BOØWY ブレイク前の初期映像集1983-85


 BOØWYは東芝EMI/YUI音楽工房に1985年に移籍後、いきなりベルリン録音、ロンドン公演、渋谷公会堂公演、テレビプロモーション出演と高額が投資されたメジャーな展開を始め、1〜2年で一気にブレイク。1987年にメインストリームにおいて頂点に立つや否やその年のクリスマスイブにはさつさと解散して、1988年にはそのあまりの突然さを補償するかのやうなラストギグズを、完成直後の東京ドームで行ふ。ほんの数年の出来事だが、長いポップミュージック・シーンの歴史の中で伝説と化した。

 BOØWYの表の歴史といふとこの1985-1987であり、それがイコール歌謡史に絶対的に記述される一点であることが凄いが、歴史はえてしてB面が面白い。B面といふか、その記述が省かれる前史。いかにしてBOØWYはBOØWYになつたのか、である。
 大手レコード会社や事務所といへども、ポッと出の兄ちやんたちといきなり契約を交はすやうなギャンブルをするはづはない。またマーケティングによつてキャッチーなメンバーを寄せ集めたわけでもない。そもロック・マーケットといふものはまだ日本に存在しなかつた。少なくとも顕在化してゐなかつた。つまり、BOØWYは、出来上つてゐる市場にインディーズから引つ張り上げてポップに仕上げられたといふ業界主導的な成り立ちではなかつた。
 話はむしろ逆でBOØWYがそれまで確信的にやつてゐたこと自体が今後の大きな市場である、と東芝/YUIが先見の明を付けた形であつた。BOØWYは東芝/YUI契約以前からすでにポップで、当時は日陰の存在であつたロック部門とはいへビクター、徳間といふメジャーレコード会社からアルバムを既に出して居り、「IMAGE DOWN」「NO! N.Y.」といつた代表曲をすでにリリースしてゐる。つまり、BOØWYの場合、文字通り「時代が追いついた」といふマンガのやうな展開だつたわけである。
 BOØWYは、東芝/YUI契約に至るまでに、そんな特殊な形の、長い苦労と下積みを重ねてきたバンドであつた。

 BOØWYにおける前史は、1981年5月の新宿LOFTデビュー、そして翌年3月のアルバムデビューから1984年までの約4年間(後述するが実際は1980年の結成から約5年間)。前述の通り日本のロックがまだアングラな存在だつた頃(アイドル歌謡全盛期)で、BOØWYはその間、ライブハウスを中心に活動する数多のバンドの一つであつた。
 正確を期すための余談だが、氷室に関してはさらにその前、デスペナルティでのEAST WEST '79(1979年8月25日、中野サンプラザ)入賞(記念版レコードにはのちに「CHU-RU-LU」としてサードアルバムに収録される「ブルー・シガレット・ラブ」が収められてゐる」)を受け、上京してビーイングにて加入させられた、1980年のスピニッヂ・パワー(1980年9月5日「HOT SUMMER RAIN」、1980年9月21日『IN & OUT』)がある。
 BOØWY結成は、スピニッヂの活動に嫌気がさして帰郷を考へてゐた氷室が1980年7月5日、野音でのRCサクセションのライブに触発されて、自分のバンドを持とうと決意し、同郷で同じく福生にて燻つてゐた布袋を誘ひ、ついで織田哲郎のバンドでキャリアを築き始めてゐた松井恒松を誘つたところからスタートする。

 当然その頃はテレビ出演もなく、動く映像といふのは大変貴重なわけで、2007年に『GIGS BOX』にて、1984年のロフトや、前述の1985年のロンドン公演の映像などがオフィシャルリリースとなつたものの、それら以外の映像は、闇市場にてブートレグが流通してゐただけであつたが、YouTube時代となり、ある程度、普通に流通するやうになつた。

 が、それでも、その存在の噂はあつたもののの出回つてゐない、といふ映像はまだ多い。そんな一つである、初の九州公演、ギャラが野菜だつたとの逸話が残る佐賀でのライブ映像が唐突にアップされた。
 これを機に、現在YouTubeで見られるブートレグ映像を時系列でまとめておく。


BOØWY結成以前の氷室京介 音源

1979年8月25日
デスペナルティ
寺西修(氷室京介)、松井恒二(松井恒松)、菊地アツシ(諸星アツシ)
「ブルー・シガレット・ラブ」(EAST WEST '79)


スピニッヂ・パワー
寺西修一(氷室京介)、木村マモル
1980年9月5日「HOT SUMMER RAIN」



スピニッヂ・パワー
寺西修一(氷室京介)、木村マモル
1980年9月21日『IN & OUT』より




BOØWY ブレイク前の初期映像集
1983-1985

1983年4月30日
新宿LOFT『AFROCKABILLY LIVE』
※現存する最古の映像


1983年7月31日
さが21世紀県民の森イベント「WOODS CONCERT」new!!


1983年10月5日
渋谷TAKE OFF 7(リハーサル?)


1983年12月18日
高崎福祉会館


1983年12月31日
西武劇場 ニューイヤーロック TV放映(3:28〜)


1984年3月30日
新宿LOFT『BEAT EMOTION LOFT 2DAYS~すべてはけじめをつけてから~』(GIGS BOX収録)


1984年8月7日
高知窪川体育館


1984年8月9日
高知県民文化ホール
なし

1985年3月12日
LONDON MARQEE CLUB(GIGS BOX収録)


1985年4月13日
赤坂ラフォーレ・ミュージアム(GIGS BOX収録)


1985年6月25 渋谷公会堂(GIGS BOX収録)



# by ichiro_ishikawa | 2021-06-13 00:50 | 音楽 | Comments(0)  

アイドル歌謡の没落1989-90


アイドル歌謡が80年代前半に頂点を迎へ、昭和の終焉、平成の始まりと共に衰退していつたのはなぜか。

ザ・ベストテン(1978年1月〜)
1989年9月28日終了

NTV紅白歌のベストテン(1969)〜ザ・トップテン(1981)〜歌のトップテン(1986)
1990年3月26日終了

夜のヒットスタジオ1968年11月〜)
1990年10月3日終了

1989(平成元)年から1990(平成2)年にかけて、70-80年代を彩つた大歌謡曲時代の象徴的な大型番組が立て続けに終了した。番組が終了するといふのは普通は視聴率が取れなくなつたときで、つまり歌謡曲の大衆需要がなくなつたことを意味する。

なぜ需要が無くなつたか。以下の4つがその理由だ。
1. お約束の暴露
2. ロックの台頭
3. 昭和天皇の崩御
4. 冷戦の終結
これらは大量生産社会、安定的秩序を崩壊させ、その上澄み・象徴的存在でもあつた、極めて牧歌的な存在であるアイドル歌謡といふものの存在を揺るがした。

その始まりは1985年に認められる。
以下、時系列でアイドル歌謡を駆逐していつた要素を辿る。

1985年7月5日
おニャン子クラブ「セーラ服を脱がさないで」
素人の歌謡界への進出。ベストテンの構成も手掛けてゐた秋元康による歌謡曲パロディで、当初はキワモノで的存在であつたが、その大ヒットにより、歌謡の全体クオリティが激落。

1985年11月21日
小泉今日子「なんてったってアイドル」
アイドルといふものの、文字通りの偶像性を暴露。やはり秋元康の仕掛け。

1986年2月21日
吉川晃司『MODERN TIME』
布袋寅泰初参加。自作曲も増え、アイドル界最後の大物が完全にロックへとシフト。

1986年10月
rockin'on JAPAN 創刊
日本の洋楽シーンに批評を持ち込んだその手腕で邦楽シーンも滅多切りに。ロックの台頭を批評で迎へた。

1986年10月22日
長渕剛『STAY DREAM』リリース 
時代風潮としてのロックを反映せざるを得なかつた前作『HUNGRY』の反省を経て、真のロックアルバムを完成。

1986年10月24日
ミュージック・ステーション 放映開始
お約束が暴露され、ガチバトルへと顧客がシフトするなか終了した新日本プロレス「ワールドプロレスリング」の枠で、潮目が変はつてきた歌謡界を反映すべく、先行歌番組への対抗として、ロック・ダンス路線に転向してゐたMC早見優によるDJ(ディスクジョッキー)スタイルでスタート(のち、ロックの一流どころは出演してくれないことから自滅しかけるもジャニーズ系歌謡番組にシフトして延命)。

1986年11月8日
BOØWY『BEAT EMOTION』リリース
ロックとして初の大衆チャート1位を獲得。歌謡界が黒く塗り替へられた瞬間。

1987年8月5日
長渕剛『LICENSE』 リリース
レコード大賞アルバム大賞受賞。歌謡界の権威ももはやロックに抗へなくなる。

1987年9月5日
BOØWY『PSYCHOPATH』リリース
歌謡界を操り人形としてアイロニックに表現したシングル曲「マリオネット」自体で歌謡界のトップをとるといふ戦略を実現。そしてプロモーションを含め、一切のテレビ出演を固辞。歌謡界・テレビ業界システムを崩壊させた。

1988年10月13日
「とんねるずのみなさんのおかげです」放映開始。ベストテンの裏でスタート。自身も多数ランキングしてその全盛に一役買つてゐたベストテンへの義理として一応自身の新曲リリースは中止。しかし第一回ゲストは松田聖子。その後も中山美穂、小泉今日子、荻野目洋子、チェッカーズといつたベストテンを支えたアイドル達をごそつと起用し、結果ベストテンの息の根を止めた。

1989年1月7日
昭和天皇、崩御
浮かれてはいけない空気が醸成。浮かれの典型であるアイドル、歌謡界も自粛。

1989年3月25日
長渕剛『昭和』リリース
チャラチャラした歌謡界を一蹴。トドメを刺す。業界全体がロック、シリアス路線に。

1989
東ドイツが国境を解放、「ベルリンの壁」崩壊。中国、天安門事件。ブッシュ、ゴルバチョフによるマルタ会談で冷戦の終結を宣言

1990
ドイツ統一、東ドイツ消滅。ラトビア共和国、ソ連からの独立決議、リトアニア、エストニアも独立決議

1991
米ソ戦略兵器制限条約調印。ワルシャワ条約機構解体。バルト三国の独立。12月、ソ連邦解体


まとめ

マスの嗜好がアイドル歌謡からロックへ。このジャンルのシフトは、支持母体が変はつたわけではないといふことに注意したい。
政権交代となつたロックの支持者は、それまでアイドル歌謡を支持してゐた層であつた。同じボリュームゾーンが支持ジャンルを鞍替へ、そのままスライドしたのであつた。
その層とは1971〜74年生まれのいはゆる団塊ジュニアで、それぞれが200万超を擁し、ひとクラス50人、1学年で10クラスあつた世代だ。つまり、その世代に刺さればイコールマスの支持を得たものも同然となる。

1982年=8〜11歳→アイドル歌謡
1986年=12〜15歳→ロックに感応
1989年=15〜18歳→洋楽へ
その時々の年齢と嗜好の推移がマスの嗜好の推移とマッチしてゐることがわかる。

そして、ビーイング台頭により音楽界が潰れた1994年には20〜23歳となつてをり、その後のコムロ軍団に席巻される頃にはオッサンの年代に突入。ビーイングやコムロ軍団を支えていたのは、その下の世代70年代後半〜80年代生まれであらう。その頃からティーンエイジャーの総数は漸減の一途を辿ることになる。歌謡界を支へるのはいつの世もティーンエイジャーである。しかしデカいボリュームゾーンつまりマスは中高年化して居り、中高年といふのは文化から最も遠ざかる人種であるので、ティーンエイジ文化がマニアック化していくのは必然であつた。支えてゐるのはマスではないので、テレビのやうなマスメディアはティーンエイジ文化を反映しなくなつていくのである。





# by ichiro_ishikawa | 2021-06-12 10:44 | 音楽 | Comments(0)  

天命を知る

40代最後の週末。つまり週明け50なわけだが、論語によると天命を知る、のだといふ。メールか何かで知らされるのか、多少ドキドキしてゐる。
自ずから知るといふ説もあるらしいが、そんな教条じみたことを孔子が言ふわけはない。そんなのはてめえの匙加減ひとつ、独り善がりの最たるものだからだ。

天が俺に命を伝へる。天とは、まあ神だらう。アブラハムにてめえの最愛の息子イサクをモリヤ山で殺せと命じた、あの神だ。おそろしい。だがそれが神といふもの、とはジャック・デリダが「死を与える」で論じたとおり。
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「人は、神が或る人々は盲にし、或る人々の眼は開けたといふ事を、原則として認めない限り、神の業について何事も解らぬ」とパスカルが『パンセ』で書いたあの神だ。
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神にひとり子イサクを捧げようとするアブラハムと、それを制止する天使。 レンブラント『アブラハムとイサク』、1634年


今年同じく天命を知る人リスト

仁志敏久、種田仁、元木大介、前田智徳、相馬直樹、名良橋晃、ペナルティヒデ、ZEEBRA、YUKI、GLAY(TERU, TAKURO)、山崎まさよし、竹野内豊、酒井法子、ユースケ・サンタマリヤ、木村多江、西島秀俊、藤原紀香、細川ふみえ、リサ・ステッグマイヤ、牧瀬里穂、丸川珠代、羽鳥慎一、有田哲平、つぶやきシロー、博多大吉、カンニング竹山、ココリコ、矢部浩之、オアシズ、おぎやはぎ、エマニエル坊や、レスリー・キー


# by ichiro_ishikawa | 2021-06-04 19:09 | 日々の泡 | Comments(0)  

34年前の今日、BLONDE発売


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34年前の今日、1987年6月3日、中森明菜、デビュー6年目の21歳にして最高傑作「BLONDE」リリース。
作詞・作曲:Biddu, Winston Sela/日本語詞:麻生圭子/編曲:中村哲

のちの、1987年8月25日に発売された全曲英語詞のスタジオ・アルバム『Cross My Palm』収録の原曲「THE LOOK THAT KILLS」よりも、編曲、歌詞、歌唱すべてにおいて本シングルの方が優つてゐる。

俺、当時15歳、高1。ベストテンやヒットスタジオで聴いた時は特にピンと来ず、そも中森明菜にあまり興味がなかつたが、2017年ごろApple MusicとYouTubeで聴き返したら、凄まじい楽曲であつたことが30年を経て発覚し、中古レコード店にて現物も入手。40-50代のおつさんに刺さる名曲。


# by ichiro_ishikawa | 2021-06-03 22:21 | 音楽 | Comments(0)  

求ム お笑いスター誕生の歌合戦


一日の大半をYouTubeを見て過ごしてゐるが、最も見るのはビデオ/DVD・Blu-ray化されてない古今東西のテレビ番組のアーカイブ映像だ。厳密には違法アップロードと思はれ、即刻削除されたり絶対に上がらないものがある一方で、著作権保持者のテレビ局や、出演者は、ある程度許容としてゐるのか、または宣伝的観点から見過ごしてゐるのか、明らかに目に触れてゐながら、ずつと残つてるものも多い。

そんな中で、小学生の頃に大好きで見てゐた、70年代後半から80年代前半にやつてゐたテレビ番組で、いまとても見たいのだがどうしても見つからない、といふものが2つある。
ひとつはテレビ東京のドバドバ大爆弾。デビュー前のとんねるずがお笑いスター誕生と前後して出演してゐる回もさうだが、ほかの回も見てみたい。俺の未来の遺品を整理してゐた折、写真を収める現像店からもらつたアルバムに、番組出演者募集の応募宛先のメモが書いてあり、夢中で見てゐた記憶が蘇つたのだ。

もう一つが、前述のお笑いスター誕生で年イチぐらゐでやつてゐた特別編の、お笑いスターによる歌合戦だ。
記憶に残つてるのは、小柳トムが「いとしのエリー」を歌つて優勝した回で、俺は誰か別のお笑いスターを応援してゐたのだが、それがトムに負けて悔しかつたといふ思ひ出がある。
後年、トムがバブルガムブラザーズとしてソウル歌手デビューした時、なるほどあの優勝はダントツだつたわけか、と腑に落ちた。

お笑いスター誕生は、土曜の12.00からやつてゐて、見ていたのは1980-81年あたり、小3〜4だ。前述の通りとんねるずや、ネアカ全盛の時代に根暗(いまでいふ脱力系)漫才で物議を醸した像さんのポット、東京03とかザ・ギースを彷彿とさせるキモサベ社中にファニーズ、元祖筋肉ピン芸人ぶるうたす、カージナルス(ガタルガナル・タカとつまみ枝豆のコンビ)、ニュースキャスター芸の司会(つかさ かい)、前述の小柳トムなどが好きだつた。

当時の小学校は、土曜もやつて居り、速攻で帰宅しては、鍵つ子ゆゑ、お湯だけで作れるカップラーメンとかお茶漬けを食べながら、かぶりつきで視聴しては、その足で、サッカーの部活のために学校に戻るといふ習慣であつた。
さういふ一連の生活の記憶とともにお笑いスター誕生はあり、毎日探してるが、なかなかあがらない。








# by ichiro_ishikawa | 2021-06-02 09:27 | お笑い | Comments(0)