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小林秀雄アンダーライン

●人間は、血を持っているからこそ智慧を持つ、とアナクサゴラスが言ったが、恐らく、人間の知性の正しい解明は、原始人の石鏃から現代人の機械に至る、人間が作り得たものは或いは破壊し得たものの裡にしか求められまい。人間が種族保存上、有効に行動し生活する為に、自然は、人間に、知性という道具を与えたのは確からしいが、己の謎を解いて貰う為に与えたとは到底考えられぬ事である。従って、知性は、行為の正確を期するに充分なものだけを正確に理解する。物と物との関係には、いよいよ通暁するが、決して物の裡には這入らない。そのような事は無用の業でなければ狂気の沙汰だ。恐らく、存在と認識の間のディアレティックは、永遠に空しいであろう。
 若し、手があるからこそ智慧がある。と言えるなら、同じ意味で、眼があるからこそ、耳があるからこそ、と言えるであろう。僕等の行為の有効性に協力しない眼や耳は、もはや眼とも耳とも言えまい。心理学者が、どんなに純粋な視覚とか聴覚とかを仮定してみた処で、無駄であろう。僕等の行為の功利性は、僕等の感覚の末端にまで及んでいるだろう。人間は眼を持っているから見ると言ってはいけない、寧ろ眼なぞ持っているにも係わらずどうやら見るのだ、とベルクソンは言っている。僕等の感官は、自然を僕らの生存に巧妙に利用しようが為に、徒然との全的な取り引きを禁止するような、或いはそういう取り引きが非常に困難な様な、そういう構造に出来上がっているらしい。僕等は全力をあげて、人間という生物の裡に閉じこもっている。多くの神秘家が、肉体を侮辱したのも故のない事ではない。
 ランボオという奇怪なマテリアリストは、主観的なものに何の信も置かなかった。彼には叙情詩というものには一向興味を惹かなかった。彼の全注意力は、客観物とこれに触れる僕等の感覚の尖端にいつも注がれていた。どのような思想の形式も感情の動きも、自立自存の根拠を、何処にも持たぬ。それらの動きは、客観世界から、何らかの映像を借用して来なければ、現れ出る事がかなわぬ。と、と言うのは、それらの運動が、客観世界の運動に連続している証拠である。ただ、この外部の自然の運動は、知性の機能によって非常によく整調された神経組織という、特殊な物質を経過するに際して、或る著しい変化を受ける。ランボオに言わせれば、「毒物」と化する。問題は入り口にある、と彼は考える。若し、僕等の感覚が、既に、自然の運動の確率的平均しか受付けない様に整備されているものならば、僕等の主観の奥の方を探ってみた処で何が得られよう。愛の観念、善の観念、等々、総じて僕等の心の内奥の囁きという様な考えは、ランボオには笑うべき空想と見えた。僕等は、ただ見なければならぬ、限度を超えて見なければならぬ。「あらゆる感覚の長い限りない、合理的な乱用」を試みなければならぬ。

●言葉というものが、元来、自然の存在や人間の存在の最も深い謎めいた所に根を下し、其処から栄養を吸って生きているという事実への信頼を失っては、凡そ詩人というのはあり得ない。

●僕等が立会うものは、在る凶暴な力によって、社会の連体性からもぎ取られた純粋視覚の実験である。尤も、彼は立会人を期待していたわけではないが、僕等が立会ったなら、彼はこんな事を言ったかもしれない。推論は、自然に一指も触れる事は出来ない、と諸君は言う。だから、自然を直覚するのだとか愛するのだとか言う。信じられぬ。諸君は、そんな事を決して心の底から信じてはいない。諸君が、窒息しないで生きているのを見ただけで充分だ。僕の報告が晦渋であるなどと文句をつけまい。僕は、「他界から取って来るものに形があれば与えるし、形の決まらぬものなら形の決まらぬ形を与える」。それは実験の結果なのであって、僕の知った事ではない。実験の手続きに、ごまかしはない。せめて僕のサンタックスの明瞭と完結とに注意し給え。
 言うまでもなく、彼が這入ろうとする世界は、認識自体の根拠が揺らぐ様な世界なのだから、彼の実験報告は、人々を一様に納得させる様には書かれていない。彼への敢然たる信頼と共鳴に準じて、彼氏その秘密の幾分かを僕等に分つ。元来が、詩人等がその思想を人に分つ方法だが、彼は、その方法を言わば灼熱する。彼は未知の国から火を盗んで来る。近寄るものは火傷する。僕等は傷口に或る意味が生ずるのを感ずる。だが、詮ずるところ凡そ本物の思想の誕生というものは、皆そういうものではあるまいか。論証だけで出来上がった思想は、人々の雷同性を挑撥するより他に能があるまい。

by ichiro_ishikawa | 2001-09-27 03:38 | 文学 | Comments(0)