もののあはれを知るとは


科学的に世界を理解すること、道徳や倫理を基準に人間を把握することだけでは「はみ出てしまふ」、人間の何とも言はれぬ情緒をこそ、大事にしたい、そこに文学や歌の真髄がある、そこにしかない。
といふのが、もののあはれを知る、だ。
そこには科学も経済も倫理も、哲学も宗教もすべて含まれる。仏教もキリスト教も道教も神道もすべて。
もののあはれを知ることが本物の知性である。
といふかもののあはれを知らでは科学も経済も哲学も宗教も絵空事に堕す。
もののあはれを知るというのを換言すれば「ああ、人間…、ああ、人生」である。

といふ当たり前の誰もが感じてゐることを、源氏物語と和歌の中に、いかにもののあはれを知る心がはたらいてゐるかを見出して実証したのが本居宣長だ。

で、そんな宣長すげえという思ひを無私の精神て表したのが小林秀雄で、その小林を清潔だといつて愛したのが池田晶子だ。

by ichiro_ishikawa | 2018-05-04 14:56 | 文学 | Comments(1)  

Commented by 1729 akayama  at 2018-08-17 11:59 x
≪もののあはれを知る≫が、≪「ああ、人間…、ああ、人生」≫である事を互酬性原理で見る。
≪もののあはれを知る≫は、『離散的有理数の組み合わせの多変数創発関数論 命題Ⅱ』が、オートポイエーシス (autopoiesis)を内包するマルコフ過程と捉える事ができる。
離散的有理数が、一次元数体・二次元数体・三次元数体のそれぞれの関数をオートポイエーシス (autopoiesis)を内包して三次元数体で閉じた離散的可換群を創る。 
 この時、数学的な作用素としての【1】と【0】が、数直線上の位置との認知とは違った≪動的平衡≫の役割を認知する。
 高木貞治の言葉の
    ≪・・・無限・・・、私達は、常に有限しか体験することができない。≫
  を≪もののあはれを知る≫ として見つめる。
有限(離散)を動的(連続)とみる≪もののあわれ≫が、関数を≪動的平衡≫で『量化』していると掴まえると。
 岡潔の言葉の
≪思索は言葉なんです。≫
   の言葉の文脈による『量化』は、【一階述語論理】である。
 しかし、
≪数というもの≫の『量化』は、【二階述語論理】である。
このことを踏まえて、関数を≪動的平衡≫で『量化』すると離散数学(算数)が西洋の解析学的数学の成果を連続数学(数学)と掴まえて[数は量のかげ](数学共同体の呈示する自然数)と生る。

 コスモス表示の【0 1 2 3 ・・・】の自然数についてカオス表示を内包する縮約された【数】は、数(順序)と量の両性を秩序(コスモス)する理性(数学)として手に入れる事に生る。

 カオス表示が異界(〔神の式〕)でコスモス表示が現実界の数である。
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