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能書き

 生あるものが決して一つ所に留まってはいないということは、たまらなく切ないことだ。一方、留まっていないからこそ好都合だということも多々あるわけで、結局は生まれては消え、目の前に表れては去り、つまりいつか誰かが言っていたように諸行無常の一言ですんでしまう真実ではある。だが、一言で済んでしまうからといって、その真実が人間の生の中でもうっかり一言で済まされるとはおかしなことだ。みんな、その諸行無常というやっかいな真実に翻弄されながら訳の分からないまま流されて死んでいく。そんな複雑なある人間の一生が一言に凝縮されてしまうなんて。
 はたして人が文を書くという行為は、何かを他者に伝えたいときであろう。他者に何かを伝える手段は多々あり、表現手法として人はその人にあった何かをその都度選んでいく。そのとき文を選ぶというのはどんな事情によるか。眼前で蠢く正体不明の何かを理性で捉えたいとという願望であろうか。言葉というものは極めて理性的なもので、その連なりであるところの文章というものも伝達のもっとも純粋で合理的で理性的な手段である。
 子細らしい顔をしてもっともらしいことを言ってみたが、実は結局、そんなことではないのだ。人が文章に向かう時、いや、俺が文章に向かう時と直そうか、それはいつの場合も、すでに動機は明確だった。悲しみを癒すためである。悲しみの種類はその時その時さまざまだけれど、何かを書くことは常に悲しみを纏っている状態だ。様々なる悲しみの正体は無常である。
 読者は、いや俺が読者に回る時は、悲しみを作家はどう癒すのだろう、つまり俺はどう癒せばいいのだろう、そんな理由による。言葉に限らず、音楽や映画といった現代のポップ・カルチャーの表現方法のすべての制作動機をそこに見つけることができるし、享受する側に回った時もその享受せんとするものもいつも同じものである。


by ichiro_ishikawa | 2004-01-06 00:31 | 日々の泡 | Comments(0)  

BOφWYトリビュート盤について

 去年末にBOφWYのトリビュート盤が2枚出て、少しずつ視聴してきたのが今日完了し、思うところがあったので書きなぐってみる。

 曲がいいので、誰がどうアレンジしても良く聴こえる。
 曲のアレンジの基本はリズムのアレンジだから、どのトラックでも高橋まことは見る影もなくなっていて、可哀想だ。でもカバーアーティストのラインナップに高橋まことが混じってなくてホッとした。ベースはリズムと同時にメロディも奏でるから結構ママイカされていて、BOφWYにおける松井の存在感はそれなりに評価されている。
 「オンリー・ユー」を英訳してカヴァーしたものがあり、BOφWY全曲を英語でやったら、ビートルズ、オアシスのようなメガヒットになるだろう、金儲けできるだろうと思った。
 小島のような現役のド不良がカヴァーしてくれるとすごく嬉しい。BOφWYは女子供に受けるロックでありながら、氷室というド不良のスピリットは現代のド不良をも動かすということが改めて確認されたと思うと素直に嬉しい。ロックンロールは不良のもの。ベタだが、不良の意味はそう簡単ではない。少なくともヤンキーとは対極にいる。
 アレンジということでいえばDJ HASEBEとか朝本とか、あの辺の才能はやはり凄いのだが、どのアーティストも「俺のBOφWY」というスタンスを堂々と謳っているところが清々しかった。

 特筆すべきことは、2つ。
 ひとつは、前述したリズムアレンジにおいて、BOφWYの核は布袋のギタリズムで、あれを崩すとやはりBOφWY色はガクンと落ちるということ。だから逆に、トリビュートしたどれもが上辺はオリジナルソングっぽく見える。布袋リズムはかなり独特なものでなかなか真似できないという事実が白日のもとに晒されたことになった。
 もうひとつは、氷室のボーカルというのはとんでもないということ。やはり前述したように曲がいいので、どれも良く聴こえるし、みんなウマイ。カラオケでBOφWYを聴くと「俺のBOφWYになんてことを!」とうんざりすることが多いけれど、彼らのは聴ける(当たり前のようだけど、俺は、彼ら日本のミュージシャンと素人カラオケ連中とを同じ括りにしていたから、ちょっとした驚きがあった)。むしろ「いいねえ、BOφWY」と、共にBOφWYを賛美したい衝動にかられるぐらいだ。だがやはり。存在感という意味では、やはり彼らはありきたりのミュージシャンなのであった。
 それはハイトーン、「No.New York」のようなキーの高い曲で如実に表れる。ハイトーンを出せる人は特に最近は多いけれど、大概はソウルフルさとセクシ-さが失われてしまっている。男性ボーカルはソウルフルさとセクシ-さが命で、ただ高音域が出ればいいってもんじゃない。ハイノートを使うとたいていハードロックになってしまうものだ。ゆえに、そこに意識的なロック・シンガーはあまりハイノートは使わない。無感覚なシンガーは音程自慢のようにな文字どおり高らかに歌い上げがちだが、あれはまったくいただけない。

 ロックンロールに心奪われるのはそれが、経験や練習、理論というものがまったく太刀打ちできない、極めてユニークな奇跡に溢れているからで、たった3コードでできた3分間のロックンロール、45回転のシングル盤1枚で、グワッと人生をもっていかれるのは、聴く者がその奇跡に触れるからだ。

by ichiro_ishikawa | 2004-01-05 00:15 | 音楽 | Comments(0)