ。
 前述したことと多少かぶるけれど、ロックンロールとは、ロック&ロールなのであって、つまり、「揺れ転がる」。凝り固まっていない状態だ。時に応じて、貫いたり、妥協したり、クールだったり、ホットだったり。俺はこういう人間だと限界を設定しないこと。
 その局面局面でズバリ正解していこうという精神の有り様だ。
 その正解の物差は内なる普遍的なコモン・センス(英)、ボン・サンス(仏)、常識(日)である。常識というと、「常識を覆すことがロックンロールだ」とよく言うように、ロックンロールの対極にあるようだけれど、実はそうではない。前述のフレイズは、正確に言い直せば「常識と誤解されているものを正すことがロックンロールだ」である。常識というやつはもっと深いものだ。一般に人が言うところの常識とはマニュアル、規則、慣習みたいな意味であろう。だから俺はフランス語でこれをいうことにしている。ボン・サンス。良識のほうが正しい訳であろうか。そうした普遍なるボン・サンスを尺度にしているからこそ、ロックンロールはポップ・ミュージック足りうるのである。女子供を含めた万人に開かれているのである。
 局面局面でズバリ正解していこうという精神の有り様、がロックンロール。
 つまりカッコいいのがロックンロール。
 だからアコースティク・ギター1本で眼鏡でネルシャツでもロックンロールなことはあるし、エレギギターを歪ませて皮パン穿いて中指立てたところで、それがロックンロールとは限らないのである。
 80年代に勃興したヒップホップ、テクノは、ロックンロールである。ロックンロールが形骸化・様式化・メジャー化(誤解を許容し過ぎた)してきた状況を切り裂くために黒人はヒップホップへ白人はテクノへ向かったのである。ロックンロールが常に変化していくのは、局面局面が常に変化しているからである。
 諸行無常の世界にあってズバリ正しくありたいと、普遍が希求している、これがロックンロールである。

by ichiro_ishikawa | 2004-02-05 03:15 | 音楽 | Comments(0)  

BOφWYトリビュート盤について

 去年末にBOφWYのトリビュート盤が2枚出て、少しずつ視聴してきたのが今日完了し、思うところがあったので書きなぐってみる。

 曲がいいので、誰がどうアレンジしても良く聴こえる。
 曲のアレンジの基本はリズムのアレンジだから、どのトラックでも高橋まことは見る影もなくなっていて、可哀想だ。でもカバーアーティストのラインナップに高橋まことが混じってなくてホッとした。ベースはリズムと同時にメロディも奏でるから結構ママイカされていて、BOφWYにおける松井の存在感はそれなりに評価されている。
 「オンリー・ユー」を英訳してカヴァーしたものがあり、BOφWY全曲を英語でやったら、ビートルズ、オアシスのようなメガヒットになるだろう、金儲けできるだろうと思った。
 小島のような現役のド不良がカヴァーしてくれるとすごく嬉しい。BOφWYは女子供に受けるロックでありながら、氷室というド不良のスピリットは現代のド不良をも動かすということが改めて確認されたと思うと素直に嬉しい。ロックンロールは不良のもの。ベタだが、不良の意味はそう簡単ではない。少なくともヤンキーとは対極にいる。
 アレンジということでいえばDJ HASEBEとか朝本とか、あの辺の才能はやはり凄いのだが、どのアーティストも「俺のBOφWY」というスタンスを堂々と謳っているところが清々しかった。

 特筆すべきことは、2つ。
 ひとつは、前述したリズムアレンジにおいて、BOφWYの核は布袋のギタリズムで、あれを崩すとやはりBOφWY色はガクンと落ちるということ。だから逆に、トリビュートしたどれもが上辺はオリジナルソングっぽく見える。布袋リズムはかなり独特なものでなかなか真似できないという事実が白日のもとに晒されたことになった。
 もうひとつは、氷室のボーカルというのはとんでもないということ。やはり前述したように曲がいいので、どれも良く聴こえるし、みんなウマイ。カラオケでBOφWYを聴くと「俺のBOφWYになんてことを!」とうんざりすることが多いけれど、彼らのは聴ける(当たり前のようだけど、俺は、彼ら日本のミュージシャンと素人カラオケ連中とを同じ括りにしていたから、ちょっとした驚きがあった)。むしろ「いいねえ、BOφWY」と、共にBOφWYを賛美したい衝動にかられるぐらいだ。だがやはり。存在感という意味では、やはり彼らはありきたりのミュージシャンなのであった。
 それはハイトーン、「No.New York」のようなキーの高い曲で如実に表れる。ハイトーンを出せる人は特に最近は多いけれど、大概はソウルフルさとセクシ-さが失われてしまっている。男性ボーカルはソウルフルさとセクシ-さが命で、ただ高音域が出ればいいってもんじゃない。ハイノートを使うとたいていハードロックになってしまうものだ。ゆえに、そこに意識的なロック・シンガーはあまりハイノートは使わない。無感覚なシンガーは音程自慢のようにな文字どおり高らかに歌い上げがちだが、あれはまったくいただけない。

 ロックンロールに心奪われるのはそれが、経験や練習、理論というものがまったく太刀打ちできない、極めてユニークな奇跡に溢れているからで、たった3コードでできた3分間のロックンロール、45回転のシングル盤1枚で、グワッと人生をもっていかれるのは、聴く者がその奇跡に触れるからだ。

by ichiro_ishikawa | 2004-01-05 00:15 | 音楽 | Comments(0)  

布袋寅泰 in 渋谷公会堂

布袋寅泰
渋谷公会堂

 渋谷公会堂で前から2列目という奇跡的状況。ホール用のパフォーマンスを間近で見るといささか滑稽だった。仕種が大袈裟だ。だが、ギターを弾く両手だけ物凄い緊張感が漂っていて精緻だった。片足を大きく上下させてダンスする際も、ギターを抱えた上半身はピタッと静止しているという。
 渋谷公会堂の思い入れを語るシーンで、「フォークのバンドじゃねえんだから」というセリフ(文脈に沿わない形で、というのは愛嬌)を発するあたり、BOφWYを引き摺っている。というか、布袋はBOφWYが大好きだ。氷室がBOφWYを完全に葬り去ったのと対照的だ。氷室抜きのBOφWYというのは考えられないが、無理矢理考えてみると、今の布袋がすなわち氷室抜きのBOφWYだ。あたりまえのことを言っているようだが、BOφWYとは、布袋の音楽的指向に氷室が賛同していた幸福な6年間であり、布袋の音楽を氷室が放っていたということなのだ。布袋の音楽が氷室のフィルターを通って放たれたのがBOφWYだった。
 ただし、氷室が布袋のマリオネットであったら、BOφWYはBOφWYではなかった。音楽的成熟度において布袋より幼かった氷室が、布袋の深みに触発され、成長していった過程がBOφWYなので、布袋を卒業して新たに培われた指向に則って進もうとした氷室という存在と布袋の才能が真っ向からぶつかりバンドサウンドとして昇華したことが、特に後期BOφWYをBOφWYたらしめたことも言わねば片手落ちであるので付言しておく。

by ichiro_ishikawa | 2003-12-02 11:43 | 音楽 | Comments(0)  

氷室京介 in 国立代々木競技場第一体育館

氷室京介
国立代々木競技場第一体育館

初のヒムロック。氷室については書きたいこと、書くべくことがありすぎで、常に渦巻いている氷室についての膨大な量の想念を前に、長文か…といささか書く前から疲労感を覚える。まずセットリスト。

SE(Virus)
1.VIRGIN BEAT (Shake The Fake) 2.ROXY (Flowers for Algernon) 3.TO THE HIGHWAY (BOφWY) 4.DRIVE (i・de・a) 5.LOVE&GAME (Flowers for Algernon) 6.COOL (Neo Fasio)  7.MEMORIES OF BLUE (Memories of Blue) 8.炎の化石 (Ballad ~La Pluie)  9.Follow the wind (Follow The Wind) 10.Virus (Follow The Wind) 11.Weekend Shufful (Follow The Wind) 12."Singular point"featuring DAITA 13.SILENT BLUE 14.Claudia (Follow The Wind) 15.GONNA BE ROGUE? (B-Side of "Girls Be Glamourous") 16.LOVE SHAKER (Follow The Wind)  17.GIRLS BE GLAMOUROUS (beat haze odyssey) 18.NATIVE STRANGER (i・de・a) 19.NO MORE FICTION (i・de・a) 20.SHAKE THE FAKE (Shake The Fake)
21.ANGEL 2003

ENCORE 1
22.CLOUDY HEART (BOφWY) 23.JULIET (Just A Hero) 24.魂を抱いてくれ (Missing Piece) 25.SEX&CLASH&ROCK'N' ROLL (Flowers for Algernon) 26.JELOUSY (Higher Self)

ENCORE 2
27.TASTE OF MONEY (Flowers for Algernon) 28.WILD AT NIGHT (Higher Self) 29.SUMMER GAME (Neo Fasio)

by ichiro_ishikawa | 2003-11-23 11:41 | 音楽 | Comments(0)  

Neil Young 来日公演

2003.11.15 SAT.

Neil Young
日本武道館

 同時期にクラプトンが来ていたけれど、クラプトンではなくニール・ヤングに行くのである。それは終った人間の現在よりも、進化し続けている人間の現在の方がスリリングだし、楽しめるから。確かにニールも禿げたし太った。出立ちとしてはいつまでもスタイリッシュなのはクラプトンの方で、一見すると、終った終ってないは逆のようにも思える。しかし、それは一見であり、ちゃんと見てみるとやはり逆ではないのである。クラプトンは年相応の音を出し、年齢に逆らわず、老いを引き受けている。いわゆる、いい歳の取り方をしている。ニールはめちゃくちゃだ。加齢とか老いとかまったく気にしていない。いい歳の取り方とは、なんて考えてもみない。ただ「ロックンロール・キャン・ネヴァー・ダイ」と歌い続けているだけ。「徐々に消え入るぐらいなら燃え尽きた方がまし」とまだ歌い続けるのである。要するに精神は少年のままなのだ。肉体は物質だから時の流れに抗えない。だからルックスはスタイリッシュのスの字もないけれど、い方は図らずもスタイリッシュなのである。
 前半2時間、演劇をバックにストーリー仕立ての最新作「グリーンデイル」を全曲披露。ブレイクを挟んで、「ヘイヘイ・マイマイ」「ライク・ア・ハリケーン」など必殺メドレー。この必殺メドレーが必殺なところがニールの現役ぶりを物語る。クラプトンがレイラをやったところで、やっぱり懐メロメドレーなのである。曲自体の善し悪しを言うのではない。今の本人が昔の曲をやることの説得力なのである。
 ただ、やっぱりクラプトンの「ワンダフル・トゥナイト」や「レイラ」のアウトロは聴きたかった。あれはとんでもないのだ。また、ニールにおいて「シナモンガール」を聴けなかったのも残念だった。

by ichiro_ishikawa | 2003-11-15 11:40 | 音楽 | Comments(0)  

布袋寅泰、ドーベルマンの意味

 布袋のクラブギグを見て久しぶりに思索が促された。ひとつは、布袋の青春歌謡ロックという方向性がひとつの頂点を極めたという実感、及びクリアになった布袋のキャリアの変遷。ひとつは、ギタリズムの、布袋における、そしてロックにおける位置。ひとつは「ヒムロックも怖くない」発言が単純に意味するところ。メロディ・メイカーとしての布袋の特徴、力量。リズム、リフについて。ソロについて。これらは各々が関連するので筆に任せて乱筆していく。

 最新作『ドーベルマン』は90s以降のデジタルビートをふんだんに取り入れながらも大筋において目新しさはない楽曲が並んだアルバム。というか、これまでの世界中のロックの美味しいところを随所に盛り込んだ、“ロック大全集”的なアルバムになっている。ロック・ファンなら誰しもニヤリとさせられる王道フレーズのオンパレード。こうした直球勝負のやり方は、現在の布袋の生きる道を明確に物語っている。ここで布袋のキャリアを振り返る必要がある。
 いう間でもなく布袋の出発点はBOφWYで、ブリティッシュ・ポップのスパイスを利かせた日本歌謡メロディ、ダンサブルなリズム、ギターリフが基調となっている。今でこそ音楽的には当たり前の路線として猫も杓子も歌謡ロックを奏でているけれど、日本の音楽シーンに確立、定着させたのは布袋であり、それこそがBOφWYにおいて最も評価されるべき布袋の偉業だ。だが、BOφWYはわずか6年の活動で、氷室の美的価値観により急きょ解散する。布袋は、氷室とワンセットで一ギタリストとして生きていく覚悟だったに違いない。前に立つボーカリストを失った布袋は、自分が前に出ることはとりあえずナシとした。旧知の吉川晃司を迎え新しいバンドを組む。その前にまず、ギターメインのBOφWYを極めるべく『ギタリズム』を作る。コンプレックスの誤算は、ロックアーティストとしてのステイタスを獲得したかった吉川晃司が、布袋のマリオネットにはならなかったことによる。単純な音楽的指向の相違ではない。当人たちが希望していた主従関係のバランスの崩壊だ。主導権を握って当然と考えていた布袋と、対等でぶつかりたい吉川。
 このバンドの短命で布袋はひとつ別のステップを生み出す。フロントに出て歌うということだ。ここで、そうはせず、「アンダーグラウンドなギタリスト」に向かえば、ロック界からは絶賛されたに違いないが、ヴェルヴェットアンダーグラウンドよりもTレックスが好きな布袋という、もともとの気質からして、ギンギラギンのロックンロールに向かったのは自然な流れと言える。ただしストレートにBOφWYをひとりでやるという方向に足を向けなかったのは布袋のいい意味での若さで、ポップとアヴァンギャルドの微妙なバランスを保っていくと行くという命題を自らに課したことは特筆しなければならない。かくして『ギタリズムII』は、BOOWYの“現在”、コンプレックスの“3枚目”とも言え、ギターリスト、ミュージシャンとしての新しいステップが、つまった大傑作となる。
 『II』のツアーで、布袋は、シンガーとしての自分に少なからず自信をつけたようだ。『II』がうまくマニアック性を追求できたことで肩の荷を下ろした布袋は、初期衝動をストレートに具現化した『III』を作り上げる。
 こうして自分なりのロックをやり尽くした布袋が次に目指したのは、お茶の間であった。『IV』の誕生である。『IV』製作にあたって非常に重要なのが、旅である。デヴィッド・ボウイとの再会を始めとする、さまざまな人々との出会い。布袋はこの時31~2歳。ひたすら自分の美意識を追求して来た、美神との格闘だった若き20代を鳥瞰できる目を獲得した。核ができた、あとはそれが他者にどう響くかという実践をしたくなったこと、あるいは外の刺激をよくも悪くも迎え入れていこうという、温和になった布袋がそこにはいる。「さらば青春の光」ではじめてテレビで歌い、「サレンダー」では歌謡番組にも出演。
 そしてギタリズム終了の最後の公演で「ポイズン」を披露し、いよいよギター・マエストロは、女子供からおじいちゃんおばあちゃんまで、お茶の間、世間という怪物に対して自分をさらけだしていくことになる。そこからは、ロックンロールという核を持ちながらいかに万人に届く楽曲を作っていくかという戦いになるのである。その実は厳しい戦いが、最新作『ドーベルマン』で完了したといっていい。一介の優れたギター弾きで終ることを由とせず、ギターを奏でるエンターテイナーとしてのシンガーとして、ひとつの地位を築き上げた。その試行錯誤がいよいよ名実共に終ったのではないか。「永ちゃんも、ヒムロックも怖くない。まっちゃんはちょっと怖いけど」。まっちゃんは愛嬌としても、これはギター弾きがフロントのシンガーと同じ土俵で戦い続けた末、同じ位置までたどり着いたという実感の現れである。これは凄いことである。キース・リチャーズはミック・ジャガーとセットなのであり、ジョニー・マーはモリッシーの後ろで最も輝く。バーナード・バトラーとブレット・アンダーソンしかり。氷室と布袋はやっぱりジョンとポールなのである。どちらもミュージシャンでフロントマンとしてのシンガーなのだ。

  『ドーベルマン』は一聴して限り無く元気でエネルギッシュなアルバムだ。キャッチーなギターリフ、ギターソロ、メロディアスな歌メロという布袋マエストロの技は相変わらず冴え渡っている。そして布袋の軸であるリズム。ギタリズム。ギターだけで完結できるリズム感覚こそが布袋の真骨頂で、これに松井常松のベースはただ厚みを加えているに過ぎない。布袋のギターには自己をいい意味で殺せるベーシストが必須なのだ。
 たしかに中学生がお気に入りにしそうなアルバムだ。だが、大人が楽しめないかといえばそうでもない。かっこいいリズムにかっこいいリフ、つぼに利くメロディ。普遍的な3分間のロックンロール・チューンが宝石のごとくキラキラ輝いている、ギンギラギンのロックンロールがここにはある。大人が楽しめないのはその大人に元気がないのだろう。体力がないのだ。その体力のなさを否定する資格はないし否定しても何も生まない。ただ、そういう理由を摺り替えて、「布袋は終ってる」と布袋の評価を下げるのはあまりに自分本意過ぎると少し憤る。趣味じゃないのなら構わない、ロックじゃないとかお子さまミュージックだとかいう批評はもはや批評の態を成していない。

  『キング&クイーン』から本格的に始まった、お茶の間ロックを極めた布袋。次にどこへ向かうのか、興味深い。布袋とはひとつのことを極めたら同じところには留まっていない男なのだ。そういうスタンスなのではない、そういう気質なのだ。

by ichiro_ishikawa | 2003-10-14 00:10 | 音楽 | Comments(0)