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小林秀雄のジャンル


小林秀雄は研究者や高い教養のある読書家、インテリ層にとても評判が悪いやうで、実証的にそのダメさが多く指摘されてもゐる。
エピゴーネンの俺は、なるべく謙虚に無私の精神を持つてそれらを読むやうにしてゐるが、それでもやはり的外れなものが多いと思はれる。
要するに、それらは「研究論文」「評論文」として小林の著作は瑕疵だらけといふ批判なのだ。
しかし小林の文章はロックンロールであり、つまりポップであり、「常識」を基盤とした個人の情熱であつて、「研究論文」や「評論文」ではない。さういふ意味で的外れなわけだ。「近代批評の確立者」といふレッテルが微妙なのだ。正確には「孤高のロック文士」(でもこれだとアカデミックに残らない、正史に記録されないので俗称にとどめん)。

小林の愛読者がまさしく眺めるものは無私なる(ゆゑに極めて個性的な)小林の情熱であり、その情熱に動かされるのであつて、その「客観的な妥当性」にではない。かつ、小林に認める凄さとは、その情熱の方が客観的な妥当性よりも大事だといふ事に気づかせてくれるところだ。研究や評論に価値がないといふ事では勿論ない。それとは別次元の、原始的な、人間にとつて大事なもの、といふジャンルがあるといふ事で、小林秀雄はそこに属する。そのジャンルにはほかに池田晶子がゐる。その二人しかゐない。

by ichiro_ishikawa | 2017-03-10 12:49 | 文学 | Comments(0)  

連載 小林秀雄が考えるように考える 1


「本居宣長」に、「死者は去るのではない。還って来ないのだ」 という言葉がある。
平易だがよくよく考えると難解な言葉だ。
去ると還らないは結果、同義ではないか。何だか煙に巻かれたようだ。

この、結果、を持ち出すのが我々の悪い癖である。
結果を求める。

去る、と還って来ない、は全く違う。

どう違うか。

全体の中でワンフレーズを切り取って考えてみてもしょうがないのだが、
小林秀雄は全編サビでできた散文詩なので、切り取ってもよい。

とはいえ、続きを見てみる。

「死者は去るのではない。還って来ないのだ。と言うのは、死者は、生者に烈しい悲しみを遺さなければ、この世を去る事が出来ない、という意味だ。それは、死という言葉と一緒に生れて来たと言ってもよいほど、この上なく尋常な死の意味である。」

つまり、これは
美しい花がある、花の美しさ、というようなものはない。と同じことを言っているのではないか。



by ichiro_ishikawa | 2016-04-12 21:08 | 文学 | Comments(0)  

不安について


不安や、傷つきやすい自分の表現が文学、あるいは文学的な歌詞、と思われているが、本来、文学とは明るく、前向きで健康的なものだ。
哀しみはある。
明るく前向きという事がすでにどこか哀しい。

不安だ、傷ついた、など言うのは、自分の事しか考えていないからだ。もっと人の事を、人の事ばかりを考えていれば、不安だのどうだのと、くよくよしている暇はないはずだ。

内省も重要か。
鏡を通してしか自分の顔を知りえないように、ましてそも目に見えない「内面」は、他者という他人、もの、ことにぶつからねば分からない。

というようなことをどこかで小林秀雄も書いていた。

by ichiro_ishikawa | 2016-04-12 07:20 | 文学 | Comments(0)  

小林秀雄関連本も昨年続々刊行

小林秀雄関連本も昨年続々刊行。

この人を見よ:小林秀雄全集月報集成 (新潮文庫)
新潮社小林秀雄全集編集室 編
新潮社 (2014/12/22)

小林秀雄の思ひ出 (文春学藝ライブラリー)
郡司 勝義
文藝春秋 (2014/6/10)

学生との対話
小林 秀雄(国民文化研究会、新潮社 編)
新潮社 (2014/3/28)

なお、「文學界」と「新潮」でそれぞれ評論、若松英輔「美しい花 小林秀雄」、大澤信亮「小林秀雄」が連載中。

by ichiro_ishikawa | 2015-02-09 23:56 | 文学 | Comments(0)  

池田晶子本、続々刊行

池田晶子本、関連本が続々刊行されていた。

幸福に死ぬための哲学――池田晶子の言葉』
池田晶子(NPO法人わたくし、つまりNobody 編)
講談社 (2015/2/19)

池田晶子の言葉―小林秀雄からのバトン
稲瀬吉雄
コスモスライブラリー (2015/1/1)

考える日々 全編
池田晶子
毎日新聞社 (2014/11/27)

池田晶子
毎日新聞社 (2014/11/27)
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by ichiro_ishikawa | 2015-02-09 23:41 | 文学 | Comments(0)  

池田晶子 in ニュースステーション

超貴重映像。
だのにテレビってちゃかすから嫌いだ。

by ichiro_ishikawa | 2011-11-04 02:28 | 文学 | Comments(0)  

池田晶子 読売新聞1998年4月1日

 現在の日本に生きる人々は、自分が何のために何をしているかを自覚していませんね。自分の精神性以外の外側の何かに価値を求めて生きているから、いったんその価値が崩れると慌てふためくことになる。精神性の欠如という点で、かなりレベルの低い時代と思う。
 現代世界全体がそうだが、物質主義、現世主義、生命至上主義です。欲望とか生活とか、そういったことの人生における意味と価値を、根っこからきちんと考えたことがない。だから、金融不安など大事件のように騒いでいるが、先が分からないのは別に今に始まったことではない。生存するということは、基本的にそういうことなのだから、ちょうどいい気付け薬だと私は思う。
 地球人類は失敗しました。率直なところ、私はもう手遅れだと思う。この世に存在した時から、生存していることの意味を問おうとせず、生存することそれ自体が価値だと思って、ただ生き延びようとしてきた。結果、数千年かけて徐々に失敗した。医学なども、なぜ生きるのかを問わず、ただ生きようとすることで進歩した。何のための科学かという哲学的な内省を経ていない。
 ただ生きるのが価値なのでなく、善く生きること、つまり、より善い精神性をもって生きることだけが価値なのです。内省と自覚の欠如が、人類の失敗の原因だが、手遅れだといって放棄していいのではない。常により善く生きようとすることだけが価値なのだから、それを各人が自分の持ち場において実行するべきなのです。
 政治にしても、問題は、政治家が「よりよい」と言うときの、その意味です。彼らの言う「よい」とは、「善い」ではなくて「良い」、良い生活が人間の価値であることを疑ったことがない。しかし、人生の幸福は精神の充足以外あり得ません。物質に充足した人が、必ずしも幸福だとは思っていないのはなぜですか。みんな自分を考えるということを知らない。考え方を知らないというよりも、そもそも「考える」とはどういうことかさえ知らない。
 国民の側も、他人のことを悪く言えるほどあなたは善いのですかと、私はいつも思う。汚職した官僚や政治家はむろん悪いが、その悪いことをした人を、得をしたとうらやんで悪く言っているなら同じことだ。嫉妬と羨望を正義の名にすり替えているだけだ。
 世の中が悪いのを、常に他人のせいにしようとするその姿勢そのものが、結局世の中全体を悪くしていると思う。政治家が悪いと言っても、その悪い政治家を選んだのは国民なんだから。にわとりと卵で、どうしようもないと気づいた時こそ、「善い」とは何かと考えてみるべきだ。一人ひとりがそれを考えて自覚的に生きる以外、世の中は決して善くならない。
 税金の引き上げ引き下げで、生活が良くなる悪くなるという話以前の根本的な問題です。
 むろん政治は、生活する自我同士の紛争を調停するのが仕事なのだから、政治家はそのことに自覚的であってもらいたい。政治家が人を動かし、政策を進める時の武器は「言葉」のはず。しかし、現在の政治の現場ほど言葉が空疎である場所はない。「命を懸けて」なんて平気で言う。言う方も聞く方も本気とは思っていない。政治家に詩人であれとは望まないが、自分の武器を大事にしないのは、自分の仕事に本気でないからだ。言葉を大事にしない国は滅びます。
 だからと言って、「保守主義」とか自分から名乗るのもどうかと思う。なんであれ「主義」というのはそれだけで空疎なものだ。自分の内容が空疎だから、そういう外側のスローガンに頼りたい場合が多いのではないか。やはり、各人の精神の在り方こそが問われるべきだ。
 問題はそんなところにない。要は、政治家から国民まで、一人ひとりの生き方の自覚でしかない。だからこそ「考える」ことが必要だ。考えもしないで生きているから、滅びの道を歩むことになる。考えることなら、今すぐこの場で出来ることです。
(中略)
 半世紀戦争がなかったことが大きいと思うが、みんな自分が死ぬということを忘れている。人がものを考えないのは、死を身近に見ないからだと思う。と言って、永遠に生きると考えているわけでもない。漠然としたライフプランで、なんとなく生きている。一番強いインパクトは死です。人がものを考え、自覚的に生き始めるための契機は死を知ることです。
 制度を変えても、精神の在り方が変わらなければ、世の中は決して変わりません。
(読売新聞、1998年4月1日 blog 目黒被災より)

by ichiro_ishikawa | 2011-11-04 02:16 | 文学 | Comments(0)  

背表紙と俺

 大震災で俺のCD棚は崩壊し、多くのケースがわれ、ディスクが破損した。
 以前、外付けHDが壊れ20000曲のデータが失われた事は既に嘆き済みで、データの儚さを知ったものだが、ディスクもまた実に脆いものであった。
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 同じく本棚もあらかた倒壊したが、本一冊一冊は全く無事である。多少の破損はあるものの読むには全く支障はない。たとえそれが八つ裂きになっていたとしてもその復元が容易な事は、癇癪をおこして一度自ら引きちぎってしまった段平からの「あしたのために その1」を見事つなぎ合わせ、ジャブを会得したジョーの例が立証済みだ。
 本の耐久力のすげさに感心する。
 そんな中、あまり報道はされていないが、東北に多い紙の工場が被災し、紙の調達がままならず、出版に支障が生じている。さらに物流難で配本もままならない事態だ。というと、やっぱり電子書籍じゃね? という思考放棄・右へ習え体質のイージーな輩が多く出没するが、電子書籍なんて本じゃねえ。まあ野球に対しての野球盤みたいなものだ。野球盤は野球盤ですげえ面白いが。

 この震災で倒壊した本棚の中、唯一被災を奇跡的に免れていたのが、我が家では、小林秀雄全集ならびに池田晶子コーナーであった。
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 滅茶苦茶になった我が部屋の中、唯一すっくと屹立し、たじろがない小林秀雄と池田晶子。その背表紙を眺めていたら、涙が止まらなかった。男は背中ですべてを語るものだが、本は背表紙がすべてを語る。

by ichiro_ishikawa | 2011-03-24 01:19 | 文学 | Comments(0)  

池田晶子『残酷人生論』、唐突に復刊

 池田晶子、初期の最高傑作『残酷人生論』が、毎日新聞社から増補改訂版として唐突に復刊した。
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 『残酷人生論』は、全作が最高傑作池田晶子の著作の中でも俺が最も気に入っている作品で、初めて池田晶子と出会ったのが、何を隠そうこの『残酷人生論』だったということを知っておくのはよい事だ。

 俺が、はじめて池田晶子に出くわしたのは、26歳の春であった。その時、俺は、四谷をぶらぶら歩いていた、と書いてもよい。向こうからやって来た見知らぬ女が、いきなり俺を叩きのめしたのである。俺には、何の準備もなかった。ある本屋の店頭で、偶然見つけた情報センター出版局の「残酷人生論」の四六判に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられていたか、俺は夢にも考えていなかった。しかも、この爆弾の発火装置は、俺の覚束ない哲学の力なぞ殆ど問題ではないくらい敏感に出来ていた。四六判は見事に炸裂し、俺は、数年の間、池田晶子という事件の渦中にあった。それは確かに事件であったようにも思われる。文学とは他人にとって何であれ、少なくとも、自分にとっては、或る思想、或る観念、いや一つの言葉さえ現実の事件である。と、はじめて教えてくれたのは、池田晶子だったように思われる。
 

by ichiro_ishikawa | 2010-12-29 22:09 | 文学 | Comments(0)  

引用「いい書評」


 ニーチェの言葉というのはすべて血で書かれているような気がどうしてもしてしまうからどこを切ってもよく噴き出して、その哲学の精髄に触れるつもりがあってもなくても読んだ者にはときとして並ならぬ興奮と覚醒を与えてしまって、加えて超人や永劫回帰といった概念は類い稀なる詩才と相俟っていつの時代も悩める人々を(良くも悪くも)魅了してやみません。それはかつて近代という不明な空間を生き、変革を迫られていた日本の知識人−−高山樗牛、夏目漱石、新渡戸稲造、萩原朔太郎、芥川龍之介らをも当然のごとく直撃しました。本書は徹底した比較文学の作業によって導き出される−−いわゆるニーチェ・ショックが、彼らへ与えた影響の履歴であります。
 とりわけ表題にもなってい漱石が壮絶に面白くて興味深く、人間の悲哀と滑稽と求道と猫の目で描いた『吾輩は猫である』と執筆当時し、英訳『ツァラトゥストラ』を精読していたと思われる漱石の心の中をのぞき見しているような気持ちになります。無数の断片、激しく引かれるアンダーライン、怒濤の反論、トゥルー!と書き込まれる共鳴。漱石の暗部を照らしつつ望みをつなぐ応酬に、慣れ親しんだ名作の知られざる苦悩と達成が鮮やかに現出します。
 とにかく愉しい。仮に漱石やニーチェをまるで取らない人が読んでも本書には親切と挑発が満ち満ちているので興奮を見失う心配はないし、言うまでもなく愛読者たちにも新鮮な発見は約束されます。ああ、それにしてもニーチェというひとつの知性(個性)の振る舞いがこれほどまでに多様な感受を生むことに驚きながら、浮き彫りになる各人の魅力がたまらない。読み終わったあとに情熱に置き去りにされたようで無性に寂しかったので、すぐにもう一度読みました(表向きは殆ど反応を示さなかった森鴎外のエピソードも印象的。さすがというかなんというか……超人ならぬ公人パワー)。

 以上、読売新聞3/21付朝刊書評欄より全文。まるで池田晶子のような文体の持ち主は、旬の人、川上未映子。評されている書は杉田弘子『漱石の『猫』とニーチェ』(白水社)。
 川上未映子を知ったのは芥川賞『乳と卵』で、遅れてきた読者なわけだが、その後、彼女のブログで、小林秀雄と池田晶子を相当敬愛している事を知り、過去の『わたくし率 イン 歯ー、または世界』(講談社)、『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』(ヒヨコ舎)、『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』( 青土社)という、まさにその世界を想起させる著書を読むにつけ、一気に信用した。その線から行くと最新意欲作『ヘヴン』(集英社)は、ポップを引き受けざるを得ない位置に来てしまった故のプレッシャーか、いささか薄く、やや物足りなかったが、向いている方向はよく、次作が待ち遠しい作家の一人。

 上記、書評の書は、税抜き3200円。高すぎる。また上製本は、かさばり、重く、これ以上本に場所を取らせたくないので、立ち読みで済まさざるを得ない。こういう位置の書が、電子ブックで購入されるのだろうな、俺に。本屋で立って読むのは疲れるからな。煙草も吸えねえしな。小林秀雄や池田晶子ら、出たら即買い・保存必至というもの以外は、まず電子で買う。そして「すげえ名著だ」と感激したら、さらに本も買う。こういう流れになるはずだ。だから電子ブックはバンバン売れるのではないかな。全書500円ぐらいになれば。本は売り上げは確実に下がるな。保存欲を相当かき立てるものだけが本の形で買われる。その決め手は当然内容の質、そして装丁を中心とした全体のブックデザイン。でもやはり骨董品、オブジェではないのは、折ったり書き込んだりする必要があるからで、そういう意味では、「500円の文庫」、これが本の最も魅力ある形だ。

by ichiro_ishikawa | 2010-03-22 16:38 | 文学 | Comments(0)