放送の言葉と俺


いつもYouTubeを見ながら、司会者、コメンテーター、ひな壇などなど演者に対して感心やらダメ出しやらの場外批評をやつてゐる俺が、先日、テレビの取材を受けたのだが、極端にテレビ向きでない、といふかテレビに出れる実力に甚だ乏しいことが実証された。

まづ、表情身振りが乏しい。
カメラを意識しすぎ。
まあ、このあたりは素人にありがちでご愛嬌だらう。
重要な欠陥は、
「言葉がわかりにくい」ことであつた。

紙メデイアではあるが、普段は送り手の立場であるので、上記のことは常識的に理解はしてゐたし、逆にそのやうに執筆者には指示したりもしてゐる。
しかしながら、紙媒体と映像媒体の違ひはものすごく大きく、また指示と実際やるのとではこれまた大違ひ。特にその言葉である。

話し言葉といふものは書き言葉とは根本が異なることは重々承知で、現場では、話し言葉に開くだけでなく、かつすごく噛み砕いて、ひらがなで喋つたつもりが、それでも「文学的すぎる」と言はれる始末。
簡潔に述べることの難しさを痛感した。

テレビの取材者は、実はこちらが話す内容はすでに把握ずみ。つまり撮影取材では、その内容を聞きたいのではなく、「それを自らの言葉で語つてゐる画」が欲しいのである。そのときにキャッチーな言葉なら万々歳、最低限「オリジナルかつ誰にでも伝わる文言」がほしいわけである。それは必ずしもレベルを下げることではない。逆に言葉のレベルを上げることである。
放送の言葉といふのは実に奥深い。よくある「街の声」でさえ、使はれてゐるのは、さうした選ばれた言葉なのである。

なお俺の言葉はそれらを満たしてゐないゆゑ多分カット、放送には乗らないだらう。無念。
今後YouTubeを観る視点がまた変はつてくる。








by ichiro_ishikawa | 2017-10-23 17:10 | 日々の泡 | Comments(0)  

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