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バンバンバザール Live DVD「セルフ」鑑賞


 世紀の楽団バンバンバザールのデラックス編成によるライブDVD「SELF」が出たので観た。1曲1曲かじり観しようと思ったが、一切早送りする事無く、通しで観了。
 MC、ボーカル、演奏、メロディ、音飾、アレンジ、そして歌詞、全部がすげえ。福島くんに至ってはジャグバンド風の衣装も相変わらずもののすげえセンスがいい。南一夫エクスペリエンスによるジャケットデザインも秀逸。ライブ自体もツッコミ気質の福島くんの要望に耐えうる高松の客によるレスポンスがよく、とても雰囲気の良いものになっている。バンバンバザールのライブの最もすげえ部分の一つであるMCがもっと入っていても良かったが、マーティン・スコシージ「ラストワルツ」を思わせる、良い、渋いライブDVDだ。

 ボーカル福島康之41歳、ギター富永裕之37歳、ベース黒川修32歳、みんないい年齢になり、ガツンとくるパワーはなくなったというか、おそらく、もはやそこでは勝負をしておらず、福島くんはボーカルのブルーズ、ソウルに磨きがかかり、富やんはジャズギターの渋み、調べが一層深みを増し、トム・ジョーンズはバンバンバザールというバンドにおけるウッドベースのベストなあり方を確立した。ジャグバンド&歌謡ショーのテイストをまぶしたヴァン・モリスン的ソウル・ブルーズ・ジャズをグワッと聴かせる。RCサクセションのフォークとロックの感覚や寺尾聡、スティング的アダルティーポップの香りもあり、その総体が今のバンバンバザールとなっている。

 白眉は、奇跡的にこの収録日にものすげえアクトになった「風呂屋」。カンザスシティーホーンズのあのガチャガチャ感と、バキッと突き抜けたバンバンバザールの3人が相俟って昇天するこの感じこそ、バンバンバザールだ。

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by ichiro_ishikawa | 2009-10-28 00:29 | 音楽 | Comments(0)  

鴎外ブルーズ


 俺が、生活において、てめえの事に関しては「御覧の通り」、人の言う事に対しては「御尤も」、という二言だけしかものを言わないと心に決めていることは、実行できていない故、おそらく誰も知らないだろうが、そんな中、森鴎外の傑作短編「山椒大夫」(素材は中世の説教節「さんせう太夫」)約20年ぶりに再読。
 c0005419_141954.jpg淡々と読み進め、最後の一行だけでやにわに落涙。3コードのシンプルな日本のブルーズ。でも、なぜタイトルが山椒大夫か。安寿だろう。あるいは……思いつかぬ。安寿が潮を汲んでいたとする丹後・由良の「汐汲みの浜」、安寿塚(写真)、行きてえ。

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溝口健二の映画版未見。見てえが高え(DVD 4,725円)。
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by ichiro_ishikawa | 2009-10-27 13:38 | 文学 | Comments(0)  

菊花賞に吉川登場


吉川が10/25(日)京都競馬場で行われた菊花賞にて、出走馬本馬場入場の誘導馬に騎乗。
勝ったのは神之真券本命・1番スリーロールス(8番人気)。


by ichiro_ishikawa | 2009-10-25 21:22 | 日々の泡 | Comments(0)  

R.E.M.とアリーサ

 Amazonからのメール。

Amazon.co.jpで、以前に「R.E.M.の『R.E.M.ライヴ(DVD付)』」をチェックされた方に、Aretha Franklinの『Just a Matter of Time: Classic Columbia Recordings 1962-1966』のご案内をお送りしています。『Just a Matter of Time: Classic Columbia Recordings 1962-1966』、現在好評発売中です。

 R.E.M.を好きな人間がアリーサを好きなのは至極当然なのだが、コンピューター的にはひもづけられる点があるとは思えず、どういうリンクがプログラムされてるのだろうか。R.E.M.からアリーサへ飛ぶ人が多いという経験値の蓄積か? いずれにせよ、またしてもこの手の案内で購入してしまいそうになっている。
 このアルバムは、ゴスペル色を前面に出しソウル・ディーヴァとして君臨し始めるアトランティック移籍前、コロムビア時代の、ポピュラー歌手として売り出された頃のアリーサで、実は俺はあまりその頃の彼女の歌唱を聴いてこないできた。アトランティックに劣るのは当たり前だろうが、ここまでまとめられるとちと聴いてみたくなる。いや、買うほどじゃねえか? 誰か買って貸して。

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by ichiro_ishikawa | 2009-10-23 13:15 | 音楽 | Comments(0)  

無私の精神


 文藝春秋から1967年に上梓された小林秀雄「無私の精神」の初版本をAmazonにて880円でゲットン。いい装丁。
 この中のタイトルトラック「無私の精神」、初出は1960年1月の讀賣新聞。小林の作品は実はすべてに「無私の精神」「中庸」という裏タイトルがついているのだが、表にズバリ「無私の精神」とつけられたこの短文も実に味わい深い。他のインテリゲンチャ、殊にいわゆる批評家連中とは一線を画す点がこの「無私の精神」、「中庸」の精神なのだった。

 それにしても1967年はすごい年だ。ロックの世界でのリリースをざっと洗うと、Buffalo Springfield Again/Buffalo Springfield、The Velvet Undergroud & Nico/The Velvet Undergroud & Nico、Surreallistic Pillow/Jefferson Airplane、The Doors/The Doors、Strange Days/The Doors、Don’t Look Back/Bob Dylan (Documentary film。ディランは1966年7月にオートバイ事故を起こしたためこの年はアルバムリリースはない)、Are You Experienced?/The Jimi Hendrix Experience、Axis:Bold As Love/The Jimi Hendrix Experience、Sgt.Pepper's Lonely Hearts Club Band/The Beatles、Magical Mystery Tour/The Beatles、Their Satanic Majesties Request/The Rolling Stones、Disraeli Gears/Cream、A Whiter Shade of Pale/Procol Harum、The Piper at the Gates of Dawn/Pink Floyd、The Who Sell Out/The Who、Mr.Fantasy/Traffic……ものすごい年だ。こんな名盤が次々と売り出された、その時に生きていたらどんな事になってしまうのだろう。そして日本では「無視の精神」と来たもんだ。

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小林秀雄「無私の精神」
『小林秀雄全集第12巻 考えるヒント』2001新潮社/『讀賣新聞』1960.1(抜粋)


 私の知人で、もう故人となったが、有能な実業家があった。非常に無口な人で、進んで意見を述べるというような事はほとんどない、議論を好まない、典型的な実行家であった。この無口な人に口癖が二つあった。一つは「御尤も」という言葉、一つは「御覧の通り」という言葉である。だれかが主張する意見には決して反対せず、みんな聞き終わると「御尤も」と言った。自分の事になると、弁解を決してしない、「御覧の通り」と言った。この口癖には、何んとも口では言えぬ感じがあり、また、ある言いようのない魅力があった。私は、彼の仕事の実際については、知るところが殆どなかったが、彼と一緒に仕事をしていた人達の間には、彼の口癖は無論よく知られていたらしく、彼の仲間の一人が、あの人の「御尤も」と「御覧の通り」には、手も足も出ない、と私に語った事がある。彼には、人を説得するのに、「御尤も」と「御覧の通り」のふた言あれば足りたわけになる。

 私は、よく彼の事を思ひ出しては感ずるのだが、ひと口に実行家と言っても、いろいろある。しかし、彼の場合の様に、傍から見ていても、それとはっきり感じられるのだが、並み外れた意識家でありながら、果敢な実行家でもある様な人、実行するとは意識を殺す事である事を、はっきり知った実行家、そういう人は、まことに稀れだし、一番魅力ある実行家と思える。考へる事が不得手で、從ってきらいで、止むを得ず実行家になっている種類の人が一番多いのだが、また、そういう実行家が、いかにも実行家らしい実行家の風をしてみせるものだ。この種の退屈な人間ほど、理窟など何んの役にも立たぬ、といつも言いたがる。偶然と幸運による成果について大言壮語したがる。一般に、意識家は実行家ではないといふ俗見の力は、非常に根強いものだと思う。あれもこれも、心に留めて置きたい、ある場合も逆の場含も、すべての条件を考えたい、だが、実行するには、たった一つの事を選んで取り上げねばならない。そういう悩みで精神が緊張していないような実行家には、興味が持てない。子供の無邪氣とは、自ずから異なるからである。

 実行家として成功する人は、自己を押し通す人、強く自己を主張する人と見られ勝ちだが、実は、反対に、彼には一種の無私がある。空想は孤独でも出来るが、実行は社会的なものである。有能な実行家は、いつも自已主張より物の動きの方を尊重しているものだ。現実の新しい動きが看破されれば、直ちに古い解釈や知識を捨てる用意のある人だ。物の動きに順じて自已を日に新たにするとは一種の無私である。

by ichiro_ishikawa | 2009-10-22 19:37 | 文学 | Comments(0)  

別冊太陽 小林秀雄


別冊太陽の日本のこころシリーズ162が小林秀雄だ。
小林の生涯が年代順に綴られていて、その足跡が俯瞰できる。
間には、著名人による俺とヒデ的な随筆、関連人物の紹介が散りばめられている。
図版も、当人のスナップ写真から、著書の初版本や直筆原稿、批評の対象となった骨董品、近代絵画と豊富にある。なんせ版型がA4変形とわりとでかいので写真が映える。2625円と高価だが買ってもいいだろう。それにしても本書で執筆もしている白洲信哉は祖父が小林秀雄と白洲次郎とはすげえな。
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by ichiro_ishikawa | 2009-10-22 00:24 | 文学 | Comments(0)  

文語と俺


 俺が文語好きというのはカンのいい連中は気づいているはずだが、それはなぜかといえば、音とリズムが抜群に素晴らしいからだ。調べと薫りがものすげえいい。
 「ぞ・なむ・や・か・こそ」という現代では消滅した係り結びの助詞(こそはやや生きている)や、らむ・めり・まほしといった助動詞、あまつさえ、頗る(すこぶる)、須らく(すべからく)、畢竟(ひっきょう)、蓋し(けだし)といった副詞、さもありなむ、何をかいわんやといった慣用句…、語感そしてその意味、文句なしの秀逸さ、思わず発語してみたくもなる、日本人の叡智の結晶である。

石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。(舞姫)

祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。(平家物語)

月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり。(奥の細道)

いずれの御時にか女御更衣あまたさぶろひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり・・・・(源氏物語)

 春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
 夏は夜。月のころはさらなり、やみもなほ。蛍の多く飛びちがひたる、また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも をかし。雨など降るも をかし。
 秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、からすの寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて、雁などの連ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。
 冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も白き灰がちになりてわろし。(枕草子)

つれづれなるまゝに、日暮らし、硯に向ひて、心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂ほしけれ。(徒然草)

 中高で暗記させられたこれらの名文たち、歴史を暗記物に貶めるなど進学試験制度はいろいろ議論があるが、こうした「とりあえず丸暗記しろ、あとあと凄さが立ち上がるから」みたいなおしつけ教育は、強(あなが)ち間違ってもいないな。

by ichiro_ishikawa | 2009-10-20 19:56 | 文学 | Comments(0)  

余暇と俺 極私的覚え書き


 最近仕事を辞めたのでぽっかり時間ができたのだが、その空いた時間で何をしているかというと、「たいていある」ことでお馴染みのYouTubeで、ザベストテンとか歌のトップテンとか夜のヒットスタジオといった昔の日本の歌番組、アメリカやイギリスのロックやブルーズ、リズム&ブルーズ、ソウル、ジャズの演奏のアーカイブ、それからホイ3兄弟やジャッキー、サモハンあたりの香港映画、そして日本のお笑いを見倒している。へたすると一日中見ている。それほどYouTubeに上がっているアーカイブの数々はすげえ。

 とはいえ、見終わった後必ず「あ、こんな事してる場合じゃねえ…」と我に返るこんな事してる場合じゃねえ症候群に見舞われるため、最近はほどほどにする事にしている。
 ほどほどにして何をするかと言えば、俺の書斎にある膨大なレコードコレクションを片っ端からかけながら、同じく俺の書斎に「たいていある」古今東西、とりわけ日本、フランス、ロシア、イギリスの近代文学を全部読み直そうという試みが浮上している。今の俺のモードにピシャリ来ているのが鴎外、漱石だ。こいつらは本物だからだ。現代の作家は玉石混交甚だしいが、この辺の才能は、今では考えられないぐらいの超エリートで安心だからだ。特にこの2人は日本近代文学の嚆矢、ロックでいえばビートルズ、ストーンズみたいなもので、どちらも漢文、英文学の才にも秀でたモノホンの日本語文筆家だ。今は、渋江抽斎という江戸時代に生きた激地味渋な人の生涯を書いた鴎外のその名も「渋江抽斎」を読んでいるが、これがとてつもなく渋い。同時に、漱石の死により絶筆となった「明暗」。これは水村未苗の「続明暗」を読みたいが為に、今一度精読しておこうという寸法だ。大学時代に周りによくいた、文学者の名前と作品は全部言えます、各作品の評価はこれこれで…みたいな、何のための記憶かよく分からねえ知識と教養を振りかざす点数稼ぎの馬鹿野郎どもを一蹴する、作品と作家のソウルをわしづかみに掴んだら離さない覚悟によるものすげえ深い読みを俺はしていく所存だ。

 また、もうひとつ今ブームなのが、西行だ。西行は、12世紀を生きた武士で僧侶で歌人。今俺は短歌に親しまざるを得ない境遇にあるため、生活の必要から万葉集、古今和歌集、そして啄木や茂吉をひもといているのだが、短歌といえば俺にとって実は西行だった。というか西行と実朝しか知らぬ。というのは小林秀雄がこの二人に結構触れているからで、実は彼らの歌自体は飛ばし読みして、小林の文だけを繰り返し詠んでいる次第だったため、この辺でグワッと彼らの歌自体も読んでいこうというプロジェクトを遂行する事にした。とはいえいきなり歌集は厳しいので、辻邦生の「西行花伝」を再読するところから始める。

 音楽と文学。それも一流の音楽と文学。これらを聴く読むということは、俺の聴き方読み方は、それら作品と作者当人とのっぴきならぬ関係を結ぶ、つまり付き合う、というすげえ濃い交わり方をするので、要するに、毎日一流の音楽家と作家、サン・ハウスやチャーリー・パットン、パーカーやコルトレーン、鴎外、漱石、はたまたドフやんやトの字、あるいは気違いニーチェといった強者どもと、サシで酒を酌み交わしているようなものだ。
 酌み交わした後、二日酔いにならなければ、そこでいろいろインスパイヤされた事を日々この場でメモしていこうと思う。何のためかは知らぬ。

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by ichiro_ishikawa | 2009-10-20 00:32 | 音楽 | Comments(0)  

欧州旅雑記


9月の連休に各種休暇をつなぎ合わせて長期休暇を設定し欧州を回った。
人並みに携帯電話で写真を数枚撮ったし、そこそこの土産話もあるのだが、誰にも「見せて、聞かせて」と頼まれず、かといって自分から積極的に述べるのもなんなので、旅の手帖にいろいろ認めることで完了していたが、日々のヒマに任せ、時間が空いたがここに記しておくことにする。

時期は世間的な大型連休かつ出発1週間前の決断だったため、欧州行きのチケットはすでに売り切れ。キャンセル待ちもなし。「もはやヨーロッパだったらどこでもいいし、どんな航空会社でもいいからくれ」、と旅行会社に懇願して、なんとか「往路=香港経由・アムステルダム行き/復路=アムス発、香港・台北経由・成田行き」というのを確保できた。
ヨーロッパは鉄道の交通網が発達しているし、EU圏内なら各国の行き来がイージーなのでアムスで良かった。ただ、ただでさえ奴隷船のように12間以上狭いところに縛り付けられ続けた上に、「うぜえ待ち」が必ずつきまとうトランジットあり、というのは苦しかったが、出だしが遅れた自分が悪い、取れただけマシ、とてめえを論理的に誤摩化し、「とりあえずそれで」とチケットを入手した。

アムスに着いたのは午前5時。空港から町に出て、目ぼしいホテルを探しだしたが、「部屋はあるが12時まで空かない」というので、スーツケースだけ預かってもらい、早速町徘徊。何度か来ているので、アムスには運河とドラッグしか見るべきものはない事は知っている。ぶらぶらと町を散歩し、月並みにゴッホ美術館に入り、ミュージアム公園のベンチにたたずむ。それでもまだまだ午前中。再びアムスの町を隅々までぐるぐるまわってやっと12時になり、ホテルに戻ると、「先客が寝坊したから14時まで待て」という。パンをかじりながら、さらに町をぐるぐる回り続け、チェックインするまでに観光を終了した。

アムスは陽気が良く陽光輝く運河沿いの町並みが奇麗で穏やかなので好きだが、ドラッグ&セックスに溢れすぎていて40近くなった身にはきつい。
また、オランダ人は背が高過ぎる。男子の平均身長が185cmというからやばい。女性も175cm。若者などは2mもざらにいて、しかもきゃつらはぴょんぴょん飛び跳ねながら歩いているのですれ違うたびに何かあぶねえし、人が多いところなどはあたかも高層ビルが林立しているようで閉所恐怖症の黄色い猿には居心地が悪いのだった。
中には大人しくじっと座って、常に微笑をたたえている輩もたくさんいるのだが、それはラリっているのだった。

というわけで、アムスへ着くや否や、翌日にはタリスという高速鉄道による移動でパリに拠点を移し、鉄道でいろいろ各国各都市を回ることにした。

パリの人々はちっちゃくてぼそぼそ喋るし静かだから好きだ。町並みもすげえし、パンがうめえ。ラ・セーヌもいわずもがなすげえ。エッフェル塔もシャンゼリゼも凱旋門も行かず、たいていカルチェ・ラタン界隈を徘徊するに留まった。カルチェ・ラタンは素朴で落ち着く。派手でにぎやかなところより、重厚で穏やかで静かな場所が好きだ。あとは、モンマルトル。モンマルトルは夜がすげえ。だがやはりパリにはロックがないので、ロンドンに飛ばざるを得なくなるのだった。ロンドンは今でもやはりロックの感はあった。ただ、「またそのルートかよ」とてめえの突っ込みも聞こえたところで、ロンドンには留まらず、今回はベルギーを中心視した。アントワープとブルージュとブリュッセル。いずれも静かでよろしい。
なんか閑静ばかりを求めているようだが、まあそうだ。

今回は、とにかくずっと移動していた。それはいろいろなところを回りたかったからではなく、留まっていてもやる事が何もないからだった。ヒマはおそろしい。だから、朝早く起きて移動してホテルをとったら町を徘徊し、夜はその町に泊まり、翌朝また早く起きて移動して…という形だ。
なんだかせわしないな、と一見思えるが、実はこれでもスローな流れなのだった。なんなら、途中もう一都市行けるぐらいだ。ただ移動しているだけの旅。

今回の大きなポイントは一人旅ということだった。20代半ばまでは旅と言えば一人旅と相場が決まっていたが、「30代以降の一人旅はきつい」という事は、2001年に身を持って経験済み。以来、一人旅はした事が無かったが、今回は同伴してくれる人間がおらず、かといって激レア長期休暇が取れたのに「今ヨーロッパに行かねばもう行けない」という強迫観念からの断行だったわけだ。
とはいえ、行ったら行ったでやる事が無い。レストランに入りづらい。基本、カフェエでコーヒー飲みながら煙草を吸うという、ただそれだけの毎日。たまに趣向を変えてワインやスピリッツを飲むと、欧州モノは度がきついのか、速攻ドタマが痛み出し、持ち出したバファリンを服用、念のためストッパーも、という有り様。
また、金の節約と、かりそめの友人が出来るやもという淡い期待からドミトリーという相部屋のホステルに泊まるも、誰にも話しかけられず。目が合ったら挨拶〜世間話という展開に持ち込もうと思っても、相手、目を合わさず。間違って合おうものなら、そそくさと逸らされる。これは、おそらく、避けられている。こんなベッドしかねえトイレシャワー共同の6人部屋に泊まっているのは大抵ヨーロッパからのバッグパッカーの若者、推定10代で、この俺、ひげに白髪が混じった38のオッサン。いい年してユースホステルなんかに泊まるなよ的な、悲壮感が確実に出ていた。俺自身、20代前半の時は、オッサンには近づかなかったのを思い出す。

やはり、オッサンの旅とは、妻や愛人とともにビジネスクラスで飛び、陸移動は一等車かタクシー、ホテルはトイレシャワー付き、なのだろうな。
旅行って楽しくないんだな。
いや旅行に限らず、日々の生活が別に楽しくないから、旅行が取り立てて楽しくないというわけではないな。
では、どう生きようか。車の免許でもとれば少しはやる事出てくるか。
でも車を置くところが無いからな。まあ車買う金も免許代も無いしな。
生きるとは、起きて食って排便して寝てという循環に過ぎないが、人間はそれだけだと退屈すぎで気が狂うので、その合間合間に何かをせずにはいられない。
とはいえ、何をしたらいいか、まだ分からない。

なんか記した意味なかったな。

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みんなヒマでヒマでしょうがない。

by ichiro_ishikawa | 2009-10-18 22:42 | 日々の泡 | Comments(2)  

第8回小林秀雄賞


 俺の人生のある部分での目標は小林秀雄賞をもらう事だが、小林の生誕100年の節目である2002年に設立されたこの賞も今年で8回目、俺は今回もまた受賞を逃したが、毎年受賞作が秀逸なので「これなら取られてもしょうがねえか…」と自分を納得させている。
 小林秀雄賞ということは中庸賞、無私の精神賞、ロックンロール賞ということで、というかこの3つは同義なので、まとめて小林秀雄賞なのだろうが、今年の受賞作は、水村美苗「日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で」(筑摩書房)だという。Amazonで「小林秀雄講演CDを買ったあなたにおすすめ」として本書の紹介メールが送られてきたので知った(ちなみにAmazonのこの手の紹介での俺の購入率はおそらく90%以上。Amazon、完璧なマーケティングだ……)。早速一応ユーザーレビューなどをさらっと読むにつけ、これは、と即断、即購入、即日届いて、即読。いま、10ページ読んだが、こりはすげえ。論旨が議論の的になってなんやかんや言われているが、論旨とかどうでもいい。これは優れた批評文が必ずそうであるようにまぎれも無い文学作品だ。まだ10ページしか読んでないけれど、初めのバスのシーンで確信した。泣いた。「Monkey Man」のイントロで、名曲というのはすぐ分かってしまうだろう、そういうことだ。
 池田晶子なき今、斉藤美奈子、川上未映子に加え、この水村美苗が登場し(前からいるのかもしれぬが俺には初登場)、文壇に活気が出てきた。

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by ichiro_ishikawa | 2009-10-12 23:24 | 文学 | Comments(1)