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ロッキング・オンと俺

前回の続き

俺は増井修フリークだったので、
本書『ロッキング・オン天国』に書かれている事はほぼ知っていた事だが、知らなかった事は前述した詳しい収支と、それからもう1つは、「ロッキング・オン・ジャパン」創刊時の驚くべきエピソードだ。

渋谷陽一が創刊前に、社員に加えデザイナーや関係者を集めて行なった会議で、渋谷はBOØWYの「B.Blue」のPVを流し、「ここまで日本語が乗っているロックが発明されてしまったからには、もはや邦楽を別物として傍観していられない」という状況説明をする予定だったのだといふ。
(予定だった、といふのは、実際には誤って裏ビデオ「洗濯屋ケンちゃん」が流れてしまったらしい)

好調「ロッキング・オン」だけで充分成り立っていたのに、あえて「ロッキング・オン・ジャパン」創刊に踏み切った(雑誌の創刊はバクチ)のは、BOØWYの登場で日本のロックがマーケットにおいて洋楽を確実に駆逐することを予見しての事だったといふことだ。
(ロックが当たり前、むしろ古いみたいになっているいまからすれば、いかにも前時代的といふか、もはや神話のようなエピソードと思われるやもしれぬ)

ロッキング・オンとBOØWYは相容れない印象があるが、さすが渋谷陽一はいろいろ見抜いていた。
といふ事が分かった。

BOØWYは「ロッキング・オン・ジャパン」創刊後、雑誌が軌道に乗る前に解散してしまふが、その後も、COMPLEXや布袋寅泰への秀逸なインタビューを渋谷は行っている。



by ichiro_ishikawa | 2016-05-29 20:15 | 音楽 | Comments(0)  

ロッキング・オンと俺

増井修『ロッキング・オン天国』(イーストプレス)読了。

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増井修は1990〜1996年、月刊洋楽誌「rockin'on」が最も
売れていた時代の、二代目編集長。
当時19〜25歳の俺は、オビ惹句にもあるやうにそれこそ「むさぼり読んでいた」。

そも「rockin'on」で批評といふものに目覚め、渋谷陽一→吉本隆明→小林秀雄に行き着いたのだった。

批評とは他者をダシにてめえを語る事。
この小林秀雄の方法は、渋谷陽一が、rockin'onが、ロックを対象に採用した方法で、二代目編集長の増井修も渋谷とはタイプは違うものの、その根本は受け継いだ。

俺は増井修の文章とキャラ、ユーモアが好きだった。
彼のラジオ「ロッキン・ホット・ファイル」も毎週録音して聴いていた。

好きが高じて1995年に入社面接も受けている。
課題作文は増井修のスウェード新潟ライブレポートを素材に書き、面接は、増井修が前列中央で進行役、後列に渋谷陽一、佐藤健、山崎洋一郎、宮嵜広司が二列に並んで座っていた。そのレイアウトをよく覚えている。

残念ながら失格で、かつ大学も留年し、翌年も留年したのだが、今思へば良かった。
入社していればきっと激務に耐へられず数年で退社し、なんとかフリーの音楽評論家となるも、鳴かず飛ばずで、今頃路頭に迷っていただらう。
そも30過ぎてから急速に興味がブラックミュージック、ジャズに変化していったし、今のロッキング・オン社のフェス中心の事業展開にもついていけなかったはずだ。

実際、俺は1997年からロッキング・オンへの興味は衰え始め、1999年には購読を止めた。
「cut」も「H」も創刊から数年間は定期購読していたが、1999年頃、誌面が女性誌、ジャニーズ誌みたいになってきて購読を止めた。

いまは「SIGHT」だけ毎号購読している。
結局俺は渋谷陽一の批評、文章が好きなのだ。
小林秀雄みたいだからだ。

そんな俺のいはば青春時代の7年間(浪人〜大学6年)の愛読雑誌の編集長による当時の話が、20年の時を経て聞ける、本書『ロッキング・オン天国』は、さういふ本であり、俺のために刊行されたやうなものだ。
他の人が読んでもさっぱり面白くないだらう。
俺だけが途轍もなく面白い。

本書の凄いところは、
ある一年、10万部を超えた全盛期の、
雑誌の売り上げ、収支がグラフ付きでまんま開陳されている事だ。辞めた人間によるこれは、果たして許されるのか、他人事ながらドキドキしている。
もしかしたらロッキング・オン社からクレームがつくやもしれぬ。さうしたら回収だらう。

しかし、この収支表が面白い。
俺はいまの仕事柄、雑誌や本の収支に明るいが、
この出版不況甚だしい今日からみると、半ば妄想のやうなグラフであり、みていると涎がでてくる。

(続く)




by ichiro_ishikawa | 2016-05-29 02:04 | 音楽 | Comments(0)  

俺と旧かな、ときどき旧字


何故旧かなに惹かれたかと言へば、
短歌や俳句は現代でも旧かな(歴史的仮名遣い)か殆どで、
その美しさと共に、何か表記上の自然さを感じるからだ。
戦後採用された新かな(現代仮名遣い)は、
やはりどこか無理矢理感がする。
戦後教育を受けた身だが、
常に心は古典の世界、万葉集から敗戦までの1300年に寄せているものだから、旧かなが実にしっくりくるのだった。
1300年の伝統に改良が加へられて70年。
どうしてもまだ慣れない。

ちなみに俺が旧かな旧字に明るいのは、
香港映画の原題や人名に幼少〜少年期に頻繁に接していたことと、
2001〜2002年の2年間に第5次小林秀雄全集を繰り返し読み、かつ全文書き取りをしていたからだ。
旧字旧かなの小林秀雄は、美そのものだ。



by ichiro_ishikawa | 2016-05-29 01:50 | 文学 | Comments(0)  

俺と旧かな


なぜここ数年、ビジネスメール以外、一部旧かな(歴史的仮名遣い)を使っているかといふと、元来「新」より「旧」を好むタチであるといふのもあるが、何だかんだ言って、旧かなの方が美しいからだ。
やはり考えるヒントではなく、考へるヒントだらう。

とはいえ、新かなにおける小さい「つ」など、一部残してはいる。「言つた」ではなく「言った」とする。この辺りは発音の問題だ。
現代において、「言う」を「言ふ」と発音してみても違和感ないが、「言った」を「言つた」と発音するのはやや違和感がある。
字面としては「言つた」の方が美しいのだが。
(例外として「ごっくんごっくん飲む」のごっくんは、「ごつくんごつくん飲む」、トスル)

あとは、一部といふことにしていれば、うっかり間違へて新かなを使っても許されるからだ。
ちなみに先の「していれば」を「してゐれば」としていないのは、敢えてだ。

そも新かなも、「こんにちは」「私は」「どこどこへ」などの「は」「へ」などに旧かなを残している。完全に現代の発音通りに「わ」などとしてしまふと、旧かなが忘れ去られてしまふという懸念かららしい。

本当は旧字にもしたいのだが、いかんせんパソコンだと出ない事が多く、それはストレスなのでやめた。手書きの時は無論旧字を使ふ。
やはりA計画ではなく、A計劃だらう。

以上。





by ichiro_ishikawa | 2016-05-26 19:55 | 日々の泡 | Comments(0)  

今を生きるといふ意味


ある著名な歌人が、
悩んでいる人は過去と未来ばかり見ている。
子供は今しか生きていない。
だから生き生きとしている。
といふ主旨のことを言っていた。

よく聞く、「今を生きる」といふ意味が
やっとわかった。

岡潔は、
赤ん坊は自然とてめえが一体化していて、それで充足しているから常に微笑んでいる。
といふ意味のことをどこかで言っていた。

大人になると、さうはいかない。
やうに思へるが、さう生きるしかない。

だから俺はYouTubeで過去を振り返らないし、退職金や年金の計算なぞもしないし、住宅ローンの繰上げ返済もしない。


by ichiro_ishikawa | 2016-05-26 18:43 | 文学 | Comments(0)  

山下久美子著『ある愛の詩』

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山下久美子著『ある愛の詩』(幻冬舎)読了。
2002年に出ていたのだが、今初めて読んだ。
何故当時読まなかったかと言へば、
ズバリ、忙しかった。
それと、ゴシップや告白といふものを、好かないからだ。そも幻冬舎が嫌ひなのだ。
何故今読んだかと言へば、
何か一周したと言ふか、
布袋ファンであり、布袋と出会う前からの今井美樹ファンでもあり、かつ山下久美子ファンであった俺は、彼らのプライベートに触れることは、してはならぬ事のやうに感じていた。
のだが、別れを対象化した山下久美子を、時を経て少し対象化できたからである。




布袋寅泰著『よい夢よ、おやすみ』(1994年、八曜社)がBOØWY後から1993年までの布袋自伝で、布袋の作品と併読することでその期間の事はあらかた分かっていたが、山下久美子目線でその頃の事を見ることになった。

ハイライトは2つ。
BOØWY『Just A Hero』から『Guitarhythm IV』期の舞台裏(レコーディングの合間の布袋の足取りなど)といった貴重なロック史の一部が明るみに出たこと。

もうひとつは、
布袋が自宅の地下スタジオのピアノで一晩で一気に書き上げたという、よく知られた「Pride」誕生秘話があるが、その完成直後のデモテープを当時の妻、山下久美子が盗み聴きしてしまっていた、というエピソード。おそらく布袋自身、本書で初めて知ったことだらう(読んでいれば。たぶん読まない)。


しかし、ハイライトの開陳はそのぐらいにして、
本稿を起こそうと思った理由と、骨子は、以下のことである。

本書『ある愛の詩』では、当然のことながら『よい夢よ、おやすみ』での布袋目線では綴られなかった事が多々書かれており、新しい発見が散見される。
だが、いちばん重要なのは、布袋目線で語られていた同じ事を、山下久美子目線でも語られるのを読むにつけ、物事の両面といふものがよくわかったといふことだ。


1987年BOØWY解散、1990年complex解散、1996年離婚と、布袋は10年間(25歳〜34歳)で3度も途轍もなく大きな別れを経験しているといふ事を改めて思った。
その10年は、布袋の才能が大爆発した時代だった。

氷室京介、吉川晃司、山下久美子。
どれも途轍もない個性の持ち主。
当の布袋がまた途轍もない。

別れの理由の本質は三者とも同じようなものだ。
そも、その別れと同じ理由で出会っているのだった。

人間は対等を求めあうが、対等では生存しあえない。どこかで従属関係ができあがらなければ、共存はできないのだと思い知った。

才気あふれる売れないバンドのギタリストと、ロックの女王の名をほしいままにしていた大物シンガー。そんな「釣り合った」関係が、音楽シーンを塗り替えて億を稼ぐ元BOØWYのギタリストにしてギタリズマーと、大物シンガー、という関係へ変わる。
ギタリズムからよりポップなフィールド、そして世界を目指すギタリストに釣り合うのは、そんな才能へのリスペクトといふ形でハナから登場したポップシンガーであった。


布袋と山下久美子(氷室京介然り、吉川晃司然り)は互いにあまりにもロック過ぎた。
ロックは孤独を全うするものだから別れは必然である。別れをはらんで出会い、そして自ら欲するかのごとく別れたのであった。


先日、本ブログで山下久美子の事を綴り
布袋との1986〜1988が最高傑作で以下、惰性といふ意味の事を書いたが、
それは、まさしく私生活での絶頂期でもあった事が分かった。それは夫婦といふより恋人同士の関係なのであった。
が、いまそう書いたことを反省している。
作品至上主義としては間違いないのだが、
「ああ、人生…」といふ、もののあはれを重んじる俺としては、そう言い切ってはいけなかった。


これからの山下久美子のギグはすべて行かねばならぬ。

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by ichiro_ishikawa | 2016-05-24 23:31 | 音楽 | Comments(0)  

氷室京介ラストギグ観賞


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会社を早退して氷室京介ラストギグ観賞。
先日本ブログでUPした俺ベストからは一曲も披露しなかったし、最悪の音響であったが、
最後のギグを見届けることに意義があった。


氷室京介
「KYOSUKE HIMURO LAST GIGS」
2016年5月23日 東京ドーム

01. DREAMIN'
02. RUNAWAY TRAIN
03. BLUE VACATION
04. TO THE HIGHWAY
05. BABY ACTION
06. ROUGE OF GRAY
07. WELCOME TO THE TWILIGHT
08. MISS MYSTERY LADY
09. "16"
10. IF YOU WANT
11. LOVER'S DAY
12. CLOUDY HEART
13. LOVE & GAME
14. PARACHUTE
15. BANG THE BEAT
16. WARRIORS
17. NATIVE STRANGER
18. ONLY YOU
19. RENDEZ-VOUZ
20. BEAT SWEET
21. PLASTIC BOMB
22. WILD AT NIGHT
23. WILD ROMANCE
24. ANGEL

アンコール1
25. The Sun Also Rises
26. 魂を抱いてくれ
27. IN THE NUDE
28. JEALOUSYを眠らせて
29. NO.N.Y.

アンコール2
30. VIRGIN BEAT
31. KISS ME
32. ROXY
33. SUMMER GAME

アンコール3
34. SEX & CLASH & ROCK'N'ROLL
35. B・BLUE

最後の曲は、「B・BLUE」。

〈もう一度笑ってよTO THE BOYS & GIRLS〉
の〈GIRLS〉をレコード通りあげて歌った。
しかも一番も。完全燃焼の覚悟だったのだらう。


いつになく笑顔の多いギグだった。時折感極まり顔を歪ませる場面があったが、すぐに押し殺して笑顔に変えて見せた。
27歳の19871224の時はワンワン泣いてたが、
55にもなって泣くのもみっともない、との思いだらう。


曲数こそ多いものの、実にあっさりというか、
さっぱりした、清々しいラストギグだった。

俺、15歳から44歳までの30年間、常にどこかに存在していた「氷室京介」が、カッコいいまま、終わった。







by ichiro_ishikawa | 2016-05-24 00:17 | 音楽 | Comments(0)  

20160523氷室ラストギグに布袋が出る可能性

0%。

19880404,05のBOØWYのラストギグズ
あれがファンサービスとしての奇跡的な再結成…。



19871224、渋谷公会堂。
別れたくないのに別れざるをえないといふ悲劇。

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おそらく氷室は布袋と演りたい。
でも演らない。
何故なら別れたから…。
ああ、人生…。


悲劇とは単なる失敗でもなければ、過誤でもないのだ。それは人間の生きてゆく苦しみだ。悲劇は、私達があたかも進んで悲劇を欲するかの如く現れるからこそ悲劇なのである。
(「感想」小林秀雄、1951年、讀賣新聞)



by ichiro_ishikawa | 2016-05-17 19:14 | 音楽 | Comments(0)  

連載 小林秀雄が考へるやうに考へる 考える葦


人間は考える葦だ、という言葉は、あまり有名になり過ぎた。気の利いた洒落だと思ったからである。或る者は、人間は考えるが、自然の力の前では葦の様に弱いものだ、という意味にとった。或る者は、人間は、自然の威力には葦の様に一とたまりもないものだが、考える力がある、と受取った。どちらにしても洒落を出ない。
パスカルは、人間は恰も脆弱な葦が考える様に考えねばならぬと言ったのである。
人間に考えるという能力があるお蔭で、人間が葦でなくなるはずはない。従って、考えを進めて行くにつれて、人間がだんだん葦でなくなって来る様な気がしてくる、そういう考え方は、全く不正であり、愚鈍である、パスカルはそう言ったのだ。そう受取られていさえすれば、あんなに有名な言葉となるのは難かしかったであろう。
(パスカルの「パンセ」について)


これはどういうことか。
言葉は易しいがここで考えられている事は例によって難しい。謎を考えているからだ。というかそも答えを求めていない。いかに問うかに賭けられている。

これは、別のところで書く、「一方の極端まで達したところで何も偉い事はない、同時に両極端に触れて、その間を満たさなければ」を言っている。

あるいは「あらゆる思想は実生活から生れる」
(しかし生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか)
は伏線たりうる。

つまり、考える葦とは、
人間は、生きて知る、
それ以外にない、
という事だ。

「人間は生きて知る」
では気が利かないし、
洒落てもいないから有名にはなりえないが、
そこに込められた思いは深い。
深すぎて暗いから見えづらい。

だのに小林秀雄はパスカルのその暗い心が見えた。その時、小林秀雄は無私を得てパスカルだったから。そういう仕方で対象に向かうのが小林秀雄という批評の魂である。

無私とは分かった気にならないこと。
対象を愛し、対象そのものになること。
それが小林秀雄の批評だ。




by ichiro_ishikawa | 2016-05-12 21:26 | 文学 | Comments(0)  

ゴールデンウイークの俺2016

ゴールデンウイーク最初の3日はピタッとゴトシで埋まったものの、5月2日と6日を代休にあて7連休を謳歌せんと意気込んだ矢先、悪性の風邪に苛まれた。
月曜から木曜まで喉、咳、ドタマとヴァイラスは巡り、本日遂に腹に到達。いまだ治らぬ頭痛に頭を抱えながら一日中トイレで泣きながら過ごしている。

俺の幸せを決して見過ごさず、良くてプラマイゼロには押さえ込まんとする黒幕のその徹底ぶりを俺は憎む。こんなに真面目に生きているのに…。




by ichiro_ishikawa | 2016-05-06 21:47 | 日々の泡 | Comments(1)