連載 日本ジャズ史(9) 戦後〜1955年


占領軍の進駐とジャズの復活・空前のジャズブーム


1940年(昭和15)10月31日、全国のダンスホールの閉鎖、1943年(昭和18)年1月13日、ジャズなどの米英楽曲約1000種の演奏禁止によつて、日本のジャズ演奏は終焉。


戦後になり、ジャズを中心とする軽音楽が甦る。


1945年(昭和20)9月9日

タンゴバンドで鳴らした桜井潔楽団が演奏。

9月23日、「日米放送音楽会」に米軍軍楽隊233部隊が出演し、戦後初のジャズ放送が実施。

NHK・占領軍用放送ネットワーク「WVTR」(第二放送用・FENの前身)が9月23日から放送開始。米軍の独自のプログラム編成で絶え間なく音楽が放送される。


1945年(昭和20)11月25日

「ニュー・パシフィック・バンド」(新太平洋楽団)が東京放送管弦楽団とともにジャズ演奏。

12月2日夜8時30分から、「ニューパシフィック・アワー」にレギュラー出演。テーマ曲は松本伸のテナーサックスをフィーチャーしたジョニー・マサーの「ドリーム」。



ジャズ音楽は、東京を中心に各地に設置された進駐軍キャンプや将校クラブでも盛んに演奏された。

その頃のジャズバンドは以下の通り。


「渡辺弘とスターダスターズ」

1946年2月に「渡辺弘楽団」の名でNHKラジオに出演。銀座に事務所を置き、いくつかのバンドを傘下に収め6月「スターダスターズ」と改名したバンドを率ひて第一ホテル(米軍高級将校宿舎)で演奏。第一ホテルのテストで、ホーギー・カーマイケルの名作『スターダスト』を演奏し合格したのでバンド名をこの名前にした。この時のメンバーには歌・三根徳一(ディック・ミネ)、中沢寿士(tb)ら戦前派のトップ・ジャズマンをずらりと揃へた。水の江滝子に振付けてもらひ、自ら壁ぬりスタイルでステージいつぱいに動き、踊る指揮者で一時代を築く。その後第一ホテルをメインにラジオ、映画、ジャズコンサート、レセプションと活躍を続け、戦後日本のジャズ復興の大きな原動力に。翌1947年には専属歌手を石井好子、ティーブ・釜萢(かまやつひろしの父)に変へ、戦後初の日劇ジャズ・ショーを成功させる。渡辺の周りには多くのジャズシンガー・プレイヤーが集まり、彼らをメンバーに加へ、1950年には総勢21名編成の充実期を迎へた。専属歌手はナンシー梅木、ペギー葉山、富樫貞子、青山ヨシオ、笈田敏夫ら。編曲は黛敏郎ら。のちに人気バンドを率いた南里文雄(ホット・ペッパーズ)、多忠修(ゲイ・スターズ)、谷口安彦(スイング・プレミア)、杉原泰蔵(スイング東京)らも在籍した。



「東松二郎とアズマニアンズ」


「南里文雄とホット・ペッパーズ」




戦前から外国のポピュラー音楽を歌つてゐた、淡谷のり子ディック・ミネ灰田勝彦らは、進駐軍キャンプや高級将校クラブの慰問演奏で拍手喝采を浴びた。


淡谷のり子は戦争中、レコードに吹込んだ外国系のポピュラーソングが常に検閲にひつかかり、悲哀を経験してゐた。戦後は、ジャズ、ブルース、シャンソンと思ふ存分歌へることができるやうになつた。


ディック・ミネは、進駐軍のキャンプで彼本来のジャズ、ポピュラーソングを歌ひまくり拍手の嵐だつた。そのために、NHK『紅白音楽試合』に出演できなかつた。


灰田勝彦も戦中に敵性音楽のハワイアンを歌ひ、随分と軍部から睨まれた。ステージで歌つてゐるところを発砲まで受ける。戦後の灰田勝彦はまるで水をえた魚のやうであつた。


占領軍の進駐によつて、この息吹が戦前から隆盛してゐた日本のジャズを復活させた。そして、戦前モダンの香りをもつてゐた歌謡曲も復活させた。  


1952(昭和27)4月28日

日米安全保障条約が発効。占領軍は駐留軍に。米軍基地はそのまま残つたが、規模は縮小された。それまで、基地まはりをしてゐた日本人のジャズ・バンドは、基地外で演奏するやうに。これを契機にジャズラッシュが始まつた。アメリカのジャズメンたちも日本にどつと押し寄せた。1952年(昭和27)4月には「ジーン・クルーパ・トリオ」が来日公演。スウィング全盛時代のベニー・グッドマン楽団の名ドラマーで知られるジーン・クルーパを中心に、テディ・ナポレオン(ピアノ)、チャリー・ヴェンテューラー(サックス)で編成。



そのブームのなかで江利チエミ(1937(昭和12)年1月11日、東京・入谷生まれ。父はクラリネット奏者、母は松竹楽劇団の出身の女優。幼いときから、米軍キャンプを巡)が歌ふ「テネシーワルツ」がヒット。


1953(昭和28)年、雪村いづみが「想い出のワルツ」を歌ひデビュー。この歌は、チエミがハワイ公演のとき、アメリカのコーラスグループ「デルタ・リズム・ボーイズ」のリーダー、カール・ジョーンズが彼女に薦めた歌だつた。


チエミにいづみに美空ひばりを加へて「三人娘」時代を形成。演歌・ひばり、ジャズと邦楽の融合・チエミ、ミュージカル唱法・いづみそれぞれの個性が戦後の歌謡界を彩つた。   



戦後の空前のジャズブームのなか、ビクターでは戦前からのヒットメイカー・佐々木俊一が次々とヒットを放つ。

灰田勝彦が、甘いヨーデルをいかした「アルプスの牧場」、野球人気を煽つた「野球小僧」、テイチクからビクターに移籍した淡谷のり子が歌つた「白樺の小径」もヒット。




佐々木俊一メロディーの傑作「高原の駅よさようなら」は小畑実のビクター復帰を記念するヒットに。

テイチクでは、「女バタやん」の異名をとる独特のバイブレーションで歌ふ菅原都々子の「連絡線の歌」がヒット。




コロムビアでは、藤山一郎が気品と品格のある流麗なテナーで「ニコライの鐘」、「丘は花ざかり」を歌ひあげた。ラジオ歌謡では伊藤久男の抒情歌「山のけむり」が好評を博す。




ジャズの黄金時代は1955年まで。

1956年、エルヴィス・プレスリーの登場でメジャーシーンは、ロックに塗り替へられる。








by ichiro_ishikawa | 2018-11-19 08:22 | 音楽 | Comments(0)  

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