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頭痛と俺


ドタマがうすら痛いという在り方が常態であることは、
俺が、苦しいことなど人に語らずドブに捨てちまったら一生ダンマリ決めているため、
ほとんどの人は知らないはずだ。

とはいえ、最近、「うすら痛い」から、「グワッと痛い」のが常態と化しているため、
いよいよ、下図の16点を常に同時に押し続けるヘッドギアが必要とされている。


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by ichiro_ishikawa | 2009-04-27 20:48 | 日々の泡 | Comments(0)  

エセー「酒と俺 2」


俺が無類の酒好きであることは、どうやらあまり知られていないようだ、
というか、むしろ下戸、と大きな勘違いをしている輩が実に多いのは、意外なことだ。
小林秀雄や池田晶子が酒好きなので、彼らへの憧れから見栄を張っている、と思われているのも実に心外なことだ。
なぜ、そうした誤解が生まれるか。
おそらくは、酒の席でも俺が常にウーロン茶やコーヒーを飲んでいる、
という、事象の表面しか見ない、明らかに思考放棄な怠惰な人間が多いという、単純なことに過ぎまい。
俺が、ウーロン茶やコーヒーを飲むのは、ウーロン茶やコーヒーが酒と同様に好きであることもそうだが、何より、酒を飲むと1/2の確率で後頭部の奥がピキピキ痛みだすため、そしてこの痛みが普通の人ならその場でのたうち回るであろうほどの尋常でない痛みだからである。

一方、俺が、物質、眼に見えるのもの全般を軽視していることはよく知られることだ。
とはいえ、「俺」は、この脳を中心とする、社会便宜上、石川一郎と名付けられた物質となぜか常にともに「いる」。だが、この物質が、実は「俺」にはすごく邪魔であり、できれば切り離して、ただ「俺」だけで在りたいという強い欲求がある。
眼を瞑り、前後左右上下不覚の状態、この俺を「俺」と呼んでいる「これ」だけで「在る」状態、いわば「存在」だけである状態、がいい。
俺が、世でのあらゆる行為の中で「眠る」というアクションが最も好きなのもそういうことだ。
また、海で波にさらわれると、それに近い状態になることを知って以来、毎年海に行っては、波にさらわれ溺れているのも、実はそういうことだ。
その「存在」自体を、「俺」と呼ぶと混乱するならば、シンプルに「魂」と呼んでも「精神」と呼んでもいい。「ソウル」、「スピリッツ」と。

ところで、酒は「スピリッツ」というじゃないか。
つまり、人類は、酒を「精神」と同じもの、少なくともその例えと見なしてきたのだ。
酒とは精神であったのだ。
そんなわけで、物質としての俺を1/2の確率で常に悩ませるこの酒を、俺は愛してやまない。

by ichiro_ishikawa | 2009-04-19 00:36 | 日々の泡 | Comments(0)  

池田晶子新刊3冊の感想


 池田晶子の新刊3冊「魂とは何か」「私とは何か」「死とは何か」を読んだ。単行本未収録原稿がたくさんあって良かったが、まあ、言っていることは、いつも同じだ。
 「死とは何か」には、直筆の原稿が載っていた。終生、コクヨの原稿用紙に100円ボールペンで、手ぶらで原稿を書き続けたらしい。当の文字は、一読では判読不能な殴り書き。それでもいつもより丁寧に書いたのだという。思考に筆が追いつかないのだろうか。
 「私とは何か」には、小6時の作文が載っている。天才としか言いようがない。
この作文がなくても十分天才なのだけれど、やはり尋常じゃない哲学的直観力が備わっている。
池田晶子の父親は朝日新聞社の元編集委員で、記者上がりとはいえ学者肌のインテリだったらしく、かなりの蔵書があり、池田晶子は幼少時分からそれらに親しんでいたという。そうした血統、環境の影響も多分にあろう。
 俺の家には、蔵書なぞなかった。本どころか、レコードとか文化的なものが何もなかった。雑誌はかろうじて「きょうの料理」があったぐらいで、基本的に、掃除機とか炊飯器とか鍋といった生活グッズと、メシ以外の物質は何もなかった。あの親たちには趣味がなかったのか…。
 ただ、愛だけがあった。だから、俺は、愛こそがすべて、という人間なった。

by ichiro_ishikawa | 2009-04-14 06:15 | 文学 | Comments(0)  

死とは何か

未発表原稿編纂シリーズ第3弾!
池田 晶子新刊
「死とは何か  さて死んだのは誰なのか」

我々には在ることしかできないのだった。生きようが死のうが、
存在する事しか我々にはできないのだった。

生きている人に、死のことは、逆立ちしたって語れやしないのだ。
そして、死んでいる人には、逆立ちも、語ることも、できやしないのだ。
したがって、どうしても生きているうちに死のことを知りたいのなら、
自分で死んでみるしかないのである。

在る側の我々が、「在る」と言うのなら同じ「在る」だし、
無いなら無いで、無いことの無いを、在る我々にいかにして知り得ましょうか。

考えるほどに、死ぬとはどういうことなのか、
その人は死んだのかどうか、わからなくなってくる。

(以上、いろんなところから抜粋)

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by ichiro_ishikawa | 2009-04-01 01:24 | 文学 | Comments(0)