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吉川晃司 Live at AX '04

 2/8(土)、AXで吉川晃司を見た。
 ほぼ定刻通りに客電が落ちると、バンドに続いて、グラサンに、胸まではだけたラメシャツを着込んだスーツ姿の吉川が登場。鳥肌が立った。すげえカッコいいのである。底の厚いブーツを穿いているため、とんでもなく長身で、その大きくしなやかな身体が、痙攣しているようなダンスを続ける。頭からハイテンション。出てきただけでやられるなんてことはそうそうない。吉川はいるだけでものすごいというレア中のレアなミュージシャンだ。
 吉川の真骨頂は、その派手なステージングにある。約2メートルの高さにシンバルを単体で設置して、曲終わりの度に蹴りあげるパフォーマンス。モニターに足をかける氷室バリのアクションも足がすげえ長いので、よりカッコいい。狭いライブハウスのステージを非常に窮屈そうに暴れ回る。そうしたクレイジーさが実に美しい。考える前に走る系の単純でストレートなバカなやつ、吉川晃司が俺は大好きだ。横幅もでかくなっていた。デビュー時より20kgは太ったであろう。往時のシャープネス・狂気こそ失われたものの、すこぶる健康的なバカ、吉川がそこににはいた。「大きな声では言えないけど」を「大きな口では」と間違えたり、シンバルを蹴りあげる代わりに洒落で頭突きしたら中心の金具に脳髄をぶつけて痛がるなど、天然ボケを連発。また、カツゼツが悪く内容も私利滅裂というか言葉不足のため何を言っているか分からないMCといい、最高なのであった。
 「ユー・ガッタ・チャンス」「さよならは8月のララバイ」といったアイドル時代のヒットチューンで幕を開けた後は、新作と思われる楽曲が中心のラインナップ。97年まで丹念に追っていた俺が知っていた曲は、「Baby, Baby」「アクセル」「スピード」「ボンバー」。
 アンコールでは、「A-LA-BA-LA-M-BA」「BOY'S LIFE」と畳み掛けてくれ、満足がいった。たとえ知らない曲でも、吉川のその存在感のデカサと歌う姿を見ているだけで楽しいし高揚してくるので、まったく退屈しない。こんな、派手なパフォーマンスがカッコよくさまになるのは吉川がミュージシャンである前に根っからのアイドルである証左だ。音楽性うんぬんといった意味性をまったく無効にする圧倒的なパワー。吉川は日本のエルヴィス・プレスリーであり、ジョン・レノンである。
 ロックンロールとはなんて考えていた自分はいかに頭でっかちか。吉川晃司はそのいかたが既にナチュラルにロックンロールだった。吉川を見ればそれで充分なのであった。

by ichiro_ishikawa | 2004-02-09 03:21 | 音楽 | Comments(0)  

ロックとは何か

 「ロックとは何か」という、手垢に塗れまくった問いを改めてシリアスに考えたい。
 まず、最初に細かいことで、ある意味どうでもいいことだけれど、ロックとは言わずロックンロールと言いたい。ロック&ロールなのであって、つまり、揺れて転がる、といった意味で、ロールは、転がる石にコケは生えない、の転がるである。ロックは物理的側面を、ロールは精神的有り様を言っている。だから、ロックというと「皮パンにエレキギター」「不良」といった、怠惰な発想に基づく微妙な誤解がはびこる。ロックンロールと言うと長いからロックと言うのなら問題ないのだけれど、ロックンロールと言うと古臭いからロックと言うのだったら、大問題だ。とりあえず、ここではロックンロールと言うことにする。
 ロックンロールは音楽的意味と精神的意味の2様がワンセットとなっている。
 ロックンロールの父はやはり、エルヴィス・プレスリー(54年)だろう。
 黒人のブルーズ、R&B、白人のロカビリー、フォーク(民族音楽)をごちゃ混ぜに消化したエルヴィス・プレスリーが、1954年にギターをかき鳴らして腰を揺れ動かしてシャウトした、そこに音楽的起原がある。

well you can do anything but lay off my blue suede shoes
何をしたっていいけどな、俺の青いスウェードの靴は踏むんじゃねえぜ
「blue suede shoes」ELVIS PRESLEY(カール・パーキンス作・石川一郎訳)
 これは、ロックンロールの精神面の何たるかを最も言いえたフレーズとして人口に膾炙しているが、異存はない。これがロックンロールである。
 この感じを別の言葉で説明することは難しい。詩だからだ。
「Don't Think. Feel」とブルース・リーの名言を拝借して済ませたい。
 以上、俺も正しいと思う一般論。
 これから、俺の考えを述べる。
 たとえば、「貫く」ということか? という。みんなが右向きゃ右を向くという愚行に対するアンチなのかと。
 結果としてそうなる場合もある、とは言える。
 実は、ロックンロールとは何々だの何々は人の数だけある。そのすべてが正解であると同時に間違いだ。ロックンロールは何々だ、と言った瞬間にそれはもうロックンロールでなくなってしまうからだ。
 たとえば、「ロックンロールとは貫くこと」。正解のひとつだ。しかし、もし「つらぬく」ことが目的になってしまった時点で、あるいはモットー、スローガン、生き方になってしまった時点で、それはロックンロールではない。カッコ悪いからだ。

 ロックンロールはもっと柔軟でしなやかなものだ。
 前述したことと多少かぶるけれど、ロックンロールとは、ロック&ロールなのであって、つまり、「揺れ転がる」。凝り固まっていない状態だ。時に応じて、貫いたり、妥協したり、クールだったり、ホットだったり。俺はこういう人間だと限界を設定しないこと。
 その局面局面でズバリ正解していこうという精神の有り様だ。
 その正解の物差は内なる普遍的なコモン・センス(英)、ボン・サンス(仏)、常識(日)である。常識というと、「常識を覆すことがロックンロールだ」とよく言うように、ロックンロールの対極にあるようだけれど、実はそうではない。前述のフレイズは、正確に言い直せば「常識と誤解されているものを正すことがロックンロールだ」である。常識というやつはもっと深いものだ。一般に人が言うところの常識とはマニュアル、規則、慣習みたいな意味であろう。だから俺はフランス語でこれをいうことにしている。ボン・サンス。良識のほうが正しい訳であろうか。そうした普遍なるボン・サンスを尺度にしているからこそ、ロックンロールはポップ・ミュージック足りうるのである。女子供を含めた万人に開かれているのである。
 局面局面でズバリ正解していこうという精神の有り様、がロックンロール。
 つまりカッコいいのがロックンロール。
 だからアコースティク・ギター1本で眼鏡でネルシャツでもロックンロールなことはあるし、エレギギターを歪ませて皮パン穿いて中指立てたところで、それがロックンロールとは限らないのである。
 80年代に勃興したヒップホップ、テクノは、ロックンロールである。ロックンロールが形骸化・様式化・メジャー化(誤解を許容し過ぎた)してきた状況を切り裂くために黒人はヒップホップへ白人はテクノへ向かったのである。ロックンロールが常に変化していくのは、局面局面が常に変化しているからである。
 諸行無常の世界にあってズバリ正しくありたいと、普遍が希求している、これがロックンロールである。

by ichiro_ishikawa | 2004-02-05 03:15 | 音楽 | Comments(0)