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小林秀雄、43歳の夏


 大瀧詠一は「無人島に持ってゆくとしたらどんなCDを持ってゆきますか? 一枚だけ選んでください」というアンケートに、「レコード・リサーチ」という書物(『ビルボード』のチャートとチャートインしたアーティストごとにシングルのデータをまとめたもの)を選んだ。その中の1962年から66年までがあればよい。全曲思い出せるのでそのチャートがあれば、いくらでも自分の頭の中で再生できるからという。

 もし俺に、「無人島に持ってゆくとしたらどんな本を持ってゆきますか? 一冊だけ選んでください」というアンケートが来たら、大瀧詠一にならって「小林秀雄作品 全28集 別巻4」と答えよう。この別巻4は、年譜、作品解題、著書目録、標題索引からなるシロモノで、つまり、小林秀雄がいつ何を書き、いつどの本ががどこからどんな仕様で出版されたかが網羅されているのだ。

 大瀧のように、全作品思い出せはしないが、たとえば、43歳の夏が終戦か…。このときは何も書いてないのか…。と思いを馳せる事ができる。
 そして、長い沈黙のあとの最初の仕事が、1946年1月に行われた雑誌「近代文学」での座談会「座談 コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」だと知れる。
 そこで小林は、敗戦後に「左翼的文化人」に急変した当時の大多数の知識人らを揶揄してこういうのだった。

「僕は政治的には無知な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。…僕は歴史の必然性といふものを、もつと恐ろしいものと考へている。僕は無知だから反省なぞしない。利口な奴はたんと反省してみるがいいぢやないか」

 そしてその5月、最愛の母を亡くしている。
 数日後、「妙な経験」をする。

 母が死んだ数日後の或る日、妙な経験をした。誰にも話したくはなかつたし、話した事はない。尤も、妙な気分が続いてやり切れず、「或る童話的経験」といふ題を思ひ附いて、よほど書いてみようと考へた事はある。今はたゞ簡単に事実を記する。(中略)もう夕暮れであつた。門を出ると、行手に螢が一匹飛んでゐるのを見た。この辺りには、毎年螢をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る螢だつた。今まで見た事もない様な大ぶりのもので、見事に光つてゐた。おつかさんは、今は螢になつてゐる、と私はふと思つた。螢の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考へから逃れる事が出来なかつた。

 8月には、水道橋駅のプラットフォームに墜落し、肋骨にひびが入り、約50日間、湯河原で静養する。
 事の次第はこうである。

 二ヶ月ほどたつて、私は、又、忘れ難い経験をした。これが童話であるか、事実談であるかは、読者の判断にまかす事にして、ともかくそれは次の様な次第であつた。或る夜、晩く、水道橋のプラットフォームで、東京行の電車を待つてゐた。まだ夜更けに出歩く人もない頃で、プラットフォームには私一人であつた。私はかなり酔つてゐた。酒もまだ貴重な頃で、半分呑み残した一升瓶を抱へて、ぶらぶらしてゐた。と其処までは覚へてゐるが、後は知らない。(中略)突然、大きな衝撃を受けて、目が覚めたと思つたら、下の空地に墜落してゐたのである。(中略)胸を強打したらしく、非常に苦しかつたが、我慢して半身を起し、さし込んだ外燈の光で、身体中をていねいに調べてみたが、かすり傷一つなかつた。(中略)私は、黒い石炭殻の上で、外燈で光つてゐる硝子を見てゐて、母親が助けてくれた事がはつきりした。断つて置くが、ここでも、ありのままを語らうとして、妙な言葉の使ひ方をしてゐるに過ぎない。私は、その時、母親が助けてくれた、と考へたのでもなければ、そんな気がしたのでもない。たゞ、その事がはつきりしたのである。

by ichiro_ishikawa | 2014-08-19 01:14 | 文学 | Comments(0)  

読書人はいかにして生まれるか

 すっかりブログの書き方を忘れた。
 備忘録としては、evernoteを駆使しているせいもあり、また意外な読者の存在を知って、「下手なことは書けない」という自意識過剰から更新が途絶えていたが、やはり腰をすえて書くという行為をせでは、精神が退化するので、恥を忍んで駄文を書き連ねることにするわけだ。いずれにせよ、文で表われることだけが自分のすべてであり、これ以上でも以下でもないという考えは変わらない。

 とはいえ、引用ではじまり、終わる。

●なぜ文学は読まれなくなったのか(出版不況に関連して)

 今、もし文学に対する「ニーズ」がないのだとすれば、それは文学作品を読んでも、そこから得られる知見によって、自分自身の生きる可能性が高まるように思えないからではないですか。
教養主義の時代に、人々が争って本を読んだのは、本を読むことから、生きていく上で死活的に重要な知が獲得できる、という予測が立ったからだと思います。

 戦中派の人たちを見てみると、充分な批評性や深い教養がなかったせいで、自分たちは歴史的愚考を犯したのだから、教養、特に人文的な知が必要なのだという世代的な反省があったのだろうと思います。

 (そうした世代が感じていたような生々しい教養への渇望は今の日本人にはもう見られないが、)人間がこの社会の成り立ちを理解し、自分自身の足場を基礎づけ、一寸先が見えない闇の中をどう歩めばいいのか、最適な判断を下し続けるためにはどうすればいいのか、その手がかりを求めていることには変わりはありません。生き延びるための知恵としての、広義の教養に対するニーズはいつの時代も変わらないと思います。

 出版物によって今自分たちが置かれている歴史的な大きな変化とは何か、これにどう対応すればよいのかについて、有益な知見が提供できるなら、今でも人々は情報や知識に対して充分な渇望を示すと思います。

 かつて文学が提供してきたようなものを、今は違う形のメディアが提供しているのではないか。

●読書人はいかにして生まれるか――出版不況打開の道、その本質的知見

 どんな人たちも最初は本は無償で読む。家にある本、図書館の本、友達の本、そういう無償の読書行為を積み重ねて、リテラシーを高めてゆき、ある段階に至って初めて自分のお小遣いで本を買い、それを自分の本棚に並べる。圧倒的な量の無料の読書の十数年にわたる蓄積があった上で、初めて有料の読書が発生するわけです。この土壌が大切なんです。読書の習慣がない人は絶対に本を買いません。たとえ無償であっても膨大な活字を読む、活字がなければいられないぐらいの活字中毒になって、書物に対する鑑定眼がきちんと身についた人がはじめて自分の財布からお金を出して本を買う読者に育つ。文学の営みを支えることになる。そしてそれを支えているのはこの私だと思いこむような読者を作ること、それが迂遠ではありますが、文学が生き残る王道だと思います。

    内田 樹(文藝家協会ニュース 特別号 2014年7月31日発行より、任意抜粋)

by ichiro_ishikawa | 2014-08-05 20:33 | 文学 | Comments(0)