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黒光り礼賛


月刊PLAYBOYで黒汁特集

 ロックンロール・ブックとうたいつつ、ジャズとかブラック・ミュージックばかり取り上げているが、実のところ、最近、ロックでガツンとやられることが殆どなくなってしまっている。文を書くモチベーション、根本の理由は、「分からないから考える」であって、クワッとくる感動や衝撃を、言葉に整えて形を与えるというのも、「分からないから考える」ことの具体例に過ぎない。
 ロックンロールは相変わらず自分の核であり、揺らぎはまったく無いのだけれど、それがもたらす感動や衝撃は長年の付き合いということもあり、「考える」までもなく自明のこととして心に常にあり続けている。
 2007年になり、「90年代」というものが少しずつ対象化できるようになった昨今、レディオヘッドやベックまでを、ビートルズ、ストーンズなどに代表される「ロック・クラシック」という同じ俎上に乗せてみる。つまり30年後の視点でロックを眺めてみると、傑出してくるのは、月並みな、極めて想定内の結果だが、ザ・ローリング・ストーンズ(60〜70s)だ。その辺のことは別の機会で改めて検証していきたい。

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 現在発売中の『月刊PLAYBOY』9月号を購入した。『月刊PLAYBOY』は、ちょくちょく音楽特集をやっていて、その中身も、ライフスタイルやファッションとしてのそれでなく、音楽そのものにスポットを当てているのがいいし、また、ウッディ・アレンやピーター・バラカンの連載を持ち、数あるオッサン雑誌の中でも、相対的に秀でた質を保っていると日頃からやや感じていたが、所詮、一般誌、通り一遍のことしか書いていないので、購入することはこれまでなかった。

 話はずれるが、昨今のオヤジ雑誌のダメぶりはどうだ。「モテるための」を露骨にうたうことが画期的と思い込み、「ちょい不良(ワル)」に代表される低級なキャッチコピーに悦に入り、オヤジのカッコ良さについて完全に誤ったというか、80年代のマガジンハウスブームから一切変わっていない、最低にカッコ悪いカッコ良さを追求しているメディアのなんと多いことよ。やや若者向けだが『Rolling Stone日本版』にも弱る。米バックナンバーのインタビューなどは当たり前に秀逸なものも多いが、日本版独自の特集がひどすぎる。ロックをなめているとしか言いようが無い。
 「オヤジ」自体が、そもカッコいいものじゃないので、どうやったってカッコ良く見せるのは困難なのかもしれない。オッサンと若者、どちらがカッコいいかといったら若者に決まっているじゃないか。オッサンのカッコ良さとは、渋みとかいぶし銀とか、知性、ユーモアといったところだろうが、それらはすべて内面、精神の成熟であって、そうしたものを打ち出すならば、ファッションやライフスタイルではなくて、文学や映画、音楽などの芸術、哲学に向うはずだ。タチが悪いのは、そういうものも「これを読んでいると、知っているとモテる」というカッコ悪い手つきで扱っていることだ。
 また、40代とかになると、「自分のため」から「人のため」に、考え方がシフトして来るから、そうなるとここで初めて政治や国際関係、医療・福祉など生活に関わる問題意識も本来の意味で目覚めて来るので、そこら辺への切り込み方も問題になって来る。
 そうしたところをクリアしている秀逸なオッサン・メディアは『en-taxi』、『SIGHT』だと思う。やはり作り手の覚悟の問題だろう。「モテる」と「考える」、どちらが重要か。人それぞれと言えばそれまでだし、並列に考えることがそもおかしい、問いの立て方が粗雑なのかもしれないが、いい年かっぱらって「こうすればモテる」みたいなことを追いかけている様は醜悪で見るに耐えない。というか、「どうすればモテるか」をそんな年で考えているようでは絶対モテない。10〜20代に考え尽くされるべき命題だろう。何ごとにも時機というものがある。

 ちょっと寄り道するつもりが思わず長くなったが戻す。
 現在発売中の『月刊PLAYBOY』9月号、決死の購入に至ったのは、ピーター・バラカンのナイル・ロジャースへのインタビューが至極秀逸なのと、付録でピーター・バラカンが選ぶブラック・ミュージック100選という冊子がついているのが決め手だった。c0005419_143857.jpgピーター・バラカンは自著「魂(ソウル)のゆくえ」をはじめ各所で散々、そういうことをやっていて、ここでも同じことをやっているに過ぎないが、CDというのは古いものでも、時が経つとベストが出たり、未発表トラックが発掘されたり、あるいは廃盤になったりで、ディスクガイドというのはある程度の年ごとに改訂する必要があるのだが、今回の付録は「黒皿名盤 最新市場情報」という意味で重宝する。惜しいのは、すべての解説をバラカンがこなしているわけではないこと。ジャズが省かれていること。あとやはり、媒体の特色上、ブラック・ミュージックの経験値があまり高くない人向けに作られていることで、プラスアルファに乏しい。まあこれはしょうがない。
 とはいえ、この媒体ならではのことでいえば、金を惜しまずバンバン通信社から買っている写真がいい。紙もいい。さらに、鮎川誠、鈴木雅之へのインタビューも載っている。大出版社がやることは派手でいい。が、何度も言うが当たり障りが無い。ブルース・インターアクションズあたりに巨額の資金を預けて作らせたら、とんでもないことになるだろうに。でもそうすると部数が激減するし、タグホイヤーの広告も絶対入らないから、やはりその辺りの採算合わせのバランスは難しい。

ロックのゴッドファーザー、黒人

 己がブラック・ミュージック初体験は、シャネルズ/ラッツ&スター(80〜)だ。音楽的には歌謡曲、ポップスなのかもしれないが、ブラック・ミュージックというのは基本的にポップスだろう。何より鈴木雅之のボーカルはブラックだ。洋楽ではマイケル・ジャクソンの『スリラー』(83)、プリンスの『パープル・レイン』(83)で、白人ロックと同時に、一緒くたにして聴いていた。つまり白人と黒人を分けて聴くことが無かった。自分がローティーンだったせいもあろうが、時代性もあろう。マイケル・ジャクソンとプリンス以外は、好んで聴いていたのは大抵白人なわけだが、白人を選んでいた訳ではなく、耳に入ってくるのが白人が多かったに過ぎない。前述の2作も、プリンスはともかく黒光り度は弱い。
 そんな中、黒人音楽に意識的になったのは、まず、自分が好きなロックの傾向というものを、分析というと大げさだが、少し自分の嗜好を対象化してみたくなったときだ。
 80年代やや後半、高校時分にLAメタルが大ブームで、周囲のロック野郎にはハード・ロックやヘヴィ・メタル好きが多く、きゃつらに対して、俺がそれらを嫌いな理由を論理的に(心の中で)述べる必要に迫られた。
 「黒くない」という答えを発見した時は悦に入ったものだ。俺が好きになるロックの共通点は、黒光りしていることだった。その直感の裏取り作業の中で、黒汁音楽にどでかい影響を受け、それでも黒人のようにはやれない白人の葛藤から生まれたのがロックだったという事実に行き着いた時は、「リンゴが落ちるとは何ごとか」→「万有引力の発見」という、ニュートンの気持ちが少しわかったし、「ユーレカ!」と叫んで息絶えそうになった。
 ロックの陰に常に黒汁出しまくりの黒人がいることは、ジャガーやレノンを筆頭に白人ミュージシャンのフェイバリット・リストを眺めれば一目瞭然で、特にイギリス人に多い。今回のPLAYBOYの記事でも大鷹俊一が書いているようにモッズはその代表で、ザ・フーやスモール・フェイセズ、ポール・ウェラーを絞ると、黒汁がどんどん溢れ出してくることとなり、彼等こそ俺の黒汁案内人であった。
 ピーター・バラカンもその一人だ。60年代のロンドンで少年期を過ごしたバラカンは、当時のロンドン子のご多分に漏れず黒光り音楽に夢中になった。そうした説得力が日本人の批評家と違うところで、彼の書く黒汁本やテレビ、ラジオ番組、講演は、至極秀逸なのであった。ロックの渋谷陽一、ブラックのバラカンというのが、音楽批評界における俺の指針であった(ロックに関しては、渋谷離れ、ロッキング・オンからミュージック・マガジンへのシフトが最近は進んでいるが、これも別の機会にまとめる)。

c0005419_14373549.jpg そんなピーター・バラカンが8月25日(土)に、池袋の「マイルス・カフェ」で、今回のPLAYBOYの特集を受けたトークショーを行なうので、これは行かざるを得ない。

 また、先日、「アトランティック・レコード:60年の軌跡」という秀逸なDVDも出たので、買わざるを得ない。アトランティックについては、本ブログのココに詳しい。

by ichiro_ishikawa | 2007-07-27 13:19 | 音楽 | Comments(0)  

ハワイと俺


 〜と俺シリーズ完結編、ハワイと俺。すべてはこの前フリだったことに気づくのは良いことだ。ただし、極めてプライベートな駄文なので、気分を害したくない人は読まぬがいい。

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 ハワイはいい。
 陽気がすげえ。海と空はあええし、場合によってはエメラルドグリーン。
 人間も陽気でいい。ホセに会いに行ったジョーがはしゃぐのも分かる。

 95年、23歳のときに勤めていた会社の社員旅行で、初めてハワイへ赴いた。
 初ハワイにして、初海、もっと言えば初空だった。
 その頃は、かなりロックの最中、地下室の実験はまだ終わっていなかったため、「ハワイ」「社員旅行」というタームとは相容れない俺だったが、ただで(実は、てめえの積み立て金という世の陥穽)行けるとあって、ホイホイとついていった。
 さすがに革ジャンは着て行かなかったが、ブーツで行ったのは失敗だった。俺があちいのは全然いいのだが、見た目があちい。ブラックコーデュロイジーンズもいただけなかった。これも俺があちいのは全然いいのだが、やはり見た目があちい。人が迷惑するという視点が欠けていたのやもしれぬ。ああいうところは、短パンでトンクタップかアロハにビーサンだ。百歩譲ってブルージーンズにスニーカーだ。 
 そんなわけで、海と空と陽気の凄さにはかなりやられていたのに、当地では夜の街しか満喫できず、「いつかまた来てやる、的確な装備で」と密かに心に誓っていた。

 12年が経ち、身内の挙式で、再びハワイに行く機会に恵まれた。「もはやTシャツに短パンでも俺ならロック」という域まで達していたので、「的確な装備」にも迷いはない。
 ただ高齢で足の不自由な親連れということで、介護ツアーの様相を呈していたが、かろうじて海と空は満喫できた。
 雲と太陽を観ながら、海にずっとプカプカ浮かんでいた。
 海にプカプカ浮かぶというのは最高だ。
 ビーチですやすや寝込むのもいい。
 至福のひとときだ。

 とはいえ一番の収穫は、初海外の親が、体が不自由ながら、元気に走り回っていたことだ(車椅子で)。また、花飾りを髪に付け、花輪を首に巻いた母親が悦に入って心底喜んでいた(ように見えた)ことだ。三兄弟+両親という五福星が、20年ぶりぐらいに揃って数晩をともに出来たことが何よりだった。
 


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花をまとうことに異様な執念を燃やしていた
悦のマザー(老婆)

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夜の街ではしゃぐ車いすのファーザー(天然アルツハイマー)

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ホテルではしゃぐファーザーと彼に閉口するマザー

by ichiro_ishikawa | 2007-07-25 02:30 | 日々の泡 | Comments(2)  

ジャズと俺

 ジャズはたまに聴く音楽だった。

 ルイ・マル『死刑台のエレベーター』のマイルズ・デイヴィス、ジョン・カサヴェテス『アメリカの影』のチャールズ・ミンガス、チャーリー・パーカーの伝記『バード』、ジャズフェスティバルのドキュメント『真夏の夜のジャズ』など、映画から入った。
 つまりサウンド・トラックだ。劇中で流れる音楽の秀逸さは認められたが、それよりも、それらを散りばめた監督あるいは映画そのものの方が重要で、ジャズがジャズそのものとして胸に刻まれたわけではなかった。ロックが生き方そのものに圧倒的な影響を及ぼしてきたのに対し、ジャズはやっぱり環境音楽、趣味の音楽に過ぎなかった。ロックは文学や映画と同様、どう生きるかにかかってきていたが、ジャズは衣食住、つまり生活の糧でしかなかった。

 それがここ数ヶ月、ジャズしか聴いていないのはなぜか。
 いよいよおっさんになったのか。
 元々、ジャズの気配は常に気になっていた。マイルズの『ビッチェズ・ブリュー』『ジャック・ジョンソン』などエレクトリック・マイルズは十分ロックの耳にも響いたし、ヒップホップに引用されるファンキー・ジャズ、ソウル・ジャズの類い、ソニック・ユースの流れでのフリー・ジャズも、ロックとして聴けた。普通に、カッコいい、と。
 また、バンバンバザールの影響で、ジャイヴ、ジャンプ、スウィング、ジャズコーラスの類いもルーツ・ミュージック的に、ロックの魂には容易に響いた。ただ、前述した通り、たまに聴いて「うん、いいじゃん」という程度で、「でも俺はロックだけどね」という注釈が常にあった。
 だが今の、ブームを超えて、自分の核となりつつあるジャズは、いわゆるストレート・アヘッドな4ビートのモダン・ジャズ、とりわけビ・バップ、ハード・バップである。バラッドはちょっとかったるく甘っちょろい気はいまだするが、アップテンポのビ・バップは、非常にスリリングで奥が深く、「鑑賞」に長く耐え得るものだ。このスリルと高揚感、奥深さは、ロックとは明らかに異なる質のものである。ティーンエイジャーでこの世界にハマってしまうと、ジャズ一辺倒になるのは凄く分かる。

 ドラム。ロック・ドラムを中上健次が「太鼓ドンドン」と揶揄したように、ジャズのドラミングは、リズムを支える一方で、まるでメロディを奏でんとしているかのように心地よく面持ちを変えながら、繊細に鳴り続ける。ベースは、ひたすら4ビートで、ウォーキング・ラインを刻み続ける。縁の下の力持ちに徹するそのストイシズムがいい。そのラインはロック・ベースではちょっと考えつかない不思議なものだ。クロマティック・スケールというやつなのか知らんが、とにかく一聴して掴みきれるものではない。その上に乗るのが、ピアノやサックス、トランペット、ギターだが、オーソドックスなビ・バップ・ジャズでは、まずテーマが全体で演奏され、あとは、あるコード進行に乗っ取って楽器ごとにソロ回しが行なわれる。時に応じて、ソロを取っていないときの楽器は、ソリストに間の手を入れたり、フレイズの応酬が繰り広げられる。それらは無論、アドリブであり、ライブはもちろん、スタジオレコーディンクでもテイク毎に全部違う。その、メロディ、コードの崩しや、相手の出方や己が気分によって瞬間瞬間に如何様にも表現されるその演奏は、本当にスリリングなのだが、何と言っても、そのメロディというか、音のラインが素晴らしいのだった。
 ドラムとベースをベースに、その上を自由に泳ぐウワモノは、ロック(ポップス)のプロデューサーは絶対許さないであろう、耳慣れないフレイズを連打していく。そのおかしなメロディ・ラインと分かりにくい構成、一定のアクセントの無いドラムとベースが、ロック/ポップス・ファンを遠ざける理由であろうが、ここの気持ちよさにピタッとハマるとそれが一気に反転して、これぞジャズ!という、興奮が沸き立ってくるのであった。そうなると、人間の歌声や、ロック/ポップスのありきたりなメロディとか音色、リズムが、まるで童謡のように感じられ、まったく聴く気がしなくなってしまう。
 
 97年、あるジャズ評論の大家に、今のロックの凄さを見せつけようと、当時お気に入りだったレディオヘッドの『OKコンピューター』を聴かせたことがあったが、氏曰く「ビートルズみたいだ」と一蹴された。その時自分は、「ビートルズはそりゃ根本にはあるが、そこからかなり深化している」と思っており、氏の年齢から来る頭(耳)の硬直化に飽きれていたのだが、今思うと、氏の「ジャズ」をベースにすると、なるほど、ロックが全部ビートルズに聴こえるというのは真実に思えるのであった。あれは耳、感性の問題ではなく、単なる音楽的な事実だった。逆にロックの耳からすると、ジャズは全部同じに聴こえるのではないか。
 ロックとジャズは、同じポップ・ミュージックとはいえ、何もかもが逆を向いているのだ。リズム、メロディ、ハーモニーといった音楽的要素から、ミュージシャンの態度まで、まったく逆だ。同じブルースを父に持つ、(モダン・)ジャズとロック(R&B、ソウル)は、生き別れた兄弟であり、まったく違う道を歩んでいる。
 
 オッサンになったとは人に言われるまでもなく自分でも感じるが、36には36でしか味わえないものが確実にあり、ここをよりよく味わうことが、今はスリリングで楽しい。逆に今、ジャズが分かってしまった耳で聴く、秀逸なロックは、さらに一層輝きを増して眼前に迫ってきていることもまた事実なわけで、俺はいま実は、アーチー・ベル&ザ・ドレルズの「Tighten Up」で腰をくねらせながら、これを書いている。


マイ・今のヘビー・ローテーション・ジャズ、この10枚(年代順)

c0005419_23111834.jpgNow's The Time / Charlie Parker 1949年
チャーリー・パーカー(as)、ハンク・ジョーンズ(p)、アル・ヘイグ(p)、テディ・コティック(b)、パーシー・ヒース(b)、マックス・ローチ(ds)

ビ・バップの祖、バードことパーカーの代表作。ディジー・ガレスピーとの『バード&ディズ』と並ぶ名盤で、もの凄い勢いで繰り出されるビ・バップ・フレイズの連弾がすげえカッコいい。

c0005419_23281896.jpgGroovy / Red Garland Trio 1957年
レッド・ガーランド(p)、ポール・チェンバース(b)、アート・テイラー(ds)

今春、小樽を旅した時、ふと入ったジャズ喫茶の名は「Groovy」。言わずと知れた名盤だが、その喫茶店のすげえいいスピーカーで聴いた4ビート・ジャズがすげえ良くて、俺のジャズ・ハートに火をつけたのだった。

c0005419_23275640.jpgWay Out West / Sonny Rollins 1957年
ソニー・ロリンズ(ts)、レイ・ブラウン(b)、シェリー・マン(ds)

ロリンズの明るさが俺は好きだ。ジャズは難しい顔をせず笑顔で楽しく聴きたい。1曲目の「俺は老カウボーイ」は、バンバンバザールのカバーでもお馴染み。

c0005419_23273188.jpgGiant Steps / John Coltrane 1959年
ジョン・コルトレーン(ts)、トミー・フラナガン(p)、ウイントン・ケリー(p)、ポール・チェンバース(b)、アート・テイラー(ds)、ジミー・コブ(ds)

コルトレーンはモードやフリーよりもマイルズとやっていた頃や、ストレートアヘッドの頃が実はいい。本作は非常に黒く楽しい。

c0005419_23134410.jpgFull House / Wes Montgomery 1962年
ウェス・モンゴメリー (g)、ジョニー・グリフィン (ts)、ウィントン・ケリー (p)、ポール・チェンバース (b)、ジミー・コブ (ds)

まさかあれほど蔑視していたジャズ・ギターを聴くことになるとは。本作はライブ盤で、全演奏者がすげえいい。聴きながら「ほれ次お前ソロやれ」と渡されたらどうしようと、いつも緊張してしまう。

by ichiro_ishikawa | 2007-07-21 22:25 | 音楽 | Comments(0)  

文学と俺


 ふだん四六時中人殺しをしていると、MBO(マネジメント・バイアウト) だとか、IRだとか、株価指数連動型上場投資信託だとか、逆指し値注文だとか、減価償却だとか、ドバイ原油だとか、日銀短観だとか、そういうことばかり考えざるを得なく、勢い読む本や雑誌も、「デフレの経済学」、「円安再生―成長回復への道筋」、「金融政策の論点―検証・ゼロ金利政策」、「週刊東洋経済」、「日経ビジネス」、「日経ベンチャー」、「日経ビジネスアソシエ」、「月刊Forbes」、「起業塾」、「投資経済」が主になってくる。
 すると当然「こんなことしてる場合じゃない」と例の異様な危機感が迫り来る。今年の春までだったらコンビニに駆け込み「週刊新潮」の1ページを貪り熟読玩味することで精神の平穏を保っていたのだが、それももはや出来なくなった今、真っ先に自宅へ戻り、書斎へ駆け込み、クリプシュのスピーカー&デノンのアンプでレッド・ガーランドの『Groovy』を流しながら、神棚を眺める。
 小林秀雄と池田晶子をメインに、森鴎外、夏目漱石、志賀直哉、菊池寛、芥川龍之介、太宰治、谷崎潤一郎、永井荷風、中上健次、埴谷雄高、辻邦生、フョードル・ドストエフスキー、レフ・トルストイ、アレクサンドル・プーシキン、ニコライ・ゴーゴリ、アントン・チェーホフ、イワン・ツルゲーネフ、オスカー・ワイルド、チャールズ・ディケンズ、サマセット・モーム、D・H・ローレンス、トーマス・マン、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、エドガー・アラン・ポー、アーネスト・ヘミングウェイ、ジャック・ケルアック、F・スコット・フィッツジェラルド、ガブリエル・ガルシア=マルケス、アルベール・カミュ、ジャン・ジュネ、エミール・ゾラ、オノレ・ド・バルザック、マルセル・プルースト、フランツ・カフカ、ミラン・クンデラ 、ジョン・キーツ、ウィリアム・バトラー・イェイツ 、中原中也、富永太郎、萩原朔太郎、シャルル・ボードレール、アルチュール・ランボオといった名前を見つけ安堵する。

 かといって、それらを読むわけではない。とりあえず名前を見つけてほっとする。それらは既読とは言え、情報ではなく言霊だから、熟読を要する。読むとなるとそれなりの覚悟と準備がいる。とりあえず風呂に入り、和服に着替え、スカッチのロックを用意して、出窓から月なり星なりが見える位置に鎮座し、しばし瞑想する必要がある。つまり読む前にこ一時間を要する。
 しかも俺は読むのが遅い方で、1ページ1分かかるから、200ページだと3時間以上かかる。しかも途中でクワッとなると、その都度しばらく放心してまうし、ほとぼりが冷めるとその足で伊東屋の手帳に抜書きをするからいよいよページは進まない。つまり一冊、一日の大仕事なわけだ。それはまあいい。問題は、よしんば完読などしてしまおうものなら、18世紀のフランスの農園を出ることがいよいよ名残惜しく、30年来の持病「あした学校行きたくない病」が発症することだ。
 齢36にしてまだ人見知り&対人恐怖症が治らない俺は、いわゆる社会という場所へ出て行くのが怖くてしょうがない。ひとりで道を歩いているときはまだいいが、知人に出くわし「よお」的な挨拶が始まるや否や極度の緊張が全身に走り、急いで「他者と対峙」フォルダーから適当な仮面を探し、付け、的確な言葉を見つけ、声帯を震わす準備をして、息を吸い込み、「よお兄弟、どう?」と発語する。一度発語すれば後は野となれ山となれでずっと演技を続けられるけれど、そこに至るまでの緊張感といったらない。魂の読書をすると、社会復帰がいよいよ危ぶまれるわけである。

 話が逸れたが、神棚を眺めて俺はこう漏らす。
 「なんだかんだ言ってやっぱり文学だな、人間に必要なのは」。
 ドバイ原油よりもジョハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの一言の方がどう考えたって大事じゃないか。
「東証大引け・4日ぶり大幅反発――米株高好感で上げ幅200円超」という情報でヴィヴィッドにアクションを起こすより、「見渡せば 花ももみじもなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」という一句にジンと来てボーッとしている方がやっぱり大事じゃないか。何も生まないけれど確実に何かが生まれているじゃないか。
 「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(新約聖書 マタイによる福音書)、とはまったくその通りだな。

 梅雨の休日、池田晶子最新刊「暮らしの哲学」を読みながら、無常といふことを思う。

by ichiro_ishikawa | 2007-07-16 20:25 | 文学 | Comments(1)