1人が死んだ事件が2万件あった
本来「悲しみ」っていうのはすごく個人的なものだからね。被災地のインタビューを見たって、みんな最初に口をついて出てくるのは「妻が」「子供が」だろ。
一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、自分の子供や身内が一人死ぬことの方がずっと辛いし、深い傷になる。残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ。
そう考えれば、震災被害の本当の「重み」がわかると思う。2万通りの死に、それぞれ身を引き裂かれる思いを感じている人たちがいて、その悲しみに今も耐えてるんだから。
(ビートたけし 週刊ポスト「21世紀毒談特別編」より抜粋)
バンバンバザールのギタリスト富永寛之が「良文」とリツイートしていたツイッターで知った文章だ。確かに良文で、これは「歴史」というもの、すなわち「人生」の最も深い部分に触れている。
すぐに連想したのが小林秀雄である。史実を追う事に歴史の本質は無い。「歴史とは子を失った母親の悲しみに似ている」。というのが、小林秀雄の歴史観、すなわち人生観だ。
誰も短い一生を思わず、長い歴史の流れを思いはしない。言わば、因果的に結ばれた長い歴史の水平の流れに、どうにか生きねばならぬ短い人の一生は垂直に交わる。これは歴史哲学ではない。歴史は、そのようにしか誰にも経験されてはいない。
(「考えるヒント」)
by ichiro_ishikawa | 2011-03-24 00:59 | 文学 | Comments(1)