スムースジャズとフュージョン

大きくは戦争から生活ハプニングまで、さういふことが起こらない平穏な状態といふのは、在り難い事で、相当洗練された仕組みが構築され実践されて居る証左といへる。
非常時においては、その仕組みが崩壊して居ることが認識できるが、平穏時は、その仕組みの存在自体が忘れられがちだ。

本来、生物は種族保存のため飢えれば原爆だつて落とすし隣人だつて食ふ。いま実際さうならないのは、これも同じ種族保存本能から、一致協力して飢え回避のための共存制度を構築してゐるからだ。貧困から戦争や犯罪は起こるが共食ひには至つてない。この制度構築、制度や技術の洗練が高度に進むほど平和は保たれ、平和であるといふ異常は忘れられる。

スムース・ジャズは軟弱だとか、フュージョンはBGMだ、といふ見解はよくみられるが、それらの音楽の平穏さ、心地よさは、平和を実現するのと同じ、超絶技巧の賜物であつた。
技術の極まるところスムースになる。その存在は背景に溶け込む。目の前のスムース、BGM化は、高度な個々の技術とそれらのアンサンブルによる結果だ。その高度さへの感動すら無化する高度。スムースジャズやフュージョンの境地はそこだ。

ここ数時間、作業しながらスムースジャズを流してゐたが、なにが鳴つてたか、覚えてない。それは凄いことだと気づくのはよいことだ。




# by ichiro_ishikawa | 2025-10-24 10:24 | 音楽 | Comments(0)

 

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』


 三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んだ。2024年4月に発売され第2回書店員が選ぶノンフィクション大賞2024」受賞、「第17回オリコン年間本ランキング2024」新書部門年間1位など華々しく、刊行から1年半で累計30万部を突破してゐる集英社新書だ。

 読んだのは一昨日の土曜日、最近だ。
 昨年春の刊行時から話題になつてゐたため存在は認知してゐたが、用はないと踏んでスルーしてゐた。なぜ働いてゐると本が読めなくなるのかは、多くの人がさうであるやうに、自分でもすでに考へ尽くしてをり、その答へはもう出てゐたからだ。
 一方、その昨年9月、『30日de源氏物語』といふ本を読んでゐた。源氏物語の準エキスパートの俺をして「とてもよくできた本だ」と思はしめた、名著だつた。
 その著者が、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の著者であると一昨日気づき、その三宅香帆氏が出した、なぜ働いてゐると本が読めなくなるのか、の結論が気になつて読んでみたといふわけだ。

 結論のやうなものは終章にまとめられてゐる。しかし、本書の見どころは、広く文献を取材した「読書史」である。実際、紙幅の殆どをそれに割いてゐる。その読書史を詳しく辿つた上で、「現代人が」なぜ働いてゐると本が読めなくなるのかを説いたものである。このプロセスがよい。
「現代人が」なぜ働いてゐると本が読めなくなるのか。結論を書いてしまふと、働いてゐると忙しいから、だ。身も蓋もない。

 しかし、面白いのは結論よりプロセス、つまり、「本とは何か」「読書とは何か」の意味が、時代により変遷してゐる事に注目して、令和を生きる者たち、とりわけ働いてゐる大人たちにとつて、本とは何か、読書とは何か、を分析してみせた。この分析が、読書史の最先端である今のリアリティとして秀逸だつたわけだ。

 つまり、現代における、本の意味、読書の意味が重要なのであつた。この意味が「忙しい」に負けるわけである。

 どの時代でも、人は忙しい。忙しくても、本を読む人は読むのである。今の忙しい人の忙しさとは何か。そして、本、読書とは、その忙しさに対して、どのやうに存在するか。

 そして、最後に、その忙しさを克服せよ、といふところまで、本書は言ふ。この物言ひの覚悟と凄み。これがハイライトであつた。

 




# by ichiro_ishikawa | 2025-09-23 00:34 | 文学 | Comments(0)

 

靴を脱いで家に入る


外国の音楽を聴いてると、こりや日本とは全然違ふな、と思ふ。

昔はさうではなかつた。自分の上の世代ーー外国の音楽を明らかに異国の文化として摂取したり、演者はそれを内面化するために格闘したりして居た、さういふ先人とは異なり、70年代生まれの我(々)は、外国の音楽もすでに普通に日本に土着化してるもの、として聴いて居た。つまり他者感はなかつた。

若い時分は、パンにコーヒー、ハンバーグステーキやカレーライスやスパゲッティを好んで食べてきた。パンやコーヒーを他者と思つたことはなかつた。

一方、たとへば戦前生まれの父は、ハンバーガーのことをパンと呼び、上述のものは、外国のもの、といふ意識が強かつたやうだ。当時は深く考へたこともなかつたが、今、思ひ起こすと、さう思ふ。

しかし、そんな70sの子供たちも齢50を超え、改めて外国の音楽を聴くと、ものすげえ他者だな、と違和感を覚えるやうになつてきたわけだ。この変化は興味深い。

家に入るときに靴を脱ぐとか、糠床とか、床間とか縁側とか、季語とか、さういふものに敏感になつてゐる。食は一汁一菜、味噌汁とお新香にご飯が定番となつて来た。
要は日本の生活や自然といふものに敏感になり、そこから生まれざるを得なかつた思想といつては大袈裟だが、言葉、ものの発想、捉へ方や考へ方、といつた、当たり前に備はつてゐるものを対象化して、掘り下げて考へるやうになつて居る。

そんな中、急速に増えて来た外国人旅行者の行動や会話を観察するにつけ、ちよつとした仕草から人と向き合ふ角度など何から何まで日本人とは違ふ、といふことに気づくことになる。肉にフォークをぶつ刺し、ナイフでザクザク切り刻んでゆく。靴で家に入り、なんならそのままベッドに寝転ぶ。日本とそれ以外では、こんなにも違ふものか。


さうした差異にいまさら驚きながら、毎日ダブを聴いて居る。ジャマイカ、カリブ、中南米。欧米以上に日本とは徹底的に異質な遠い異国。この辺はさらにヨーロッパやアフリカも混じつて居て、同じ人間とは思へないほど、異質だ。

ランボオから始まつた小林秀雄が最後に本居宣長にいつたやうに、多くの人間は、最終的に母国を見つめ直す。自分も実際にさうなりつつあり、この説はリアルだ。
その見つめ直しは、圧倒的他者の他者感の衝撃をもつて一層その質は高まるやうな気がする。

ので、日本とは何から何まで違ふジャマイカの音楽に思ひを馳せながら、靴を脱いで家に入る。




# by ichiro_ishikawa | 2025-09-20 09:29 | 音楽 | Comments(0)

 

渋谷陽一 持続への意志


渋谷陽一の偉業とは、その批評は無論だが、よりわかりやすいのは、経営手腕だらう。
同人誌を創刊するのは容易い。3号までは続けられる。しかし4号目はでないのであつた。
渋谷は最初からビジネスとして展開させることを自らの命題として居た。書き手であり編集者でありながら、経営を見据えて居た。
経営だけなら出来もしよう。書くことだけならできもしよう。どちらもやれたことは特筆されるべきことだ。

しかし、それは渋谷にとつてふたつのことではなかつた。
渋谷の思想の根本は、普遍的な他者を実現する意志であり、それは自らの批評原理で、それをミュージシャンにも求めた。
簡単に言ふと、売れなきゃダメといふことだ。
表現はゴールではなく、届けること、伝はることがゴールなのであつた。その達成の証明が売れるといふことで、売れなければ、継続が出来ない、といふか、継続する意味がない。
そのシビアさは、内外でいろいろな軋轢を生じさせもしただらうが、そのシビアさがなければ、いまかうした市井の一感想ブログから公の場でのプロ作家による論まで、さまざまに語られるといふじたいにはなつて居ない。





# by ichiro_ishikawa | 2025-09-12 19:21 | 文学 | Comments(0)

 

ポスト渋谷陽一


渋谷陽一は、
ロックは、黒人音楽
日本のロックは、西洋のロック
といふ圧倒的他者との摩擦にその本質を見、コミュニケーション論、文化論といふ人文科学としてロック批評を展開した。

それは戦後の「論の時代」を継ぐものでもあるが、
エンタメの世界でそれを展開することで、
漫画などと同様、ロックを文化として高みに配置し、
作品の質もそれにより高まつていつた。

しかしそれも、90年代後半から00年代にかけて、
さういふのは、論ずるまでもなく、
好き嫌ひといふ享楽の対象として享受してればいい、
とばかりに、需要が無くなつていつた様に思ふ。

一見、渋谷登場以前に後戻りとも映るが、
しかし、その作品の質は、上がりきつたところで生まれ続けては居る、そして論も、渋谷が展開したものが最早「当たり前」として、広く共有されてゐる、といふのが現在地ではないか。
この「当たり前」となるまでの、地ならしや行動、それらはまさしく偉業として讃えられるべきであるし、どう「当たり前」までに持つていつたかといふ内実は、今後論考され続けるだらうし、伝記の出版も待ちたいところだ。

引き継ぐべきは、
普遍のコミュニケーション論「普遍的他者を実現する意志」
音楽批評のジレンマ「海に出たけど泳げない」
であらう。
この二つは今後も考へられ続けてゆく。


rockin'on本誌で、渋谷陽一追悼特集が掲載されたので、久しぶりに購入した。追悼文は外部ライターのみ(1人は元編集長)に、故人の代表的な論考やインタビュー、対談の再録といふ構成だつた。
中の人の声は、編集長の編集後記のみ。
扱ひ方のポリシーに真摯な逡巡が伺える。
レッド・ツェッペリンの大特集およびそれと併載といふ「編集」をもつて追悼、批評して居る様に感じた。


外部メディアでの追悼文で良かったのは、出版業界紙でのスージー鈴木と柴那典の対談と、増井修のnoteだつた。



# by ichiro_ishikawa | 2025-09-12 14:32 | 文学 | Comments(0)