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短歌関連情報ベスト5

月刊『短歌』最新号
震災特集「3.11後、歌人は何を考えてきたか」
被災地在住歌人参加。30代以下と50代以上に分けた二世代による大座談会。
第二特集は「古語の魅力−−『古典基礎語辞典』を読む」
歌人が古語辞典を読むとこんなにも面白い。
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角川短歌ライブラリー
『うたの人物記 短歌に詠まれた人びと』
小池光
三十一文字できりとられた個性的な人々の生を、エスプリとユーモアに富んだ語り口で読み解く。知的好奇心をくすぐる短歌エッセイ集。著者は、読売新聞、北国新聞、山陽新聞、信濃毎日新聞歌壇各選者。
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角川短歌ライブラリー
『今さら聞けない短歌のツボ100
三枝 昂之・編
「短歌と和歌はどう違う?」初歩的に見えて実は短歌の肝心な部分に触れるもろもろの不思議をこまやかに楽しく説く。短歌の基本から作歌の現場の身近な悩みまで、実力派35歌人が答える。
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角川ソフィア文庫
『ひとりの夜を短歌とあそぼう』
穂村 弘、東 直子、沢田 康彦
私かて声かけられた事あるねんで(気色の悪い人やったけど)
くすっと笑えて共感できる、傑作・珍作短歌が大集合。女優や漫画家など異業種の言葉の天才たちが自由に遊んだ短歌作品を、人気歌人の穂村弘と東直子が「猫又」主宰・沢田康彦とともに斬る。
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文庫化
『昭和短歌の精神史』三枝昂之
戦中・戦後の占領期を生き抜いた多くの歌人たちの暮らしや想いを、当時の新聞や雑誌、歌集に戻り再現。その内面と時代の空気や閉塞感を浮き彫りにする。第56回芸術選奨文部科学大臣賞ほか受賞作の文庫化。

by ichiro_ishikawa | 2012-02-27 01:04 | 文学 | Comments(0)  

おまえはオレを愛してるか


 文学のよさは、やはり個人でやっているからですね。あなた(北杜夫)の「なぜか胸をうたれて…」が根本ですよ。自分で自分に向かって、すべてをする、反省も悔恨も興奮も、すべて自分持ちです。政治みたいに他ばかりを悪くいう方向が、本来、文学にはないんですね。
(『さびしい文学者の時代』埴谷雄高・北杜夫)

 われわれにとって最終最後の砦は、数量的なものでなく質的なものなんですね。質は人間が最後に持っている最大の領域であって、そしてわれわれには文学がある。
 コンピュータは質を扱えるか。一〇〇年後に最高の頭脳のコンピュータに問いたいのは、「おまえはオレを愛してるか」。その時コンピュータはどう答えてくれますかね。
(埴谷雄高『生命・宇宙・人類』より抜粋)

by ichiro_ishikawa | 2012-02-27 00:03 | 文学 | Comments(0)  

難しい本


 身内他人問わず、たまに、「そんな難しい本ばかり読んじゃって」と、たしなめられる事がある。
 たとえば親がそう発する時の意図は、「そんな事より汗水たらして働け」という単純な叱咤なので、「あ、はい」と、さっさと書を捨ててクワに持ち替えるだけで済むのだが、「インテリぶっちゃって」というイヤミがこもっている輩には少し参る。
 別にぶってるわけでない。てめえをより上に見せたり、下に見せたり、何の為だが分からないセルフプロデュースに身をやつしているほどの暇はないというのが実情なのだが、おそらくそんな弁明は通じないし、通じたくもないのだと思うので反論もしない。

 しかし、このたしなめを逆照射してみると、簡単なもの、一読して分かる様なものをなぜ、あえて読む必要があるのか、というちょっと面白い疑問が湧いた。

 読書にもその人々によりいろいろな目的があろうことは分かるが、俺の場合は分からない事を知りたいから、考えたいから読むのであって、結果、その対象は「難しい」ものとなる。とれても一日4時間しかない貴重な純粋読書の時間を、すでに分かってる事の再確認や、娯楽の為に費やす事は、ちょっと勿体ないと考えている。娯楽のためなら本でなくともメディアはさまざまあるのだし、分からない事を考える、には本しかないだろう。だから常に自分以上の本を読む。出版人にも、難しいものだけをどんどん出すよう求める。せっかく「本」という媒体なのだから。

by ichiro_ishikawa | 2012-02-26 22:43 | 文学 | Comments(0)  

出会い


ミラン・クンデラ『出会い』(河出書房新社)
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すげえいい。
訳者は西永良成。装幀はもちろん平野甲賀。

by ichiro_ishikawa | 2012-02-21 01:08 | 文学 | Comments(0)  

日本の自殺

 ローマは外敵ではなく「パンとサーカス」を求める大衆に迎合し滅んだ。

 現在発売中の「文藝春秋」2012年3月号に、同誌1975年に「グループ一九八四年」の共同執筆として掲載された重要論文「日本の自殺」が再抄録、あわせて同論文の検証文「なぜ警告は生かされなかった?」山内昌之・櫻田淳、「『グループ一九八四年』とは何者か」 田中健五(当時の編集長)が併載されている。必読。
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by ichiro_ishikawa | 2012-02-17 00:43 | 文学 | Comments(0)  

ああ、人生…

 わけあって北杜夫『楡家の人々』読了。

 一体歳月とは何なのか? その中で愚かに笑い、或いは悩み苦しみ、或いは惰性的に暮らしてゆく人間とは何なのか? 語るに足らぬつまらぬもの、それとももっと重みのある無視する事のできぬ存在なのだろうか? ともあれ、否応なく人間たちの造った時計の針は進んでゆく。
 しかし機械に過ぎぬ時計を離れて、「時」とは一体何なのか? それは測り知れぬ巨大な円周を描いて回帰するものであろうか? それとも先へ先へと一直線に進み、永遠の中へ、無限の彼方へと消え去ってゆくものであろうか?(本文より)

を読み、以下の言葉がブワーッと頭をよぎった。

 例へば、こういう言葉がある。「最後に、土くれが少しばかり、頭の上にばら撒かれ、凡ては永久に過ぎ去る」と。当り前のことだと僕等は言う。だが、誰かは、それは確かパスカルの「レ・パンセ」のなかにある文句だ、と言うだろう。当り前のことを当り前の人間が語っても始まらないと見える。パスカルは当り前の事を言うのに色々非凡な工夫を凝らしたに違いない。そして確かに僕等は、彼の非凡な工夫に驚いてるので、彼の語る当り前な真理に今更驚いているのではない。驚いても始まらぬと肝に銘じてゐるからだ。ところで、又、パスカルがどんな工夫を廻らそうと、彼の工夫なぞには全く関係なく、凡ては永久に過ぎ去るという事は何か驚くべき事ではないだろうか。
  言葉を曖昧にしているわけではない。歴史の問題は、まさしくこういう人間の置かれた曖昧な事態のうちに生じ、これを抜け出ることが出来ずにゐるように思はれる。(小林秀雄『ドストエフスキイの生活』)

 人間は、遠い昔から、ただ生きているのに甘んずる事が出来ず、生死を観ずる道に踏み込んでいた。(小林秀雄『本居宣長』)

 思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。(小林秀雄『無常といふ事』)

 あの経験が私に対して過ぎ去って再び還らないのなら、私の一生という私の経験の総和は何に対して過ぎ去るのだろう。(小林秀雄『感想』)

by ichiro_ishikawa | 2012-02-04 16:35 | 文学 | Comments(0)  

村上春樹の問うとは

 2歳になる俺の息子(正確には俺の弟の子供だから甥)が、目に入るものを片っ端から指差して「何これー?」と聞きまくってくるのだが、俺は答えない。
 分からないからでは無論なく(40年も生きていれば大抵の物事の名称は分かる)、答えるのが面倒くさいわけでもない。
 俺は「問う」という行為に敏感だからだ。言わば、「問うとは?」を問うエキスパートだからだ。
 だから俺はしばしこう返す。「何だと思う?」
 そうして俺の息子(正確には甥)は、2歳にしててめえの頭で考える人になりつつあり、すでに口癖は「あれ何だろうねー?」に変化している。

 村上春樹が小澤征爾に取材した本『小澤征爾さんと、音楽について話をする』読了。すげえいい。掲出される音楽のほとんどのCDを読後すぐamazonで買った。音楽の深淵を垣間みさせてくれる画期的な良書だ。

 本書で村上はインタビューの見本というか理想型を図らずも(というのはそれが本書の目的ではないので)示している。つまり、問うとは何かを。

 クラシック音楽がものすげえ好きな村上だが、その好きさは常人の好きとは次元が異なる。それはレコードを沢山持っているとか、知識が著しく豊富であるとかいう瑣末なことに由来する事ではなく(実際、プロ並みに博識だが)、結果、クラシックの専門家である小澤に、音楽についての思索を促している、内省に導いていることが証明している。

 例えば、ある質問を村上がすると、小澤は「うーん、わかりませんね」などとよく言う。すると村上はしばし、「僕が思うに−−」と、自説を述べはじめるのだ。
 そう、すべて自分で考えて、ある仮説を導いてある上での質問なのである。それを受けて、小澤はどうなるか。村上の説に触発され、内省を始め、小澤なりの新しい答えが出てくるのである。このスリルが本書の醍醐味だ。結果の意見の相違などは問題ではない。二人の精神が音楽をめぐって触発し合い躍動している、その様がなんとも感動的だ。

 あるいは、こういうパターンもある。ある質問を村上がすると、小澤は例によって「うーん、わかりませんね」と黙る。すると村上は、その質問の背景を詳しく語り始める。
 例えば、村上が、「マーラーが長い間そんなに広くは聴かれていなかったのはどうしてか」を質問する。小澤は「さあ」とにべもない。すると村上は、音楽史的な大まかな流れを説明しだし、そこにマーラーが入る余地がなかったという事実を伝える。そして改めて問う。「どうしてでしょう」。すると小澤の思考回路のスイッチが入り、そこからさらにその質問自体を超えてしまうマーラーの本質的な面白さについての話が展開していくのだ。

 問うとは、すなわち、好きになること、だから自ずとてめえで考える、と言う事だ。そうなると答えはもはや出なくても良い。考える事、それ自体が楽しくてしょうがない。それが、問う、という本質だ。

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by ichiro_ishikawa | 2011-12-06 02:29 | 文学 | Comments(1)  

池田晶子 in ニュースステーション

超貴重映像。
だのにテレビってちゃかすから嫌いだ。

by ichiro_ishikawa | 2011-11-04 02:28 | 文学 | Comments(0)  

池田晶子 読売新聞1998年4月1日

 現在の日本に生きる人々は、自分が何のために何をしているかを自覚していませんね。自分の精神性以外の外側の何かに価値を求めて生きているから、いったんその価値が崩れると慌てふためくことになる。精神性の欠如という点で、かなりレベルの低い時代と思う。
 現代世界全体がそうだが、物質主義、現世主義、生命至上主義です。欲望とか生活とか、そういったことの人生における意味と価値を、根っこからきちんと考えたことがない。だから、金融不安など大事件のように騒いでいるが、先が分からないのは別に今に始まったことではない。生存するということは、基本的にそういうことなのだから、ちょうどいい気付け薬だと私は思う。
 地球人類は失敗しました。率直なところ、私はもう手遅れだと思う。この世に存在した時から、生存していることの意味を問おうとせず、生存することそれ自体が価値だと思って、ただ生き延びようとしてきた。結果、数千年かけて徐々に失敗した。医学なども、なぜ生きるのかを問わず、ただ生きようとすることで進歩した。何のための科学かという哲学的な内省を経ていない。
 ただ生きるのが価値なのでなく、善く生きること、つまり、より善い精神性をもって生きることだけが価値なのです。内省と自覚の欠如が、人類の失敗の原因だが、手遅れだといって放棄していいのではない。常により善く生きようとすることだけが価値なのだから、それを各人が自分の持ち場において実行するべきなのです。
 政治にしても、問題は、政治家が「よりよい」と言うときの、その意味です。彼らの言う「よい」とは、「善い」ではなくて「良い」、良い生活が人間の価値であることを疑ったことがない。しかし、人生の幸福は精神の充足以外あり得ません。物質に充足した人が、必ずしも幸福だとは思っていないのはなぜですか。みんな自分を考えるということを知らない。考え方を知らないというよりも、そもそも「考える」とはどういうことかさえ知らない。
 国民の側も、他人のことを悪く言えるほどあなたは善いのですかと、私はいつも思う。汚職した官僚や政治家はむろん悪いが、その悪いことをした人を、得をしたとうらやんで悪く言っているなら同じことだ。嫉妬と羨望を正義の名にすり替えているだけだ。
 世の中が悪いのを、常に他人のせいにしようとするその姿勢そのものが、結局世の中全体を悪くしていると思う。政治家が悪いと言っても、その悪い政治家を選んだのは国民なんだから。にわとりと卵で、どうしようもないと気づいた時こそ、「善い」とは何かと考えてみるべきだ。一人ひとりがそれを考えて自覚的に生きる以外、世の中は決して善くならない。
 税金の引き上げ引き下げで、生活が良くなる悪くなるという話以前の根本的な問題です。
 むろん政治は、生活する自我同士の紛争を調停するのが仕事なのだから、政治家はそのことに自覚的であってもらいたい。政治家が人を動かし、政策を進める時の武器は「言葉」のはず。しかし、現在の政治の現場ほど言葉が空疎である場所はない。「命を懸けて」なんて平気で言う。言う方も聞く方も本気とは思っていない。政治家に詩人であれとは望まないが、自分の武器を大事にしないのは、自分の仕事に本気でないからだ。言葉を大事にしない国は滅びます。
 だからと言って、「保守主義」とか自分から名乗るのもどうかと思う。なんであれ「主義」というのはそれだけで空疎なものだ。自分の内容が空疎だから、そういう外側のスローガンに頼りたい場合が多いのではないか。やはり、各人の精神の在り方こそが問われるべきだ。
 問題はそんなところにない。要は、政治家から国民まで、一人ひとりの生き方の自覚でしかない。だからこそ「考える」ことが必要だ。考えもしないで生きているから、滅びの道を歩むことになる。考えることなら、今すぐこの場で出来ることです。
(中略)
 半世紀戦争がなかったことが大きいと思うが、みんな自分が死ぬということを忘れている。人がものを考えないのは、死を身近に見ないからだと思う。と言って、永遠に生きると考えているわけでもない。漠然としたライフプランで、なんとなく生きている。一番強いインパクトは死です。人がものを考え、自覚的に生き始めるための契機は死を知ることです。
 制度を変えても、精神の在り方が変わらなければ、世の中は決して変わりません。
(読売新聞、1998年4月1日 blog 目黒被災より)

by ichiro_ishikawa | 2011-11-04 02:16 | 文学 | Comments(0)  

兄 小林秀雄との対話ー人生についてー

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 1970年に講談社現代新書から出て今や絶版となっていた高見沢潤子『兄 小林秀雄との対話ー人生についてー』が講談社文芸文庫に入った。
 小林秀雄の妹であり、「のらくろ」田河水泡の妻である作者が、兄・小林秀雄の生き方・考え方を、わかりやすく伝えるために、兄との対話・質問を繰り返し、その人生観・人間観を描いた最強の小林秀雄読本。
 小林秀雄を難しいと敬遠している「考える素人」は、ここから入るといい。ただしその後、原典に戻るべし。詩を散文に翻訳したものを読んで「意」だけを了解して「姿」を見ないのは、片手落ちどころか、実は何も得ていないに等しい。大事なのは言葉の「姿」だ。

 ちなみに高見沢潤子の筆による小林秀雄読本は、ほかに、『兄 小林秀雄』(新潮社、1985年)、『生きること生かされること―兄小林秀雄の心情』(海竜社、1987年)、『続 生きること生かされること―兄・小林秀雄の真実』( 海竜社、1989年)、『生きることは愛すること―兄 小林秀雄の実践哲学』(海竜社、1993年)、『人間の老い方死に方―兄小林秀雄の足跡』( 海竜社、1995年)と5冊ある。

by ichiro_ishikawa | 2011-10-27 01:30 | 文学 | Comments(0)