小林秀雄アンダーライン

この孛星が
自らその美神を絞殺するに至る迄
彼のみの秘密である幾多の暗面
彼がその脳漿を斫断しつつ、建築した眩暈定著の秘境は
素晴らしい駄々っ子
机の一隅に不器用に肘をついて沈黙している他は無かった
流鼠の天使は
性急な絶対糺問者
彼等の心情が、不幸にもあまり純情すぎたという事であった。各々その情熱の化学に忙しかった
吾々の灰白色の脳細胞が壊滅し再生すると共に吾々の脳髄中に壊滅し再生する
純粋単一な宿命の主調低音
最初に虚無を所有する必要がある
自身の坩堝から取り出した黄金に、何物か未知の陰影を読む
彼の眼は、痴呆の如く、夢遊病者の如く見開かれていければならない
芸術家の脳中に、宿命が侵入するのは必ず頭蓋骨の背後よりだ
彼は「絶対」に参与する
私は絶え入ろうとして死刑執行人を呼んだ、彼等の小銃の銃尾に噛み附く為に
逃走する美神
彼は美神を捕えて刺違えた
瑰麗な夢を満載して解纜する

過去も虚栄も
月並みな嘆きのただ中で
やむを得ず無意味な溜息なぞついている
同感するほど阿呆でもない代わりには、腹を立てる程の自惚れもない、仕方がないから一種嫌な汗をかいて黙っている。これはかなり憂鬱な事である
黙っていた方がましだろう、だが口を噤んだ自分のみすぼらしさに堪える術を知らないとすれば──
苛立たしい顔に出会うごとに、なぜ君はもっと苛々してみないのか、とそう思う

# by ichiro_ishikawa | 2001-10-15 03:40 | 文学 | Comments(1)  

内藤遊人インタビュー by 富沢えいち

富沢えいち「ジャズ四ツ谷口」より転載

 11月14日復刊予定の「ジャズライフ」誌の“噂の真相”について、前・編集顧問、内藤遊人氏にインタビューしました。

「ジャズライフ」復刊記念
編集長・内藤遊人インタビュー

版元の立東社が倒産したことによって「ジャズライフ」誌が休刊したのは今年の7月。熱烈な各方面からのラヴ・コールを受け続け、絶えず「すわ復刊っ!」という噂が流れ続けていたが、この10月初頭にようやく“正式な見通し”を受けることができた。当「ジャズ四谷口」では、あまたの噂を払拭するべく、出入りライターの特権を最大限に行使して、別会社を新設して「ジャズライフ」制作の陣頭指揮にあたることが決まった内藤遊人氏に直撃インタビューを試みた。業界でも有名な“出たがらない”人物の、オフレコ部分もまだ多いという内容であることをお断りして、待ち望んでいた“「ジャズライフ」どうなるの?”の現時点での真相をお届けしよう。

The shape of jazzLife to Come!
「“ジャズライフ”来るべきもの!(仮)」
業界の“奇蹟”が起きた背景とは?

——まず、「ジャズライフ」休刊というニュースには驚きました、という質問からさせていただこうかと思っていたのですが。
内藤 そりゃ、驚きましたよ、こちらも(笑)。
——その時の内藤さんの立場はどう説明すればいいのでしょう。前は社員ということでしたが。
内藤 編集顧問という名前でやってはいましたが、編集長を補佐する立場とでもいえばいいでしょうか。ジャズライフの歴史的にいえば、元・編集長(2代目)だったということにはなりますが。
——編集長を辞めた時点で立東社はお辞めになっていた?
内藤 ええ、そうです。この4〜5年は、皆さんがどのぐらい原稿料をもらっているとか、いくら経費がかかっているのかとかはみてなかったけど、雑誌の方向性に関しては責任を持つ、というスタンスで関わっていました。
——ということは、立東社倒産というニュースは……。
内藤 そういう意味では、仲間の編集部員と同じ感覚で受け止めた、ということになりますね。
——「ジャズライフ」はどのような形で復刊するのでしょうか。
内藤 まあ、「ジャズライフ」に関わっているときから、立東社という会社の中にあっても、独立採算というか、切り離して単独で考えた場合に採算がとれる雑誌にしようと自分では考えながらやってましたし、こうなってからも、発行してくれる会社さえ見つかればなんとかなるだろう、ということは当然考えていました。もっとカンタンに言ってしまえば、自分たちにお金があれば、自分たちで「ジャズライフ」を出してしまおう、ということも当然考えたわけですよ。ところが、どう計算しても、最低でも4〜5千万の開業資金と当初の運転資金がなければ難しいという現実がハッキリと見える(笑)。それで、どこか発行してくれるところはないか……、とそういった状況のなかで、幸せの青い鳥が見つかった、というところでしょうか。
——カンタンに考えてみると、「ジャズライフ」というバンドがあって、今までリリースしていたレコード会社と契約の面でうまくいかなくなったので、別の会社を探した、というようなことなのかな、と。
内藤 ええ、そういう感じかもしれませんね。立東社にも「ジャズライフ」という雑誌に対してそういう自由さを許していたところがありましたから。だからこそ、今回のような早期復刊も可能だったんじゃないかと思います。
——一般に、雑誌の復刊は“奇蹟”と言われますが。
内藤 そうですね。我々も“まさか”という気持ちが確かにありますね。冗談のつもりで言ってるうちに、なんとなくそうなってきた、というのが正直なところなんです(笑)。「そこまで言うなら」と拾ってくれた優しい人たちがいた、と。人生は何でもそうでしょうけど、出会いがあったということですよね。ラッキーには違いないんでしょうけど。
——誰もが助けられるという立場にはないだけに、やはり奇跡的なことですよね。
内藤 ただ、我々は好きなように雑誌を作っていて、これからもそれは変わらないだろうし、以前と同じような発行形体はだめでも、バンドで言う“ストリート・ミュージシャン”みたいな立場でもやろう、とは考えていました。できたかどうかは別ですが(笑)。自費出版して、大手書店に持ち込んで売るのはタイヘンでしょうけど、なんらかの形で、名前は違っても、雑誌を作り続けたいなというのはありました。実際にはいくつも難しい問題を解決しながらやっていかなければならないわけですから、決して簡単にできると思って「雑誌を続けよう」と考えていたわけではないんですけどね。ただ、ストリートで元気良くやっていれば、誰かがいいねと共感してくれるという未来もあるじゃないですか。それもまた、ヒトとの出会いや相性が関係してくるんですけど、可能性がなくなるわけじゃないから。
——三栄書房という名前は出していいんでしょうか。
内藤 もういいでしょう。挨拶状も作りましたから(笑)。
——三栄書房という版元が「ジャズライフ」編集部に「ジャズライフ」を作らせて、それを流通させるということですね。内藤 そうですね。こちらは「ジャズライフ」を制作するための新しい会社を立ち上げました。復刊に伴う内藤遊人復活の奇跡とは?
——最初、内藤さんはヤマハに入社されてたんですよね。
内藤 大学出てからはね。本当はミュージシャンになるつもりで早稲田のダンモに入ったんですが、やっぱりカタギになろうと思って。
——カタギじゃなかったという噂ですよ(笑)。ヤマハの渋谷店にはミュージシャンが来ると半額にしてくれる店員がいるって有名だったって(笑)。
内藤 いえいえ、そんなことないですよ(笑)。噂が噂を呼んでそうなっているんでしょう。
——でも安くしてくれたって言ってましたよ。
内藤 まあ、多少は、ね。だって、ジャズやってる人に高い値段で売るような、そんなかわいそうなことはできないですよ。多少は、ね。
——何で「ジャズライフ」に?
内藤 これは話せば長いんですよ(笑)。ヤマハって、当時は音楽だけじゃなくて、バスタブ作ってたり、アーチェリーも売ってたし、ゴルフ・クラブとか、金属事業部で中国行った同期の人間もいたんですよ。当時は日本楽器製造株式会社と言っていたんだけれど、楽器だけでなく手広く事業をやってた時期だったんですから。で、入社させてもらえたのはいいけれど、最初にピアノとかエレクトーンとかのセールスの研修を受けるんだけれど、これがぜんぜんダメで(笑)、ほかの部署に行っても使いモノにならないってことで、それで渋谷店に配属になったんです。もともと渋谷の店っていうのがヤクザなところで(当時の直営店のなかではやっぱり銀座とか池袋の方がクラシックな雰囲気があった)、そこでまあ、楽器を売るとかはあんまり得意じゃなかったから(笑)、店に遊びに来てくれるミュージシャンに頼んでジャズ教室を始めたり、そんなことばっかりやっていた。当然、ボクの売上は上がらないから、2年半ぐらいで、もう他のことをやった方がいいんじゃないのと言われて、それで辞めたんですけどね(笑)。それでフラフラしているころに、「オマエ、フラフラしているなら一緒に雑誌をやらないか」って早稲田の頃のバンド仲間から誘われたのが実は、立東社だったんです。当時はまだ「ジャズライフ」創刊前でしたから、「ロッキンf」編集部の机に座って手伝いながら、ジョン・デンバーのムックとか、ジャズ・ギタリストやブルース・ギタリストの単行本とか、わけわからんこといろいろとやってたんですよ(笑)。それをやりながら、半年後ぐらいに「ジャズライフ」を作る、ということでスタートしたんです。それが77年。
——内藤さんが編集長になられたのは。
内藤 創刊から2年ぐらい経って、世に言う“フュージョン・ブーム”に火がつき始めたころ、雑誌がようやく軌道にのってきた。始めるときには、「某誌以外はぜったいに成功しないから無謀なことはするな」とみんなに言われましたけどね(笑)。ましてや譜面を入れるなどというような余計なことを考えていたから、ぜったいダメだと言われ続けて、ボクも実はそう思っていたんだけど(笑)、やっているうちに、世の中がこっちに向いてくれた。軌道にのったから今度はオマエが編集長をやれと言われて、別に、引き受けたくはなかったけれど、断る理由もなかったし(笑)、流れのまま、ですよ。編集長になったからって、別にラクになるわけじゃなく、やることも変わりなかったし、かえって余計なお金の計算とかまでしなければならなくなって、楽しくはなかったけど(笑)。まあ、肩書きでどう変わるわけじゃなかったから引き受けたんですけれど、それ以後も「ジャズライフ」自体はどんどん支持されていって、その点ではおもしろかったですね。10年ぐらいやったかな。それでもういいかということもあって、一時は引退していた。まあ、引退といっても、原稿は書いてたから、「ジャズライフ」との関係は続いてたことは続いていたわけだけど。その後、さっき言った編集顧問という形で、また編集に関わるようになったわけです。
——今、不況ですよね。そんななかで「ジャズライフ」が復刊するというニュースは数少ない“良いニュース”だと受け取られているんですが、実は、それほど楽な船出ではないんじゃないかとも思っているんですが。
内藤 間違いなくラクな船出じゃないですよ。やらない方がよかったという意見もあるだろうし、実際にそういう思いも一方にあることは確かです。雑誌を作っても給料が出るかどうかわからないわけだから。24年の歴史が築いた“強み”とは?
——これまでの歴史で、「ジャズライフ」スタイルというものができあがっていたと思うのですが、このアクシデントによって何か変わるということはあるんでしょうか。
内藤 それはないでしょうね。結局、雑誌が20年以上保つというのは、外部から見ればタイヘンなことだと思うんですよ。自分が関わっていた雑誌だということを抜きにしても、ね。すごいことだと思いますよ。
——その20年がダメでこの結果を導いたわけではないんですよね、今回の場合は。
内藤 そうそう。だから、中身がダメになって休刊になっていたのなら、20年が何の意味もないことになるわけだけれど、そうじゃない。「ジャズライフ」は、続いていたことによって自然にスタイルというものができていたんじゃないかと思うんですよ。そうした支持されている部分を継続することが、今回の復刊の使命でもあると思っています。それがなかったら、たぶん、復刊できなかったかもしれない。そんな大儲けできるような雑誌じゃないんだけれど、「ジャズライフ」にはそういう“なにか”があるから、それはほかにはないものだと評価してくれる人がいるわけですよ。それが「ジャズライフ」の持つ強さで、そういう点が認められたから復活が許されたんじゃないかと、手前ミソですが思うんですよ。ユニクロにはユニクロの特色がある。吉野家には吉野家の特色がある。エルメスのビルがオープンすれば並んでまで買いに行く。ブランドという幻想はもちろんありますけれど、そこにしかないから買いに行く、魅力があるから行く、高いけれど行く、安くていいものがあればもちろん行く。強いものにはその根底に何かある。何かないと世の中に受け入れられないわけですよね。それぞれにコスト計算やらなにやらの事情はあるでしょうけれど。同じ強さが、24年続いた「ジャズライフ」にはあったんじゃないかと思うんですよ。それは大事にしたいと思っています。
——結論としては、「ジャズライフ」は変わらない?
内藤 ええ。
——ちょっと休んだだけ。
内藤 ということでしょうね。まあ、これでスタッフが変わるのなら変わるんでしょうけど……。ボクがいなければもちろんリードするヒトによっては変わるだろうけど、いるから変わらないということでもなくて、「ジャズライフ」には「ジャズライフ」を作ってきたものがあるから変わらない、という部分が大きいと思いますよ。でも、版元が変わるということは、まったく同じ状況ではないということでもあるわけです。さて何が変わるか、それは乞うご期待なんですが(笑)。
——広告料が高くなるとか、記事に金を取るとか(笑)。
内藤 そういう部分では変わりません(笑)。変わるということに関して言えば、すでに「ジャズライフ」は歴代で何回も変わってきましたからね。AB版でスタートしたのにA4版に変えたり、平綴じから中綴じに変えたり、まあ、変えたのは主にワタシですけど(笑)。やっぱり飽きるんですよ、昨日と同じことをしていてもつまらないという性格ですから。同じコトをやっていると飽きちゃって続かないんですよ。でも、今は、切れた部分をなんとかつないでいきたい、ということを第一に考えて、つなぐからにはその間の空白を埋める何かを付けなければ! ということで、期待して欲しいと思っています。
——定食に小鉢が1品付く……。
内藤 計画通り行けば、小鉢は付きます。いや、小鉢じゃないかもしれないな、本当にささやかなオマケかもしれないけど(笑)。

# by ichiro_ishikawa | 2001-10-14 03:39 | 音楽 | Comments(0)  

小林秀雄アンダーライン

●人間は、血を持っているからこそ智慧を持つ、とアナクサゴラスが言ったが、恐らく、人間の知性の正しい解明は、原始人の石鏃から現代人の機械に至る、人間が作り得たものは或いは破壊し得たものの裡にしか求められまい。人間が種族保存上、有効に行動し生活する為に、自然は、人間に、知性という道具を与えたのは確からしいが、己の謎を解いて貰う為に与えたとは到底考えられぬ事である。従って、知性は、行為の正確を期するに充分なものだけを正確に理解する。物と物との関係には、いよいよ通暁するが、決して物の裡には這入らない。そのような事は無用の業でなければ狂気の沙汰だ。恐らく、存在と認識の間のディアレティックは、永遠に空しいであろう。
 若し、手があるからこそ智慧がある。と言えるなら、同じ意味で、眼があるからこそ、耳があるからこそ、と言えるであろう。僕等の行為の有効性に協力しない眼や耳は、もはや眼とも耳とも言えまい。心理学者が、どんなに純粋な視覚とか聴覚とかを仮定してみた処で、無駄であろう。僕等の行為の功利性は、僕等の感覚の末端にまで及んでいるだろう。人間は眼を持っているから見ると言ってはいけない、寧ろ眼なぞ持っているにも係わらずどうやら見るのだ、とベルクソンは言っている。僕等の感官は、自然を僕らの生存に巧妙に利用しようが為に、徒然との全的な取り引きを禁止するような、或いはそういう取り引きが非常に困難な様な、そういう構造に出来上がっているらしい。僕等は全力をあげて、人間という生物の裡に閉じこもっている。多くの神秘家が、肉体を侮辱したのも故のない事ではない。
 ランボオという奇怪なマテリアリストは、主観的なものに何の信も置かなかった。彼には叙情詩というものには一向興味を惹かなかった。彼の全注意力は、客観物とこれに触れる僕等の感覚の尖端にいつも注がれていた。どのような思想の形式も感情の動きも、自立自存の根拠を、何処にも持たぬ。それらの動きは、客観世界から、何らかの映像を借用して来なければ、現れ出る事がかなわぬ。と、と言うのは、それらの運動が、客観世界の運動に連続している証拠である。ただ、この外部の自然の運動は、知性の機能によって非常によく整調された神経組織という、特殊な物質を経過するに際して、或る著しい変化を受ける。ランボオに言わせれば、「毒物」と化する。問題は入り口にある、と彼は考える。若し、僕等の感覚が、既に、自然の運動の確率的平均しか受付けない様に整備されているものならば、僕等の主観の奥の方を探ってみた処で何が得られよう。愛の観念、善の観念、等々、総じて僕等の心の内奥の囁きという様な考えは、ランボオには笑うべき空想と見えた。僕等は、ただ見なければならぬ、限度を超えて見なければならぬ。「あらゆる感覚の長い限りない、合理的な乱用」を試みなければならぬ。

●言葉というものが、元来、自然の存在や人間の存在の最も深い謎めいた所に根を下し、其処から栄養を吸って生きているという事実への信頼を失っては、凡そ詩人というのはあり得ない。

●僕等が立会うものは、在る凶暴な力によって、社会の連体性からもぎ取られた純粋視覚の実験である。尤も、彼は立会人を期待していたわけではないが、僕等が立会ったなら、彼はこんな事を言ったかもしれない。推論は、自然に一指も触れる事は出来ない、と諸君は言う。だから、自然を直覚するのだとか愛するのだとか言う。信じられぬ。諸君は、そんな事を決して心の底から信じてはいない。諸君が、窒息しないで生きているのを見ただけで充分だ。僕の報告が晦渋であるなどと文句をつけまい。僕は、「他界から取って来るものに形があれば与えるし、形の決まらぬものなら形の決まらぬ形を与える」。それは実験の結果なのであって、僕の知った事ではない。実験の手続きに、ごまかしはない。せめて僕のサンタックスの明瞭と完結とに注意し給え。
 言うまでもなく、彼が這入ろうとする世界は、認識自体の根拠が揺らぐ様な世界なのだから、彼の実験報告は、人々を一様に納得させる様には書かれていない。彼への敢然たる信頼と共鳴に準じて、彼氏その秘密の幾分かを僕等に分つ。元来が、詩人等がその思想を人に分つ方法だが、彼は、その方法を言わば灼熱する。彼は未知の国から火を盗んで来る。近寄るものは火傷する。僕等は傷口に或る意味が生ずるのを感ずる。だが、詮ずるところ凡そ本物の思想の誕生というものは、皆そういうものではあるまいか。論証だけで出来上がった思想は、人々の雷同性を挑撥するより他に能があるまい。

# by ichiro_ishikawa | 2001-09-27 03:38 | 文学 | Comments(0)  

「おやのおん」小林秀雄

【2000.5.12】

高見澤潤子『兄小林秀雄』(新潮社)所収

おやのおん   尋常二年男 小林秀雄 
 私のきものは、お母さんがこしらへてくださつたのです。学校へくるのは、お父さんやお母さんのかげです。うちでは、私はかはいがつてくださいます。このおんをわすれてはなりません。おんをかへすのには、お父さんやおかさんのいひつけをよく、きいておやにしんぱいをかけないやうにして、学校ではせんせいのおしへをまもるのです。それでおんはかいせるのです。
「明治四十三年度、各学年綴方優作集」(白金尋常小学校)


       

# by ichiro_ishikawa | 2001-01-11 00:05 | 文学 | Comments(0)  

映画作家の言葉

【1999.4.18】

「退屈は最悪の罪だ」
スタンリー・キューブリック STANLEY KUBRICK

「混血は必要なものなんだ、
どこか違う場所へ行こうと試みることが必要なんだよ」
マーティン・スコセッシ MARTIN SCORSESE

(SIGHT AND SOUND 1998/CUT 1999)

# by ichiro_ishikawa | 2001-01-05 00:03 | 映画 | Comments(1)