フュージョンと俺



フュージョンが嫌いだつた。
イージーリスニング、BGM、バブルオヤジのアクセサリー、ジーンズに袖まくりジャケッツの着こなし。一言で言つて、ダサい。さう思つて、敬遠ですらない、全く頓着せずに、見過ごしてきた。
ロックに生き方を求め彷徨つてゐた10代の少年、20代の青年時分の話だ。

それが今、毎日のやうに聴いてゐる。といふこの事態を、てめえのために整理分析して記述せん。

ダサいことには変はりない。だがそれはロック目線である。音楽性といふ視点を獲得すると、それはもうロックとは比べものにならない、芳醇すぎる世界がフュージョンにはある。

イージーリスニング、BGMといふのもいまだ正解だ。実際テレビ番組やCM等において頻繁に使はれる。画や内容を潰さない程度に、心地よくそれらを彩る音楽である。
それはフュージョンが歌詞がないインストであるといふ以上に、演奏技術が高すぎてもはや高いことに驚かない域に達してゐることによる。動きが速すぎるとスローに見えるやうに、鉄の塊である飛行機でももはや飛ぶのが当たり前と感じてゐるやうに、サラッと受け流せてしまふ。対してロックはわざと破綻や牙を盛り込むからいつもハラハラしてしまふ。だが音楽性や演奏技術の高度さを味わひたい場合、フュージョンにおいてはそれらを飽くことなくどこまでも堪能できるのだつた。

バブルオヤジのアイテムといつた印象も、それが勃興し流行つた時期がバブル期と重なり、当時のリスナーがみな享楽的なバブルであつただけで、つまり悪いのは今は「ちょい悪」と意匠を変へてゐるバブルオヤジであり、当の音楽自体は無実である。
また、カラスミと日本酒のやうなオヤジ的アイテムも、てめえが実際オヤジになると味わひ深く感じるやうにもなる。要はオッサンの舌や耳に合ふ音楽といふのは、別に悪いことではない。


フュージョンとは、元はクロスオーヴァーと言はれてゐた通り、ジャズと、ロック、ラテン、クラシックなどの融合である。

和田アキラ(PRISM)曰く「ジャズファンにはロックと言はれ、ロックファンにはジャズと言はれた」。安藤まさひろ(T-SQUARE)曰く「括るジャンルがなかつた」。

といふやうに、フュージョンは中途半端な存在とも言へるが、ジャズ・ロックとも、エレクトリック・ジャズとも違ふ、つまり大きく括つてもロックからもジャズからもはみ出る独自の音楽性を持つてゐるので、フュージョンといふ新ジャンルが創設されねばならないことになつた。


実際、ジャズを聴きたいときフュージョンはメロウ過ぎ、リズムがロックぽ過ぎる。ロックを聴きたいときは、やはりメロウ過ぎガツンと来ない。しかし、ジャズもロックも聴きたくなくて、メロウでスムージーでかつ高度な音楽を聴きたいとき、もしくは寺尾聡『リフレクションズ』や凝つた歌謡曲のバックの演奏だけを聴きたい、といふ時がオッサンになると出てきて、かなりピンポイントな心地ではあるがそんなとき、フュージョンはずつぱまる。


フュージョンと俺_c0005419_11174170.jpg


by ichiro_ishikawa | 2017-10-03 11:06 | 音楽 | Comments(0)  

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