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緊急告知



バンバンバザールが地上波進出!!

10月17日(金) テレビ東京系
「たけしの誰でもピカソ」に出演!!
「綾小路きみまろ」専属キャバレーバンドとして!
バンバンバザール・デラックスの演奏が日本全国に響き渡る!

オフィシャルHP
※やや詳細は、左ナビの「ON TV」のバナーから。

リリー・フランキーが200万部売れる昨今、
バンバンバザールも普通に100万枚売れていい。
こんなにもロックで、趣深く、奥ゆかしくありながら、
ブタ野郎にも遍(あまね)く受けるという奇跡を果たせるのは、
もはやリリーとバンバンだけ!!

あ、リリー・バンバンというユニット、ありだな。
両者共に若干交流がある俺が、
シャイネス・オーバードライブでなかったら、
プロデュースするんだがなあ。
運命は性格にあり(ヘラクレイトス)。


ボウルでゼリー
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盛り場に出て行こう
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新宿駅で待ってた
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ハミーゴ! No アミーゴ
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by ichiro_ishikawa | 2008-10-16 03:32 | 音楽 | Comments(0)  

ある夜の修羅場


 男の豪華ディナーというと、普通は、コンビニの弁当かパスタかの2択なわけだが、
俺ともなると、おにぎし2個と「からあげクン」のセットという独自メニューをもっているから、選択肢も潤沢なわけだ。この組み合わせが、腹の足し的にも美食的観点からも大いにアリである事に気づいている人はそう多くない。
 この日も、俺には「3」択があったわけだが、めぼしいパスタも弁当もなかったため、その「黄金のセット」に及ぶことになった。
 注意しなければならないのは、あまり時間が遅いと、からあげクンが切れている事がままある、という事。
 レジ横をチラ見すると、3個ほど残っている。俺はおにぎしの具ナンバーワンであるこんぶと、第2位であるところの明太子のおにぎしをわしづかみにすると、勇んでレジに持っていった。
 話はやや思い出横町に逸れるが、レジ横商品を購入する際、そのアナウンスのタイミングはなかなかどうして難しい。店員がバーコードをひと通りなぞり終わるのと、合計金額を告げてくるその微妙な合間に、「あと、からあげクンを」というセリフを滑り込ませなければならないのだ。早すぎても遅すぎてもダメだ、コンマ数秒のタイミングが命である。
 とはいえ、タイミングの良さで食っている俺ともなると、そんな所作はもはや容易い。問題は「あと、からあげクンを」の「を」にある。
 常に、最小限の文言で己が意志を正確に伝える事にエネルギーを費やす俺が、この「を」にたどり着くまでの道のりは決して短くなかった。「○○をください」だとやはり長いし、いささか丁寧すぎる。「○○」と商品名だけ言うのも店員に威張っているようで、品格を貶める。そうした模索の末たどり着いた決まり文句が「○○を」なのであった。威圧的でもなく、へりくだり過ぎもせず、若干ハードボイルド、という絶妙な発明なのであった。
 ただし、欠点は商品名が50音でいう「お」の段の言葉で終わるときだ。例えば、からあげクンの中でのぶっちぎりの1位である「からあげクンレッド」。「からあげクンレッドを」というと、得てして「からあげクンレッドー」と聞こえ、店員から、「不用意にオンビキをまぜるチャライ奴」というレッテルを貼られてしまう危険性を常に孕んでいる。この「を」をきちんと「を」と認識させる事は意外と骨が折れるのであった。

 話を明るい表通りに戻すが、なんとこの日は、その「レッド」が売り切れで「レギュラー」と「チーズ」しかなかったのである。なんてことだ! そこまで見てなかった!
 すでに店員はこんぶのおにぎしのバーコード読みに入っているので、このタイミングでパスタか弁当にシフトすることは不可能だ。
「やむをえまい、ほかの味で手を打つか…」
 すでに口が「レッド」を食う体勢に入っていたので、プレーンなレギュラーでは欲求を満たせない、味的には真逆だが、濃い味を欲する俺の口を満たすのはどちらかといえば「チーズ」であろう。そう瞬時に判断した俺は、店員がバーコードをひと通りなぞり終わるのと、合計金額を告げてくるその微妙な合間に、「あと、からあげクンチーズを」と言い放った。そしてその絶妙な間でのアナウンスに満足げな店員が、レジ横の温ものボックスに手を入れんとしたとき、俺はミスを犯してしまった。
「レッドはないもんね…」
 そう発語してしまったのである。
 無駄だった。完璧に無駄な一言だった。あれほど文言を削りに削ってきた俺とした事が、全く無意味な一言を発してしまったのである。合理性の面から言っても無駄だ。レッドがないのは自明だからだ。その証拠に、「あいにく切らしてます」という定型文を誘ってしまった。このキャッチボール、たったの2文とはいえ、まったく無意味だ。切らしているのを俺は知っていた。この時間帯からあげ直すことがあり得ない事も知っていたし、よしんばあげ直してくれるとしても、そんなの待ってられねえ。そこまでして別に食いたくねえ。
 では、なぜ俺はその無駄な一言を発したのか。店員との会話の間が居心地悪かったからか。そんなわけはない。コンビニでの店員と客との会話の間なんてものは無いし、仮にあったとしても、ちぃーっとも気にならない。そも、これは会話なんていう上等なものではない。ただの記号の示し合いだ。
 ではなぜか。なぜ無駄な一言を発したか。
 「こんぶと明太子のおにぎしと、からあげクンチーズというセットが“ベスト”というジャッジを下したが故の今回のセレクトでは決してないぜ」という思いを、やはり伝えたかったのだ。「こんぶと明太子のおにぎしと、からあげクンレッド、これこそが男の黄金のディナーである、ということは知り抜いている、だが今晩は売り切れだから、チーズで妥協している、そういうディシジョンなんだよ」、と。いや、これはどうしても伝えねばならなかった。無駄な一言を発するという愚行に及んでまで、伝えねばならなかったのである。
 笑わば笑え。ただ、男には、口に出しちゃいけねえ事がある一方で、どうしても伝えなければならぬ事、というものがあるのを知っておくのはよい事だ。

by ichiro_ishikawa | 2008-10-15 01:49 | 日々の泡 | Comments(0)  

16歳と俺


 金、金、金。金追いかけたら、一夜にして幸せがすり抜けた。
 追いかけてばかりいるうちに、頭も禿げてきた。

 俺は今「銭儲け」を最大の目的としている組織の一歯車として、組織から金をもらっているため、仕事をするときは、「一挙手一投足はすべて金儲けのため」を信条に、日々、人殺しをしているわけだが、組織で働いている以上、その人間の全言動はその組織の利益に繋がっていくものでなければならないのは、ごく当たり前のことだ。

 ただ、金、金、あからさまに公言するのはみっともないし、また、「本当はやりたくないがしょうがなく」、という心持ちで職務をこなしてると、どうしてもその行為にイヤイヤ感がにじみ出て、結果、成果を残せない。ただしここでは成果をあげる事が最大の目的であるから、その職務中は、やりたくない事を、「どうしてもやりたい事」に精神的に転化させる必要がある。つまり、芝居をうつ必要がある。しかも千両役者でなければならない。本当の顔なぞ間違っても見せてはならぬ。ただ状況によっては、本当の顔を見せているフリは必要だ。大人のたしなみと言えばそれまでだが。

 組織の利益を二の次にして、てめえのやりたいことばかり追求するという、「仕事」と「やりたいこと」を混同する輩がよくいるが、そういう人は、自営すればいいのであり、組織から金をもらっていながら、てめえのやりたいことが実現できなくて愚痴ばかり足れている奴は、何を勘違いしているのだろう。

 やりたくないことをやるからこそ金がもらえる。困難な事をこなすからこそ金がもらえる。やりたいことだけを、楽なことだけをしても、金はもらえない。経営者でなくとも、ちょっと考えればすぐ分かることだ。どこのお人好しが、その人間の「やりたいこと」に金を出すのだろう。
 「それじゃモチベーションがあがらない」? 貴様のモチベーションを高めるために、他人は動かない。組織から外れるがいい。だが自分の看板だけを頼りに自らの手で仕事を取って「他者のために」動けるのか? 無理だろう。だったら四の五の言わず、組織の目的をてめえの最大目的にして、額に汗水たらせ。多少の対価は払ってやるからよ。歩合制だがな。

 労働のバージョンは、二つだけだ。
 ひとつは、てめえのやりたい事が他者の要求に直結して、やりたい事を果たす事が仕事になる。ひとつは、やりたい事が他者の要求に直結しないので、やりたいくないが他者の要求を満たす事をやる。
 前者はほとんどない。一流のスポーツ選手やアーティストとて、必ず「他者の要求」に意識的で、結局、程度の差こそあれ、後者に属する。
 つまり、前者は「天才」で、後世までその名を残すごく一部の偉人だけだ。とすると、我々、普通の人々にとって、労働とは他者の要求を満たす事、これでしかない。

 とまあ、こういう凡庸な事を、俺は高校生の頃から考え続けていて、40近くなった今でも、同じように考えている。要するに、やりたい事をやれていない葛藤を未だに抱え込んで生きている、ということだ。

 ただ、高校生の頃とちょっと違うのは、もはや、やりたい事がなく、やりたくない事だけがある、ということだ。やりたい事と言えば、旅をしたい、音楽をずっと聴いていたい、本を読んでいたい、ずーっと寝ていたい、といった幼稚な、趣味レベルの話だ。
 そうなると、「他者のために」、「やりたくない事」を全うする事で得られる対価というもの、つまり金、これを手に入れる事自体が生きる目的となっていく。

 これはヤバい。周り見てみな。いっぱいいるはずだ、こういう輩が。金が正義のこの俗世で表通りを闊歩している人間が、どんなにスマートなIT長者であれ、「右曲がりのダンディー」の一条まさとのような仕事も遊びもクールにこなす人間であれ、一様に、醜い事を、「俺たち」は知っている。

「あんな大人になりたくない」と肝に銘じたはずが、「あんな大人」になりつつある。
 欲望に流されない、強靭な精神力が必要だ。
 仕事にうつつを抜かしている場合ではない。
 とりあえず、どこから始めよう。聖書でも読もうか。

 一流の書物を読み、精神を陶冶する。それぐらいしか、生きる目的は見当たらない。

 ブログやSNSといういかにも俺が忌み嫌いそうな類いのことを、その当人が4年もやっているのは、媒体は何であれ、「書く」という行為が、それが精神との深い対話であれば、人間の営為のうちで、もっとも精神を鍛え得るものであるという信念に基づく。
 できれば一週間に一度は、その陶冶を意識的に行っていきたい。書くと考えるはイコールだ。大した事しか書けないのは大した事を考えていないからだ。そも、そんな大した器でもないのだから、大した事を考える必要もないのかもしれないが、その陶冶への意志を放棄してしまうと、何か大事なものを失っていくような気がするのである。そんなもの元々ないのかもしれないが、そこがこれからの生命線であるような気がしている。転がり落ちるのは本当に容易い。のぼろうとは思わないが、コケは生やすまい。

by ichiro_ishikawa | 2008-10-13 18:57 | 日々の泡 | Comments(0)