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今を生きるといふ意味


ある著名な歌人が、
悩んでいる人は過去と未来ばかり見ている。
子供は今しか生きていない。
だから生き生きとしている。
といふ主旨のことを言っていた。

よく聞く、「今を生きる」といふ意味が
やっとわかった。

岡潔は、
赤ん坊は自然とてめえが一体化していて、それで充足しているから常に微笑んでいる。
といふ意味のことをどこかで言っていた。

大人になると、さうはいかない。
やうに思へるが、さう生きるしかない。

だから俺はYouTubeで過去を振り返らないし、退職金や年金の計算なぞもしないし、住宅ローンの繰上げ返済もしない。


by ichiro_ishikawa | 2016-05-26 18:43 | 文学 | Comments(0)  

雑記「征夷大将軍実朝」


 先日、柳田国男の弟子、折口信夫(釈迢空)の弟子・岡野弘彦による実朝の和歌に関する講演を聞き、鎌倉時代初期の詳細年表を眺めていると、小林秀雄「実朝」を改めて読みたくなり、そういやとばかりに太宰「右大臣実朝」にも行って、さらには新潮古典文学アルバムの「金槐和歌集」、橋本治の古典に関する文庫群に手を伸ばし、吉本隆明「源実朝」はいいか…とパスしていたそんな折、政権交代が世で起こったらしいという噂を聞くにつけ、実朝の政治手腕、文化趣味、そしてその根底というか原因だか結果だかしらぬが、その人格というものに思いを致している昨今だ。

 実朝に関する小林の批評はこの世のものとは思えぬ美しさを放って今なお光り輝いているが、「モオツァルト」といい「無常といふこと」といい「徒然草」といい、世では未曾有の大戦真っ只中の40代前半、小林はひたすら古典の美に沈潜していた。一方、鎌倉初期、身内の殺し合い、政権闘争、混乱の最中において、ひたすら万葉、古今、新古今の歌人らの魂に深く浸っていた実朝。とはいえ小林は大戦から眼を背けてはいなかったし、実朝もバシバシ政治的英断を下しまくっていた。ただ、両者共に、古典すなわち古人のソウルを「今ここ」に蘇らせることをこそ本線として生きていた。

 小林は長寿を全うし、実朝は鶴岡八幡宮参拝の帰り、甥の公暁に27歳で惨殺された。
 小林は文の世界に居て、実朝は政治の世界にいた。小林も世が世なら刺客によって殺されていただろう。小林はその作品群が、逆説的、文学至上主義的という、ものを考えぬ世の誤解、批判に常にさらされていたが、ペンは命までは奪わない。文筆家としての生命も、一度もぶれることのなかった無私の精神という信念からなる作品が、結果として世間の批判を返り討ちにする形となって、永らえた。
 実朝は、文を全うしたが武に倒れた。キリスト然り。太宰が描こうとした実朝はキリストだ。実朝=将軍家をイエス様と置き換えて読めば、舞台を鎌倉時代にすえた聖書に思える。

 文学云々のような絵空事より、食うか食わぬかの一大事が先決だ、という考えは、常に命の危険にさらされていながら、文学的真理を第一とし世間=人と人とが交わる場において実践していた実朝の前ではそれこそ絵空事だ。食うか食わぬかの一大事が先決という考えこそ、戦争の温床であり、あらゆる不幸の源である、という言葉は手垢にまみれすぎて世人、一顧だにしないが、手垢にまみれているという事はどの時代の誰もがやはり気にしていたということで、そこでそれらに代わる新しい何かを生み出す必要はない。そうした古来、口に上りまくって美しく染め上がった古典というものに、じっと身を沈めてみることはよいことだ。
 という心持ちになる事も、ある。

by ichiro_ishikawa | 2010-06-07 16:54 | 文学 | Comments(2)  

引用「歴史の急所、文学とは」


 「吾妻鏡」の実朝横死事件の簡明な記録に続く文を引用したあと、小林秀雄は次のように綴っている。

 吾妻鏡には、編纂者等の勝手な創作にかかる文学が多く混入していると見るのは、今日の史家の定説の様である。上の引用も、確かに事の真相ではあるまい。併し、文学には文学の真相というものが、自ずから現れるもので、それが、史家の詮索とは関係なく、事実の忠実な記録が誇示する所謂真相なるものを貫き、もっと深い所に行こうとする傾向があるのはどうも致し方のない事なのである。深く行って、何に到ろうとするのであろうか。深く歴史の生きている所以のものに到ろうとするのであろうか。とまれ、文学の表す美の深浅は、この不思議な力の強弱に係わるようである。吾妻鏡の文学は無論上等な文学ではない。だが、史家の所謂一等資料吾妻鏡の劣等な部分が、かえって歴史の大事を語っていないとも限るまい。

by ichiro_ishikawa | 2010-05-31 01:44 | 文学 | Comments(0)  

幕末と俺


 ペリー来航から西南戦争まで、19世紀半ばからの日本の約20年はとんでもねえ。その後もとんでもねえが、まずこの20年はとんでもねえ。アメリカは南北戦争の頃で、ブルーズはまだ誕生していない。いや、日本でも小唄みたいなものは歌われていたみたいだから、記録に残っていないだけで、誰かがブルーズをやっていた可能性はある。ただ、今回はその話ではない。

 俺が大の歴史好きであることは、いまさら言わずもがな、俺検定初級程度の知識だろうが、歴史について他者とああだこうだ話し合おうとすると、特に婦女子には「勘弁してよ」的な態度を取られることが多い。とはいえ、歴史は「思い出す」というポジティブな行為であり、過去の人間を思い出すことによって彼らを今に蘇生させ、逆説的に今を知る、そして、自分を知ることに他ならないわけで、本来、男も女もない、人間の普遍的な興味であるはずだ。小林秀雄は、歴史を「子供を失った母親の悲しみに似ている」と、ズバリ言っている(参照、歴史について)。うんと端折って「おいお前、歴史は悲しみだぞ」という切り出しで話そうする俺のやり方がまずいのやもしれぬ。あるいは、俺の語り口調や風貌、高圧的な態度がまずいのやもしれぬ。俺としては、歴史の話は「一郎石川のすべらない話」的な一撃必殺トークなのだが、誰も聞いてくれないので、今ここに独白するっていう寸法だ。

 ここ数年、昭和史を比較的丹念に読んで/考えてきていたが、この年末、ついに幕末/明治維新に及んだ。
 今年の秋、当ブログで「歴史と俺 プロローグ」を発表した際、「建武中興なら建武中興、明治維新なら明治維新という様な歴史の急所に、はっきりと重点を定めて、そこを出来るだけ精しく、日本の伝統の機微、日本人の生活の機微にわたって教える、思い切ってそういう事をやるがよい」という小林秀雄の言葉の引用で締めたが、いつかは「建武中興」と「明治維新」という歴史の急所にはっきりと重点を定めて、そこを出来るだけ精しく、日本の伝統の機微、日本人の生活の機微にわたって考えたいと思っていて、今回はまず後者をとりあえず、精しくやった次第だ。

 今回あたった書は半藤一利「幕末史」(新潮社刊/08年)。半藤は、昭和の歴史をグワッと考えたときに最も多くあたった人で、そろそろ幕末/明治維新を生きたいと思っていた矢先、さすがのタイミングで新潮社が上梓してくれた格好になった。本書は語り下ろしというのがいい。研究書の類いは教科書みたいで読みづらいし、歴史小説は逆にエンターテイメントの要素が無理矢理入っているから、単純に史実を知りたい者にとってはちょっと楽しめない。
 また、この手の書の場合、著者の立ち位置というものがすごく重要だ。本書は著者自身も作中で明言しているが、幕府を倒した薩長軍、維新軍を悪者扱いという立場をとっている。俺は、中立という一見もっともだが実は中途半端なだけの立ち位置が好きではない。書き手の顔が分からない、感情がないからだ。人間が何かを言う、そのときに中立、客観というのはあり得ない(もちろん、感情だけ、考え抜かれていない感想文などは論外だ、一番くだらねえ)。どっち寄りであろうが、誰に肩入れしていようが事実を歪曲していなければ関係ない。むしろ、立場が明快であるということは心がこもっているという事だから、信用がおける。読後、俺がどっち寄りになるかは、俺次第だ。著者の思想は関係ない。
 では、俺はどう思ったか。一言で言えば「西郷隆盛か…」だ。佐幕派、倒幕派、どっちでもよい。それぞれの個々の人間の運命を思い知ったまでだ。西郷隆盛、坂本龍馬、勝海舟あたりの生き様にはやはりグッときたが、大久保利通、木戸孝允、山県有朋、伊藤博文、岩倉具視、みなそれぞれがそれぞれの運命を背負って生き、死んだ。俺の今は、確実にそこから続いている。
 とまあ月並みで、どの時代の歴史であれ、思い至ることにやはり思い至ったわけだが、つまり、ああ人間…。ああ時代…。ああ人生…。ということだ。
 余談だが、俺は勝海舟だ。

 次は「建武中興」に行く予定だが、その前に、もうちょっと幕末/明治ものをひもときたい。また、その時代を描いた鴎外、漱石、芥川、荷風あたりの文学にも触れておきたい。

by ichiro_ishikawa | 2008-12-30 15:59 | 文学 | Comments(0)  

歴史と俺 プロローグ


 今俺が明治時代を生きている事を知っている人は、相当な俺マニアと言えよう。離れていても俺の事を何でも知っている母親でさえ、思いもよるまい。

 レコードコレクターズの最新号辺りが出ているやも、とぶらり入った本屋で、音楽誌コーナーに行く途中、腹が痛くなり、踵(きびす)を返してトイレに向おうとした刹那、「この痛さ、例の小人が腹の内部からバターナイフでシャーッシャーッと下腹部裏を刻んでいるこの痛さからして、長期戦になるな…」と気づいた俺は、個室にて時間をつぶしうる適当な本を見繕う事にした。そこでふと目に止まったのが福田和也の新潮新書「日本の近代 (上)」。数少ない「出れば買う」リストに名を連ねる福田の新刊を手にレジに行き、735円をカードで支払うと、バターナイフの痛みに耐えながらも、個室に向うのがちょっと楽しみになって来た。
 
 本屋の入っている錦糸町の駅ビルの男子和式トイレは、大抵、卵とじのようなものが便器脇に散乱しているため、俺は女子トイレで用をたす習慣があるのだが、まあそれはどうでもいいのだが、案の定、個室では長期戦が待っていたのだけれど、充実した60分となった。
 
 本文中、「白村江の戦い」などという実に懐かしい言葉が続々と登場するのだが、学生時分、初めて「白村江の戦いに出くわした時のノスタルジアが蘇る…。「白村江」で「はくすきのえ」だという。「白村江」が「はくすきのえ」つけ! 俺は我慢ならなかった。「はく」とケツの「え」はよかろう。「の」もまあよい。「の」は、勢いで勝手に入って来る事はままある。しかし、「す」と「き」はありえねえ。「村」が「ソン」だし、「村主」を「すぐり」と読ませる同級生がいたから、百歩譲って、何かの拍子でちょっと「す」になってしまったとしても、次の「き」はどうだ。ありえねえ。「す」と「き」はありえねえ。
 当時、それがどんな戦いだったのかはそっちのけで、そのあり得なさに、ずっとしびれていたのだった…。地球の平均海水面を延長した結果得られる地球の曲面を「ジオイド」というのだと知った時もかなりしびれたが…。

 話がそれたついでに明かすが、小1の時、「キン肉マン事件」があった。ジャンプのある号で、キン肉スグルが「予定変更」というセリフを言っていたのだが、俺は「更」の漢字が当時初見だったためか、「便」と勘違いして、「よていへんべん」と読んだ。すると脇にいた輩が、「いや、へんこう、だべ」と言う。俺は「バカ、便所の便だべよ、ベン。だからヘンベンだべよ」。
 しかしその輩は折れない。「へんべんて何だよ。そんな言葉ねえべよ。予定と来たらヘンコウだべよ」。
 「バカお前、でもこれはベンっていう字だべ。だからヘンベンだよ」。
 「確かにベンだよ。でもヘンベンて言葉はないからヘンコウだべよ」
 「バカ、言葉は無いけど、ベンをコウって読むわけもねえべよ」…
 と、論争は遂に決着はつかなかった。まあ、今思えば、俺が間違っていたわけだが、相手も「確かにベンだけど」と間違っているからあいこだ。

 長くなったが戻す。
  福田和也の新潮新書「日本の近代 (上)」を1/3ほど個室で読み終えた俺は、腹の痛みが治まった安堵と喜び、そしてそれ以上に、西郷隆盛や伊藤博文といった維新〜日清・日露戦争あたりを生きた屈強な明治人たちの魂をかいま見た興奮で心が充たされていたのであった。
 もうすぐ、近代の通史を描いたこの本が読み終わるが、恐らく次は、明治維新だけを300ページぐらい書いた本に当たる事になろう。

 学問の究極であり、最も面白い「歴史」というものを、単なる「暗記もの」に貶めてしまっている日本の歴史教育に苦言を呈した小林秀雄の言葉でしめよう。

建武中興なら建武中興、明治維新なら明治維新という様な歴史の急所に、はっきりと重点を定めて、そこを出来るだけ精しく、日本の伝統の機微、日本人の生活の機微にわたって教える、思い切ってそういう事をやるがよい。


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by ichiro_ishikawa | 2008-09-05 03:17 | 文学 | Comments(0)  

歴史について

 俺が「歴史」という言葉に敏感だということは、遍(あまね)く知られるところだが、この歴史に対する胸騒ぎのようなものの正体は何なのか。

 昨今、ドストエフスキイの新訳文庫版が過度に売れていることが話題になっているが、小林秀雄は30代の半ばの数年を、本格的にドストエフスキイに対峙して過ごした。対峙して、とは妙な言い方だが、研究でもないし、分析でもない、ただドストエフスキイについて書くことで、ドストエフスキイを抱きしめようとしている様が分かるので、そう言うより他がなく、本人の文学としての言葉で言えば「蘇生させようと」していた。
 「ドストエフスキイの生活」(1939年)がその結実で、序文のサブタイトルが「歴史について」なのである。この13ページほどの短文は、まさに珠玉という言葉がふさわしく、全文、サビだけで出来ている。この13ページ、1万字程度の文章に、どれだけのものが詰まっていることか。

 個人的な事で言えば、本編は2〜3回通読しただけだが、この序文は凡そ187回は読んでいる。序文で短文だから10分もあれば読めるのだが、その10分間、俺は毎度、クワッとなる。この世のものではない、ある、凄まじい精神の躍動が起こる。文学の醍醐味がまさにここにある。
 というわけで、全文書き取りをしたいのだけれど、短文とはいえ、ネット上に1万字というのは、さすがに長いので、追々、全文はあげていくとして、ここでは抜粋していくことにする。

「ドスエフスキイの生活」 序(歴史について) 抜粋集

 例えば、こういう言葉がある。「最後に、土くれが少しばかり、頭の上にばら撒かれ、凡ては永久に過ぎ去る」と。当たり前な事だと僕等は言う。だが、誰かは、それは確かパスカルの「レ・パンセ」のなかにある文句だ、と言うだろう。当たり前な事を当たり前の人間が語っても始まらないとみえる。パスカルは当たり前の事を言うのに色々非凡な工夫を凝らしたに違いない。そして確かに僕等は、彼の非凡な工夫に驚いているので、彼の語る当たり前な真理に驚いているのではない。驚いても始まらぬと肝に銘じているからだ。ところで、又、パスカルがどんな工夫を凝らそうと、彼の工夫なぞには全く関係なく、凡ては永久に過ぎ去るという事は何か驚くべき事ではないだろうか。

 言葉を曖昧にしているわけではない。歴史の問題は、まさしくこういう人間の置かれた曖昧な自体のうちに生じ、これを抜け出る事が出来ずにいるように思われる。 歴史の上で或る出来事が起こったとは、その出来事が、一回限りの全く特殊なものであったという事だ。僕等は少しもそれを疑わぬ。その外的な保証を何処にも求めようともせずに、僕等は確実な智慧のなかにいる。

 子供が死んだという歴史上の一事件の掛け替えの無さを、母親に保証するものは、彼女の悲しみの他はあるまい。どの様な場合でも、人間の理知は、物事の掛け替えの無さというものに就いては、為すところを知らないからである。悲しみが深まれば深まるほど、子供の顔は明らかに見えて来る、恐らく生きていた時よりも明らかに。愛児のささやかな遺品を前にして、母親の心に、この時何が起こるかを仔細に考えれば、そういう日常経験の裡に、歴史に関する僕等の根本の智慧を読み取るだろう。それは歴史史実に関する根本の認識と言うよりも寧ろ根本の技術だ。其処で、僕等は与えられた歴史事実を見ているのではなく、与えられた資料をきっかけとして、歴史事実を創っているのだから。このような智慧にとって、歴史的事実とは客観的なものでもなければ、主観的なものでもない。この様な智慧は、認識論的には曖昧だが、行為として、僕等が生きているのと同様に確実である。

 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も亦旅人なり」と芭蕉は言った。恐らくこれは比喩ではない。僕等は歴史というものを発明するとともに僕等に親しい時間というものも発明せざるを得なかったのだとしたら、行きかふ年も亦旅人である事に、別に不思議はないのである。僕等の発明した時間は生き物だ。僕等はこれを殺す事も出来、生かす事も出来る。過去と言い未来と言い、僕等には思い出と希望の別名に過ぎず、この生活感情の言わば対称的な二方向を支えるものは、僕等の発明した僕等自身の生に他ならず、それを瞬間と呼んでいいかさえ僕等は知らぬ。従ってそれは「永遠の現在」とさえ思われて、この奇妙な場所に、僕等は未来への希望に準じて過去を蘇らす。

 ドストエフスキイという歴史的人物を蘇生させようとするに際して、僕は何等格別な野心を抱いていない。この素材によって自分を語ろうとは思わない、所詮自分というものを離れられぬのなら、自分を語ろうとする事は、余計な事というより寧ろ有害な空想に過ぎぬ。無論在ったがままに彼の姿を再現しようとは思わぬ、それは痴呆の願いである。  僕は一定の方法に従って歴史を書こうとは思わぬ。過去が生き生きと蘇る時、人間は自分の裡の互いに異なる或は互いに矛盾するあらゆる能力を一杯に使っている事を、日常の経験が教えているからである。あらゆる資料は生きていた人物の蛻の殻に過ぎぬ。一切の蛻の殻を信用しない事も、蛻の殻を集めれば人物が出来上がると信ずる事も同じように容易である。立還るところは、やはり、ささやかな遺品と深い悲しみとさえあれば、死児の顔を描くに事を欠かぬあの母親の技術より他にはない。彼女は其処で、伝記作家に必要な根本の技術の最小限度を使用している。困難なのは、複雑な仕事に当たっても、この最小限度の技術を常に保持して忘れぬ事である。要するに僕は邪念というものを警戒すれば足りるのだ。
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by ichiro_ishikawa | 2008-02-02 22:07 | 文学 | Comments(0)  

最初のロックンロール・レコードは何か

 わけあって、最初のロックンロール・レコードは何かを検証しているが、一般的にはエルヴィス・プレスリーの初吹き込み「That's All Right」(1954)やビル・ヘイリーと彼のコメッツ「Rock Around The Clock」(1954)あたりを挙げる向きが多く、あるいは、黒人こそロックと居直る人は、チャック・ベリー「Maybellene」(1955)、リトル・リチャード「Tutti Frutti」(1955)、ボ・ディドリー「Bo Diddley」(1955)とするだろう。
 中にはもっとリズム&ブルースを掘り下げて、レイ・チャールズ「I've Got A Woman」(1954)と言ってしまう強引な人間も多いのには驚くが、ちょっと気の利いた奴は、エルヴィス以前のサンレコードにジャッキー・ブレンストンが吹き込んだ「Rocket 88」(1951)が嚆矢だと主張するやも知れぬ。また、ブルーズ愛好家の中ではロバート・ペットウェイ「Catfish Blues」(1941)をこそ最初のロックンロールと言ってはばからない人も多くいる。

 これは難問だ。まずロックンロールの定義があいまいだからだ。ブルーズにブギーのビートを取り入れてリズムを強化したリズム&ブルーズを白人がやればロックンロールと、ひとまずは言えるわけだが、前述の「Catfish Blues」やジョン・リー・フッカーの「Boogie Chillen」(1948)、マディ・ウォーターズ「Rollin' And Tumblin'」(1950)などのブルーズの圧倒的なリズムを前にすると、それをロックンロールと呼びたい衝動に駆られるし、烈しいシャウトということでは、ビッグ・ママ・ソーントンの「Hound Dog」(1953)など、すでにロックンロールなわけだ。ノベルティ要素が必須と考えるならば、スティック・マギーの「Drinkin' Wine Spo-Dee-O-Dee」(1949)、やはりジャンプが原点だということでは、ルイ・ジョーダン「Saturday Night Fish Fry」となる。
 もうこうなると、不毛な思索と思えてしまうわけだが、私は、やはり、それらの要素をすべて含め、プラス、きらめくギターとぶっといベース、そしてセクシャリティとかっけえツラ、これが揃って初めてロックンロールなのだと言いたい。となるとエルヴィス・プレスリー「Hound Dog」(1956)が、最初のロックンロールなのだった。それ以前のものは、エルヴィス自身も含めて、リズム&ブルーズだ。

Elvis Presley 「Hound Dog」(YouTube)
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「きらめくギターとぶっといベース、そしてセクシャリティとかっけえツラ、これが揃って初めてロックンロールなのだと言いたい」と締めくくったものの、やはり、違和感がある。いきなりツラとかを出してしまっては尚更だ。
 要は、黒人に憧れた白人が黒人のマネをしてR&Bをやったものがロックンロールだ、でいいような気がする。白人が黒人をやっても、どうしても白い音になってしまう。エルヴィス然り、ジョン・レノン然り、ポール・バターフィールド、ジョン・メイオール、ヤードバーズ、クリーム、そしてローリング・ストーンズ然り。だが、こう並べてみると、彼等こそロックンロールだと言えることが分かる。ということは、その白さこそがロックンロールということになる。この白さは純白ではない。黒く塗らんとした白さだ。この、ロックンロールをロックンロールたらしめている白さは、疾走感と言ってもいいかもしれない。前のめりな、走ってしまう感じ、福田和也が言うところの「バンド全体が立ち上がり、今すぐ駆け出そうとするような躍動感と、どこにも行く事は出来ないという焦燥が一体になった感触」(「日本人の目玉」より)だ。
 とすると、やはり最初のロックンロール・レコードは、エルヴィス・プレスリー「Hound Dog」と、結果的にはそうなる。

by ichiro_ishikawa | 2007-10-27 17:20 | 音楽 | Comments(2)  

アトランティックR&B 後編(1960-72)

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ソウルの時代 スタックス&マッスル・ショールズ

 レイ・チャールズのメジャーABCパラマウントへの移籍、ビートルズを初めとするロックの台頭などを受け、ビジネス的にも目敏いアーテガンは、白人アーティストの獲得、育成に力を注ぎ出す。
 そんなアーティガンに対し、ウェクスラーは黒い音にこだわり続けた。メンフィスでカーラ・トーマスの「Cause I Love You」が流行っていることを知り、その制作レーベル、スタックスに近づき、全国配給の契約を申し出る。その後、同じく南部のマッスル・ショールズとも契約を交わし、ソウル・ミュージック全盛期を生み出す事になる。60年代アトランティックR&Bとは、イコール、スタックス、マッスル・ショールズR&B、ソウルである。

7.
「Green Onions」Booker T. & The MG's
(Jones-Dropper-Jackson-Steinberg 1962)

c0005419_1823335.jpgスタックスの録音のほとんどのバックバンドを務めたのが、ブッカー・T & The MG's(M.G.'sとはメンフィス・グループの略)で、その最初のヒット曲が、映画『さらば青春の光』でもお馴染みの「グリーン・オニオンズ」。メンバーはブッカー・T・ジョーンズ(key)、スティーヴ・クロッパー(g)、ドナルド“ダック”ダン(b)、アル・ジャクソン(dr)の白人黒人混成グループだ。


8.
「Mercy, Mercy」Don Covay
(Covay & Miller 1964)

c0005419_18241429.jpg 黒いミック・ジャガー、というか、ミック・ジャガーが強い影響を受けたのがこのドン・コヴェイ。コヴェイはアトランティックのソウル・シンガーたちに楽曲提供もしていたソングライターでもある。ローリング・ストーンズがカバーした「Mercy,Mercy」を筆頭に、スモール・フェイセズもカバーした「Take This Hurt Off Me」や、グルーヴィな「See-Saw」「Sookie Sookie」など傑作ぞろい。グルーヴィR&Bの最高峰。


9.
「I've Been Loving You Too Long」Otis Redding
(Redding & Butler1965)

c0005419_18244573.jpgスタックス最大のスターにして、ソウル・ミュージックというものの体現者、ソウルの代名詞とも言えるのがオーティス・レディング。26歳で航空機事故で急逝するまで、とんでもないソウルを連発した。ピーター・バラカンも言う通り、アップのノリの良さ、バラードの説得力、どれをとってもいう事なしだ。サム・クックと並ぶソウルの横綱。


10.
「When A Man Loves A Woman」Percy Sledge
(Lewis & Wright 1965)

c0005419_18251738.jpgスタックスと双璧を成す南部のR&B/ソウルレーベルがマッスル・ショールズのフェイムで、ダン・ペンやスプーナー・オールダムといった黒人大好き白人ミュージシャンを作家陣にもつ。誰もが知っているこの傑作ソウルバラードは、マッスル・ショールズ録音だが、1%のキックバックで経営者のリック・ホールがアトランティックからの発売にこぎ着け、南部にマッスル・ショールズありと知らしめた。


11.
「Land Of 1000 Dances」Wilson Pickett
(Kenner & Domino, Jr 1966)

c0005419_18255819.jpg不世出のソウル・シンガー、ウィルソン・ピケット。60年代初頭に数々のスター・シンガーを輩出した名門グループ、ファルコンズのリード・シンガーを務め、その後ソロに転向し、Double-Lでシングルを出した後、アトランティック入りした。当初はヒットに恵まれず、スタックスに詣で、「In The Midnight Hour」という傑作を生み出す。だが、ピケットとスタックスの面々は、性格的にソリが合わなかったらしく、ピケットはマッスル・ショールズへ出向く。そこで、Chris Kennerのいまいち冴えない曲をエキサイティングに仕上げたこの「ダンス天国」や、「634-5789」等の珠玉のミディアムなどを連発したのだった。


12.
「Soul Man」Sam & Dave
(Hayes & Porter 1967)

c0005419_18263326.jpg「これぞStax!!」なパワフル・ソウル・デュオ、サム&デイヴは、アトランティック側からスタックスに送り込まれた最強の刺客。高音担当のサム・ムーアは昨年新作をリリースし、ダイナマイトぶり健在!を見せつけた。この「魂男」のほか、「ちょっと待って、今行くから」など大ヒット曲多数。ディープ/サザン・ソウルを語る上で外せないデュオだ。また、サム&デイヴの曲は、映画『黒いジャガー(シャフト)』でお馴染みのアイザック・ヘイズと、デイヴィッド・ポーターが主に手掛けているという事も知っておく必要、大アリだ。


13.
「I Never Loved A Man (The Way I Love You)」(Ronnie Shannon 1967)
「Do Right Woman, Do Right Man」(Moman, Penn 1967)
Aretha Franklin

c0005419_1827161.jpg いわずもがなのソウル・クイーン、アリーサ・フランクリン。ゴスペルあがりのその歌唱は、まさにソウルフル。ものすげえ。アトランティックは66年に大手コロムビアから契約を買い取り、ウィルソン・ピケットに続いてこのアリーサをマッスル・ショールズに送り込んだ。マッスル・ショールズの田舎者の面々はアリーサなんて知らなかったが、黒人音楽フリークのダン・ペンは流石にアリーサに眼をつけており、仲間たちに「凄いのが来るから覚悟しとけよ」と言っていたという。アリーサはマッスル・ショールズで数曲傑作を残すが、現場のミュージシャンによる「アリーサのケツ触り事件」を機に、マッスル・ショールズを離れる。こうしたブラックミュージック裏話やスタックス、マッスル・ショールズ設立〜終焉までのストーリーは極めて面白い。それらは、「リズム&ブルーズの死」(ネルソン・ジョージ)、「スウィート・ソウル・ミュージック」(ピーター・ギュラルニック)、「魂(ソウル)の行方」(ピーター・バラカン)に詳しい。


14.
「Soul Finger」The Bar-Kays
(King-Jones-Cunningham-Caldwell-Alexander-Cauley-Christian 1967)

c0005419_18272965.jpg バーケイズの傑作パーティー・チューン「ソウル・フィンガー」。バーケイズは、スタックスのハウス・バンドとしてそのキャリアをスタートさせ、オーティス・レディングのバックなどで活躍していたが、67年12月9日、そのオーティスを乗せた航空機がマディソン州モンタナ湖に墜落。同乗していたバーケイズも6人中4人のメンバーを失った。ソウル史上、最悪の悲劇である。


15.
「Tighten Up」Archie Bell & The Drells
(Bell-Butler 1967)

c0005419_18275392.jpg Y.M.O.のカバーでもお馴染みの、フロア・クラッシックとして名高い名曲「ッタイヌナッ」。激烈にカッコいい。


16.
「Sweet Soul Music」Arthur Conley
(Conley, Redding, Cooke 1967)

c0005419_18282724.jpg オーティス・レディングによって見出されたシンガー、アーサー・コンリー。このオーティスのペンによるサザンソウルの名作「スウィート・ソウル・ミュージック」は、ワクワクさせられるイントロのホーンに始まり、熱いボーカル、タイトにビートを刻むバックの演奏と、全てが完璧。


17.
「The Ghetto」Donny Hathaway
(Hathaway-Hutson1969)

c0005419_18285217.jpg 60年代後半から70年代は、キング牧師の暗殺、公民権運動、泥沼化するベトナム戦争といった社会的な影響によって、ソウル・ミュージックが変容を遂げていった過渡期である。ノーザン・ソウルの雄、モータウンからはスティーヴィー・ワンダーやマーヴィン・ゲイがシリアスな傑作を連発し、アトランティックからは、このドニー・ハサウェイがいわゆる“ニュー・ソウル"を発展させる。ジャズ上がりの知的さを備えるが、グルーヴィでフォンキィなリズム、ソウルフルなヴォーカル、随所で美しい旋律を奏でるエレピ、どれをとっても素晴らしい。


18.
「Clean Up Woman」Betty Wright
(Clarence Reid/Willie Clark 1971)

c0005419_18291439.jpg68年、若干13歳でデビューしたベティ・ゥライト。「ソウル・マン」風のこの「Clean Up Woman」、そして語りも良い「Tonight The Night」といった傑作も外せない。


19.
「Killing Me Softly With His Song」Roberta Flack
(Fox/Gimbel 1972)

c0005419_18293542.jpg ドニー・ハサウェイとの共演も素晴らしいロバータ・フラック。アリーサや、アーマ・トーマス、グラディス・ナイトといったソウルはないけれど、内省的で、ブルース/ジャズ/ゴスペル/フォーク/クラシックの要素を独自のクールな視点で昇華させたテイストは、すごくいい。


 この辺りを最後に、アトランティックのリズム&ブルーズ/ソウルは、死んでいく。それに取って代わるのが、アーテガンが押し進めて来たロック路線で、クリーム、エリック・クラプトン、イエスといったイギリス勢、バッファロー・スプリングィールド、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング、そしてレッド・ツェツッペリンでばく進し、遂にはローリング・ストーンズを獲得、『メインストリートのならず者』をリリースするのであった。

by ichiro_ishikawa | 2007-03-13 05:30 | 音楽 | Comments(0)  

アトランティックR&B 前編(1947-60)

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 池田晶子さん急逝のショックで悲しみに明け暮れているが、いつまでも喪に服しているわけにもいかない。前々回の原稿を機に異様に盛り上がってしまったアトランティック熱がいまだ収まりきらないので、私なりの鎮魂歌として、そのベストテンを、今回はカウントダウン方式でなくクロニクルとしてレーベルの歴史とともに述べていこうと思う。
※1955年からのジャズ部門、60年代後半からのロック部門は省き、R&Bに特化して記述。

1.「Mardi Gras In New Orleans」Professor Longhair
(Professor Longhair 1949)

c0005419_2391537.jpg1949年、南部への旅
 アトランティック・レコードは、1947年10月、在米トルコ大使を父に持つアーメット・アーテガンが、ナショナル・レコードのプロデューサーであったハーブ・エイブラムスンとともにニューヨークで設立した。アーテガンは、父親がヨーロッパ在任中に、生で聴いたキャブ・キャロウェイやデューク・エリントンに感動し、兄のネスヒ・アーテガン(L.A.でのレコード店経営を経て、アトランティックに参加、ジャズ部門を支える)と共にアメリカの黒人音楽に夢中になっていったのだった。
 設立から2、3年の間はヒットが出なかったが、その間、アーテガンは相棒のエイブラムスン、作曲家のジェシー・ストーンと、よりダウン・トゥ・アースな音を求め南部巡礼を行なっており、49年、ニューオーリンズで、このプロフェッサー・ロングヘアー(1918-1980)を見い出し、録音した。そのうちの最高傑作がこの「Mardi Gras In New Orleans」。左手でへヴィなシンコペーションを叩き出し、右手がその間を縫うように跳ね回るニューオーリンズ・ピアノがすごい。長髪教授はその後、心臓発作や肝硬変といった度重なる病気のため一時、音楽活動から離れざるを得なくなり、遂にはレコード店の掃除夫で生計を立てるまでになったが、71年「第2回ニューオーリンズ・ジャズ・アンド・ヘリテッジ・フェスティバル」への出演を機に、再評価の嵐が吹き荒れる。アーニー・K・ドゥ、アラン・トゥーサン、ファッツ・ドミノ、ヒューイ・ピアノ・スミス、ドクター・ジョン、ネヴィル・ブラザースへ、その血は受け継がれている。


2.「Daddy Daddy」Ruth Brown
(Rudy Toombs 1952)

c0005419_2394019.jpg 初期アトランティックを支えたのが、このルース・ブラウン(1928- 2006)。1948年にアーテガンとエイブラムソンはニューヨークから自動車でワシントンに出向き、ナイトクラブで歌う彼女の歌を聴いて契約を決めた。ルースの歌う曲はたいてい大衆的なバラッドが中心だったが、アーテガンはR&Bへの転向を彼女に説得した。
 ルース・ブラウンは、1949年「So Long」でデビュー。ヒットとなり、1950年にリリースしたルディ・トゥームズ作曲の「Teardrops from My Eyes」は、「ビルボード」誌のR&Bヒットチャートの1位を11週連続で占め、R&B歌手として地位を確立した。彼女のレコードは、1949年から55年にかけてR&Bレコードチャートトップ10に149週間にわたりチャートイン。それら16曲のうち5曲は1位を記録。ルースはアトランティック・レコードの看板歌手として活躍し、社のビルは「ルース御殿」とまで呼ばれた。R&BとはRuth Brownの頭文字から取られた! とまで言う大げさな輩も。


3.「Mess Around」Ray Charles
(A. Nugetre 1953)

c0005419_2310455.jpg 黒い音楽を追求するため、南部を巡り、ハーレムに通い続けていたアーメットと仲間たちは、52年、レイ・チャールズを獲得した。映画『Ray』によると、ナット・キング・コール風の甘いピアノ弾き語りを得意としていたレイに、強烈なR&Bビートを吹き込んだのは、アーテガンのようだ。この「Mess Around」の作者名は、アーテガンのペンネーム(Ertegunの綴りを逆さにしたもの)で、まさにキング・オブ・R&B、レイ・チャールズの生みの親と言っていい。
 レイはその後、「I Got A Woman」(Ray Charles 1954)「Hallelujah, I Love Her So」 (Ray Charles 1955)、「What'd I Say (Parts 1&2)」 (Ray Charles 1959)と名曲を連発し、結果、米大手ABCに引き抜かれてしまうが、レイのキャリアの音楽的黄金期はアトランティック・イヤーズであろう。


4.「Money Honey」Clyde McPhatter & The Drifters
(Stone 1953)

c0005419_23101933.jpgジェリー・ウェクスラー登場
 1953年は、アトランティックの第一の転機だ。アーテガンの片腕ハーブ・エイブラムソンが陸軍召集で経営から一時離脱。そこで経営陣に加わったのが、「ビルボード」誌の記者だったユダヤ系青年ジェリー・ウェクスラーだ。ウェクスラーは、黒人音楽を指す差別的な呼称「レイス・レコード」を「リズム&ブルース」に変えた人物とされる。彼が最初期に育てたのが、このクライド・マクファーター率いるザ・ドリフターズだ。この頃から、ピアニスト兼アレンジャーのジェシ・ストーン、エンジニアのトム・ダウドといったアトランティックの黄金スタッフによる大全盛期が始まる事になる。


5.「Yakety Yak」The Coasters
(Leiber - Stoller 1958)

c0005419_23103359.jpgリーバー&ストーラー登場
 アトランティックの歴史で絶対に外せないのが、コースターズ、ドリフターズと言った黒人コーラス・グループの存在で、その裏には、ジェリー・リーバー&マイク・ストーラーといった黒人音楽大好きの白人名ソングライティング・コンビがいた。55年、アーティストが増えすべてに手が回らなくなったアーテガンとウェクスラーは、スパーク・レコードからこの2人を引き抜く。ブラックの粘っこいノリに白人のポップな感性をまぶしたリーバー&ストーラーの楽曲群は、まさにアーテガンが求めていた音楽だった。コースターズ by リーバー&ストーラーは、この「Yakety Yak」の他にも、「Searchin'」 (1957)、「Young Blood」 (1958)、「Charlie Brown」 (1958)、「Poison Ivy」 (1959)と、珠玉のポップ・ナンバーを連発する。ちなみに、リーバー&ストーラーの下で見習いで働いていたのが、後に大プロデューサーとなるフィル・スペクターである。


6. 「Save The Last Dance For Me」The Drifters
(Pomus-Shuman 1960)
「Stand By Me」Ben E. King
(King & Glick 1960)

c0005419_23105492.jpg 1958年、クライド・マクファターに代わり、ベン・E・キング(1938-)がドリフターズに加入する。「Dance With Me」(1959)、「This Magic Moment」 (Pomus-Shuman 1960)などのヒットを輩出し、1960年、この必殺の「ラストダンスは私に」を放った。作詞作曲は、ブリル・ビル・ポップのドク・ポーマスとモート・シューマン。ベン・E・キングはこの曲を最後にドリフターズを脱退しソロ歌手に転向。すぐさま傑作「スタンド・バイ・ミー」をリリースした。ジョン・レノン『ロックン・ロール』(75)でのカバーを出さずとも言わずもがなの名曲だ。


次回、後編は、いよいよアトランティックがあのスタックスに……!

by ichiro_ishikawa | 2007-03-04 23:29 | 音楽 | Comments(0)  

ポップミュージック・クラシック

ビートルズ前夜  
ブリル・ビルディング・ポップ 1958−64

ソウルの底にはポップがあった

 昨年、ピーター・バラカンの『魂(ソウル)のゆくえ』を再読したことがきっかけで、ソウル(ブラック)・ミュージックをもう一度きちんと丁寧に歩いてみようと、その歴史を繙いていったとき、2つのことに思い当たった。
 ひとつは、ソウルのルーツはブルース〜R&B/R&R、そしてゴスペルにあると同時に、ソウルには、ポップという恐ろしく強い力が通底していると感じたこと。
 2つ目は、コースターズ、ザ・ドリフターズのようなソウル以前のポップ化したR&Bには黒幕がいる。ジェリー・リーバー&マイク・ストーラーという作詞作曲/プロデューサーチームの存在の力を思い知ったということ。

 白人音楽を中心とするポピュラー・ミュージックは、常に黒人音楽を盗用/吸収しながら発展していったことは周知の事実で、ことロックに言及するときブルーズ、R&Bをそのルーツとすることは多い。だが、ポップスは意外と看過される。ブラック・ミュージックはいつも尊敬の的であるが、ポップの偉大さにも同時に打ちのめされているこの衝動をどうしてくれようというのが、本稿の主旨だ。

50sポップシーン

 普通、「古き良き時代のアメリカ」という時、それは、第二次世界大戦での勝利を経て、物質面での生活がグワッと向上した1950年代のディケイドを指す。音楽の世界においては、ポップ大隆盛の時代だった。えてして生活が充実すると、享楽に走る。内省は陰を潜める。時代を反映しがちなポピュラー音楽にあって、こと50年代当時の音楽は、その享楽を貪って生まれたとも言える。
 だがパーティーがそんなに長続きしないことは今も昔も変わらない。不満分子というやつはそんななか、現れる。
 50年代半ばに来て、腑抜けたパーティミュージックに飽き飽きしていた不良たちが、続々表舞台に文字どおり躍り出て来た。
 メジャーシーンにおいて、エルヴィス・プレスリー、エディ・コクラン、バディ・ホリーといった白人の不良たちがビートを強化させ、リトル・リチャード、チャック・ベリー、ファッツ・ドミノらブラックグルーヴを爆発させた。
 ロックンロールの誕生だが、徴兵制度やら飛行機事故やらペイオラ疑惑やらで一度、ロックンロールは社会につぶされる。
 その間隙を縫って現れたのがブリル・ビルディングのポップだ。ロックンロールの嵐が去ったその土壌で、ティン・パン・アレーを中心とするポップスが巻き返しをはかる。その時、ポップスの職業作家たちは、ニューヨークのブリル・ビルディングという音楽出版社がひしめくビルの中(および周辺)で、ひたすら曲作りに勤しんでいた。ブリル・ビル・ポッブとはそこで作り上げられた音楽の総称/俗称である。
 ここで重要なのは、ロックンロールの嵐が去った後もその鋭角なナイフは若者たちの心にグサッと刺さったままだったということで、彼ら職業作家たちは、そんなリスナーと同世代の若者で、ロックンロールの魔法に憑かれてしまった人間たちであった。つまり、そこで量産されたブリル・ビル・ポッブとは、メロディーとハーモニーの強化を図った、ロックンロールの別の形だった。
 つまり、このブリル・ビル・ポップの音楽について何かいうとき、それがエルヴィス・プレスリーを筆頭とするロックンロール・ミュージックが爆発した直後に量産されたという時期的なものについて意識的でなければ大事な部分を見落としてしまう。

60s、ロック夜明け前にポップあり

 ポップスとは、職業作家たちが曲を量産し、適当な可愛い子ちゃん歌手などのアイドルをマリオネットとして唄わせるもので、それをロックがぶち壊した、という図式は非常に分かりやすい。つまりポップスのアンチとして、日本においてもベストテンなど歌番組主導の歌謡曲へのアンチとして、ロックが花開いたという説明がある。だがそれはとんだお門違いだ。
 ポップの重要性に注意するのは良いことだ。ジョン・レノンはビートルズとしてアメリカを初めて訪れた時に、キャロル・キングとジェリー・ゴフィンという同世代のソングライターチームを表敬訪問したというエピソードから分かるように、アメリカのR&Bがそうであるとまったく同じ位相で、アメリカのポップスは、実は、60年代に花開くロックンローラー全員の尊敬の的だった。50年代前半から巻き起こり一度は死んだロックンロールが一過性のものに終わらなかったのは、そのエモーション、アティテュードをポップが受け継いだことにあった。彼らソングライターは職業作家の体で語られることが多いが、それはキャロル・キングやニール・セダカが代表するように彼らは同時にパフォーマーでもあったのだが、たまたまてめえが自演するよりもアイドルに唄わせたものの方が「ヒット」したというだけだ。50年代に勃興したロックは、彼らによるポップという洗練をへて60年代に花開くのである。
 勢いで突っ走り爆発したロックンロールが、西洋音楽の教養と若いエネルギーを兼ね備えた若者たちによってメロディの質を飛躍的に高めた。ブルーズにおける個(私)の発露と、ガリッと弾くギターの生の手触り、R&Bの強力なリズム、そしてポップスのメロディ、そうしたものを大西洋の彼岸でしっかりと吸収した上で、爆発したのがビートルズ、キンクスを始めとするブリティッシュ・ロック・グループであった。

 というわけで、黄金のアメリカンポップスを確立させた彼ら若きソングライターたちの偉業を辿ってみたい。生誕年にも注目。ちなみにエルヴィス・プレスリーが1935年、ジョン・レノンが1940年。

■ジェリー・リーバー(1933生まれ)&マイク・ストーラー(1933生まれ)
c0005419_12311843.jpg作詞作曲家/プロデューサー・チーム。コースターズ、ドリフターズを輩出した黒人音楽マニアの白人2人組。フィル・スペクターの師匠にあたる。ブラックのゴリッとしたテイストはそのままに、メロディをよりキャッチーに、サウンドデザインをキッチュに深化させたといえる。(写真中央はキング)

→手掛けたすげえ曲この3曲
♪「Hound Dog」Elvis Presley(1956)
♪「Jailhouse Rock」Elvis Presley(1957)
♪「Love Me」Elvis Presley(1957)
♪「Don't」Elvis Presley(1958)
♪「Love Potion No. 9」The Clovers(1959)
♪「On Broadway」The Drifters(1963)


■フィル・スペクター(1940生まれ)
c0005419_12321030.jpg作詞作曲家/プロデューサー。音を重ねまくり、エコーを多用し、奥行きのある独特のモノラル・サウンドデザインを確立させた。ガ−ル・グル−プを見る眼あり。だが身長160cm。

→手掛けたすげえ曲この3曲
♪「Every Breath I Take」Gene Pitney(1961)
♪「He's A Rebel」The Crystals(プロデュース。作曲はGene Pitney)(1962)
♪「Be My Baby」The Ronets(1963)
♪「Da Doo Ron Ron」The Crystals(1963)
♪「Then He Kissed Me」The Crystals(1963)

■ニール・セダカ(19390生まれ)&ハワード・グリーンフィールド(1939生まれ)
c0005419_12323325.jpgアルドン・ミュージック所属の作詞作曲家チーム。ニール・セダカはパフォーマーとしても優れ、アイドル的存在だった。ド・キャッチーなメロディは秀逸。(写真はニール・セダカ)

→手掛けたすげえ曲この3曲
♪「Stupid Cupid」Connie Francis(1958)
♪「Oh! Carol」Neil Sedaka(1959)
♪「Calendar Girl」Neil Sedaka(1960)
♪「Where The Boys Are」Connie Francis(1961)
♪「Breaking Up Is Hard To Do」Neil Sedaka(1962)

■ジェリー・ゴフィン(1940生まれ)&キャロル・キング(1942生まれ)
c0005419_1233115.gifアルドン・ミュージック所属の作詞作曲家チーム。キャロル・キングは71年の名作『タペストリー』の存在感の大きさから、70年代のシンガー・ソングライターとして見られることが多いけれど、ビートルズ以前の偉大なるメロディメイカー。

→手掛けたすげえ曲この3曲
♪「Will You Love Me Tomorrow」The Shirelles(1960)
♪「Every Breath I Take」Gene Pitney(1961)
♪「The Loco-Motion」Little Eva(1962)
♪「Up On The Roof」The Drifters(1962)
♪「One Fine Day」The Chiffons(1963)
♪「I Can't Stay Mad At You」Skeeter Davis(1963)

■バリー・マン(1939生まれ)&シンシア・ウェイル(1937生まれ)
c0005419_12332720.gifアルドン・ミュージック所属の作詞作曲家チーム。フィル・スペクターと組むこと多し。ややマイナーコードのメロディがいい。(写真の白いワンピースはキャロル・キング)

→手掛けたすげえ曲この3曲
♪「Uptown」The Crystals(1962)
♪「On Broadway」The Drifters(1963)
♪「Unchained Melody」The Righteous Brothers(1965)
♪「Who Put The Bomp (In The Bomp, Bomp, Bomp)」Barry Mann(1961)

■ジェフ・バリー(1939生まれ)&エリー・グリーンウィッチ(1942生まれ)
c0005419_1233504.gifトリオ・ミュージック所属の作詞作曲家チーム。フィル・スペクターと組むこと多し。ポップ職人とは彼らをいう。

→手掛けたすげえ曲この3曲
♪「Be My Baby」The Ronets(1963)
♪「Da Doo Ron Ron」The Crystals(1963)
♪「Then He Kissed Me」The Crystals(1963)

■ドック・ポーマス(1925生まれ)&モート・シューマン(1936生まれ)
ヒル&レインジ所属の作詞作曲家チーム。徴兵から帰還後のエルヴィスを支えた。「Save The Last Dance For Me」などR&B要素が濃い。やや大人びたサウンドが特徴。

→手掛けたすげえ曲この3曲
♪「Surrender」Elvis Presley(1961)
♪「(Marie's The Name) His Latest Flame」Elvis Presley(1961)
♪「Save The Last Dance For Me」The Drifters(1966)

■オーティス・ブラックウェル(1931生まれ)
作詞作曲家。初期エルヴィスを形作ったといっても過言ではない、本稿唯一の黒人。

→手掛けたすげえ曲この3曲
♪「Don't Be Cruel」Elvis Presley(1956)
♪「All Shook Up」Elvis Presley(1957)
♪「Return To Sender」Elvis Presley(1962)

 これらブリル・ビルディング・ポップを聴いていて思うのは、黎明期のロックンロールよりメロディとアレンジが洗練され、曲自体は初期ビートルズと変わらないということ。『ア・ハード・デイズ・ナイト』ぐらいから、ビートルズは独自の進化を辿ることになるが、同じポップなメロディでも、アメリカン・ポップはやはりカラッと明るいのに対し、イギリスものはやはり陰というかうすらひねった感じがある。日本においてイギリスの歌ものがヒットしやすいのは、やはり同じ島国気質によるのだろうか。アメリカの移民気質、大陸気質のザクッとした感じはイギリス人や日本人にはなかなか出せない。アメリカン・ロックは偉大だと思う瞬間だ。
 また、当時は45回転のシングル盤が主流だったため、1曲の中で悠長に曲を展開している時間はなく、イントロ一発でリスナーを掴み、かつ飽きさせないことが必須であった。そのため、溢れるほどのさまざまな音楽的アイディアが1曲の中にぎっしりと詰まっている。1曲のパワーが強大なのはそうした事由にもよる。

 追伸的にいえば、当時のアメリカンポップスの隆盛は、日本における70年代後半から80年代前半にかけてのポップシーンに似ている。それ以前の優れたミュージシャンたち、主に、大滝詠一、松本隆、細野晴臣らはっぴいえんどの面々を始めとするロックアーティストたちが一斉にアイドルたちに曲を書き始め、画期的なポップソングを生み出した。とすると、やはり20年遅れでアメリカを追う日本という構図が真実味を帯びてくる。さしずめ今なら1985年。アメリカではヒップホップが勃興し隆盛を極めていた時代だった。同じくアメリカを「偉大なる他者」とするイギリスは、鋭い批評性でもって独自の動きを作り出すのとは非常に異なる。

by ichiro_ishikawa | 2005-03-23 15:37 | 音楽 | Comments(0)