ミッドナイト感想「文学の言葉」


 私の中での新人で、実はベテランだった水村美苗、池田晶子ばりにすげえ分かっている事が発覚。哲人と小説家という表現のやり口の違いこそあれ、同じところを向いている。「日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で」で一目(読)惚れしてから、「日本語で読むということ」「日本語で書くということ」という関連批評、エッセイを読んだあと、「續明暗」「本格小説」「私小説 from left to right」という、こちらがメインなの知らぬが、小説に及んだ。そして、あの辻邦生との往復書簡「手紙、栞を添えて」で、現在入手できる全著作を網羅した。
 私は、一旦惚れ込むと、その内臓を鷲掴みにして、犬のように常にその骨をしゃぶっていたい、偏執狂的なストーカー気質で、全著作全網羅しないと気が済まない。その作家の本質に辿り着きたい、彼、彼女が見ていているものを同時に見たい。そうでなく何が読書か。キモち悪いか?

 その水村美苗、すべて、超ハイ・クオリティだ。「言葉」という万物の根源に極めて意識的で(小説家でもそうでない人は実に多いと思う)、謙虚だ。言葉が語り出すのを粘ってじっと待っている感あり。

 第55回角川短歌賞を受賞した26歳の山田航は、応募した50首を1年間推敲していたという。短歌は5・7・5・7・7という31字からなるが、50首といえば、文字数で言えば、約1500字。それを1年間推敲。異常か。否。彼の歌、言葉に賭ける覚悟の違いを物語る、創造者として当然の行為だろう。まっとうな人は、いる。

 文学の言葉というのは、日常から生まれ、日常を紡ぐが、日常を描くわけではなく、日常にないものを新たに生み出す。作家は創造主だ。
 
『パルムの僧院』の中で、サン・セヴェリーナ夫人は甥のファブリスに夢中になっていますが、スタンダールは「もし彼女が愛という言葉を思いついたら、当然、恋に陥っていただろう」と書いています。

 と、『手紙、栞を添えて』の中で水村美苗が辻邦生へ宛てた手紙に書いている。
 これは、衝撃的な真実だ。
 「愛」という言葉を知らなければ、愛という行為ができない。愛は存在しない。

 小説を書くとは、まだ形を取らない大切なものに、言葉によって形を与え、言葉の建物を建てること、といえましょう。(『手紙、栞を添えて』)

 読み手の側から言えば、私が小説を読むのは、「まったく」新しい事を知る喜び、と言える。

 荷風は、毎年一人で元旦を迎えていた事はよく知られる。
 だがそれは単に家庭を持たない人間の孤独ではない。自由を望むより孤立を恐れる社会にあって自ら選んだ孤立だ。その孤立を支えたものは読書だった。しかも外国語での読書だった。と水村は同書で続ける。

 人間の精神には、いまここに流通する言葉から抜け出したいという欲求がある。外国語というものは、その欲求にもっともじかに呼応するものなのです。逆に言えば、その欲求を満たすのに、かならずしも外国語である必要はない。今ここに流通する言葉との距離さえあればいい。古典でもいい。もっと根源的には、孤立した人間の言葉ならいいのです。

 深く、五臓六腑に染み入った。

by ichiro_ishikawa | 2010-01-15 02:54 | 文学 | Comments(0)  

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