<   2008年 12月 ( 4 )   > この月の画像一覧

 

年末年始の計画


 随筆「年末年始と俺」で幕を開けた2008年のロックンロール・ブック、ユニークユーザー数は1日平均100人、2004年からの累計では8万人を目前にしており、固定客はいるなと、感慨深い。うち顔が浮かぶのは10人ぐらい、あとの80人は通りすがりで、常連読者は20人と推定している。検索ワードは「池田晶子」と「氷室 身長」が常に上位。池田晶子について書く事は俺のライフワークだから、それで引っかかって行き着いてくれる人がいる事は光栄だが、「氷室の身長」に言及した事は一度もない。というか、氷室の身長を知りたい人がなぜそんなにいるか。とはいえ、それを知る事を目的に当ブログに辿り着いても記事のどこにも載っていないことで消化不良を起こしている輩がいると思うと心が痛いので、いまここに記そう。氷室はライブ映像などで見る限り、布袋の隣にいるとすごく小さく見えるが、布袋は2m越えのため、誰が並んでもすごく小さく見えるため、その実身長が分かりにくいのだが、テレビ出演した際の古館伊知郎、浜田や松本との比較から、ズバリ170cm。これは確かだ。

 さて、2008年最後の投稿は、年末年始08/09の計画だ。08年1月に書いた「年末年始と俺」では、計画を立てずにだらだらと過ごしてしまった猛省をつらつらと述べたが、二の轍は踏まぬ。前回の時点で既に二の轍どころか36の轍を踏んでいるのだが、今回こそは、ついに、1年でもっとも輝かしい年末年始を充実させんとす。

 とはいえ、すでに27(土)〜30(火)まで無駄にしてしまった。この4日間でいかにいろいろな事ができたはずかを思うと、その後悔の念だけで、年越しをしてしまいそうなので、これから1月4日までの5日間に賭けるために、がっつりと予定を立てておこう。

12月31日(水)
今日で1年が終わってしまう事を悔やむ。来年で38になるという驚愕の事実を直視する。早く随筆家になるために何をしたらいいか考える。

1月1日(木)
競馬予想で食うためのスキームを確立させる。まだ4日も休みがある事を喜ぶ。

1月2日(金)
休みがあと3日しかない事を焦る。

1月3日(土)
休みはあと2日あるが、よく考えたら普通の土日じゃん、という世の陥穽を見抜く。

1月4日(日)
憂鬱。心の旅に専念(心の旅とは、小学校の頃から「明日学校に行くたくねえ病」を患っている俺が、毎長期休暇の最終日に心を落ち着かせる治療の事)。

by ichiro_ishikawa | 2008-12-31 00:47 | 日々の泡 | Comments(1)  

幕末と俺


 ペリー来航から西南戦争まで、19世紀半ばからの日本の約20年はとんでもねえ。その後もとんでもねえが、まずこの20年はとんでもねえ。アメリカは南北戦争の頃で、ブルーズはまだ誕生していない。いや、日本でも小唄みたいなものは歌われていたみたいだから、記録に残っていないだけで、誰かがブルーズをやっていた可能性はある。ただ、今回はその話ではない。

 俺が大の歴史好きであることは、いまさら言わずもがな、俺検定初級程度の知識だろうが、歴史について他者とああだこうだ話し合おうとすると、特に婦女子には「勘弁してよ」的な態度を取られることが多い。とはいえ、歴史は「思い出す」というポジティブな行為であり、過去の人間を思い出すことによって彼らを今に蘇生させ、逆説的に今を知る、そして、自分を知ることに他ならないわけで、本来、男も女もない、人間の普遍的な興味であるはずだ。小林秀雄は、歴史を「子供を失った母親の悲しみに似ている」と、ズバリ言っている(参照、歴史について)。うんと端折って「おいお前、歴史は悲しみだぞ」という切り出しで話そうする俺のやり方がまずいのやもしれぬ。あるいは、俺の語り口調や風貌、高圧的な態度がまずいのやもしれぬ。俺としては、歴史の話は「一郎石川のすべらない話」的な一撃必殺トークなのだが、誰も聞いてくれないので、今ここに独白するっていう寸法だ。

 ここ数年、昭和史を比較的丹念に読んで/考えてきていたが、この年末、ついに幕末/明治維新に及んだ。
 今年の秋、当ブログで「歴史と俺 プロローグ」を発表した際、「建武中興なら建武中興、明治維新なら明治維新という様な歴史の急所に、はっきりと重点を定めて、そこを出来るだけ精しく、日本の伝統の機微、日本人の生活の機微にわたって教える、思い切ってそういう事をやるがよい」という小林秀雄の言葉の引用で締めたが、いつかは「建武中興」と「明治維新」という歴史の急所にはっきりと重点を定めて、そこを出来るだけ精しく、日本の伝統の機微、日本人の生活の機微にわたって考えたいと思っていて、今回はまず後者をとりあえず、精しくやった次第だ。

 今回あたった書は半藤一利「幕末史」(新潮社刊/08年)。半藤は、昭和の歴史をグワッと考えたときに最も多くあたった人で、そろそろ幕末/明治維新を生きたいと思っていた矢先、さすがのタイミングで新潮社が上梓してくれた格好になった。本書は語り下ろしというのがいい。研究書の類いは教科書みたいで読みづらいし、歴史小説は逆にエンターテイメントの要素が無理矢理入っているから、単純に史実を知りたい者にとってはちょっと楽しめない。
 また、この手の書の場合、著者の立ち位置というものがすごく重要だ。本書は著者自身も作中で明言しているが、幕府を倒した薩長軍、維新軍を悪者扱いという立場をとっている。俺は、中立という一見もっともだが実は中途半端なだけの立ち位置が好きではない。書き手の顔が分からない、感情がないからだ。人間が何かを言う、そのときに中立、客観というのはあり得ない(もちろん、感情だけ、考え抜かれていない感想文などは論外だ、一番くだらねえ)。どっち寄りであろうが、誰に肩入れしていようが事実を歪曲していなければ関係ない。むしろ、立場が明快であるということは心がこもっているという事だから、信用がおける。読後、俺がどっち寄りになるかは、俺次第だ。著者の思想は関係ない。
 では、俺はどう思ったか。一言で言えば「西郷隆盛か…」だ。佐幕派、倒幕派、どっちでもよい。それぞれの個々の人間の運命を思い知ったまでだ。西郷隆盛、坂本龍馬、勝海舟あたりの生き様にはやはりグッときたが、大久保利通、木戸孝允、山県有朋、伊藤博文、岩倉具視、みなそれぞれがそれぞれの運命を背負って生き、死んだ。俺の今は、確実にそこから続いている。
 とまあ月並みで、どの時代の歴史であれ、思い至ることにやはり思い至ったわけだが、つまり、ああ人間…。ああ時代…。ああ人生…。ということだ。
 余談だが、俺は勝海舟だ。

 次は「建武中興」に行く予定だが、その前に、もうちょっと幕末/明治ものをひもときたい。また、その時代を描いた鴎外、漱石、芥川、荷風あたりの文学にも触れておきたい。

by ichiro_ishikawa | 2008-12-30 15:59 | 文学 | Comments(0)  

ザ・スミス続報


 The Smithsの7インチシングルBOXの発売を指折り数えて待っている輩は日本に数十人はいるはずだが、明日届くはずだったそのBOX、発売延期になったとAMAZONからメールがあった。小学校のときから毎週憂鬱な日曜夜、本日だけは明日を迎えるモチベーションがややあっただけに余計、テンションがグッと下がった。
 ちょっと前には、「価格が上がったのでとりあえず予約取り消します」的なメールも来て、再購入の手続きをとったばかり。さすがすんなり行かないなモリッシーは…。飛行機がこええと言って来日フェスもドタキャンするぐらいだから、慣れてはいたが、久々で油断していた。
 まあ、とはいえ実は中身そのものは別にそんなに楽しみではない。かつて愛した人からの久々の手紙みたいな意味合いなわけだ。それを手にすることでロックのソウルを持続させようというわけだ。本来、意識的に持続させようとするようなものではないのだが…。スコセッシもストーンズももはやロックではないために、なにかと必死だが、そういう意味ではモリッシーというのはすげえな。不在の存在感。何もしてねえのにロック。


Big Mouth Strikes Again - The Smiths

c0005419_0583835.jpg

by ichiro_ishikawa | 2008-12-08 00:47 | 音楽 | Comments(0)  

保守と俺


 いつもロック、ロックとうるせえ俺は一見、進歩的な人間と見られることが多いが、実は、常識というものを尊重している、保守的な人間だ。
 ここで常識、保守というと、言葉というものに深く思いを馳せたことがない人には絶対に誤解される。その誤解を解こうとも思わないし、そもできないのだが、まず、ここでいう常識とは、いわずもがな、小林秀雄や池田晶子がいうところのそれだ。
 では、保守とは何か。保守党、保守政権、保身といった言葉からすぐ想起される受動的な意味ではないのは明らかだが、では何かと問われるとうまく答えられずにいた。まあ実際問われた事はないけれど、もし問われたらどうしよう、説明できねえ、と若干おびえてはいた。

 そんな中、福田和也の新刊が出たことで、「東京の流儀」というタイトルも良かったのでろくにチェックせず、すぐにAMAZONで買ったが、GQ JAPANの連載をまとめたものと知ってやや後悔したのもつかの間、一読して、媒体はダメだけれど、作家はすげえという例がここにある、という事実を目の当たりにした。
 そこで、保守についてのナイスな定義があったのだった。

 かつて、福田恆存先生は、「保守とは、横町の蕎麦屋を守ることだ」と看破された。
 つまりは、毎日、とは云わないまでも、日常に通う店、つまりは自分の生活スタイルを保持すること、そのために失われやすいものにたいして、敏感に、かつ能動的に活動する精神を、保守という。

by ichiro_ishikawa | 2008-12-03 05:07 | 文学 | Comments(0)