カテゴリ:日々の泡( 168 )

 

ジネディーヌ・ジダン

Save The Last Dance

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by ichiro_ishikawa | 2006-07-03 03:18 | 日々の泡 | Comments(2)  

アルペジオの手記

「旅行が楽しかったとか、美味しいものを食べて嬉しいという感情は、創作にはあまりつながらない。むしろ喜怒哀楽の怒と哀を感じたときに心が震える」

「居酒屋で飲んでいる集団の中で、中心で盛り上げている人ではなく、隅っこでちびちびやっているやつに引かれるし、何かを創りたいと心動かされる」

——リリー・フランキー
(2/5放送予定『トップランナー』での発言/週刊ザテレビジョン6号より)

 この2つの発言は、リリー・フランキーの核をなす何かに触れている。本質的にブルーズ、ロックであり、ファンクであり、パンクであり、根本的にジョークである。


 2ヶ月ぶりの更新となるが、これだけブランクが空いたのは、書くことがなかったからだ。書くことがなかったということは何も考えていなかったということだ。正確に言えば、ぼんやりと考えていた。あるいは、ただひたすら吸収していた。何を。リズム&ブルーズをか。そうかもしれぬ。そんな気もする。

 去年の暮れからこれまで、メンフィス、マッスルショールズ、ニューヨークあたりをずっと回っていた。
 1947〜73年のアトランティック、STAX、ハイ・レーベルなどの音源をグワッと聞き込み、アフロ・アメリカンのソウルを噛み締めていた。もう、その辺しか全然聴いていなかった。あの頃のブラック・ミュージックはとてつもない。素晴らしい。
 通勤時、休日と、時間があればiPodsでリズム&ブルーズ5000曲を聴き、ネルソン・ジョージ『リズム&ブルーズの死』、ピーター・ギュラルニック『スウィート・ソウル・ミュージック』、バーター・ピラカン『魂(ソウル)のゆくえ』、岩波新書『アメリカ黒人の歴史』を読み耽っていた。

 そんな中、会社のある虎ノ門から国会議事堂を抜けて江東区へ帰る電車で、ふと中吊り広告に目をやった。
「秘すれば花の“メリハリ”化粧」「ミラノ艶女(アデージョ)はヌーディサンダル」「くびれ美人で春に勝つ」
といった、救いようがないバカな文字が目に入った。「ちょいワル」などに代表される、こうした浮かれポンチなコピーにはずっとウンザリしていたが、ここに来て怒り心頭に発した。
「お前ら、いいかげんしろ、バカヤロウ!」と広告を引き裂いた。さらにふと目にした湾岸戦争を描いた映画『ジャーヘッド』のチラシには、どこかの編集者らしきコメントで、「主人公の“ワルかわいさ”にも注目」とある。「お前もか、ちょっと来い、このバカヤロウ!」と怒声をあげた。
 その刹那、シャッフルしていたiPodsから5000分の1の確率でかかったのが、「マザーファッカー!」と叫びながら、ダウン・トゥ・アースな歪んだギターをかき鳴らすMC5だった。俺はクワッ!と覚醒した。
 
「(そういや)俺はロックだった」

 住吉のアパルトマン・アルペジオに帰ると、部屋からパブリック・エネミーが流れていた。すげえ怒っている。俺はいよいよ覚醒した。

 「(そういや)俺は10代の頃は、みんなブッとばしていた」 

 20代からは、全てを許し、ジェントリーに紳士ぶるようになっていたが、そういや俺は、悲しみの権化であると同時に怒りの権化でもあったのだった。クールにやっている場合じゃない。もう、許さねえ。

「冷静に構えるぐらいわけのないことはない。ただ他方を向いてさえいれば冷静面ぐらいは出来るのである」(小林秀雄)
 
 俺は、踵を返し、そのまま国会議事堂へゆき、ションべん引っ掛けて、口笛吹いて、お家に帰った。

by ichiro_ishikawa | 2006-02-01 00:55 | 日々の泡 | Comments(3)  

AERA 2005年10月31日増大号

それ、なにやってんの
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by ichiro_ishikawa | 2005-10-24 13:21 | 日々の泡 | Comments(2)  

祝、下柳15勝

 
 現在14勝の広島・黒田が、中2日の登板となる明日、そして来週水曜の最終戦と連投して連勝しない限り、ロックンロール左腕・下柳の最多勝が決まる。
 下柳に勝ち星を与えるため、打線が抑え込まれなかなか勝ち越せず、ついに延長に入っても尚続投させた采配、そして148球の完投。下柳は真っ白な灰になった。
(yahooのデータ中継で)観戦していて、涙腺が緩むのをこらえる理由はなかった。

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↑画=水島「野球は俺が考えた」新司

by ichiro_ishikawa | 2005-10-06 02:20 | 日々の泡 | Comments(2)  

池田晶子「人間自身」最新号について

 『週刊新潮』での池田晶子の連載「人間自身」、最新号(8月11・18夏期特大号)の内容が波紋を呼んでいる。がんで亡くなったある青年の闘病生活、最期の生きざまに迫ったテレビドキュメンタリーを受けての文章だ。
 勝手に要約する。
 
 青年は、「死ぬことよりも忘れられることが怖い」と言い、死ぬ間際まで「見て見て、俺を見て」とやっていた。これでは生き切ったとは言えない、生き損なったのではないだろうか。
 
 相変わらずストレートである。そして、まっとうな考え方だと感じた。
 この青年の人生はこの青年のものだから、どう生きようがその点においては青年の自由だし、本人がまっとうしたと思っていたとしたら、それは文句なくまっとうしたのであり、他人がとやかく言う筋合いのものではない。
 池田晶子はそんなことは百も承知の上で書いている。
 青年は生前、とてもいい仕事をしたのかもしれない。多くの人に勇気や希望、感動を与えたのも事実だろう。悪い人では全然ないし、むしろ圧倒的にいい人の部類に入る。その点については、池田は何も言っていない。問題としていない。
 池田は、人に見られることを生き甲斐とする、その心性に、人間の小ささ、はっきり言ってしまえば、醜さを見たに過ぎない。
 青年を支持する人が大勢いる一方、青年に対して「何だか可哀想だな」と感じた人もまた大勢いたことは事実だ。ただ、「死んだ人のことは悪く言わない」という人間の生活上の礼儀で、各々、そういう思いは心の奥にしまい、口を噤んだ。
 犯罪者でもない限り、やはり死んだ人の、ましてやがんに冒されて死を覚悟しながら生き、ついに亡くなった人に対して、その人の生きざまについてとやかく言う、まして「生き損なった」と言うのは、確かに常軌を逸している。
 だが、池田は、言葉を扱っているということの「覚悟」について、常に注意を払っている人だ。そして、常に「常識」というもの、人類普遍の土台からものを言う人だ。
 私は、池田晶子は、書かざるを得なかったのだ、と感じる。ああした心性が、手放しに賞賛されることの居心地の悪さ、感情に流されて本質を見えなくしてしまうことの危なさ、そうしたものに対する注意を促したのではないか。
 冷たいと言えば冷たいのだろう。ただし、論旨は明解で何の矛盾もない。「悪口」でもない。そして、根本的には愛すら感じる。

追記
(mixiの池田晶子コミュで、shuposhuproという方が池田晶子のいう「生き損なう」について説明をしていて、実に的確だと思ったので抜粋し補足とします)

彼女が言う「生きる」というのは「考える」つまり、自分と世界の存在について、生と死について考えることに他ならないわけで、それをしないで生きていることは彼女に言わせれば「生き損なっている」。ほとんどすべての人が生き損なっていることになりますね。奥山という人だけではない。

by ichiro_ishikawa | 2005-08-09 17:32 | 日々の泡 | Comments(1)  

リリー・フランキー『東京タワー』刊行記念サイン会

 去る7月2日、土曜日、東京・六本木青山ブックセンター内、奥のレジ近く、特集コーナーの辺りで、リリー・フランキー『東京タワー』刊行記念サイン会が執り行われた。
 周りには扶桑社、abcのスタッフと思しき面々が5〜6人いる。第三者がそんなにズラッといるとトークの邪魔だよ、ピリピリするじゃんよと不満を感じていたら、ちょっと離れたところにはBJの姿が見える。スタッフなのに、離れたところで客然として居るところが、なんとも分かっているBJ。
 あたしらはそこから入り口に向かって縦1列に整理番号順に並ばされる。10番ひと組で順に呼ばれ、列を作る。開始から30分ちょっと遅れて着いたときは、まだ30番だった。私の整理番号は79番。この日は100番ちょっといたらしい。
 リリーはロフト・プラスワンでのトークショーの時もそうだったけれど、ファン1人1人と長々と話をすることで有名。1人1人、リリーの前に着席すると、リリーはその1人1人に軽いいじりを交えながら、めいめいが持ち寄った『東京タワー』にゴールドのペンでサインをしていく。オトンのペンになる中表紙の文字と同じ色で、大胆に、めいめいの名前と日付を書き添え、サインをしていく。
 リリーのいじりに対して、俺は果たしてどうきり返していくのか。それが今回のテーマだった。
 
 俺を見るなり、リリーは言った。
 「酒作ってそうだよね」
 「(あ…、さ…さけ…)」
 そんなことを言われたのは初めてで、いや、月並みなことは言われないことは分かっていたのだが、言葉が何も出ず芸もなくただ逡巡していたところに、
 「シェイカー振ってそうだもんね」
 と重ねられる。セコンドが投げた白いタオルを視認した。ゴングが鳴って2発でTKO負け。秒殺だ。
 勝負は終わったとはいえ、放送時間はまだまだ残っていたので、世間話的に、サシでの対面は実は3度目だと伝えると、リリーは昔、ともに竹中直人のライヴを見たことを憶えてくれていた。
「リキッドルームだよね」
「そうです」
ドクトクくんの頃だよね」
「そうです」
「あれ、何年前かな」
「ちょうど10年ですね」
「うちにも来ましたよね」
「お母さまに麦茶もらいました」
 オカンが出たところで、『東京タワー』の本質である“悲劇の誕生”と、それがオカンを永遠に生かしたことを絶賛したかったのだが、そんな真面目な話をする雰囲気ではなかったので言葉を飲み込んで繰り出す時機を待つ。
 暇もなく、サインも終わり、リリーはインクが対向ページに染みないよう丁寧に半紙を挟み、私たちは別れた。
 「好きです」のひと言も言えないシャイネス・オーバードライブな俺、34歳の初夏。

by ichiro_ishikawa | 2005-07-07 12:18 | 日々の泡 | Comments(0)  

まさにリリー・フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド

 『POPEYE』最新号で、吉田豪がリリー・フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドに濃いインタビューをしていて、デビュー時のマニック・ストリート・プリーチャーズが「最高のデビューアルバムを1枚出して、すぐ解散する」とか「ストーンズくだらねえ」的なコメントを残したのに対して、「やっぱり若いうちにこういうことを言っとくべきだね」「年とってから言うとただのひがみになるからね」というような発言をリリーがしていて、老いて尚わかってるその精神に改めて敬服した。吉田豪もすげえわかってるが、いかんせん、わかってるぞ然としすぎ、わかってるぞ臭を出し過ぎなのが気になるところ。
 扶桑社から6月29日に『東京タワー』の単行本が出るらしく、いよいよリリーは芥川賞作家になる。7月2日の復活した六本木のabcでの発売記念サイン会には行かざるを得ないだろう。『おでんくん』もアニメ化される。マンガ・アニメ・グッズ蔑視傾向にある自分でさえ、このグッズばかりは超ほしい。おにぎしを食びるおでんくんの人形、すげえほしい。リリーのここ一連のド・メジャーな展開は喜ばしい限りだ。あのスタンスでメジャーに君臨するというのは、すごい。
 また、資生堂で福田和也とトークショーをするらしい。テーマがいい。「テーマ、ディテール、テイスト……文章の感動って何だろう?」。これは行かざるを得ない。
 また、8月には小樽でのオールナイト・ロックンロール・パーティ「ライジング・サン」にてコメディ・テント「ブラックホール」なるステージに出るらしい。これもいよいよ北海道発上陸を果たさざるを得ない。
 また、オフィシャルサイト内人気企画「今日のつぶやき」が単行本化されるらしい。
これは立ち読みせざるを得ない。

以上のニュースソース
ロックンロール・ニュース




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←いとこん君(かっけえ)
C リリー・フランキー

by ichiro_ishikawa | 2005-06-24 18:52 | 日々の泡 | Comments(2)  

能書き

 生あるものが決して一つ所に留まってはいないということは、たまらなく切ないことだ。一方、留まっていないからこそ好都合だということも多々あるわけで、結局は生まれては消え、目の前に表れては去り、つまりいつか誰かが言っていたように諸行無常の一言ですんでしまう真実ではある。だが、一言で済んでしまうからといって、その真実が人間の生の中でもうっかり一言で済まされるとはおかしなことだ。みんな、その諸行無常というやっかいな真実に翻弄されながら訳の分からないまま流されて死んでいく。そんな複雑なある人間の一生が一言に凝縮されてしまうなんて。
 はたして人が文を書くという行為は、何かを他者に伝えたいときであろう。他者に何かを伝える手段は多々あり、表現手法として人はその人にあった何かをその都度選んでいく。そのとき文を選ぶというのはどんな事情によるか。眼前で蠢く正体不明の何かを理性で捉えたいとという願望であろうか。言葉というものは極めて理性的なもので、その連なりであるところの文章というものも伝達のもっとも純粋で合理的で理性的な手段である。
 子細らしい顔をしてもっともらしいことを言ってみたが、実は結局、そんなことではないのだ。人が文章に向かう時、いや、俺が文章に向かう時と直そうか、それはいつの場合も、すでに動機は明確だった。悲しみを癒すためである。悲しみの種類はその時その時さまざまだけれど、何かを書くことは常に悲しみを纏っている状態だ。様々なる悲しみの正体は無常である。
 読者は、いや俺が読者に回る時は、悲しみを作家はどう癒すのだろう、つまり俺はどう癒せばいいのだろう、そんな理由による。言葉に限らず、音楽や映画といった現代のポップ・カルチャーの表現方法のすべての制作動機をそこに見つけることができるし、享受する側に回った時もその享受せんとするものもいつも同じものである。


by ichiro_ishikawa | 2004-01-06 00:31 | 日々の泡 | Comments(0)