生きづらいとは何か

「生きづらい」といふ言葉をよく見聞きする。
日本在住30年のある外国人の詩人が、昔は「世知辛い」だつたと言つてゐるのを又聞きし、ははあんと思つた。

詩人の意図とは違ふやうだが、この発言の部分だけを見て、なるほどと腑に落ちた。
以前は「社会は、人の世は」世知辛い、と言つた。
今は「わたしは」生きづらい、となる。
把握の主体が違ふのである。
事態は変はらないのだが、つまり以前は、わたしから一旦離れたところで、世間といふものは、といふやうに社会の風景として把握してゐたのが、今はそれぞれのわたしの個人の問題として、嘆かれる。

この微妙な違ひは、興味深い。
社会といふものは、と三人称小説のやうな神の視点で悠長に世を観察してゐる場合ではなくなつた。社会自体が複雑多様化してゐるのでひと言で括れない。
また、一方で、グローバリゼーションにより世界共通規格のやうなものが敷かれ、そこにまた複雑多様化した個人との摩擦係数が高まり、個人のなげく声が高く強くなつてゐると言へる。
俺が生きづらい。どうしてくれよう。俺が。
世が悪い。俺がもつと生きやすいようにしてくれ。俺が。俺が。俺が。
行間で言はれてゐるのは、他の人はどうでもよい、他の人のことを考へられる状況ではない。
俺、俺、俺。

そんな気がする。

その切迫度に違いはあれど、いつの時代も誰だつてそれぞれの持ち場で生きづらい。誰かがあるところで生きやすいとき、その同じ場所で生きづらい人がゐる。その生きづらい人が生きやすい場では、別のある人は生きづらい。そんなものではないか。
とすれば、世知辛いの方が、視野が広く、全体の幸福を目指してゐるやうな気がする。


小林秀雄はかういふことをどこかで書いてゐた。

不安だと言つてゐる人はいつもいつも自分のことばつかり考へてるんですよ。人の世話をしたらいい。不安だなど言つてる場合ではなくなります。



by ichiro_ishikawa | 2018-11-16 10:31 | 文学 | Comments(0)  

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