連載 日本ジャズ史(1) 1910年代 五人の青年アメリカへ

考文献
・『日本のジャズ史』内田晃一著(スイング・ジャーナル社、1976年7月15日)

・「日本ジャズ史-その黎明の時代」菊池清麿

http://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub10.html
ほか多数

1910年代
波多野福太郎 波多野バンド
波多野榮次郎 ハタノ・オーケストラ

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1912(明治45/数日後大正に改元)

アメリカ行きの東洋汽船安田財閥系の海運会社。1896〜1960)の地洋丸(グリーン船長)に、五人の青年、波多野福太郎、奥山貞吉、田中平三郎、斉藤佐和、高桑慶照(いずれも東洋音楽学校、現在の東京音楽大学の卒業生)が、東洋音楽学校初代校長鈴木米次郎と共に船中演奏のため乗り込む。社交室で昼夜の二ステージ。

《オリエンタル・ダンス》《キスメット》《金婚式》といつた小品が主な演奏曲で、土曜はダンスパーティーでダンス曲を演奏。

二週間あまりの船旅の末、サンフランシスコに到着。当時のウィルソン大統領臨席の全米キリスト教派の大同団結大会にて飛び入り演奏。


東洋汽船は、その後天洋・春洋・サイベリア・浅間・コレア丸といふ船に次々と楽隊を乗船させた。楽隊のメンバーは、東洋音楽学校の出身者に軍楽隊や「バンド屋」、三越少年音楽隊出身たちを混合したバンド。ギャラは高給で月平均七十円。映画館の楽隊よりはるかに高かつた。


1913年(大正2)

日本郵船(三菱財閥系)でも楽隊を乗せるやうに。多くの客船が上海・香港・マニラ・ホノルル・サンフランシスコ・横浜といふアジアとアメリカを結ぶルートを就航した。


波多野は、大正元年から同七年まで船上バンドとしてアメリカを往復。その度に本場のジャズを聴いて耳を肥やす。


1916年(大正5)

東京西銀座の洋画専門館・金春館の館主三橋栄太郎に招聘され船を下り、座付きの楽隊として映画(無声映画)の伴奏をするやうに。波多野はビオラ奏者の奥山貞吉と合作で同館のテーマ曲『金春マーチ』も作曲。上映前の演奏が人気となる。最初はヴァイオリン、フルート、ピアノの三人編成。同年11月、楽隊にチェロが加わる。休憩奏楽幕間演奏も。


一方、波多野福太郎の弟榮次郎は、金春館から五分ほどの場所にある帝国ホテルで「ハタノ・オーケストラ」を主催。ハタノ・オーケストラは日本交響楽協会の母体となりクラシック、ジャズを問はず多くのプレイヤーを生みだすことに。


1920年(大正9)

横浜・鶴見の花月園が隅の建物を二百坪ほどの大ホールに改造して社交舞踏場を開く。日本最初の常設のダンスホール。外務省や海軍省の外人接待にも使用された。

最初に演奏したのが以下のメンバーで、日本初のダンス専門バンドとなる。


宍倉脩(ピアノ/楽長)

阿部万次郎(サックス)

原田録一(トランペット)

仁木他喜雄(ドラムス)

井田一郎(ヴァイオリン)


1921年(大正10)

ハタノ・オーケストラが、花月園に宍倉バンドの後を継いで破格のギャラで出演。メンバーは以下の通り。


中村鉱次郎(コルネット)

岡村雅雄(フルート)

前野港造(クラリネット・サックス)

寺尾誠一(ベース)

加藤福太郎(ピアノ)

仁木他喜雄(ドラムス)


船上バンド時代にアメリカで購入したフォックス・トロットやワン・ステップ、ラグタイムの譜面をそのまま演奏。アドリブはまだなかつた。しかし花月園は、波多野らの演奏が加はつてから十カ月ほどで閉鎖。関東大震災後はジャズの舞台が東京から大阪へと移動する。





by ichiro_ishikawa | 2018-11-12 21:51 | 音楽 | Comments(0)  

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