連載 日本のロック史 60〜70年代 (9)ニューウェーブ
「拳法混乱(カンフージョン)/ ほろ酔いの伊達男」(1979年 サウンドトラック)。
プラスティックス
メンバー
中西俊夫:ギター、ヴォーカル
佐藤チカ:ヴォーカル
立花ハジメ:ギター
佐久間正英:キーボード(後期にはベース、ギターも)。
島武実:リズムボックス(後期にはキーボードも)。
旧メンバー
福田泰彦:キーボード。オリジナルメンバー
藤岡芳晴:ベース。オリジナルメンバー。
浅井信夫:ドラム。オリジナルメンバー。
邱玲娣:コーラス。オリジナルメンバー。
横森美奈子:コーラス。オリジナルメンバー。当時BIGI社内デザイナー。
大口ヒロシ(広司):ドラム。2〜3ヶ月在籍
1976年
イラストレーターの中西、ファッション・スタイリストの佐藤、グラフィック・デザイナーの立花が中心となって結成。
1979年
イギリスのラフ・トレード・レコードよりシングル「Copy / Robot」をリリース。
1980年
シングル「TOP SECRET MAN」
「good」、「PEACE」、アルバム『WELCOME PLASTICS』、『ORIGATO PLASTICO』
1981年
イギリスのアイランド・レコードと契約し、3rdアルバム『WELCOMEBACK PLASTICS』をアメリカ、イギリス、ドイツでも発売。
P-MODEL
1979年1月1日
プログレッシブ・ロック・バンドの「マンドレイク」を母体に、平沢進(ボーカル、ギター)がリーダーとなって結成。オリジナル・メンバーは平沢進、田中靖美(キーボード) 、田井中貞利(ドラムス) 、そして彼らのファンだった秋山勝彦(ベース) 。
1979年3月
下北沢ロフトにてステージデビュー。
ヴァン・ヘイレンの来日ライブの前座を務めたことで人気に火が点き、同年7月シングル「美術館であった人だろ」でメジャーデビュー。
1980年1月
P-MODELの個人事務所「MODEL HOUSE」主催の初の全国ツアー「P-TRICK PLAN」開始。
1980年5月
過熱するテクノポップブームへの危機感からバンドは大幅な路線変更を打ち出した。これに伴い秋山とバンドの間でステージパフォーマンスの方向性に食い違いが生じ、秋山は同年11月に秋山が脱退。
ヒカシュー
1977年5月
巻上公一主宰の劇団ユリシーズ「最後の晩餐」公演。 1977年9月
ユリシーズ「コレクティング・ネット」の公演で、山下康、井上誠に音楽を依頼。
1978年7月
ユリシーズ「幼虫の危機」の公演で、巻上公一・海琳正道(現:三田超人)・井上誠・山下康・戸辺哲が参加。以後のヒカシューの母体となる。
1978年8月29日
リズムボックスを使用した音楽バンド・ヒカシューとして吉祥寺の羅宇屋で初ライブを行い正式に音楽活動開始。当時、巻上は歌とベースを担当。
1978年9月
パンク・ニューウェイブフェスに8 1/2、自殺、ボルシーなどの東京ロッカーズに関わるバンドとライブを行う。
1978年12月
ニッポン放送でDJをしていた近田春夫にデモ・テープを渡した後に「是非、プロデュースをしたい」と電話を受ける。
1979年10月21日
近田春夫プロデュースのシングル「20世紀の終りに」で東芝EMI・イーストワールドレーベルよりレコードデビュー。当時のメンバーは、巻上公一・海琳正道(現:三田超人)・井上誠・山下康・戸辺哲の5人。
1980年1月
NHK『600 こちら情報部』テクノポップ特集にプラスティックス、P-MODELとともに出演。
「白いハイウェイ」と「オアシスの夢」(2ndアルバム『夏』収録)がクラリオンのCMソングに使用される(CMのクラリオンガールは烏丸せつこ)。
1980年2月
1stアルバム『ヒカシュー』
1980年7月
2ndアルバム『夏』リリース。 8月に渋谷公会堂にてライブ『ベンチャーズVSヒカシュー』。
「パイク」がホラー映画『チェンジリング』のイメージ・ソングとなる。
1981年
巻上公一がトッド・ブラウニングの映画『フリークス』に感銘を受けて制作した3rdアルバム『うわさの人類』をリリース。NHK教育テレビ『若い広場』でヒカシューを特集したドキュメンタリー番組が放送。 石井聰亙監督作品『シャッフル』にて、音楽を担当。 「ガラスのダンス」が加山雄三主演のテレビドラマ『ブラック・ジャック』のエンディングテーマとなる。
1982年
巻上公一ソロ・アルバム『民族の祭典』(東芝EMI)リリース。ヒカシューのメンバーが全面的に協力しているほか、ゲルニカや立花ハジメなど多彩なゲストが参加。
デヴィッド・バーンも(ノンクレジットで)録音に参加したヨーガン・レールのファッション・ショーの音楽を担当。 その他にも、映画『俗物図鑑』の出演(巻上と海琳)と音楽、南伸坊、平岡正明、上杉清文などが参加していたHand Joeとのパフォーマンスや、ダンスのベアトラン・レゾンとのジョイント・ライヴ「仏の出口」を通じ、様々なジャンルにおいて活動を展開。
年末からベーシストとして坂出雅海が参加し、以後巻上はヴォーカルに専念。
以下省略。
サディスティック・ミカ・バンド
1971年11月
元ザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦(ギター、ボーカル)、加藤ミカ(ボーカル)、角田ひろ(ドラムス、現:つのだ☆ひろ)のメンバーで結成。後に高中正義(リードギター)が加入。
1972年
シングル「サイクリングブギ」でデビュー。
まもなく角田が自らのバンドを結成する為に脱退。ドラマーとして大口広司の一時加入を経た後、高橋幸宏が参加、高橋に誘われる形で小原礼(ベース)がメンバーとなる。
1973年
シングル「ハイ・ベイビー 」
1973年5月5日
ファーストアルバム『サディスティック・ミカ・バンド』を発表。
このアルバムは発売当初は数千枚しか売れなかったが、イギリス、特にロンドンで評判となり逆輸入という形で日本でも評価されるようになった。また泉谷しげるのアルバム『光と影』にも「加藤和彦とサディスティック・ミカ・バンド」名義で参加した。
1974年10月5日
シングル「タイムマシンにおねがい」。
1974年11月5日
ファーストアルバムを聴いたイギリスの音楽プロデューサー、クリス・トーマスのプロデュースでセカンドアルバム『黒船』発表。レコーディングには450時間が費やされた。
「SUKISUKISUKI /塀までひとっとび」がシングルカット。
その後、小原礼が脱退し、後藤次利がベースとして参加。
1975年11月5日
サードアルバム『ホット!メニュー』。
1975年
ロキシーミュージックの全英ツアーにおいてオープニングアクトを務める。
1975年11月
加藤和彦・ミカの離婚により解散。
1976年7月5日
ライブ・アルバム『Live In London』。
サディスティックス
1976年春
高橋幸宏、高中正義、後藤次利、今井裕によって結成。
1977年6月
ファースト・アルバム『Sadistics』を新レコードレーベル「Invitation」立ち上げの目玉商品として発表。
一方、ミカ・バンド時代から彼らの「世界を見ているアレンジ」に惹かれていたという矢沢永吉のバック・バンドに起用され、その模様は矢沢のライブ・アルバム『THE STAR IN HIBIYA』に収録。
1978年8月
サディスティックスと平行して、ソロ活動を始めた高中、高橋のソロ・アルバムを挟み、セカンド・アルバム『WE ARE JUST TAKING OFF』発表。
1978年8月29日
九段会館で行われたライブ(ゲストはにペッカー、斉藤ノブ、村上秀一)をもって解散。この模様は
1979年1月
九段会館で行われたライブがライブ・アルバム『Live Show』としてリリース。
イエロー・マジック・オーケストラ
細野晴臣(エレクトリックベース・シンセベース・コーラス)
高橋幸宏(ドラムス・ボーカル)
坂本龍一(キーボード・シンセサイザー・コーラス)
前史 1970年代半ば
YMO結成以前、細野は、ドラマーの林立夫、シンガーのマナと共に自身の「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカヴァーするというユニットを構想していたが実現せず(その後マナは、ソロで「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカヴァー)。
続いて細野は林と佐藤博のユニットでマーティン・デニーの「ファイアークラッカー」をカヴァーすることを構想するが、これも佐藤が渡米したことにより実現せず。細野は当時のマネージャー(日笠雅水)にも人選を依頼し、日笠は坂本龍一を推薦した。
1978年2月19日
細野のソロアルバム『はらいそ』に収録される「ファム・ファタール」のレコーディングの際に、坂本龍一、高橋幸宏の2人と、初めて3人で顔を合はせる。 それまでにも坂本と細野は1975年、大滝詠一のアルバム『NIAGARA MOON』の録音時に顔合はせをしており、1976年には細野がティン・パン・アレーのツアーでサポートメンバーとして坂本を起用するという関係だった。
一方、高橋と細野は学生時代から旧知の仲であったが、ミュージシャンとしての交流はサディスティック・ミカ・バンドが1975年の「ジャパン・ロック・フェスティヴァル」に出演した際、小原礼の代役で細野が演奏した事が一度あっただけだった。
その日細野が2人を自宅に招き、新たなグループのコンセプトを伝えたところ、2人は賛同し“YMO”が結成された。
後に、結成前から坂本と組んでいたシンセサイザーのエキスパート松武秀樹が、サポートメンバーのプログラマーとして迎え入れられ、YMOの特徴であるシンセサイザーの自動演奏を一手に引き受けることになる。
1978年9月
松武秀樹をサポート・メンバーとして、YMO初となるライヴを日本楽器池袋店東ショップ (YAMAHA) で行う。
1978年11月25日
デビュー・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』をアルファレコードより発売。アルファレコードは、同年秋にアメリカのA&Mレコードと業務提携しており全米デビューが決定。
1979年5月30日
デビュー・アルバムをアメリカのマーケット向けにリミックスしたアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ(米国盤)』をA&Mレコード傘下のトミーの自己レーベル、ホライゾン・レコードから発売。リミックスは、エンジニアのアル・シュミットと細野が共同で行った。この米国盤は7月25日に日本でも発売された(日本ではオリコン・チャート最高20位)。日本盤との大きな違いとして、坂本のインスト曲「東風」が「Yellow Magic (Tong Poo)」にタイトル変更され、吉田美奈子のヴォーカルが加えられている。
同時に、YMOを全世界に向けて売り出すプロジェクト「イエローオペレーション」が開始。
1979年8月2日 - 8月4日
ロサンゼルスのグリーク・シアターでチューブスの前座公演(海外初公演)。
1979年8月6日
マダム・ウォンにて単独ライヴ。、この頃から徐々にその存在が注目され始める。
1979年9月25日
2ndアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』発売(※この時期、アメリカではリリース前にホライゾン・レーベルが倒産したため、オリジナルの形では発売されなかった)。
1979年10月
初のワールド・ツアー「トランス・アトランティック・ツアー」をイギリス、ロンドンのヴェニュー公演からスタート。
1980年3月
初の国内ツアー「テクノポリス2000-20」。
1980年4月
雑誌「写楽」(小学館)の創刊イベント「写楽祭」にシーナ&ザ・ロケッツやスネークマンショーらと共に出演。
1980年6月
スネークマンショーのコントを織り交ぜて制作された4枚目のアルバム『増殖』発表。
1980年10月
第2回ワールド・ツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」が、イギリス・オックスフォードのニュー・シアターから始まる。同ツアーは、8ヶ国、19公演で行われ、アメリカ、ロサンゼルスのザ・チャップリン・ステージ公演では、日本への衛星中継も。ツアー中にアメリカのテレビ番組「ソウル・トレイン」に、日本人ミュージシャンとして初出演。
ツアーは12月の日本武道館での4日連続公演で締めくくられた。
1981年3月
アルバム『BGM』発表。
1981年11月
『テクノデリック』発表。
1981年11月24日
2度目の国内ツアー「ウィンター・ライヴ1981」がから仙台、宮城県民会館よりスタート。全国11会場で行われる。
1981年12月27日
新宿ツバキハウス公演を最後に(※この日の公演のみ、立花ハジメ、梅林茂もサポートメンバーとして参加、「中国女」も演奏された)、YMOとしての音楽活動は一旦休止状態となる。
1983年3月
カネボウ化粧品のCMタイアップ曲となったシングル「君に、胸キュン。」で音楽活動を再開。YMOのシングルとしては最大の売上枚数を記録するもオリコン・チャートでは細野の作曲・編曲による松田聖子「天国のキッス」に阻まれ2位に終わる。
1983年5月
「君に、胸キュン。」を収録したアルバム『浮気なぼくら』を発表。
1983年7月
『浮気なぼくら』の楽曲のヴォーカル部分をシンセのメロディーに置き換えたリミックス盤『浮気なぼくら (インストゥルメンタル)』が発表。
このアルバムに収録された「以心電信」は、世界コミュニケーション年のテーマ曲として採用。
1983年10月
雑誌「GORO」のインタビューで初めて正式に「散開」(解散)が表明。
1983年11月23日
旧YMOとしての最後のライブツアー(散開ライブツアー)である「1983 YMOジャパン・ツアー」が札幌、道立産業共進会場よりスタート。全国6会場。ツアー最終日12月22日は日本武道館にて、世界コミュニケーション年(WCY)記念、国連大学協力によるチャリティー・コンサート(観客は全て無料招待)。
1983年12月14日
アルバム『サーヴィス』がツアー中に発売。
1984年2月21日
前年12月12日-13日の日本武道館公演を収録した2枚組アルバム『アフター・サーヴィス』発売。
1984年4月5日
前年12月12日、13日の日本武道館の公演を素材として制作された映画『A Y.M.O. FILM PROPAGANDA』のプロモーション試写会を新宿シアターアプルにて行い、メンバー3人もプロモーション活動を。同映画は1984年4月18日
映画『A Y.M.O. FILM PROPAGANDA』が渋谷公会堂にて上映。以後、全国109か所で公開。 以降1993年4月1日までメンバー3人が揃ってメディアに姿を見せることはなかった。
by ichiro_ishikawa | 2018-12-01 23:19 | 音楽 | Comments(0)