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写実と俺

 短歌には「写実、写生」という、その根本となっている考えを表す伝統的な言葉があるのだが、俺は実はこれがかなり気に入っている。というか生き方に抜群にマッチする。

 「写実、写生」とは、ありのままをそのまま写す、という事で、一見なんでもないようだが、対象のありのままをそのまま写す、という事は普通は出来ない。なぜならこの時、述語「写す」の主体は当然作者であるから、どうしたって作者の私というフィルターがかかってしまう。対象、たとえば自然を描写する場合、「私が見た」自然を描く事しか出来ない。描く時点で、既に、主体の存在無しには為し得ない。これはどうしたって為し得ない、どうしたって為し得ない。
 しかし、私を介した自然などどこが美しかろう。自然「主義」小説や「私小説」がくだらないのと同じだ。我々は、そんな「私」が邪魔で邪魔でしょうがないのだ。

 短歌(や文学としての小説)はその論理的に不可能な写実に到ろうとする。これはどういうことか。徹底的に対象に寄り添う、つまり私を徹底的に排除しようとする不断の意志に他ならない。そして、逆説めくが、徹底的に私を無くす所にこそ、ほんとうの、表現されるに足る私が現れる。自然はすなわち私だ。その私とは普遍的精神である。私を排し自然に到り、結果、自然すなわち私、すなわち普遍的精神を表す。そうした行為が写実の本意、短歌の真髄だとすれば、俺にはすこぶるしっくり来る。その謙虚な意志と行為を畏怖する。写実というシンプルな道は死ぬほど険しいので、ちっとも古びることはない。むしろ常に新しい。
 

 

by ichiro_ishikawa | 2012-03-15 23:56 | 文学 | Comments(0)  

小林秀雄と短歌


 小林秀雄は、短歌について生涯ほとんど言及しておらず、唯一触れた「短歌について」でも、ただ、俺は伝統を愛する、のような味も素っ気もない短文で終わらせているに過ぎないのだが、これは、昭和初期当時、歌壇で実験や前衛、革新と、文学運動がかまびすしい中にあって、伝統を守ることが最も困難なのであって、実験や革新を行っている暇はない、無私なる古典を味わい、伝統を守ることにこそ、よほど意義があるという考えがあったからである。

by ichiro_ishikawa | 2012-03-15 23:54 | 文学 | Comments(0)