<   2006年 05月 ( 6 )   > この月の画像一覧

 

コステロ&トゥーサンがやってきた

 エルヴィス・コステロとアラン・トゥーサンという「ポップミュージック史上最も偉大な人物ベスト10」に必ずラインナップされる2人が同時にサイン会をやるという極めて異例、驚天動地な事態が発生。いわゆる「北國の戻し」をほっぽってすぐさま駆け付けたわけだが、参加者約300人(平均年齢41歳/男性比率84%/1人で来てる率97%、以上概算)はタワーレコードの地下のスタジオに集められ、壇上にはコステロとトゥーサンが運動会のPTA席みたような即席机に座し、アホな参加者めいめいは下手から順番に壇上に上がり、コステロ、トゥーサンの順でサインをさっさともらって上手からはけ、そのまま屋外に退場というシステマティックな手順でそれは執り行われた。
 「撮影厳禁」「サインはアーティスト名のみ」という注意が事前に何度もアナウンスされたが、参加者はみな“終っているオッサン”なので、ならず者は皆無、さすがに分別があり、みな注意を遵守し、暴動やエンシュージアスティックな熱狂があるわけでもなく、ごく穏やかに事は進んだ。普通なら「うおー!!」「キャー!!」となるところだが、そこは元気のねえおっさんたち、「ほほう」とか「ははーん」と各々ひとりごちるといった有り様であった。
 憧れの人の前に出ると極度にガチガチになってしまうという性癖が16から治っていないウブな34歳は、2人に「Please」と言ってサインをもらい「Thank you」と握手を求め、「I Love You」と残して去った。コステロは、あのハスキーヴォイスで「Thank you very much」、トゥーサンはジェントリーに「Thank you very much, indeed」との言葉をくれた。あの憧れに憧れたコステロが今ここにいるという感動が全てなのだが、この雑記で記すべき最も重要なことは、座っているコステロはサインをする参加者を若干見上げる形になるため、

c0005419_23455944.jpg


となっていたことだ。
「『トラスト』(81年)のジャケだ!!」
と内心叫びながら、係員の指示に愚直に従いそそくさと会場を出た。

by ichiro_ishikawa | 2006-05-31 23:55 | 音楽 | Comments(0)  

バンバンバザール富永寛之は文もすげえ

 このロックンロール・ブックでは、音楽に関することを言葉で表現しているけれど、主眼は、どちらかと言うと、「音楽の深部で蠢いている何か、俺のハートをズバッと射抜くものの正体」を表すことにあって、四苦八苦しながらも、なんとか小林秀雄ばりに対象と絶妙なダンスをしたいものだ、と無謀な理想を掲げているわけだ、実は。だが、その「何か」「正体」を表す際に不可欠な作業のひとつが、客観的な事実関係の考察と「音楽的な」分析なのだけれど、熱心な12人の読者なら御承知の通り、そこが特にすこぶる甘い。データはほとんど記憶で書いていて滅多に裏は取らないし、特にジャズとかになると「音楽的に」どういいかを語ることはお手上げだ。 

 バンバンバザールの富やんこと富永寛之氏(g)のコラムを読むと、その広く深い音楽知識と、ジョークという謙譲に包まれた鋭い洞察力、緻密な音楽考証に感服する。ギターの弦もまともに張り替えられねえ俺なんかが音楽について語っちゃいけねえな、と思わされてしまう。

 そもバンバンバザールというバンドが、戦前のブルーズ、ジャズ、ジャズ・コーラス、ジャイヴ、ジャンプブルーズから、フォーク、カントリー、ポップ、リズム&ブルーズ、ソウル、ロックまでと、恐ろしく幅広深い音楽性を懐に抱いているわけで、その辺のものは言わずもがな、クロスオーヴァー、フュージョン、ハードロックや、なんと昭和全体の日本のポップスまでにも極めて造詣が深いという、その懐の深さには畏れ入るばかりだ。それが50〜60代の人ならともかく、富やんはまだ30代半ば、高校1年で昭和が終った世代なのであった。

 いずれにせよ、自分の狭隘さを痛感させられるし、音楽の森にはまだまだ知らないすげえ世界があるということを教えてもらえるので、生きる目的が見つかって嬉しい。


c0005419_16145018.jpg
福島康之(vo,g,司会進行)「そこんとこ4649」、黒川修(b)「Curly's EYE」もミュージシャンのよくあるユルユル・コラム、マニアック・コラムとは一線を画すハイ・クオリティな文の芸を展開。ココから「MEMBERs ONLY」へ。

by ichiro_ishikawa | 2006-05-30 16:20 | 音楽 | Comments(1)  

哀悼、ジーン・ピットニー

 往年の米ポップス歌手にしてソングライターのジーン・ピットニー Gene Pitneyが、4月5日、英国ツアー中にホテルで死去した。享年65。
 あまり話題になっていないようなので、この、50億人に開かれているネット上で、1日平均閲覧人数12人という、ささやかな場「ロックンロール・ブック」で大々的に取り上げて、こっそりと死を悼みたい。

c0005419_171921.jpg 1950年代末期〜60年代初頭のアメリカの音楽界では、歌手志望者はまず作曲家として音楽業界に食い込むという例がよく見られる。ピットニーも、音楽出版社に売り込んだ「Hello Mary Lou」が61年にリッキー・ネルソンによって取り上げられ全米No.1ヒットになり、音楽業界での足場を作った。そして、いよいよ自作の「Love My Life Away」で歌手としてデビュー(全米39位)。続く2作目のシングルが、キャロル・キング&ジェリー・ゴフィン作、フィル・スペクター・プロデュースによる、“ジッジッ、ジニバッバッ”のコーラスが印象的な「Every Breath I Take」(全米42位)だ。
 そして、翌62年にピットニーは作曲家としてスペクターに「He's A Rebel」を提供。スペクターはクリスタルズでこの曲をレコーディングし、見事全米1位に輝く。
 この曲がとんでもないのであった。
 のち、バート・バカラックのプロデュースのもと、「(The Man Who Shot) Liberty Valance」により大スターの座を射止め、その後も、「Only Love Can Break A Heart」、「I'm Gonna Be Strong」、「It Hurts To Be In Love」といったヒット曲を次々と輩出した。
 
 なんといっても、ベスト・キャリーアは、「He's A Rebel」だ。 ここで、音は出せないので、詞を振り返るので、レコードに合わせて歌ってみよう。


He's A Rebel
The Crystals(1962)

※ただしクリスタルズは不参加、ヴォーカルはダーレン・ラヴ
Words & Lyrics by Gene Pitney


See the way he walks down the street ←このAメロ、すげえ
Watch the way he shuffles his feet
My, he holds his head up high ←このBメロ、すげえ
When he goes walking by
He's my guy

When he holds my hand I'm so proud
'Cause he's not just one of the crowd
My baby, oh he's the one
To try the things they've never done
Just because of that they say ←このBメロからの、サビへの緊張、すげえ

(CHORUS)
He's a rebel and he'll never ever be any good
He's a rebel and he'll never ever be understood  ←このサビ、すげえ
And just because he doesn't do what everybody else does
That's no reason why I can't give him all my love ←このブリッジ、すげえ
He is always good to me, always treats me tenderly ←この本サビ、すげえ
'Cause he's not a rebel, no no no
He's not a rebel, no no no, to me

(INSTRUMENTAL)

If they don't like him that way, they won't like me after today
I'll be standing right by his side, when they say

(CHORUS)
He's a rebel and he'll never ever be any good
He's a rebel 'cause he never ever does what he should
And just because he doesn't do what everybody else does
That's no reason why we can't share a love
He is always good to me, good to him I'll try to be
'Cause he's not a rebel, no no no
He's not a rebel, no no no, to me

(『Back to Mono (1958-1969) 』Phil Spectorに収録)
c0005419_184460.jpg


日本語訳=俺
(歌詞中の「彼」=俺)

あたしの反逆者
水晶たち

ごらんよ、彼が道を歩く姿を
見てみな、彼が足をシャッフォする様を
あたしの彼は、ホールド・ヒズ・ヘッド・アップ・ハイ
歩いて行く時にね
ヒーズ・マイ・ガイ!

彼があたしの手を握ると、アイム・ソー・プラウド
だって彼はその辺の輩(やから)とは違うの
あたしのベイビー、ああ、彼こそ
彼奴(きゃつ)らが絶対にしないことをやってのける人
だからこそ彼奴らはこう言うんだけど

あいつは反逆者、ろくなもんじゃねえ
あいつは反逆者、理解できない
だってあいつは人と違うことばかりしでかすじゃないか
でも、それがあたしが彼に愛を捧げない理由にはならないじゃない
彼はいつだってあたしには良くしてくれる、優しくしてくれる
だって彼は反逆者なんかじゃない、じゃない、じゃない、じゃない、あたしにとってはね

もし彼奴らがそれゆえ彼を嫌いなら、彼奴らあたしを好きにはならない
あたしはずっと彼のそばにいるんだから。彼奴らは言う

あいつは反逆者、ろくなもんじゃねえ
あいつは反逆者、すべきことをしないから
だってあいつは人と違うことばかりしでかすじゃないか
でも、それがあたしらが愛を分かち合わない理由にはならないじゃない
彼はいつだってあたしには良くしてくれる、あたしだって彼にはそうするわ
だって彼は反逆者なんかじゃない、じゃない、じゃない、じゃない
彼は反逆者なんかじゃない、じゃない、じゃない、じゃない、あたしにとってはね

by ichiro_ishikawa | 2006-05-26 01:19 | 音楽 | Comments(0)  

2006年、ロンドン〜パリの旅・後書き

 喜怒哀楽の喜と楽というのは、言葉に整える価値があまりない。
 93年から書き続けている日記をひもとくと、書いてあるのはすべて喜怒哀楽の怒と哀。特に哀。何も書いていない時期というのが所々にあるが、その時期は、まあ、楽しかったのだろう。あるいは忙しかったのだろう。そんなときは、言葉に帰らないものだ。文を書くやつというのは、えてして暗い。
 そういう意味では、今回の旅行で書くことはないのであった。「楽しかった思い出」なんてうっとおしいもの、きょうび、犬も食わない。
 とはいえ、「くわっ!」という感動は確かに多々あって、それらはぜひとも言葉に整えたいと思うのだけれど、ロンドン、パリの凄さなんていうものは、古今東西の文豪が書き尽くしているので、いまさら俺がしゃしゃり出る必要を感じない。願わくば永井荷風の「ふらんす物語」を、布袋寅泰の「よい夢を、おやすみ」を読まれんことを。
 それにしても日本はダメだな。全然ダメだ。「つまんねえ歌が流行っているっていうことは、俺たちのレベルが低いってことだしよ?」と、誰かが言っていたのを否が応でも思い出さずにはいられない。そろそろ、どうにかしないとな。

by ichiro_ishikawa | 2006-05-23 23:19 | 紀行 | Comments(0)  

2006年、ロンドン〜パリ雑感

 ロンドンはブリティッシュ・イングリッシュと曇天。そうしたものに代表される質感が、申し分なく、カッコいい。歩いているだけで「マイ・ジェネレーション」が、「ユー・リアリー・ガット・ミー」が流れてきそうな質感だ。これはもうしょうがない。

 パリはどうか。
 偏西風と暖流の北大西洋海流の影響で夏涼しく冬暖かいカラッとした西岸海洋性気候の心地良さがまずあった。
 そして宿泊地、つまり拠点としたカルチェ・ラタンの居心地の良さはどうだ。ソルボンヌという世界屈指の才能の集まる大学がある学生街は実に庶民的で、マルシェ(市場)があり、ジャンルの多岐に渡る本屋や映画館が多くあり、手ごろなブラッセリーやビストロ、カフェエが集まる。日常的な生活をしていく上で必要なすべてがそこにはあった。美術館めぐりや町探訪など、車やメトロ、人込みの喧噪に疲れ、ねぐらに戻るとそこにはゆったりと落ち着いた癒しの空間があるという。
 バゲットをナイフでバスッバスッと刻み、マーガリンを塗って生ハムやチーズを挟み、ワインと一緒に胃に流し込むというランチ。米と味噌汁と玉子と納豆と沢庵に相当するメニューだ。和のそれもおそろしく美味いけれど、西洋のそれも格別なものだった。日ざしが暖かく日照時間も長い春夏は大抵屋外にテーブルを並べて食す。秋冬ならさしずめペチカの前でといったところだろう。そうした日常がとても愛おしく感じる。こうした営みが何千年もここで行われてきた。そう考えると喜怒哀楽とは別の感情、ノスタルジアともいうべき気持ちで心が満たされ目頭が熱くなるのであった。
  散歩がてら大学界隈をぶらつきセーヌまで歩くとノートルダム大聖堂が聳える。夕暮れ時、落ちゆく日ざしを背に受けて手前の広場で紫煙を燻らせながら、“我らの母”を眺めるというのは、まさに至福のひとときだった。
 目が合えばボンジュー、ボンソワア、サヴァ、メルシー、オヴァアといった自然と恒常化した挨拶の慣習も良い。英語ならハロー、ハワイユー?といったところで、西洋は挨拶がいい。日本ならさしずめ「よぉ、どう?」だが、慣習として根付いているとはいえないようだ。
 いつ大地震が起きてもおかしくない日本を早く脱したい。怖くておちおちトイレにも入ってられないなんて悲惨じゃないか。

by ichiro_ishikawa | 2006-05-22 11:30 | 紀行 | Comments(0)  

2006年、ロンドン〜パリの旅・前書き

 ロンドン、パリの2都市は、心の故郷といってもよい。
 10代のころ、この2都市が心の大部分を占めていたことを、おそらく知る人は少ない。ロンドンは、いうまでもなく、ロックの町として。パリは、月並みだけれど、映画、芸術の都として。
 10代とは、紛れもなく、反抗の季節であり、自分の血、性質(たち)から、社会、ひいては日本という国自体まで、とにかく、何もかもが気に入らない。そんなとき、眼前に立ち現われたのが、イギリスのロックとフランスの映画だった。アメリカは日本の宗主国だから、やはり、否定の対象だった。イギリスとフランスは、「日本など眼中にない、存在すら知らない」、そんなスタンスで居るように思えた。そこが、気に入った。
 ロンドンの曇天、デヴィッド・ボウイのステップ、スミスのジョーク、パリの石畳、ジャン=ピエール・レオーのバゲッツの切り方、ベルモンドの紫煙、ポイ捨て……おお、イギリス! おお、フランス!
 俺は、イギリスとフランスへ行くことを常に夢想していた。ローティーンのころ夢中になっていた日本のロックは、アメリカとイギリスの音楽の物まねだと気づき、精神の拠り所だった日本の近代文学のお手本はフランスにあったと知った。娯楽映画に閉口していたとき、フランス映画の芸術性に酔いしれた。俺は、核(兵器ではない)を持たず、日和見な日本の性質を、嫌悪した。今でもポンドを貫くイギリス、英語やハリウッドに背を向けるフランスという2国に、「孤高」を読み取った。読み違えかもしれない。だとしたら、俺は35歳にならんとしてる未だに読み違え続けていることになる。

 大学に進んだのは、イギリスとフランスへ行くためだった。往復だけで24時間かかる以上、数日の短期旅行というのはもったいない、ありえない。4〜7月、11〜1月にバイトをし8〜10月の夏期と2〜3月の冬期の長期休暇を利用して、2〜3ヶ月のヨーロッパ滞在を数回行った。金はないから、1000円以下の宿に泊まり、1日の生活費はずばり上限1000円。ロンドンとパリは日本より気持ち物価が高めだから、ホテルの朝食をウッというほど食い、さらに余ったパンズを大量に盗みバッグに押し込んで昼食に充てる。夜はスーパーの総菜、といった塩梅で、たいがい帰国後は10kg痩せている。特に名所にも足を運ばず、ただひたすら石畳をブーツで叩きながら町を歩く。夜はクラブで音楽を全身で浴び…、今考えると何も面白くない、そんなことで十分満ち足りていた。

 パリは、心は開かないが基本的にストレンジャーに対してはウェルカムというスタンス、町並みは整然として美しく、至る所に「美」が散在している。優しく美しい憧れの女の子のようだ。フランス語という言葉は、何かふざけているようで妙に心地よい。ボンジューとかムッシューとか、ボクーといった、「おちょぼ口終わり」も愛嬌がある。飯は、不味かった試しがない。レストランにはもちろん入らないので、町中の売店でバゲッツを買うのだが、その信じられない美味さに発狂して、売り子の頭をバゲッツで殴りそうになることもしばしば。ただ、長期滞在していると、居心地が悪くなる。女の子の部屋はワクワクするが、最終的に落ち着かない。
 ロンドンは予想以上にタフな町だ。初めて行った時は、入り口が分からないまま帰国した。2回目は入り口を見つけたものの門前払いを食った。3回目でようやく中に入ることが出来、4回目でようやく楽しめた。メタファーを弄せば、そんな感じだ。
 飯は大雑把で工夫がなく、歴史的名所を除けば、町は総じて汚い。毎日、どんよりと雲っていいて、しばし雨が降ってくる。人々は、クールすぎる。パリも心は開かないが笑顔はよこす。ロンドンは、目も見やしない(だが、いったん心を開くと、その奥には熱さと優しさがあることに気づく)。そして背がでかすぎる。平均的な女性が180cm、2mの男なんてざらにいる。ブリティッシュ英語は、tやsの摩擦音の強さ、促音便(小さい「つ」)の強烈さが、硬質感を助長する。
 そんな中の一筋の光が、公園と粋なパブ、そして、超ハイクオリティのクラブ文化である。音楽が町中に溢れ、ベースラインが極めて高い。なにも楽しみがない分、ここに全ての力が注がれているのやもしれぬ(衣食住が充実しているパリには、だからロックがない)。初めてクラブに出向いた91年は、ストーンローゼズ、ハッピーマンデーズといったマッドチェスターの喧噪が落ち着き、アンダーワールドやケミカルブラザーズが地下で蠢きだした時で、新しいテクノの波がシーンを覆っていた。ビートルズ、キンクス、ザ・フーといったR&Bベースのギターロック、スウィンギン・ロンドンの流れも健在で、デヴィッド・ボウイ、ロクシー・ミュージックから、U2、スミス、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインら同時代のものまで、どこに行っても好きな音楽が聴けた。フロアの人間はみんなモデルの様で、ポール・ウェラーやケイト・モスみたような輩が踊り狂っている。観光名所では決して見かけない生粋のロンドンっこでごった返していた。そんな中、ふと自分をみると、そこにいるのは黄色い猿以外の何者でもない。日本に居る頃、「周りは全部クソダせえ、俺はスペシャルな存在だ」といきがっていた自信は、このとき全部崩れた。初めてのロンドンは入り口が分からないまま帰国したと前述した所以は、概ね、この無念による。

 2001年、30歳で5年勤めた会社を退職したとき、わずかな退職金をすべてつぎ込んで、またしても、ヨーロッパに飛んだ。365日、ほぼ休み無しで働き続け、木を見てばかりで森が見えなくなっていたということ、最後の長期休暇というてめえの中での決定、そして、淡いノスタルジーのためだ。
 やはりそれまでと同じ貧乏旅行でユースホステル泊まりだったが、決定的に違ったのは、「俺はもはやユースではないつけ!」という事実だった。今までのように若者に、町のユースカルチャーに溶け込めない。みんな青く瑞々しく、前途洋々で希望に満ちあふれている。俺はと言えば、「ここ行ったな〜」とかただただセンチメンタルでノスタルジア。特に何の感動もなく、すべての行動が大人で、スムースに事が運んでしまう。そして、何と言っても、「1人」が淋しくてしょうがない。友達も出来ない。たまに仲良くなるのは日本人。しかも「そうっすね〜」と敬語を使われる。そう、俺はいつのまにか「おっさん」になっていた。おっさんの一人貧乏旅ほど残念なものはない。周りにもいらぬ気を遣わせる。
 次に旅をすることがもしあれば、これまでと全く違ったものになることだろう。「もう俺はユースではない」。30の旅の通奏低音には、この無念がある。
 
 そして、5年後の2006年、復職し4年経った俺は、奇跡的に旅行の機を得た。
 

by ichiro_ishikawa | 2006-05-13 18:27 | 紀行 | Comments(2)