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香港と俺


 目まぐるしい多忙さのせいで駄文を書き連ねる事(思索する事)が出来ないでいたが、このままでは過労死しかねないと、安田記念で当てた10万円を握りしめ、すべての仕事を放棄して初めて香港に飛んだ。
 案の定、出発間際の空港ロビーで仕事の電話がガンガンかかってきた。
 挙げ句の果てに「何かあったら電話していいですか?」とか言いやがるので、「してくれるな」と吐き捨てて、携帯電話をゴミ箱に放り投げ、飛行機に飛び乗った。

 香港に着くと、唐突に台風が直撃。さらにこの7月から、香港中、禁煙という制度が敷かれていた。レストランは無論、喫茶店でもバーでも吸えない。要するに食後に一服が出来ない、珈琲やスピリッツを飲みながら紫煙を燻らせる事が出来ない。郷に入りては郷に従う俺は、食後、ただじっとうつむいて黙っているほか無かった。

 地球との相性の悪さがここでも露呈した形となり、逆風が吹き荒れる中、とはいえ今回のトリップの主眼は、煙草を吸う事ではないのであった。それは、「Mr.BOO インベーダー作戦」(原題:売身契/1978年)で、売れないTV司会者役のマイケル・ホイ(許冠文)が、当月唯一の仕事がキャンセル、という電話を受けた時にかじっていた、「あの棒状のモノ」を食う事であった。
 それは、油条(you tiao)と呼ばれる揚げパンで、フランスのどの食卓にもバゲッツがあるように、香港の食卓にはこの油条がある。マイケル・ホイ(許冠文)はチキンなどモノを実にうまそうに食う事で有名だが、俺はこの棒状のモノをいつしか食ってみてえと思っていた。
 そして初見から実に30年、遂に俺はあの棒状のモノを食したのだった。

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油条と俺


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マイケル・ホイ(許冠文)の手形。

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サミュエル・ホイ(許冠傑)の手形。裏方(「Mr.BOO!」のラブホテルの店員役で出演もあり)の次男スタンレー・ホイがないのは兎も角、リッキー・ホイ(許冠英)もなかった…。

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サモ・ハン・キンポー(洪金寶)の手形。

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戦利品「サミュエル・ホイBOX(3CD+1DVD)」1,000円

by ichiro_ishikawa | 2009-07-26 04:30 | 紀行 | Comments(0)  

奈良 2007冬

 
旅中、「時間のお化け」という概念が、終始、頭にこびりついていた。
東大寺、法隆寺、薬師寺、唐招提寺、興福寺といった、奈良の古寺を巡り、様々な仏像に見入り、帰りしな、京都の東寺に寄った。そのほとんどが国宝にして世界文化遺産である。
ハイライトは、東大寺の「修二会(しゅにえ=a.k.a.お水取り)」でもお馴染みの二月堂。
奈良の二月堂を訪ねるというのは、実は、ここ十数年来の企みであった。
 
東京帝国大学を卒業したばかりの小林秀雄は、1928年の約1年弱の間、26歳の時、奈良に滞在していた。
それから20年が経ち、小林秀雄は、再度、奈良を訪れる。
そして、東大寺の二月堂において、小林秀雄の脳髄には、「時間というものに関する様々なとりとめのない抽象的観念が群がり生じた」。 
そこで生み出されたのが小林秀雄の最高傑作「秋」。
(本稿の最後に、その秀逸なイントロを掲載)
俺の企みとは、その「秋」の追憶であったが、とりあえず俺は、形から入った。
そんな形、ベスト5。
1.二月堂に登って、ぼんやりする。

2.欄干に組んだ両腕のなかに、猫のように顎を乗せ、大仏殿の鴟尾(しび)の光るのやら、もっと美しく光る銀杏の葉っぱやら、甍(いらか)の陰影、生駒の山肌、いろんなものを眼を細くして眺める。

3.御堂の脇の庫裡めいた建物でやっている茶屋を訪れる。

4.茶屋の、すすけきった天井と柱、黒光りしている幾つも並んだ茶釜、油と汗で煮しめたような畳を確認する。

5.般若湯を一本、恐ろしく塩からい雁もどきの煮しめを一皿注文し、ひっくり返ってプルウストを読む。

6.「失われし時を求めて」という気味の悪い言葉を、頭の中でキイのように叩いてみる。

以下、実行の結果報告。

c0005419_3541298.jpg二月堂に登って、ぼんやりせんとす
c0005419_315572.jpg欄干に組んだ両腕のなかに、猫のように顎を乗せ、いろんなものを眼を細くして眺める
c0005419_3154214.jpg光る大仏殿の鴟尾(左)、もっと美しく光る銀杏の葉っぱ(冬なので無し)、甍の陰影(手前他)、生駒の山肌(遠方)
c0005419_3153233.jpg御堂の脇の庫裡めいた建物でやっている茶屋。畳は奇麗だった
c0005419_31581.jpgc0005419_315195.jpg黒光りしている茶釜(左)。幾つもは並んでいない。すすけきった天井と柱(右)
c0005419_314537.jpg般若湯、恐ろしく塩からい雁もどきの煮しめは売っていない。というか何も売っていない。実は茶屋ではなく、単なる休憩所だった。とりあえず、ひっくり返って「秋」を読む


「秋」(1950年)

 よく晴れた秋の日の午前、二月堂に登って、ぼんやりしていた。欄干に組んだ両腕のなかに、猫のように顎を乗せ、大仏殿の鴟尾(しび)の光るのやら、もっと美しく光る銀杏の葉っぱやら、甍(いらか)の陰影、生駒の山肌、いろんなものを眼を細くして眺めていた。二十年ぶりである。人間は、なんと程よく過去を忘れるものだ。実にいろいろな事があったと思うのもまた実に程よく忘れているというその事だ。どうやら俺は日向の猫に類している。
 御堂の脇の庫裡めいた建物で、茶屋をやっている。天井も柱もすすけきって、幾つも並んだ茶釜が黒光りしている。油と汗で煮染めたような畳の上に、午前の清らかな陽が一杯に流れ込んでいる。ここにはよく昼寝に来たものだ。
(中略)
 この茶屋は、夏は実に涼しいのである。私は、毎日のように、ここに来ては、般若湯を一本、恐ろしく塩からい雁もどきの煮しめを一皿注文し、ひっくり返ってプルウストを読んでいた。特にプルウストを好んでいたわけではない。本と云えば、それだけしかなかったのだ。当時、私は、自分自身に常に不満を抱いている多くの青年の例に洩れず、得体の知れぬ苦しみを、半ば故意に燃やし続けていた。その為に何事にも手に附かず、会う人にはひどく退屈で暇な振りをしていた。プルウストに熱中していた伊吹武彦君に、たまたま京都で会った時、彼は土産物でも持たすように、膨大な著作の初めの二册を、私に持たした。そして、どういう結果になったかと言えば、プルウストからただ般若湯と雁もどきを連想する始末である。覚束ない語学力で、ぎっしり詰まった活字を辿って行く事は、あたかも人生のほんのささやかな一とかけらも無限に分割し得るという、著者の厄介な発見を追うのにふさわしいように思えたが、いつもやがて気持ちのいい眠りが来た。夏は終わり、プルウストも二巻目の中程で終った。以来、プルウストを開いてみた事がない。高級な文学が甚だ低級に読まれるという世の通例を私は実行したまでの事だ。恥ずかしがるにも及ぶまい。この通例の全く逆も屢々起こり得るのだ。
「失われし時を求めて」−−気味の悪い言葉だ、とふと思う。私はそれを、頭の中でキイのように叩いてみる。忽ち、時間というものに関する様々なとりとめのない抽象的観念が群がり生じた。ああ、こりゃいけない、順序がまるで逆ではないか、プルウストは、花の匂いを吸い込む事から始めた筈である。私は、舌打ちをして煙草を吹いた。思いも掛けず、薄紫の見事な煙の輪が出来て、ゆらめきながら、光の波の中を、静かに渡って行った。それは、まるで時間の粒子で出来上がっているもののように見え、私は、光を通過するその仄かな音色さえ聞き分けたような思いがした。不思議な感情が湧き、私は、その上を泳いだ。
以下、もの凄い事になってゆく。
新潮文庫『Xへの手紙・私小説論』所収

by ichiro_ishikawa | 2007-02-14 03:59 | 紀行 | Comments(3)  

2006年、ロンドン〜パリの旅・後書き

 喜怒哀楽の喜と楽というのは、言葉に整える価値があまりない。
 93年から書き続けている日記をひもとくと、書いてあるのはすべて喜怒哀楽の怒と哀。特に哀。何も書いていない時期というのが所々にあるが、その時期は、まあ、楽しかったのだろう。あるいは忙しかったのだろう。そんなときは、言葉に帰らないものだ。文を書くやつというのは、えてして暗い。
 そういう意味では、今回の旅行で書くことはないのであった。「楽しかった思い出」なんてうっとおしいもの、きょうび、犬も食わない。
 とはいえ、「くわっ!」という感動は確かに多々あって、それらはぜひとも言葉に整えたいと思うのだけれど、ロンドン、パリの凄さなんていうものは、古今東西の文豪が書き尽くしているので、いまさら俺がしゃしゃり出る必要を感じない。願わくば永井荷風の「ふらんす物語」を、布袋寅泰の「よい夢を、おやすみ」を読まれんことを。
 それにしても日本はダメだな。全然ダメだ。「つまんねえ歌が流行っているっていうことは、俺たちのレベルが低いってことだしよ?」と、誰かが言っていたのを否が応でも思い出さずにはいられない。そろそろ、どうにかしないとな。

by ichiro_ishikawa | 2006-05-23 23:19 | 紀行 | Comments(0)  

2006年、ロンドン〜パリ雑感

 ロンドンはブリティッシュ・イングリッシュと曇天。そうしたものに代表される質感が、申し分なく、カッコいい。歩いているだけで「マイ・ジェネレーション」が、「ユー・リアリー・ガット・ミー」が流れてきそうな質感だ。これはもうしょうがない。

 パリはどうか。
 偏西風と暖流の北大西洋海流の影響で夏涼しく冬暖かいカラッとした西岸海洋性気候の心地良さがまずあった。
 そして宿泊地、つまり拠点としたカルチェ・ラタンの居心地の良さはどうだ。ソルボンヌという世界屈指の才能の集まる大学がある学生街は実に庶民的で、マルシェ(市場)があり、ジャンルの多岐に渡る本屋や映画館が多くあり、手ごろなブラッセリーやビストロ、カフェエが集まる。日常的な生活をしていく上で必要なすべてがそこにはあった。美術館めぐりや町探訪など、車やメトロ、人込みの喧噪に疲れ、ねぐらに戻るとそこにはゆったりと落ち着いた癒しの空間があるという。
 バゲットをナイフでバスッバスッと刻み、マーガリンを塗って生ハムやチーズを挟み、ワインと一緒に胃に流し込むというランチ。米と味噌汁と玉子と納豆と沢庵に相当するメニューだ。和のそれもおそろしく美味いけれど、西洋のそれも格別なものだった。日ざしが暖かく日照時間も長い春夏は大抵屋外にテーブルを並べて食す。秋冬ならさしずめペチカの前でといったところだろう。そうした日常がとても愛おしく感じる。こうした営みが何千年もここで行われてきた。そう考えると喜怒哀楽とは別の感情、ノスタルジアともいうべき気持ちで心が満たされ目頭が熱くなるのであった。
  散歩がてら大学界隈をぶらつきセーヌまで歩くとノートルダム大聖堂が聳える。夕暮れ時、落ちゆく日ざしを背に受けて手前の広場で紫煙を燻らせながら、“我らの母”を眺めるというのは、まさに至福のひとときだった。
 目が合えばボンジュー、ボンソワア、サヴァ、メルシー、オヴァアといった自然と恒常化した挨拶の慣習も良い。英語ならハロー、ハワイユー?といったところで、西洋は挨拶がいい。日本ならさしずめ「よぉ、どう?」だが、慣習として根付いているとはいえないようだ。
 いつ大地震が起きてもおかしくない日本を早く脱したい。怖くておちおちトイレにも入ってられないなんて悲惨じゃないか。

by ichiro_ishikawa | 2006-05-22 11:30 | 紀行 | Comments(0)  

2006年、ロンドン〜パリの旅・前書き

 ロンドン、パリの2都市は、心の故郷といってもよい。
 10代のころ、この2都市が心の大部分を占めていたことを、おそらく知る人は少ない。ロンドンは、いうまでもなく、ロックの町として。パリは、月並みだけれど、映画、芸術の都として。
 10代とは、紛れもなく、反抗の季節であり、自分の血、性質(たち)から、社会、ひいては日本という国自体まで、とにかく、何もかもが気に入らない。そんなとき、眼前に立ち現われたのが、イギリスのロックとフランスの映画だった。アメリカは日本の宗主国だから、やはり、否定の対象だった。イギリスとフランスは、「日本など眼中にない、存在すら知らない」、そんなスタンスで居るように思えた。そこが、気に入った。
 ロンドンの曇天、デヴィッド・ボウイのステップ、スミスのジョーク、パリの石畳、ジャン=ピエール・レオーのバゲッツの切り方、ベルモンドの紫煙、ポイ捨て……おお、イギリス! おお、フランス!
 俺は、イギリスとフランスへ行くことを常に夢想していた。ローティーンのころ夢中になっていた日本のロックは、アメリカとイギリスの音楽の物まねだと気づき、精神の拠り所だった日本の近代文学のお手本はフランスにあったと知った。娯楽映画に閉口していたとき、フランス映画の芸術性に酔いしれた。俺は、核(兵器ではない)を持たず、日和見な日本の性質を、嫌悪した。今でもポンドを貫くイギリス、英語やハリウッドに背を向けるフランスという2国に、「孤高」を読み取った。読み違えかもしれない。だとしたら、俺は35歳にならんとしてる未だに読み違え続けていることになる。

 大学に進んだのは、イギリスとフランスへ行くためだった。往復だけで24時間かかる以上、数日の短期旅行というのはもったいない、ありえない。4〜7月、11〜1月にバイトをし8〜10月の夏期と2〜3月の冬期の長期休暇を利用して、2〜3ヶ月のヨーロッパ滞在を数回行った。金はないから、1000円以下の宿に泊まり、1日の生活費はずばり上限1000円。ロンドンとパリは日本より気持ち物価が高めだから、ホテルの朝食をウッというほど食い、さらに余ったパンズを大量に盗みバッグに押し込んで昼食に充てる。夜はスーパーの総菜、といった塩梅で、たいがい帰国後は10kg痩せている。特に名所にも足を運ばず、ただひたすら石畳をブーツで叩きながら町を歩く。夜はクラブで音楽を全身で浴び…、今考えると何も面白くない、そんなことで十分満ち足りていた。

 パリは、心は開かないが基本的にストレンジャーに対してはウェルカムというスタンス、町並みは整然として美しく、至る所に「美」が散在している。優しく美しい憧れの女の子のようだ。フランス語という言葉は、何かふざけているようで妙に心地よい。ボンジューとかムッシューとか、ボクーといった、「おちょぼ口終わり」も愛嬌がある。飯は、不味かった試しがない。レストランにはもちろん入らないので、町中の売店でバゲッツを買うのだが、その信じられない美味さに発狂して、売り子の頭をバゲッツで殴りそうになることもしばしば。ただ、長期滞在していると、居心地が悪くなる。女の子の部屋はワクワクするが、最終的に落ち着かない。
 ロンドンは予想以上にタフな町だ。初めて行った時は、入り口が分からないまま帰国した。2回目は入り口を見つけたものの門前払いを食った。3回目でようやく中に入ることが出来、4回目でようやく楽しめた。メタファーを弄せば、そんな感じだ。
 飯は大雑把で工夫がなく、歴史的名所を除けば、町は総じて汚い。毎日、どんよりと雲っていいて、しばし雨が降ってくる。人々は、クールすぎる。パリも心は開かないが笑顔はよこす。ロンドンは、目も見やしない(だが、いったん心を開くと、その奥には熱さと優しさがあることに気づく)。そして背がでかすぎる。平均的な女性が180cm、2mの男なんてざらにいる。ブリティッシュ英語は、tやsの摩擦音の強さ、促音便(小さい「つ」)の強烈さが、硬質感を助長する。
 そんな中の一筋の光が、公園と粋なパブ、そして、超ハイクオリティのクラブ文化である。音楽が町中に溢れ、ベースラインが極めて高い。なにも楽しみがない分、ここに全ての力が注がれているのやもしれぬ(衣食住が充実しているパリには、だからロックがない)。初めてクラブに出向いた91年は、ストーンローゼズ、ハッピーマンデーズといったマッドチェスターの喧噪が落ち着き、アンダーワールドやケミカルブラザーズが地下で蠢きだした時で、新しいテクノの波がシーンを覆っていた。ビートルズ、キンクス、ザ・フーといったR&Bベースのギターロック、スウィンギン・ロンドンの流れも健在で、デヴィッド・ボウイ、ロクシー・ミュージックから、U2、スミス、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインら同時代のものまで、どこに行っても好きな音楽が聴けた。フロアの人間はみんなモデルの様で、ポール・ウェラーやケイト・モスみたような輩が踊り狂っている。観光名所では決して見かけない生粋のロンドンっこでごった返していた。そんな中、ふと自分をみると、そこにいるのは黄色い猿以外の何者でもない。日本に居る頃、「周りは全部クソダせえ、俺はスペシャルな存在だ」といきがっていた自信は、このとき全部崩れた。初めてのロンドンは入り口が分からないまま帰国したと前述した所以は、概ね、この無念による。

 2001年、30歳で5年勤めた会社を退職したとき、わずかな退職金をすべてつぎ込んで、またしても、ヨーロッパに飛んだ。365日、ほぼ休み無しで働き続け、木を見てばかりで森が見えなくなっていたということ、最後の長期休暇というてめえの中での決定、そして、淡いノスタルジーのためだ。
 やはりそれまでと同じ貧乏旅行でユースホステル泊まりだったが、決定的に違ったのは、「俺はもはやユースではないつけ!」という事実だった。今までのように若者に、町のユースカルチャーに溶け込めない。みんな青く瑞々しく、前途洋々で希望に満ちあふれている。俺はと言えば、「ここ行ったな〜」とかただただセンチメンタルでノスタルジア。特に何の感動もなく、すべての行動が大人で、スムースに事が運んでしまう。そして、何と言っても、「1人」が淋しくてしょうがない。友達も出来ない。たまに仲良くなるのは日本人。しかも「そうっすね〜」と敬語を使われる。そう、俺はいつのまにか「おっさん」になっていた。おっさんの一人貧乏旅ほど残念なものはない。周りにもいらぬ気を遣わせる。
 次に旅をすることがもしあれば、これまでと全く違ったものになることだろう。「もう俺はユースではない」。30の旅の通奏低音には、この無念がある。
 
 そして、5年後の2006年、復職し4年経った俺は、奇跡的に旅行の機を得た。
 

by ichiro_ishikawa | 2006-05-13 18:27 | 紀行 | Comments(2)