連載 日本ジャズ史(8) 1920-30年代 服部良一


服部良一

1907年(明治40)年10月1日大阪生まれ。ジャズを基本にブルース、ルンバ、タンゴなどを日本の流行歌に取り入れた、日本のポップス歌謡の創始者。古賀政男が晩年において演歌の源流へとスタンスを代へたことに対して、服部良一はジャズのもつバイタリティを最後まで持つといふ己のスタンスを最後まで維持した。

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1923年(大正12)9月1日

道頓堀のうなぎ料亭「出雲屋」が太左衛門橋南ぎわ、カフェー赤玉の真ん前にある「角屋」といふ支店のレストランで少年音楽隊を結成。入隊式。


1925年(大正14年)5

出雲屋少年音楽隊が解散。松竹座オーケストラに参加。

同年6月に大阪放送局がラジオ放送を開始、すぐに局内に大阪フィルハーモニーオーケストラを結成。当時人気の出始めてゐたジャズ音楽の放送のために、内職ジャズバンド(NSジャズ・バンド)が放送用に結成され、服部良一らカフェエ、ダンスホールで演奏してゐた楽士たちが集められ臨時編成のバンドが出演して演奏した。


昭和に入るとレコード会社で仕事をするやうに。


1929年(昭和4)年頃

コッカレコード(国歌レコード製作所)でサクソフォンと編曲を担当。タイヘイ・レコード(1924年(大正13)に西宮市今津山中町で設立された合資会社内外蓄音器商会が前身。商標は金色で、昭和五年頃に当時の大日本麦酒株式会社の社長令息が経営を担当して社名が太平蓄音器会社に社名変更)の専属に。

タイヘイ・レコードでは古賀メロディの「酒は涙か溜息か」をもじった「酒は涙よ溜息よ」(作詞:英はじめ)の作曲を会社から命令され、抗議をしたが、旋律は服部のオリジナルでよし、会社のために吹き受けてくれと説得され、1932年(昭和7)1月、新譜で発売。


1933年(昭和8)年8月26日

ディック・ミネの助言もあつて東京へと上京。菊地博がリーダーとなっていた人形町のダンスホール「ユニオン」のバンドにサクソフォン奏者として加はる。


1934年(昭和9)年2月

東京進出をはかつたニットーレコードの音楽監督に。作曲家としての仕事も本格的に。


1936年(昭和11)年2月

大手コロムビアレコード(コロムビア・ジャズバンド、川畑文子、リッキー宮川、淡谷のり子、中野忠晴など)の専属作曲家に。

入社第一回の作品が淡谷のり子が歌う「おしゃれ娘」(作詞:久保田宵二/作曲:服部良一)。



やがて、淡谷のり子が歌う「別れのブルース」(作詞:藤浦洸/作曲:服部良一)で一流の作曲家の仲間入りをはたす。


当時、ソプラノのハイポジションで外国系のポピュラー曲を歌っていた淡谷に、アルトの音域で歌つてもらひブルースの情感を表現することに成功。

ブルースのみならず、つねに外国のポピュラー音楽のフィーリングを用ひてそれぞれのジャンルで和製ポップスを創作。軍国主義といふ制約された音楽環境において国際色豊かな音楽を創造した。


1944年(昭和19)

上海に渡り、李香蘭を満州から呼び、黎錦光の「夜来香」をシンフォニック・ジャズにした「夜来香幻想曲」を創作。歌謡曲においては感傷的なブルースの傑作「湖畔の宿」、「小雨の丘」、雄大な中国の抒情を歌った「蘇州夜曲」、モダンな余韻を感じさせる「一杯のコーヒーから」などヒットソングを生み出す。



戦後

ジャズの破壊力から豊かなロマンチシズムまでブギのリズムを日本の流行歌に取り入れ開花させた笠置シヅ子が歌つた「東京ブギウギ」、一方では、戦後の息吹を伝え日本人が最も好む歌謡曲、藤山一郎・奈良光枝が歌った「青い山脈」を創作。





by ichiro_ishikawa | 2018-11-18 14:45 | 音楽 | Comments(0)  

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