連載 日本ジャズ史(2) 1920年代 大阪のジャズ

1920年代
ジャズの都-大阪

カフェエがダンスホールに



1923年(大正12年)9月1日

マグニチュード7.9の関東大震災で関東一円が崩壊。焼け野原になつた東京を後に、多くのミュージシャンが大阪へ職を求めてやつて来る。同時に財界人、文化人も大阪に疎開し、大阪に人と富が集中するやうに。

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関東大震災の時の小林秀雄(手前右)



震災直後、大阪南の難波新地では、高島立夫なる人物がカフェエ「コテージ」をダンスホールに改造。蓄音機でジャズレコードをかけたり、日曜日にはエキストラで映画館の楽師二、三人が来て演奏したりした。


戎橋・北詰のカフェー「パウリスタ」も1924年(大正13年)、ダンスホールに衣替へ。秋にはカフェエ「ユニオン」、「パリジャン」などが次々とダンスホールに変はつた。


「灘萬カフェエ」では前野港造を中心にジャズバンドができる。


道頓掘の戎橋の下に浮かぶ屋台舟では、大阪・三越少年音楽隊、大阪・高島屋少年音楽隊、うなぎの出雲屋少年音楽隊のバンドが毎週土曜日の夜に演奏。


大阪ジャズの創始者と言はれる杉田良造は、河合といふお茶屋の芸者たちに楽器を指導して少女音楽団「河合サキソフォンバンド」を組織し、バンドはクラリネットやシロフォンを大阪の待合で演奏。

また、昭和期には鳥取春陽(1900年12月16日 - 1932年1月16日、街頭演歌師)のジャズのリズムを効かした作品を編曲した。


by ichiro_ishikawa | 2018-11-16 16:07 | 音楽 | Comments(0)  

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