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渡辺松男『蝶』

第46回迢空賞受賞
渡辺松男『蝶』
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木のすがた地上のかげとつりあふにかげにいかなるおもさもあらず
木のやうに目をあけてをり目をあけてゐることはたれのじやまにもならず
しづけさをたれよりも識る石なれば日がのぼり日がしづむそれだけ
ある日われひとつ南天の実のやうなかがやきのそつと生きたと記す
なめくぢのしめりある夜ばうちやうし考も妣も家具もわれも中におぼほる
ほか全357首!

by ichiro_ishikawa | 2012-04-04 00:09 | 文学 | Comments(1)  

美しく愛しき日本

全日本人必読歌集
『美しく愛しき日本』岡野 弘彦
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師・釈迢空(折口信夫)の伝統を継承する著者が雑誌『短歌』平成23年6月号に発表し大きな話題を呼んだ特別作品100首「美しく愛(かな)しき日本」を中心にまとめられた543首。東日本大震災の死者への鎮魂の祈りに満ちた第8歌集。

by ichiro_ishikawa | 2012-04-03 23:56 | 文学 | Comments(0)  

写実と俺

 短歌には「写実、写生」という、その根本となっている考えを表す伝統的な言葉があるのだが、俺は実はこれがかなり気に入っている。というか生き方に抜群にマッチする。

 「写実、写生」とは、ありのままをそのまま写す、という事で、一見なんでもないようだが、対象のありのままをそのまま写す、という事は普通は出来ない。なぜならこの時、述語「写す」の主体は当然作者であるから、どうしたって作者の私というフィルターがかかってしまう。対象、たとえば自然を描写する場合、「私が見た」自然を描く事しか出来ない。描く時点で、既に、主体の存在無しには為し得ない。これはどうしたって為し得ない、どうしたって為し得ない。
 しかし、私を介した自然などどこが美しかろう。自然「主義」小説や「私小説」がくだらないのと同じだ。我々は、そんな「私」が邪魔で邪魔でしょうがないのだ。

 短歌(や文学としての小説)はその論理的に不可能な写実に到ろうとする。これはどういうことか。徹底的に対象に寄り添う、つまり私を徹底的に排除しようとする不断の意志に他ならない。そして、逆説めくが、徹底的に私を無くす所にこそ、ほんとうの、表現されるに足る私が現れる。自然はすなわち私だ。その私とは普遍的精神である。私を排し自然に到り、結果、自然すなわち私、すなわち普遍的精神を表す。そうした行為が写実の本意、短歌の真髄だとすれば、俺にはすこぶるしっくり来る。その謙虚な意志と行為を畏怖する。写実というシンプルな道は死ぬほど険しいので、ちっとも古びることはない。むしろ常に新しい。
 

 

by ichiro_ishikawa | 2012-03-15 23:56 | 文学 | Comments(0)  

小林秀雄と短歌


 小林秀雄は、短歌について生涯ほとんど言及しておらず、唯一触れた「短歌について」でも、ただ、俺は伝統を愛する、のような味も素っ気もない短文で終わらせているに過ぎないのだが、これは、昭和初期当時、歌壇で実験や前衛、革新と、文学運動がかまびすしい中にあって、伝統を守ることが最も困難なのであって、実験や革新を行っている暇はない、無私なる古典を味わい、伝統を守ることにこそ、よほど意義があるという考えがあったからである。

by ichiro_ishikawa | 2012-03-15 23:54 | 文学 | Comments(0)  

短歌関連情報ベスト5

月刊『短歌』最新号
震災特集「3.11後、歌人は何を考えてきたか」
被災地在住歌人参加。30代以下と50代以上に分けた二世代による大座談会。
第二特集は「古語の魅力−−『古典基礎語辞典』を読む」
歌人が古語辞典を読むとこんなにも面白い。
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角川短歌ライブラリー
『うたの人物記 短歌に詠まれた人びと』
小池光
三十一文字できりとられた個性的な人々の生を、エスプリとユーモアに富んだ語り口で読み解く。知的好奇心をくすぐる短歌エッセイ集。著者は、読売新聞、北国新聞、山陽新聞、信濃毎日新聞歌壇各選者。
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角川短歌ライブラリー
『今さら聞けない短歌のツボ100
三枝 昂之・編
「短歌と和歌はどう違う?」初歩的に見えて実は短歌の肝心な部分に触れるもろもろの不思議をこまやかに楽しく説く。短歌の基本から作歌の現場の身近な悩みまで、実力派35歌人が答える。
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角川ソフィア文庫
『ひとりの夜を短歌とあそぼう』
穂村 弘、東 直子、沢田 康彦
私かて声かけられた事あるねんで(気色の悪い人やったけど)
くすっと笑えて共感できる、傑作・珍作短歌が大集合。女優や漫画家など異業種の言葉の天才たちが自由に遊んだ短歌作品を、人気歌人の穂村弘と東直子が「猫又」主宰・沢田康彦とともに斬る。
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文庫化
『昭和短歌の精神史』三枝昂之
戦中・戦後の占領期を生き抜いた多くの歌人たちの暮らしや想いを、当時の新聞や雑誌、歌集に戻り再現。その内面と時代の空気や閉塞感を浮き彫りにする。第56回芸術選奨文部科学大臣賞ほか受賞作の文庫化。

by ichiro_ishikawa | 2012-02-27 01:04 | 文学 | Comments(0)  

おまえはオレを愛してるか


 文学のよさは、やはり個人でやっているからですね。あなた(北杜夫)の「なぜか胸をうたれて…」が根本ですよ。自分で自分に向かって、すべてをする、反省も悔恨も興奮も、すべて自分持ちです。政治みたいに他ばかりを悪くいう方向が、本来、文学にはないんですね。
(『さびしい文学者の時代』埴谷雄高・北杜夫)

 われわれにとって最終最後の砦は、数量的なものでなく質的なものなんですね。質は人間が最後に持っている最大の領域であって、そしてわれわれには文学がある。
 コンピュータは質を扱えるか。一〇〇年後に最高の頭脳のコンピュータに問いたいのは、「おまえはオレを愛してるか」。その時コンピュータはどう答えてくれますかね。
(埴谷雄高『生命・宇宙・人類』より抜粋)

by ichiro_ishikawa | 2012-02-27 00:03 | 文学 | Comments(0)  

難しい本


 身内他人問わず、たまに、「そんな難しい本ばかり読んじゃって」と、たしなめられる事がある。
 たとえば親がそう発する時の意図は、「そんな事より汗水たらして働け」という単純な叱咤なので、「あ、はい」と、さっさと書を捨ててクワに持ち替えるだけで済むのだが、「インテリぶっちゃって」というイヤミがこもっている輩には少し参る。
 別にぶってるわけでない。てめえをより上に見せたり、下に見せたり、何の為だが分からないセルフプロデュースに身をやつしているほどの暇はないというのが実情なのだが、おそらくそんな弁明は通じないし、通じたくもないのだと思うので反論もしない。

 しかし、このたしなめを逆照射してみると、簡単なもの、一読して分かる様なものをなぜ、あえて読む必要があるのか、というちょっと面白い疑問が湧いた。

 読書にもその人々によりいろいろな目的があろうことは分かるが、俺の場合は分からない事を知りたいから、考えたいから読むのであって、結果、その対象は「難しい」ものとなる。とれても一日4時間しかない貴重な純粋読書の時間を、すでに分かってる事の再確認や、娯楽の為に費やす事は、ちょっと勿体ないと考えている。娯楽のためなら本でなくともメディアはさまざまあるのだし、分からない事を考える、には本しかないだろう。だから常に自分以上の本を読む。出版人にも、難しいものだけをどんどん出すよう求める。せっかく「本」という媒体なのだから。

by ichiro_ishikawa | 2012-02-26 22:43 | 文学 | Comments(0)  

出会い


ミラン・クンデラ『出会い』(河出書房新社)
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すげえいい。
訳者は西永良成。装幀はもちろん平野甲賀。

by ichiro_ishikawa | 2012-02-21 01:08 | 文学 | Comments(0)  

日本の自殺

 ローマは外敵ではなく「パンとサーカス」を求める大衆に迎合し滅んだ。

 現在発売中の「文藝春秋」2012年3月号に、同誌1975年に「グループ一九八四年」の共同執筆として掲載された重要論文「日本の自殺」が再抄録、あわせて同論文の検証文「なぜ警告は生かされなかった?」山内昌之・櫻田淳、「『グループ一九八四年』とは何者か」 田中健五(当時の編集長)が併載されている。必読。
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by ichiro_ishikawa | 2012-02-17 00:43 | 文学 | Comments(0)  

ああ、人生…

 わけあって北杜夫『楡家の人々』読了。

 一体歳月とは何なのか? その中で愚かに笑い、或いは悩み苦しみ、或いは惰性的に暮らしてゆく人間とは何なのか? 語るに足らぬつまらぬもの、それとももっと重みのある無視する事のできぬ存在なのだろうか? ともあれ、否応なく人間たちの造った時計の針は進んでゆく。
 しかし機械に過ぎぬ時計を離れて、「時」とは一体何なのか? それは測り知れぬ巨大な円周を描いて回帰するものであろうか? それとも先へ先へと一直線に進み、永遠の中へ、無限の彼方へと消え去ってゆくものであろうか?(本文より)

を読み、以下の言葉がブワーッと頭をよぎった。

 例へば、こういう言葉がある。「最後に、土くれが少しばかり、頭の上にばら撒かれ、凡ては永久に過ぎ去る」と。当り前のことだと僕等は言う。だが、誰かは、それは確かパスカルの「レ・パンセ」のなかにある文句だ、と言うだろう。当り前のことを当り前の人間が語っても始まらないと見える。パスカルは当り前の事を言うのに色々非凡な工夫を凝らしたに違いない。そして確かに僕等は、彼の非凡な工夫に驚いてるので、彼の語る当り前な真理に今更驚いているのではない。驚いても始まらぬと肝に銘じてゐるからだ。ところで、又、パスカルがどんな工夫を廻らそうと、彼の工夫なぞには全く関係なく、凡ては永久に過ぎ去るという事は何か驚くべき事ではないだろうか。
  言葉を曖昧にしているわけではない。歴史の問題は、まさしくこういう人間の置かれた曖昧な事態のうちに生じ、これを抜け出ることが出来ずにゐるように思はれる。(小林秀雄『ドストエフスキイの生活』)

 人間は、遠い昔から、ただ生きているのに甘んずる事が出来ず、生死を観ずる道に踏み込んでいた。(小林秀雄『本居宣長』)

 思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。(小林秀雄『無常といふ事』)

 あの経験が私に対して過ぎ去って再び還らないのなら、私の一生という私の経験の総和は何に対して過ぎ去るのだろう。(小林秀雄『感想』)

by ichiro_ishikawa | 2012-02-04 16:35 | 文学 | Comments(0)