連載 日本のロック史 60〜70年代 (2)内田裕也界隈
内田裕也
1939年11月17日、兵庫県西宮市出身。
1957年
高校卒業後、日本大学法学部の夜学中退。
バンド・ボーイとして音楽生活を開始し、間もなく佐川ミツオ(現・佐川満男)と共に、バンドボーイ兼ヴォーカルとしてロカビリーバンドのブルー・キャップスを結成。
1958年
自身がバンドマスターのブルージーン・バップスを結成。
メンバーには美川鯛二(現・中村泰士)、北原謙二など。
1959年
渡辺プロダクションに所属し、同年に日劇ウエスタンカーニバルへ初出場。
1960年
かまやつひろしなどとサンダーバードへ参加するが、ジャズ志向が強いバンドであつたため脱退し、山下敬二郎とレッド・コースターズ、田川譲二とダブル・ビーツなどのバンドを渡り歩く。
1962年
寺内タケシとブルージーンズにヴォーカリストとして参加。
1966年6月
ビートルズ日本公演で、尾藤イサオとのツインボーカル、バックにジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズを従へた特別編成のバンドで前座として出演(「ウェルカム・ビートルズ」など数曲を演奏)。
同年、大阪のジャズ喫茶・ナンバ一番で活動してゐたファニーズ、のちのザ・タイガースをスカウト。
1967年
春頃から3か月ほどヨーロッパに渡る。オーストリア、ドイツ、イタリア、スペイン、ロンドン、フランスを放浪し、クリーム、ジミ・ヘンドリックス、ピンク・フロイド、ジャニス・ジョプリンなどを体験。
その経験を活かし、同年11月に麻生レミをヴォーカルとしてフラワーズを結成、ジャズ喫茶でのライヴ活動を展開(レコード・デビュー前の音源として、一柳慧の「オペラ横尾忠則を唄う」〈正式な発売は1970年3月〉がある)。
1969年1月
フラワーズのデビュー・シングル「ラスト・チャンス」、同年7月にはジャケットにメンバーのヌード写真を使用したアルバム「チャレンジ!」が発売。
1970年
前年年末にフラワーズへ参加したジョー山中(ヴォーカル、元・4.9.1〈フォー・ナイン・エース〉)、石間秀樹(リードギター、元・ビーバーズ)によりサウンド面が強化され、1970年1月26日に開催されたコンサート「ロックンロール・ジャム'70」(同録音は後にレコード化される)では石間がシタールを使用するなど、意欲的な演奏であつたが、同時期にメンバーの麻生レミと小林勝彦(スチール・ギター)が渡米のため脱退。このため、メンバーを新たにピックアップして同年春にはフラワーズをフラワー・トラベリン・バンドとして再編成するが、自身はヴォーカルを降りてプロデュースを担当する。
1973年
初のソロアルバム『ロックンロール放送局(Y.U.Y.A 1815KC ROCK'N ROLL BROADCASTING STATION)』を発表。10月、悠木千帆(現・樹木希林)と結婚。12月、年越しロックイベント「フラッシュ・コンサート」を開催。
1974年8月
ワンステップフェスティバル
1975年8月
第1回ワールドロック・フェスティバルの主催、ジェフ・ベックやニューヨーク・ドールズなどの来日に尽力するなど、1970年代中盤からは国外アーティストの招聘に労力を注いだ。
フラワー・トラベリン・バンド
ジョー山中:ボーカル(元4.9.1(フォー・ナイン・エース))
石間秀樹:ギター(元ビーバーズ)
上月ジュン:ベース(元ザ・タックスマン。現小林ジュン)
和田ジョージ:ドラムス
1970年10月
デビュー・アルバム『Anywhere』発表。
1971年4月
当時発足したばかりのワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)のアトランティック・レーベルから、フラワー・トラヴェリン・バンドとして2枚目のアルバム『SATORI』を発売。
1972年2月
ライトハウスのキーボード奏者ポール・ホファートのプロデュースによる3枚目のアルバム『Made in Japan』発売。
1973年2月
カナダより凱旋帰国後に行はれた1972年9月16日の横須賀文化会館でのライブ音源に、スタジオ録音の新曲を加えた2枚組として4枚目のアルバム『Make Up』発売。
1973年4月
京都円山公園でのコンサートを最後に活動を休止。
by ichiro_ishikawa | 2018-11-28 19:07 | 音楽 | Comments(0)