カテゴリ:日々の泡( 184 )

 

エッセイ「タバコと俺」

 俺が愛煙家であることは広く一般に知られているが(喫煙というのは目に見える行為だから他者に知られるのも容易だ。当たり前だが)、愛煙の都パリでさえ、いよいよカフェエで全面禁煙となったことが象徴する通り、世界中で嫌煙ムードが広がっている。愛煙家にとっては、史上最悪の逆風が吹いていると言えよう。
 それはいい。別に。風潮なんてものは大した事じゃないし、嫌煙に限らず、「地球の自転」という事実が、俺にとっては逆風だ。さらにいえば、人間であるということがすでに逆風を浴びている。人はいずれ例外無く死ぬという事実を鑑みても、そも、人間は生きるのに向いていない。これは逆風なんて生易しいものじゃない。日々、命がけで生きている。世の禁煙ムードなんて可愛いもので、俺にはまったく関係ない。

 ただ、この流れの中で俺が言わねばならぬ事は、「禁煙ムード」をかさに、正義面した嫌煙家がのさばる事に対する違和感だ。
 きゃつらは、法律だか、条例だかを後ろ盾に付けて、学級委員の様に、喫煙者を「叱る」。

 たとえば、社会的に「禁煙」と決められた所で喫煙をした場合、それは喫煙者が悪いし、叱られても文句を言える筋合いではない。だから、俺は、叱られれば謝罪し、直ちに消して去る。とはいえ、反省するわけではない。金で解決がつくのなら罰金を払って、またそこで吸おう。喫煙のルールを、俺は必ずしも守るつもりはない。
 また、歩きタバコをしていて、すれ違い様に眉をひそめる人などを見ると、俺は、その人の顔に煙を優しく吹きかけたあげく、ポイ捨てして、ブーツのかかとでもみ消すことにしている。それは眉をひそめたその人のため、よかれと思っての行為だ。眉のひそめ方にもよるし微妙なのだけれど、要は、その時に「何かを後ろ盾にしている」かどうか、が問題なわけだ。

 そういう人間を見ると、学校の合唱コンクールを思い出す。ウブで青く自意識過剰な当時の俺は、合唱コンクールで歌う自分という姿をひどくカッコ悪いと思い、一切歌おうとはしなかった。すると、気の強い女子ども数人が、「ちゃんと、う・た・い・な・よ〜」と独特のイントネーションのユニゾンで叱咤して来る。俺は、その物言いに腹が立ち、「このブスどもが!」とばかりに、きゃつらのケツにケリ、延髄切り、ローリング・ソバットを決めるという対処しかできなかった。今思えば、その時のきゃつらの、何かを後ろ盾にした、「あたいら=正義、あんた=悪」という思慮の浅い幼稚な二元論、自分は正論を主張しているだけという、ある種の「無責任さ」に、直覚的に憤っていたのだと思われる。だから、「あの〜、申し訳ないのですが、一応せめて口パクだけでも…どうかひとつ…体裁を保ちたいもので…」とか言われれば、口パクでなく、得意のテノールで朗々と歌い上げてもよかったはずだ。

 今の禁煙ムードで厄介なのは、禁煙を主張するものが権力者だという事だ。高圧的なのだ。たとえば、煙にひどく迷惑している子供がいたり、副流煙を気にする人が、喫煙者に喫煙を控えるよう促す勇気がなくじっと耐えていたりする状況などでは、たとえそこが禁煙区域でなくとも俺はその場を静かに立ち去る。
 喫煙のマナー、社会のルールというけれど、それらは、マニュアルや行動規定があるわけではなく、状況に応じて、人間と人間の間の情、機微、わびさび、といった顕在化しにくいが確実に我々の生を根底で支えている、お勉強では決して身に付かないものが、そのベースにあるという事を見失いたくない。
 それらは必ずしも合理的なものではない。「空気を読む」ということが最近よく言われるが、空気を読む能力を身につけるために、「空気を読む」技術なる本を読むとしたら、それ自体、すでに空気が読めていない。ロックをやるため「ロック・スクール」に行ったら、その時点ですでにロックではないのと同じ事だ。

by ichiro_ishikawa | 2008-01-12 18:57 | 日々の泡 | Comments(1)  

エッセイ「年末年始と俺」


 年が明けると、今年の目標は…、とか呑気に言う極めてイージーな奴がちょいちょい出て来るが、俺ともなると、2008年〜2010年という、短中期的視野で目標を定めている。
 俺の2008年〜2010年の目標は、2億稼ぐ。あるいは、2億稼ぐメドをつける、だ。
 そして2011年からは、1億ででっかい家を建てて、家族全員をそこに住まわせて、俺は残り1億を少しずつ切り崩しながら、ゆっくりコーヒーでも飲みながら読書でもして静かに余生を過ごす。

 明日で、俺が1年で一番好きな季節「年末年始休暇」が終わる。
 そんな最も愛おしい季節に、何をしていたか? ズバリ、何もしていない。
 正確に言えば、「なんかしなきゃ、なんかしなきゃ」とせき立てられ続けながら、日々は無表情に過ぎていった。今年も無駄に過ごしちまった。
 失われた時は還らない。ああ、せつない。早くまた年末年始が来ねえかな。次こそは充実させてみせる。ああ年末年始…。
 
 明後日からは、また、悪夢のような日々がやってくる。憂鬱だ…。
 俺ぐらい仕事が嫌いな人間はそういないのではないか。すげえやだ。
 何がいやかといえば、まず他者と接するのがこええ。次に朝起きるのが面倒くせえ。まあ、この2点に尽きるのだが。

 思い起こせば、学生時分からそうであった。休暇最終日は、すごく、ものすごく憂鬱な気分に襲われ続けてきた。ああ学校行きたくねえ…。
 だが新学期、学校へ行くと、みんなはキャッキャキャッキャ騒いでいる。なんでそんなに浮かれているのか。じめじめと暗く腐った憂鬱な日常がまた始まったというのに、なぜどんよりふさぎ込んでいないのか。暗いツラをしていても始まらないから、楽しいフリをしているのか。あるいは本当に楽しいのか。
 仕事もまたしかり。なんかみんなバリバリやっている。喫煙所では笑い声なんかも聞こえて来る。おいおい、楽しい事なんか別にねえベよ。もっと暗澹たる気持ちを素直に出して、うつむいていようぜ。明日死ぬようなツラでいようぜ。そのうちエンジンがかかってきたら、まあ「仕事のようなもの」を徐々にしていこうじゃないか。次の年末年始まで。

 そう、年末年始だ。
 俺は、年末年始を有意義に過ごすために、まず、計画を立てる必要があった。俺は、じっくり考えてから行動するタイプなのだ。木を見て同時に森を俯瞰していないと落ち着かないのだ。常にいま自分が東西南北のどっちを向いていて、太陽がどのような傾きをしていて、ということすら把握していないと落ち着かない。たとえば、考えずに走るときも、実は「考えずに走ろう」と考えてから、走っているのだ。計画ぐせは、こうした資質にもよる。また、何かをしているときに、「あ、こんな事している場合じゃないやも」という疑念に苛まれないようにするため、という合理的な理由もある。
 たとえば、やることベスト5を羅列してみて、「毎日の円グラフ」の中に、それぞれを配置していく。そうすれば、あることをやっている時に、「あっちをやるべきでは?」と疑念が頭をかすめたとしても、その「あっち」は別の時にやる事にすでになっているわけだから、安心して今やっている事に専念できる、という塩梅だ。
 俺はまず、長考の末、「プロジェクトA」と、その年末年始の計画名を定めた。次にやる事ベスト5を羅列した。今回は7つほどあった。それらベスト5を巧い具合に配置したかったのだが、どうもうまく行かない。もしかすると、その7つを「やりたくない」のではないか? という新たな疑念が浮かび上がった。いや、やりたくなくてもやらねばならぬ。とりあえず、配置しろ。これは朝だろ、これは年内に片付けとこう、これは毎日寝る前に毎日やるべきだ、などといろいろ思案する。
 あ、ひとつ忘れていた。この計画練りの最中にどんな音楽を流すべきか。そうさなあ、ここはストレートに「プロジェクトA」を流すか。
 あ、そうだ、もしかしたらYOUTUBEに「笑ってはいけない病院」がUPされているかもしれぬ。探してみよう。あった。19回に分けて全部UPされているとは! 削除される前に全部落としておくべきか。いや、でもこういうのは後で見返したりしないから、とりあえずいま観てしまえぱいいか。
 4時間つぶれた。さらになんと「親子ゲーム」の第8話だけUPされているつけ。観よう。プロジェクトAは、明日やるか…。
 というわけで、計画も一向に進まず、計画が組まれていないわけだから、当然やる事ベスト5もひとつも手をつけられずに、ただ、計画立てなきゃ、立てなきゃと「焦る事だけ」で、俺の年末年始は終わった。

 「やばい、こんなことしてる場合じゃない」と、常に強迫観念に駆られているから、休んだ気がひとつもしねえし、結局なにもやらずに時は過ぎていく。これまで36年間、ずっとそうだった。なにもしてねえ。やばいよ、これじゃ。なんとかしねえと。
 よし、まず何をすべきか、思索しよう。よし、じゃあその前に、タバコを1本吸うか。そしてちっと音楽でも流すか。うん、いいねえこれねえ。ついでにちっと本でも読むか。パラパラ…。あ、こんなことしてる場合じゃねえ。よし、まずなにをすべきか思索しよう。よし、じゃあその前に、タバコを1本吸うか。そしてちっと音楽でも流すか。うん、いいねえこれねえ。ついでにちっと本でも読むか。パラパラ…。あ、こんなことしてる場合じゃねえ。よし、まず何をすべきか、思索しよう。よし、じゃあその前に、タバコを1本吸うか。そしてちっと音楽でも流すか。うん、いいねえこれねえ。ついでにちっと本でも読むか。パラパラ…。あ、こんなことしてる場合じゃねえ。よし、まず何をすべきか、思索しよう。よし、じゃあその前に、タバコを1本吸うか。そしてちっと音楽でも流すか。うん、いいねえこれねえ。ついでにちっと本でも読むか。パラパラ…。あ、こんなことしてる場合じゃねえ。よし、まず何をすべきか、思索しよう。よし、じゃあその前に、タバコを1本吸うか。そしてちっと音楽でも流すか。うん、いいねえこれねえ。ついでにちっと本でも読むか。パラパラ…。あ、こんなことしてる場合じゃねえ。

by ichiro_ishikawa | 2008-01-06 00:22 | 日々の泡 | Comments(2)  

世と俺の接点2007

1月
LIVE「CSS(Cansei de Ser Sexy)」初来日(渋谷)
■落語「志の輔らくご in PARCO 2007」(渋谷PARCO)
LIVE「バンバンバザール」(東京メトロ銀座駅内コンコース)
■映画『ディパーテッド』
CSSの発見は事件だった

2月
■映画『硫黄島からの手紙』
奈良・京都探訪
■LIVE「ヨ・ラ・テンゴ」(渋谷オンエア・イースト)
池田晶子逝去
池田晶子の死はまだ納得がいかない

3月
■映画『ドリームガールズ』
本『俺はあやまらない』福田和也

4月
LIVE「バンバンバザール」(千葉・まとい亭ギグ)
■映画『吠えろ!鉄拳』(鈴木則文/真田広之、志穂見悦子、千葉真一)
■本『小林秀雄とウィトゲンシュタイン』中村昇
■CD『ザ・コンプリート・スタックス/ヴォルト・シングルズ1959-1968』
DVD『ドント・ルック・バック 〜デラックス・エディション〜【完全生産限定盤】』Bob Dylan
外付けハードディスク急逝

5月
■北海道探訪
■日本ハム×オリックス観戦(札幌ドーム/ビルダッシュ完投勝利)
ハワイ偵察

6月
■トーキングライブ「ピーター・バラカン」(銀座アップル)
■映画『ゾディアック』
■本『リマーク 1997-2007』池田晶子
■7日、俺36歳(プリンス49歳、パチョレック47歳)

7月
■巨人×広島(東京ドーム/黒田完投勝利)
■映画『ボウイ&キーチ』
■映画『マラノーチェ』
■本『古事記(日本の古典をよむ 1)』
※小学館『日本の古典をよむ』シリーズ刊行開始
■本 『平家物語(日本の古典をよむ 13)』
DVD『アトランティック・レコード:60年の軌跡』
■本『吉本隆明 自著を語る』吉本隆明
■本『暮らしの哲学』池田晶子

8月
トーキングライブ「ピーター・バラカン」(池袋マイルスカフェ)
■CD エイミー・ワインハウス『バック・トゥ・ブラック』

9月
■映画『長江哀歌』
■映画『デス・プルーフ in グラインドハウス』
■本『日本書紀 上 (日本の古典をよむ 2) 』
■本『日本書紀 下、風土記(日本の古典をよむ 3)』
■本『アラン・ローマックス選集 アメリカン・ルーツ・ミュージックの探求 1934-1997』アラン・ローマックス
デス・プルーフ in グラインドハウスは俺パルムドール

10月
■映画『ブラック・スネーク・モーン』
■ トーキングライブ「ペドロ・コスタ×諏訪敦彦」(青山abc)
本『方丈記、徒然草、歎異抄(日本の古典をよむ 14)』
■CD『多羅尾伴内楽團 Vol.1&Vol.2 30th Anniversary Edition』
本『私家版・ユダヤ文化論』内田樹

11月
■LIVE「バンバンバザール」(高円寺ジロキチ)
■映画『大統領暗殺』
■ムンク展
■トーキングライブ「ピーター・バラカン」(池袋マイルスカフェVol.2)
■本『枕草子 (日本の古典をよむ 8)』
本『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』保坂和志

12月
■映画『ここに幸あり』
■LIVE「ケイ赤城トリオ」(青山・自由が丘タイム&スタイル)
■舞台「座頭市」コマ劇場
映画『アイム・ノット・ゼア』
■CD アリーサ・フランクリン『レア・レコーディングス』
■本『This Is Your Brain on Music: The Science of a Human Obsession』Daniel J. Levitin
■本『宇治拾遺物語、十訓抄(日本の古典をよむ 15)』
■DVD『 “GIGS”BOX』BOφWY
新作CDはついに4枚で終了。純粋な新録は1枚。音楽業界危うし。ケイ赤城(晩年のマイルスバンドのピアニスト)の杉本智和、本田珠也とのトリオは凄まじい。イオセリアーニは初めて観たが(『ここに幸あり』)、すげえいい。また、「Oh! My Jully」ライヴバージョンはとんでもねえ


2007年総括
池田晶子の死で、頼れる生身の人間がいなくなったので、いよいよ自分でなんとかするしかなくなった。

by ichiro_ishikawa | 2007-12-31 14:20 | 日々の泡 | Comments(0)  

東京イエローページ

 俺が私生活において関西人とあまりウマが合わないというのはマスコミ等でもよく知られているが、それは主に笑いのベースの違いによるところが大きい。笑いのセンスというのは人格の根本を成すものだから、そこのズレがすべてのズレにつながるのは当たり前なのかもしれない。関西系は、東京人は「おもろない、気取ってる」という認識があるらしい(まさにこのブログ)。それはよしとしても、その「おもろい」の基準が関西の笑いにあることが事を面倒にしている。その基準を絶対とする自負はどこから来るのか。俺は訝ってやまない。

 吉本をはじめとする関西系の芸人は、さすがにベースラインが高い、新人でもそこそこ面白いと思えるし、たいてい、レベルがかなり高い。だが、突出して面白いと思えるのはそうそういない。ボケ、突っ込み、いずれも予定調和で、安心して見られはするが、明日になれば忘れてしまう。うまいなあ、と感心こそすれど、すげえという驚きは無い。「ベタ」から最先端まで、すべて「ベタ」である。松本・浜田でさえも。どんなに秀逸なボケであろうと、ツッコミであろうと、ここでボケる、ここでツッコむ、とタイミングが決まっている時点で、少し興ざめしてしまう。別に悪いというわけではないのだけれど。

 やはり、俺には東京系(非関西系)、モンティ・パイソン、香港コメディといったイギリス系の方が肌に合う。シュールと言えばそうなのだけれど、シュールを目的としたスノッブな笑いほどたちの悪いものも無く、非常に微妙だのだけれど、天然のラジカルさが重要なのだ。要はロックという事か。ボケでない笑い。ツッコミではない返し。掛け合いとは違う「間」。いずれにせよ、こちらの想像が「全く」追いつかないものに、俺は惹かれる。
 その最高峰と言えばやはりタモリや竹中直人で、その集大成はTBS系で深夜放送されていたコント番組「東京イエローページ」(89〜90年)だ。その中のさまざまなコントの中で最も秀逸なのが西田康人や布施絵里の居方(いかた)が効いている「サラリーマンコント」や「家族コント」だが、ここでは90年の流行語大賞にもなった「そっちの方がすげえ」をYOU TUBEから転載する。「家族ゲーム」「家族ゲーム2」「親子ゲーム」「親子ジグザグ」「とんぼ」と共に、いま最もDVD化が望まれる作品のひとつだ。

伝説のオープニング
(そっちの方がスゲェ〜スペシャル from 東京イエローページ)
c0005419_2334639.jpg

1分5秒〜27秒のところがものすげえ。音楽がかぶせられたのは放送事故になるからか。

by ichiro_ishikawa | 2007-12-16 02:31 | 日々の泡 | Comments(0)  

芸人以外で芸人ばり或いは芸人以上におもしろいやつベスト5

芸人以外で芸人ばり或いは芸人以上におもしろいやつベスト5

1.リリー・フランキー(1963年、福岡県出身)
c0005419_2222490.jpg


2.福島康之(1968年、東京都出身) バンバンバザール
c0005419_2224680.jpg


3.いとうせいこう(1961年、東京都出身)
c0005419_223048.jpg


4.みうらじゅん(1958年、京都府出身)
c0005419_22314100.jpg


5.山田五郎(1958年、東京都出身)
c0005419_2232627.jpg


共通項は洞察力と視点の鋭さ、それから語彙(ごい)のキレだな。

by ichiro_ishikawa | 2007-12-06 02:25 | 日々の泡 | Comments(0)  

エッセイ「酒とオレ」



 ヨーロッパの映画にはよく食卓が出てくるが、あの食卓、すげえいい。ワインボトルやデキャンタが散乱し、色とりどりのオードブルが雑然と並べ置かれている。大抵パイみたいなものがあり、種々のパンがあり、ギャートルズ的なでかい肉がデンと置かれている。人々は、パンナイフでバスッバスッとバゲッツを裂きながら、他愛のない激論を交わしたり、歌ったり、バンジョーを奏でたり、踊ったりしている…。
 ああいうのを観た後、俺は決まって酒を飲みたくなる。おお、酒よ、酒宴よ!

 昔はビールぐらいならジョッキ2杯は飲めたが、あれは常時飲んでねえとどうも弱くなるらしい。最近は、ワインをグラス一杯空けると、決まって後頭部やや内側からてっぺんにかけての部位がジンジン痛み出し、胸が苦しくなり、ゲボが出そうになる。俺は精神的な苦しみにはめっぽう強いが、物理的な苦しみには36.5の熱で稼動不可能になるほどすげえ弱いため、もがき苦しむことになる。そんなとき、「一生、酒なんて飲んでやらねえ」と思うのだった。
 だから、普段、俺は酒を飲まない。
 
 とはいえ、リリー・フランキーをして「シェイカー振ってそうだよね」と言わしめるだけあり、俺は、傍目には「ブランデー」を飲みそうな酒飲みの面(つら)らしいのだ、どうやら。そうした「己が意に反したパブリック・イメージ」というのを、俺は否定するどころか、大事にしているし、裏切りたくないので、「酒は強い。大好きだ」ということにしているが、実際の現場ではウーロン茶しか飲まない。となると当然周囲には不審がられ、大抵、「え、飲めないの?」的な応答が始まることになる。
 「飲めないんじゃない、飲まないんだ」と吐き捨てると、当然、「なんで?」とくる。まあ、くるだろう。こうした問答が面倒くさい。というか、うまくない。これまで「茶もこの上なく好きだから」といった無難なものから、「氷室も長渕も福島君もいいシンガーはみんな下戸だ」といったポップなフレーズまで、いろいろな文言を用意してきたけれど、どうも歯切れが悪いというか、決定的な文句をずっと見出せずにいた。
 そんなある日の寝しな、ふと、これ以上無い、いい文言が降りてきた。

「車なんで」

 この、奇を衒わない、地味ながらも切れ味鋭いフレーズを発見したときは小躍りしたい気分だった。血液型を聞かれたときの答えとして「Dm(ディー・マイナー)」を見出したときと同レベルのしてやったり感だ(この場合、相手によっては「あ、間違えた、Csus4(シー・サス・フォー)だった」と畳み掛けるのも有効だ)。

 当然、その後の流れも必然的に、教科書的ではあるが次のように決まってくる。
「へぇ、何乗ってんの?」
「黒のコルベッツ。昔は赤い魂ってやつだった」
「へぇ車好きなんだ」
「特にシャシーには目がない、ホッケンハイムにも行った」
「どの辺走るの?」
「深夜よく第三京浜をぐるぐる流してる」
「へぇ、今度乗せてよ」
「ワイノット? ただしデス・プルーフ仕様だがな!」

FIN



c0005419_17513261.jpg
c0005419_17514286.jpg
c0005419_17515058.jpg

by ichiro_ishikawa | 2007-12-05 02:45 | 日々の泡 | Comments(5)  

晩秋の日曜に心に去来した雑感

 世間的なコミュニケーションにおいては、軽い球をポンポンとキャッチボールしていくことが軋轢を生まず円滑にその場をやり過ごす上で大事なわけだけれど、当然のことながらそんなことばかりしていても、要領が良くなるだけで、人間の深みというか、豊穣さのようなものは全く増さないことは言わずもがなだ。
 軽くポンポンと投げたり受け取ったりできない、その人が全人格を賭したような重い球を、時間をかけて、じっくりと受け取りたいし、発したいと思う。その重さとは、本質的には人を明るく楽しくさせる、とてつもなくポジティーフなものだのだが、一見にはわかりづらく、極めてシリアスなので、やはり生活においては忌み嫌われる厄介なものなのだろう。だが、やはりその重い球のやりとりからしか真のコミュニケーションは生まれないのは事実だ。
 文学とか音楽とか映画とか美術といった芸術というのは、そういう重い球の最たるものだ。他人と共有しがたい、名状しがたい、あるものが、そこには刻まれている。俺が一番大事にしているものは、その交換不可能な、顕在化しにくい、じっくりと時間をかけなければ生まれもせず得られもしない、傍目には主観的と切り捨てられてしまうような、非常に不確かで曖昧だが、確実に存在するあれ、である。
 保坂和志の新刊『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』を読んで、心が共振したので、同じことをてめえの言葉で綴ったみた。

by ichiro_ishikawa | 2007-11-12 01:53 | 日々の泡 | Comments(1)  

バカ礼賛


 俺はバカをすごく畏怖しているが、世にはバカ文学、バカ映画というものが多数あり、それらを読むにつけ、観るにつけ、打ちのめされる。バカは、日常においても、作品においても、特に好きな、畏れているジャンルだ。

 ジョン・スタインベック『二十日鼠と人間』のバカはすごく輝いている。

 連れの友人がふざけて、バカを池に突き落とす。バカは溺れてしまい、笑っていたその友人が結局助ける。するとバカはこう言い放つ。
 「お前は命の恩人だ!」

 レフ・トルストイその名もズバリ『イワンのバカ』のイワンも美しいバカだ。

 ひょんなことから王様になったバカ。次第に国民にバカがばれ出し、妃が、「みんながあなたのことをバカと申しております」と心配して告げると、バカはこう言い放つ。
 「そうか、よしよし!」

 なぜバカに惹かれるか。野暮な分析はするまい。大学時代、塾講師をしていた時分のノスタルジアを分析に代える。

 塾は成績別に明確にクラス分けがされているから、講師目線からすると、優秀なクラスだと授業を進めるのが楽なわけだ。彼らは黙っていても勝手に勉強するし、説明も理解する。
 だが、バカなクラスは大変だ。5倍疲れる。まず、いやいや塾に来ているから常にふさげているし、寝ている。その都度ぶっ飛ばしたり、罵詈雑言を浴びせるのだが、きゃつらはおそらく聞いてねえ。しかも、説明してもその説明に使う言葉の意味もまた説明しなければならず、てこずることこの上ない。
 そんなバカどもの中に、すごく真面目で一生懸命話を聞き勉強している女生徒がいた。ふざけたジャリガキとは一切交わらず、化粧っ気もなく、ひたすら勉強にいそしむ彼女。
 講師が、いわゆる「この問題分かる人」的な煽りをかけると、彼女、おそるおそる挙手。指してみると、ハニカミながら、「……」とダンマリを決め込む。俺は、「?、なら挙手しなきゃいいべよ」と心中思いつつ、「座れ」と促す。
 テストをすると、ふざけたバカどもより点数がさらに著しく低いのだった。ふざけたバカどもは、不真面目なだけで、たぶん、やれば普通に出来るのだが、この真面目な女生徒は、モノホンのバカなのだ。また、ふざけたバカどもは学校では野球部のエースだったりして、それはそれで凄いのだけれど、彼女は、友達もおらず、運動も出来ず、学校的な取り柄が何もない。
 ジャリ共は、叱られると「ケッ!」といった悪態をつき、生活力はありそうだが、この女生徒は「……」と、泣きそうになってしまう。
 
 俺は、このバカな彼女が今どうしているか凄く気になっており、たまに思い出すと胸がキュンと締め付けられるのだった。

by ichiro_ishikawa | 2007-09-06 23:31 | 日々の泡 | Comments(0)  

ハワイと俺


 〜と俺シリーズ完結編、ハワイと俺。すべてはこの前フリだったことに気づくのは良いことだ。ただし、極めてプライベートな駄文なので、気分を害したくない人は読まぬがいい。

c0005419_20106.jpg


 ハワイはいい。
 陽気がすげえ。海と空はあええし、場合によってはエメラルドグリーン。
 人間も陽気でいい。ホセに会いに行ったジョーがはしゃぐのも分かる。

 95年、23歳のときに勤めていた会社の社員旅行で、初めてハワイへ赴いた。
 初ハワイにして、初海、もっと言えば初空だった。
 その頃は、かなりロックの最中、地下室の実験はまだ終わっていなかったため、「ハワイ」「社員旅行」というタームとは相容れない俺だったが、ただで(実は、てめえの積み立て金という世の陥穽)行けるとあって、ホイホイとついていった。
 さすがに革ジャンは着て行かなかったが、ブーツで行ったのは失敗だった。俺があちいのは全然いいのだが、見た目があちい。ブラックコーデュロイジーンズもいただけなかった。これも俺があちいのは全然いいのだが、やはり見た目があちい。人が迷惑するという視点が欠けていたのやもしれぬ。ああいうところは、短パンでトンクタップかアロハにビーサンだ。百歩譲ってブルージーンズにスニーカーだ。 
 そんなわけで、海と空と陽気の凄さにはかなりやられていたのに、当地では夜の街しか満喫できず、「いつかまた来てやる、的確な装備で」と密かに心に誓っていた。

 12年が経ち、身内の挙式で、再びハワイに行く機会に恵まれた。「もはやTシャツに短パンでも俺ならロック」という域まで達していたので、「的確な装備」にも迷いはない。
 ただ高齢で足の不自由な親連れということで、介護ツアーの様相を呈していたが、かろうじて海と空は満喫できた。
 雲と太陽を観ながら、海にずっとプカプカ浮かんでいた。
 海にプカプカ浮かぶというのは最高だ。
 ビーチですやすや寝込むのもいい。
 至福のひとときだ。

 とはいえ一番の収穫は、初海外の親が、体が不自由ながら、元気に走り回っていたことだ(車椅子で)。また、花飾りを髪に付け、花輪を首に巻いた母親が悦に入って心底喜んでいた(ように見えた)ことだ。三兄弟+両親という五福星が、20年ぶりぐらいに揃って数晩をともに出来たことが何よりだった。
 


c0005419_25096.jpg
花をまとうことに異様な執念を燃やしていた
悦のマザー(老婆)

c0005419_251140.jpg
夜の街ではしゃぐ車いすのファーザー(天然アルツハイマー)

c0005419_2243146.jpg
ホテルではしゃぐファーザーと彼に閉口するマザー

by ichiro_ishikawa | 2007-07-25 02:30 | 日々の泡 | Comments(2)  

仕事とオレ

 1ヶ月以上、更新が開いたが、その間でも、毎日200人近い訪問者がいたというのは、驚きだ。おそらく、その中の固定読者は30人ぐらいであろうと見ている。分かっている奴、というのは、まあそのぐらいだろう。
 ただ、「池田晶子」で検索してここにたどり着く人がかなりいるようで、こればかりは恐縮だ。俺の思索の深度は彼女のそれには遠く及ばないから。さらに、「小林秀雄」の検索で来られる場合も多い。これは恥ずかしい。俺が小林秀雄のエピゴーネンだと、分かる人には分かってしまうから。

 自分を無闇に痛めつけるのはやめよう。話を戻すと、更新が開いた理由、それはズバリ、仕事にかまけていたからで、ここ1ヶ月、仕事以外の行為はほとんど何もしていなかったに等しい。毎日数時間を読書と音楽・映画鑑賞にあて、ぼんやり散歩も日課、さらに1日8時間の睡眠プラス、シエスタをとらねばうまく稼動しない俺にとっては、激動の1ヶ月であった。まあ、忙しかった、と普通に言ってしまってもいい。それ自体は、大したことはない。

 要は、思索をしていなかった。だから文を書かなかった。書く、イコール思索、思索イコール書く、というのは周知の公式だが、仕事(お仕事)をしているとモノを考えられない、というのは困ったものだ。あるいは、モノを考えると仕事ができない、と言い換えてもよい。つまり、仕事をしすぎるとバカになる。ただ、思索の結晶がこんなブログでの駄文ならば、思索なぞせんでバカでも仕事に勤しんだ方がよほど人のため、そして何よりお前のためだ、という親切かつ至極正論の忠告に耳を塞ぐつもりはない。

 仕事とは、常に実地である。行動である。戦場である。そこには抜き差しならぬ切った張ったがある。状況というやつがのっぴきならぬ態で常に現在に突き刺さっており、仮面を終始とっかえひっかえしながら、芝居を続けなければならない。ステージを降りてもパパラッチが待っている。オフにはまたオフの仮面をあつらえる必要がある。
 目の前の敵をひとりひとり殺していくだけだ。そこでは、いかに早く、多くの人を殺すかだけが重要だ。何のために殺すのか、殺人は果たして善か悪か、強欲な高利貸しの婆を殺すのは善か、そも生きるとは何か、などと思索しているウスノロは、戦場には要らない。

 「地獄の季節」を優雅に噛み締めているヒマがあれば「日経ビジネス」でも読むがいい。
 「死とは何か」を考え抜いて「分からないと分かった」奴よりも、「何が売れるか」を考え抜いてうそでも何らかの答えを見いだした奴の方が偉い。
 ただ、やはり、前者の方が、「本質的に面白い」人間だと思うし、どんな状況でも常に前者でありたいと願ってしまうのがつらいところだ。肘は肩より上には上げず、足は肩幅より広くは開かないと決めている人間を、本能的に目指してしまうのも、つらいところだ。

 何はともあれ、近日中に本ブログで思索していく予定のものを述べてみる。
●ボブ・ディラン復刻DVD「ドント・ルック・バック」
●スタックス復刻CDボックスセット
●チャーリー・ブラウンの凄さ
●ピーター・バラカンの趣味
●ロッキング・オンとミュージック・マガジン、あるいはブルース・インターアクションズ
●空前のジャズブーム到来
●福田和也の凄さについて
●文筆活動とは
●スピーカーとアンプ
●文学と俺
●ハワイと俺 c0005419_16202763.jpg

by ichiro_ishikawa | 2007-06-23 04:19 | 日々の泡 | Comments(4)