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村上春樹の問うとは

 2歳になる俺の息子(正確には俺の弟の子供だから甥)が、目に入るものを片っ端から指差して「何これー?」と聞きまくってくるのだが、俺は答えない。
 分からないからでは無論なく(40年も生きていれば大抵の物事の名称は分かる)、答えるのが面倒くさいわけでもない。
 俺は「問う」という行為に敏感だからだ。言わば、「問うとは?」を問うエキスパートだからだ。
 だから俺はしばしこう返す。「何だと思う?」
 そうして俺の息子(正確には甥)は、2歳にしててめえの頭で考える人になりつつあり、すでに口癖は「あれ何だろうねー?」に変化している。

 村上春樹が小澤征爾に取材した本『小澤征爾さんと、音楽について話をする』読了。すげえいい。掲出される音楽のほとんどのCDを読後すぐamazonで買った。音楽の深淵を垣間みさせてくれる画期的な良書だ。

 本書で村上はインタビューの見本というか理想型を図らずも(というのはそれが本書の目的ではないので)示している。つまり、問うとは何かを。

 クラシック音楽がものすげえ好きな村上だが、その好きさは常人の好きとは次元が異なる。それはレコードを沢山持っているとか、知識が著しく豊富であるとかいう瑣末なことに由来する事ではなく(実際、プロ並みに博識だが)、結果、クラシックの専門家である小澤に、音楽についての思索を促している、内省に導いていることが証明している。

 例えば、ある質問を村上がすると、小澤は「うーん、わかりませんね」などとよく言う。すると村上はしばし、「僕が思うに−−」と、自説を述べはじめるのだ。
 そう、すべて自分で考えて、ある仮説を導いてある上での質問なのである。それを受けて、小澤はどうなるか。村上の説に触発され、内省を始め、小澤なりの新しい答えが出てくるのである。このスリルが本書の醍醐味だ。結果の意見の相違などは問題ではない。二人の精神が音楽をめぐって触発し合い躍動している、その様がなんとも感動的だ。

 あるいは、こういうパターンもある。ある質問を村上がすると、小澤は例によって「うーん、わかりませんね」と黙る。すると村上は、その質問の背景を詳しく語り始める。
 例えば、村上が、「マーラーが長い間そんなに広くは聴かれていなかったのはどうしてか」を質問する。小澤は「さあ」とにべもない。すると村上は、音楽史的な大まかな流れを説明しだし、そこにマーラーが入る余地がなかったという事実を伝える。そして改めて問う。「どうしてでしょう」。すると小澤の思考回路のスイッチが入り、そこからさらにその質問自体を超えてしまうマーラーの本質的な面白さについての話が展開していくのだ。

 問うとは、すなわち、好きになること、だから自ずとてめえで考える、と言う事だ。そうなると答えはもはや出なくても良い。考える事、それ自体が楽しくてしょうがない。それが、問う、という本質だ。

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by ichiro_ishikawa | 2011-12-06 02:29 | 文学 | Comments(1)  

池田晶子 in ニュースステーション

超貴重映像。
だのにテレビってちゃかすから嫌いだ。

by ichiro_ishikawa | 2011-11-04 02:28 | 文学 | Comments(0)  

池田晶子 読売新聞1998年4月1日

 現在の日本に生きる人々は、自分が何のために何をしているかを自覚していませんね。自分の精神性以外の外側の何かに価値を求めて生きているから、いったんその価値が崩れると慌てふためくことになる。精神性の欠如という点で、かなりレベルの低い時代と思う。
 現代世界全体がそうだが、物質主義、現世主義、生命至上主義です。欲望とか生活とか、そういったことの人生における意味と価値を、根っこからきちんと考えたことがない。だから、金融不安など大事件のように騒いでいるが、先が分からないのは別に今に始まったことではない。生存するということは、基本的にそういうことなのだから、ちょうどいい気付け薬だと私は思う。
 地球人類は失敗しました。率直なところ、私はもう手遅れだと思う。この世に存在した時から、生存していることの意味を問おうとせず、生存することそれ自体が価値だと思って、ただ生き延びようとしてきた。結果、数千年かけて徐々に失敗した。医学なども、なぜ生きるのかを問わず、ただ生きようとすることで進歩した。何のための科学かという哲学的な内省を経ていない。
 ただ生きるのが価値なのでなく、善く生きること、つまり、より善い精神性をもって生きることだけが価値なのです。内省と自覚の欠如が、人類の失敗の原因だが、手遅れだといって放棄していいのではない。常により善く生きようとすることだけが価値なのだから、それを各人が自分の持ち場において実行するべきなのです。
 政治にしても、問題は、政治家が「よりよい」と言うときの、その意味です。彼らの言う「よい」とは、「善い」ではなくて「良い」、良い生活が人間の価値であることを疑ったことがない。しかし、人生の幸福は精神の充足以外あり得ません。物質に充足した人が、必ずしも幸福だとは思っていないのはなぜですか。みんな自分を考えるということを知らない。考え方を知らないというよりも、そもそも「考える」とはどういうことかさえ知らない。
 国民の側も、他人のことを悪く言えるほどあなたは善いのですかと、私はいつも思う。汚職した官僚や政治家はむろん悪いが、その悪いことをした人を、得をしたとうらやんで悪く言っているなら同じことだ。嫉妬と羨望を正義の名にすり替えているだけだ。
 世の中が悪いのを、常に他人のせいにしようとするその姿勢そのものが、結局世の中全体を悪くしていると思う。政治家が悪いと言っても、その悪い政治家を選んだのは国民なんだから。にわとりと卵で、どうしようもないと気づいた時こそ、「善い」とは何かと考えてみるべきだ。一人ひとりがそれを考えて自覚的に生きる以外、世の中は決して善くならない。
 税金の引き上げ引き下げで、生活が良くなる悪くなるという話以前の根本的な問題です。
 むろん政治は、生活する自我同士の紛争を調停するのが仕事なのだから、政治家はそのことに自覚的であってもらいたい。政治家が人を動かし、政策を進める時の武器は「言葉」のはず。しかし、現在の政治の現場ほど言葉が空疎である場所はない。「命を懸けて」なんて平気で言う。言う方も聞く方も本気とは思っていない。政治家に詩人であれとは望まないが、自分の武器を大事にしないのは、自分の仕事に本気でないからだ。言葉を大事にしない国は滅びます。
 だからと言って、「保守主義」とか自分から名乗るのもどうかと思う。なんであれ「主義」というのはそれだけで空疎なものだ。自分の内容が空疎だから、そういう外側のスローガンに頼りたい場合が多いのではないか。やはり、各人の精神の在り方こそが問われるべきだ。
 問題はそんなところにない。要は、政治家から国民まで、一人ひとりの生き方の自覚でしかない。だからこそ「考える」ことが必要だ。考えもしないで生きているから、滅びの道を歩むことになる。考えることなら、今すぐこの場で出来ることです。
(中略)
 半世紀戦争がなかったことが大きいと思うが、みんな自分が死ぬということを忘れている。人がものを考えないのは、死を身近に見ないからだと思う。と言って、永遠に生きると考えているわけでもない。漠然としたライフプランで、なんとなく生きている。一番強いインパクトは死です。人がものを考え、自覚的に生き始めるための契機は死を知ることです。
 制度を変えても、精神の在り方が変わらなければ、世の中は決して変わりません。
(読売新聞、1998年4月1日 blog 目黒被災より)

by ichiro_ishikawa | 2011-11-04 02:16 | 文学 | Comments(0)  

兄 小林秀雄との対話ー人生についてー

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 1970年に講談社現代新書から出て今や絶版となっていた高見沢潤子『兄 小林秀雄との対話ー人生についてー』が講談社文芸文庫に入った。
 小林秀雄の妹であり、「のらくろ」田河水泡の妻である作者が、兄・小林秀雄の生き方・考え方を、わかりやすく伝えるために、兄との対話・質問を繰り返し、その人生観・人間観を描いた最強の小林秀雄読本。
 小林秀雄を難しいと敬遠している「考える素人」は、ここから入るといい。ただしその後、原典に戻るべし。詩を散文に翻訳したものを読んで「意」だけを了解して「姿」を見ないのは、片手落ちどころか、実は何も得ていないに等しい。大事なのは言葉の「姿」だ。

 ちなみに高見沢潤子の筆による小林秀雄読本は、ほかに、『兄 小林秀雄』(新潮社、1985年)、『生きること生かされること―兄小林秀雄の心情』(海竜社、1987年)、『続 生きること生かされること―兄・小林秀雄の真実』( 海竜社、1989年)、『生きることは愛すること―兄 小林秀雄の実践哲学』(海竜社、1993年)、『人間の老い方死に方―兄小林秀雄の足跡』( 海竜社、1995年)と5冊ある。

by ichiro_ishikawa | 2011-10-27 01:30 | 文学 | Comments(0)  

「フクシマ」論



東電・〈原子力ムラ〉の不合理や不条理の暴露に励む者。
ひたすら放射線や自然エネルギーに関する知識・情報を収集しては周りに披露しようとする者。
そこかしこに救国のヒーローをでっち上げて感傷にひたろうとする者。
福島の地元住民を一方で「自分たちで使うわけではない電力を作ってきたのにこんなことになってしまってかわいそう」と「良心派」ぶり、他方で「結局補助金とかジャブジャブもらってたんだから自業自得でしょ」と「リアリスト」ぶる人々。

そうしたすべての人々や、知的負荷をかけない単なる「ノリ」で、思索した気になっている人の眼を開かせる。

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「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか
開沼博
(青土社 2011年6月16日発行)

明治維新以降の近代化全体の構造というアングルから、日本の戦後成長を支えてきた「無意識のうちで是としているもの」を解き明かそうとする良書。

by ichiro_ishikawa | 2011-10-10 23:09 | 文学 | Comments(1)  

名著


 ある歌人が「ものすげえ」と言うので、谷川俊太郎・山田馨『ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る』(ナナロク社)ゲットン。2,940円と高いが、736ページなので大アリ。装幀は無論、おそるおそるチラッとめくっただけで名著、決定。
 
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by ichiro_ishikawa | 2011-08-23 01:28 | 文学 | Comments(0)  

一流作品について

一流作品は難解だ。しかし難解だというそのことがまたあんまりわかりやすくはない。小林秀雄

by ichiro_ishikawa | 2011-08-22 01:38 | 文学 | Comments(0)  

小林秀雄 全翻訳

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 講談社から昭和56年7月28日に出た『小林秀雄 全翻訳』初版(普及版)をネット古書店にて安価で入手。ちなみに限定版(菊判/背・小口革上製/天金/布貼函入/外函付/毛筆署名・朱番号入)はさすがに今では入手困難。それでも布装上製/函入なのは嬉しい。当時の定価は5,800円。いまの値ごろ感で言えば12,000円といったところか。
 内容は下記の通りだが、新潮社版第五次全集には、アラン「精神と情熱に関する八十一章」、ポオル・ヴァレリイ「テスト氏」、サント・ブウヴ「我が毒」、「ランボオ詩集」という四大翻訳が収められているが、ボオドレエルやジイド、リヴィエールの細かいものまでが一堂に会しているのは有り難い。初出や収録単行本のデータは無論、後記や付記などの情報も親切な郡司勝義による詳細な解題もよい。全870ページ。小林作品の中で最も分厚い。
 編集者のペンであろう帯文のテンションもいい。

 燦爛たる詩想
 質実なる論究
 比類ない
 巨匠小林秀雄の青春が
 全翻訳の火箭となって
 ここに飛ぶ!

 全集などに未収録のまま、今では入手不可能となった諸篇に至るまでその全訳業をまとめ尽くした本書は、時流に洗い去られてなお、日本文学の古典として残る感応と表現の魔術的魅力、時代の精神の交響を広く世に贈ろうとする。
 今後この形で刊行されることはもはやない。


今なら、「もっと大衆に判りやすく」とか言われてボツになるな。何だよ、判りやすくってな。一読してわかるようなものに価値はない。一流なものはすべて難解だ。難解な対象を相手にしてるわけだから。難解だから書くわけだ。でなかったら本じゃなくてもいいだろう。難解な本だけが生き残る。読書人が変質しているのか。版元がセンスなくアホなのか。両方だな。


『小林秀雄 全翻訳』収録内容

シャルル・ボオドレエル
「ボオドレエルの日記より」
「エドガア・ポオ その生涯と作品」
「再びポオに就いて」
「悪の華(抄)」

エドガア・アラン・ポオ
「メエルゼルの将棋差し」

アルチュウル・ランボオ
「地獄の季節」
「修画」
「韻文詩」

ジャック・リヴィエール
「アンドレ・ジイド」

アンドレ・ジイド
「ジャック・リヴィエール」
「パリュウド」
「プレテクスト(抄)」

ポオル・ヴァレリイ
「テスト氏」
「アルベエル・チボオデ追悼」
「ジャック・リヴィエール追悼」

アラン
「精神と情熱に関する八十一章」

シャルル・オオギュスト・サント・ブウヴ
「わが毒」

by ichiro_ishikawa | 2011-08-15 18:27 | 文学 | Comments(0)  

それはうまく口では言えないやな

 夏休みもクライマックスに近づいているというのに宿題には全く手をつけず、「勝手に自由研究」の一環で、小林秀雄全集未収録作品を集めては片っ端から読んでいるが、今の気分に合致していて面白かったものを下記に抜粋する。別の所でも書いていた(すぐ出ない)実業家の知人に関する、軽めのエピソードだが、小林秀雄の核に触れている重要な一節だ。

 昭和34年11月30日、NHK第二放送の教養特集で放送された池島信平(当時文藝春秋新社編集局長)、嶋中鵬二(当時中央公論社社長)との鼎談「文壇よもやま話」。この鼎談は、後の昭和36年4月に青蛙書房から刊行された『文壇よもやま話 上巻』に収録され、長らく絶版になっていたが、昨年の2010年10月、唐突に中公文庫に入った。ベタ起こしに近く、本人もそんなに推敲していないのか、文章としていささか読みにくいが、その分、収録時の生々しさが再現されていて、これはこれでよろしい。



 僕はね、よく考えるんだけどね、……もう死んだんだけど、僕の知人だった人に実業家があったんだよ。親しくしてたんだ。非常に有能で立派な人だったがね。僕は面白いと思ったのはね。人がいろんな意見を述べるでしょう? いろんなことを言うとね、「ごもっとも」ッて言うんだよ、「ごもっとも」ッて。また、反対のいろんな意見を言う奴が来ても、「ごもっとも」ッて言うんだよ。それから今度ね、自分が喋る段階になると、「ごらんのとおり」ッて言うんだよ、「ごらんのとおり」ッて。何にも弁解も、説明もしねえんだよ。それが癖みたいな人があったけどね。あ、成る程なア、こういうことがあるんだなあッて、まだ、覚えてることがあるけどね。その……いろんな意見ッてね、いろんなことを言ってみてもね。皆ごもっともだろう? だけど君、違うんだよね、本当のことは違うんだよ。それが、いろいろ実地に当たって仕事をして来た人は、いつでも実地ッてものを考えてるでしょう。実地ッてものは、つまり材料が沢山あるわけだろう……その中からあれだなッていうものはチャンと判ってるわけだな。それはうまく口では言えないやな。だから口でいろいろ意見を言う奴は「ごもっとも」なんだよ、みんな。だから「ごもっとも」っッて言ってるんだよ。さて、今度は自分が説明しようと思っても、あれだなッてことは、あんまり材料を沢山知ってるから、うまく言えないんだよ。だから「ごらんのとおり」なんだよ(笑)。「ごらんのとおり」ッ言ってるんだよ。で、僕はね、やっぱりね、批評のコツってのはそういうもんじゃないかね。僕はそういう風に思うがね。
 つまり材料が沢山なくちゃだめよ。だからホラ、新聞の政治論文でも、文化論でも、なんでも材料が実に貧弱なのよ。だから後は言葉で誤摩化さなくちゃならないでしょ? だから空論ばかり吐くわけだろ? ところが材料が沢山あると、これは中々ものは言えないもんだよね。あんまり沢山矛盾した材料があるでしょう? それをじいッと眺めているとだね、材料の中の方から、なんか結論が自然と浮かんでくるもんだよね。で、それは巧く言えないもんだよね。で、こいつをキャッチしてる奴ね、こいつをキャッチしてる奴は、あんまり喋らんだろ? 「ごらんのとおり」ッて言ってるよ。……僕はね、この頃、ジャーナリズムというものが非常に僅かな材料をもって喋っているということと、それから沢山材料を持ってる人は喋らんということを思うね。喋らん人達はジャーナリズムに顔を出さないんだよ。で、こいつらがね、僕は日本の文化の原動力だと思うよ。この「ごらんのとおり」ッて言ってる奴がね。


 上記の知人は、小林秀雄自身のことでもあろう。
 小林秀雄は、何とも言いがたい悲しみを胸に、様々なる意匠すべてを「ごもっとも」で済まし、後年は、ただ「ごらんのとおり」と言うことだけに専念した……。

by ichiro_ishikawa | 2011-08-14 22:19 | 文学 | Comments(0)  

小林秀雄と政治

 小林秀雄が政治を直接主題とした作品には、「政治の文学支配」(東京朝日新聞・昭和12年6月)「政治論文」(朝日新聞・昭和15年11月)「政治と文学」(初出:昭和26年10〜12月『文藝』/収録:『常識について 小林秀雄講演集』筑摩叢書・昭和41年7月20日、『小林秀雄 現代人生論全集第七巻』雲華社・昭和41年7月25日、『文学・芸術論集』白凰社・昭和45年12月10日、『Xへの手紙・私小説論』新潮文庫・昭和37年4月10日、『常識について』角川文庫・昭和43年11月30日、『考えるヒント3』文春文庫・昭和51年6月25日)があり、特に「政治は虫が好かない、ただその虫の居所には気をかけている」が有名な「政治と文学」は、小林秀雄の政治観をよく表す代表作といえる。

 今夏の自由研究の最中に、全集未収録作品を所収する絶版本を多数Amazonn古書店で購入。俺はPrime会員なので早いものだと当日届く。その中で特に気になっていた作品の一つに、「政治について―鼎談/亀井勝一郎・河盛好蔵・小林秀雄」があって、早速読んでみた。骨子は、名作「政治と文学」と変わらぬが(「政治と文学」の4年後)、せっかくなので以下に抜粋する。

 政治という概念は大変あいまいですね。政治家といっても人間としてもあいまいな人種ですね。例えば八百屋さんとか、文士とかいうものは何をやっているかと言えばすぐ判るけれども、政治家というものは一体何をやっているのか。

 政治家というものは、何か偉いもののようにみんな思っているね。そういう考えをやめればいい。第一政治家というものは文化の生産の中にたずさわるものじゃないんだから。彼等は生産された文化を管理したり整理したりする役目でしょう。そういう人が何が偉いんだ。

 官僚には、事務という仕事があるが、所謂政治家というものは、実際仕事というものを、実体ある仕事というものを持っていない不思議な職業だな。仕事がないから、権力だとか支配欲とか、そういうものにどうしても捕らえられるのではないかな。人々が皆それぞれの生産にたずさわって暇がないのをいい事にして、そのすきに成功するという人種に見えるな。僕は、そういう人間が嫌いだ。みんな嫌っていいいと思うのだよ。

 或る機械的な組織が、非常な能率を上げるという場合、この組織を発明したのは人間だが、これが、だんだん発明者の手に負えなくなる、そういう事は実際に起こるだろうが、官僚組織の悪というものは、そういうものではないね。まるで人間の能率を低下させる為に工夫された組織みたいな恰好をしてますからね。やっぱりこれは大改革を要するでしょう。困難ではあるが、手に負えないというものではないでしょう。政府の行政改革がお題目に終るというのは、実行の困難に、実際にぶつかるのか、それともそんなものをやる気がはじめから全然ないとか実に疑われますね。。政治家は一向能率の上がらぬ官僚組織の上にあぐらをかいている方が、本当は気持ちがいいのかも知れないね。

 政治家は、文化の生産者ではない、生産された文化の管理者という所が根本だと思います。だから政治家の自己主張ということは、常に危険なんだな。自己主張は直ぐ煽動になる。集団的な権威の台頭になる。こういう考えは保守的な考えなのだが、政治の問題というものに関しては、僕は保守派だな。政治というものは常識が根本だと考えるからです、人間の個性の創造性ということでは、革命的なものも破壊的なものも認めざるを得ないが、政治の集団行為の中に革命原理というものを持ち込む事は、必ず不幸を招くと思う。残虐と暴力が常識を乗り越えてしまうのだ。(中略)やはり政治とは、衣食住の合理化の実際技術だと思うね。パーフェクトなものを決して追わず、若干の成果は確実におさめていくという道だと思うな。イデオロギーなど洗い落として、そこに常識と善意と努力が現れるという事でなければいけないという考え方です。

 ついでに亀井勝一郎のよい言葉も記しておく。

 政治というものは(中略)あらゆる人間の平均性というものに立脚したものでしょう。平均して徐々に生活もよくなればいいけれども、平均性というものをどこに置いて、それをどんなふうにつかむかということが政治技術だと思う。文学というものは平均性に対する反抗から出てきているから、私は絶対に相容れないものだと思うし、相容れないからいいんだという考えを持っている。

「政治について―鼎談/亀井勝一郎・河盛好蔵・小林秀雄」
(初出:NHK第二放送教養特集 → 週刊NHK新聞、昭和30年1月)
新潮社版第五次全集未収録
『小林秀雄対話録』新潮社一時間文庫(昭和30年7月15日)収録作品

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by ichiro_ishikawa | 2011-08-13 22:26 | 文学 | Comments(0)