連載 日本のロック史 60〜70年代 (7)ニューロック系


裸のラリーズ
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京都時代(60年代後半 - 70年初頭)
1962年
京都で音楽・アート集団結成。
1967年11月
バンド結成。メンバーは水谷孝(ギター、ヴォーカル)、中村武志(ギター)、若林盛亮(ベース)。ほどなく加藤隆史(ドラム)が加入。
1968年
コンサート活動を開始。ほぼ同時に演出家・劇作家の小松辰男が主催する劇団「現代劇場」と関はり、演奏と上演の合体公演。
1969年4月
京都大学のバリケードの中で行われたイベント「バリケード・ア・ゴーゴー」に出演、また現代劇場の関連団体、モダン・アート・ソサエティの協力を得て「冤罪符としてのリサイタル」と題されたコンサートを4月と10月に敢行。当時の全共闘運動などに表出された学生たちの心情的ラディカリズムと強く共鳴。後にアルバム『'67-'69 STUDIO et LIVE』に収録。
1970年前半頃
水谷、牧野忠央、久保田麻琴という3人でレコーディングと数回のライヴ。水谷のソロ名義による活動/作品として「Mizutani '70 STUDIO & LIVE」とクレジットされたアルバム『MIZUTANI -Les Rallizes Denudes-』に5曲のスタジオ録音、1曲のライヴ録音が収められる。
1970年後半
水谷は東京に移り、長田幹夫(ベース) 、正田俊一郎(ドラムス)と「東京版ラリーズ」を編成。
1971年
久保田麻琴がサポート的に参加し、「精進湖ロックシーン」などのイベントへ出演。
1972年
ギターの中村が復帰。また、この年の6月に開店した吉祥寺のロック・ハウス"OZ"がラリーズの出演をブッキングし、同店の主催でラリーズのホール・コンサートが企画される。
1973年9月
"OZ"は閉店するが、店のスタッフがバンドのマネジメントを務め、ラリーズを始め同店に縁のあるアーティストを集めた「OZ YAA HOUSE」(74年4月、福生市民会館)などのコンサートを企画運営。また閉店直後、オムニバスの2枚組LP『OZ DAYS LIVE』を製作し、第4面にラリーズのライン録りのテイクが4曲収録された。
70年代半ば
非メジャーコンサート、ヒッピー系の人脈によって企画されたイベントなどに参加。また都内に開店し始めたライヴ・ハウスで主に単独公演。
1976年
音楽評論家の間章の仲介によりイギリスのヴァージン・レコードからアルバムを出すというプランが組まれ、都内のスタジオでレコーディングが行われたが実現には至らなかった。この頃、メンバーはドラムが正田から高橋シメ、さらに三巻俊郎へと代わり、ベースは長田から楢崎裕史(ヒロシ)に代わる。
1977年3月
立川でパフォーマンス(後にアルバム『'77 LIVE』に収録)
1978年11月
ギターの中村が抜け、ベースに三巻、ドラムは野間幸道に交代。
1979年
ベースに"OZ"のエンジニアだったDoroncoが加入。三巻はギターに転向後、同年末に脱退。
1980年8月
元・村八分のギタリスト、山口冨士夫が加入(81年の3月まで在籍)。またスタジオでレコーディング(公表されずに終わる)も。その時のメンバーは水谷、山口、野間、Doronco。
1981年後半
水谷、Doronco、野間に時折サポートを加える形が取られていた。
1983年11月
ベースが大岩勝に、その1年後には高橋ヨーカイに交代するなど編成が流動的になるが、1988年の夏を最後に水谷が渡仏するまでコンスタントにライヴ活動。


ミッキーカーチス&サムライ
ミッキー・カーチスがヴァンガースを刷新、1967年に発足、1971年解散。
ミッキー・カーチス(ボーカル)
前期
ヒロ・イズミ(ギター・作曲・編曲)
山本五郎(ベース)
冬梅邦光(サックス)
菊地牙(ピアノ)
豊住芳三郎

後期
山内テツ(ベース、元ザ・マイクス、後にフリー、フェイセズ)
原田裕臣(ドラムス、後にPYG、井上堯之バンド)
ジョン・レッドフォーン(キーボード)
ジョー・ダーネット(ギター)


村八分

初期メンバー
柴田和志(1950年5月6日 - 1994年4月25日)ヴォーカル。通称チャー坊。
山口冨士夫(1949年8月10日 - 2013年8月14日)ギター。元ザ・ダイナマイツ。1980年に裸のラリーズに参加。1987年に青木真一とティアドロップスを結成。
浅田哲(1950年12月15日 - 2000年8月17日)ギター。村八分加入前ははしだのりひことバンドを。1973年2月頃脱退。
青木真一(1951年 - 2014年12月18日)ベース。1971年脱退。1976年にSPEEDを結成、1980年代後半まで東京ロッカーズシーンで活動。後にフールズ、ティアドロップスのメンバーとしても。
恒田義見 ドラムス。脱退後ブラインド・バードに参加。その後、ハルヲフォン、ペグモ。

途中加入メンバー
上原裕ドラムス(2代目)。1972年脱退。後にシュガー・ベイブ、沢田研二のエキゾチックス、忌野清志郎のラフィータフィーなど。
渡辺作郎ドラムス(3代目)。通称カント。
加藤義明ベース → ギター(2代目)。1972年8月加入。
エーイチベース(3代目)。
村瀬シゲトドラムス(4代目)。
榊原敬吉:ドラムス(5代目)。通称、某。日本画家、榊原紫峰の孫。

1969年
アメリカ放浪から帰国した柴田和志と、ザ・ダイナマイツを解散したばかりだった山口冨士夫を中心に京都で結成。
1972年11月23日
慶應義塾大学三田祭野外ステージでコンサート(後年、音源はCD化)。
1973年5月5日
京都大学西部講堂でコンサート。同年このライブを収録した唯一のオリジナルアルバム『ライブ』を発表。
1973年8月25日
解散。
1979年7月15日
京都大学西部講堂で再結成コンサート。柴田は本格的な再結成を望んでいたが、他のメンバーは賛同せず、この再結成は数回のコンサートのみとなる。



近田春夫

1951年(昭和26)2月25日、東京都生まれ。

1970年

GS末期のバンドロック・パイロットに参加。同じころ、元ザ・ビーバーズの平井正之・成田賢らのエモーションに参加。 

1971年4月

5年生まで留年して高校を卒業、慶應義塾大学文学部に入学。『アンアン』編集部で働きながらクニ河内のバンド羅生門に参加。

1972年1月

アルバム『インディアン、死よりも赤を選ぶ』を発表。 

1972年

元村八分の初代ドラマー恒田義見らとハルヲフォン(のちの近田春夫&ハルヲフォン)を結成。同年、アラン・メリル、金沢ジュンとゴジラを結成、同年、内田裕也の1815ロックンロールバンドに参加。 

1975年

谷啓とザ・スーパーマーケット結成に近田ハルオ名義で参加。同年ハルヲフォンはメジャーデビュー。 1976年1月1日 - 7日

日本劇場で行われた「'76 小柳ルミ子★アグネス・チャン ハッピー ニュー イヤー ショー」に谷啓とザ・スーパーマーケットのメンバーとして出演。

1977年10月

シングル『ロキシーの夜』でソロデビュー。同シングルのB面を最後にハルヲフォンは解散。

1979年

近田春夫&BEEFを結成。BEEFは翌1980年、ジューシィ・フルーツとして分離、デビュー。

1981年

窪田晴男、福岡ユタカらのバンド人種熱をとりこみ、近田春夫&ビブラトーンズを結成する。同年、ザ・ベンチャーズのアルバム「カメレオン」に加藤和彦、坂本龍一、ヒカシュー等と共に参加、ツアーにもゲストで参加。

以降、現在まで活動中、省略。




頭脳警察

1970年
パンタ(中村治雄)、トシ(石塚俊明)で結成。名前の由来はフランク・ザッパの「頭脳警察ってのはどいつらなんだよ? (原題:Who Are The Brain Police?)」(『フリーク・アウト!』収録)から。
1972年
ファーストアルバム『頭脳警察1』。
政治的に過激な歌詞により、発売中止(ジャケットは3億円事件犯人のモンタージュ)、『頭脳警察セカンド』の中の3曲は放送禁止に。
1971年
三里塚闘争が行われていた成田市三里塚で開催された日本幻野祭に出演。
1975年
解散。


外道

加納秀人:ボーカル、ギター
青木正行:ボーカル、ベース
中野良一:ボーカル、ドラムス
1973年にデビューし、1976年に解散、その後メンバーの脱退や復活などを繰り返し、現在も活動中。
ミッキー・カーチスがプロデュースし、後にジェフ・ベックと共演。

1973年8月4日
白樺湖音楽祭でライブデビュー。同年10月『にっぽん賛歌』でシングルデビュー。
1974年
ファーストアルバム『外道』、シングル『ビュン・ビュン』をリリース。
1974年8月8日
「郡山ワンステップフェスティバル」出演。
1974年9月
町田市民音楽祭に出演、警察署の隣に特設ステージを設けライブ。
1975年1月1日
アメリカ・ハワイの「サンシャインヘッド・ロックフェスティバル」出演。日本初のアメリカでのロックフェス出演バンドに。
2ndアルバム『ライブ・イン・サウンド・オブ・ハワイ・スタジオ』、3rdアルバム『JUST GEDO』、4thアルバム『拾得LIVE』、3rdシングル『ハイビスカス・レディー』をリリース。
1975年7月
後楽園サマー・フェスティバル出演。
1975年8月
「ワールドロックフェスティバル・イーストランド」名古屋、仙台公演に出演。ジェフ・ベック、ニューヨーク・ドールズ等と共演。
同年秋、事務所を離れる。
1976年1月
渡米、帰国後はライブハウスでの活動が中心となる。
1976年9月
町田祭で突然の解散発表。
1976年10月16日
日比谷野外音楽堂「ロッキード・ヘヴィ・コンサート」出演、実質的な解散ライブとなる。
1979年
加納秀人のソロアルバム『エレクトリック・ウズ』に青木正行、中野良一が参加したのをきっかけに再び集結、ライブ活動を再開。


サンハウス
菊(柴山俊之):ボーカル、ハーモニカ
鮎川誠:ギター、ハーモニカ
坂東嘉秀:ギター
川島一秀:ドラムス
浅田孟:ベース 

1975年1月15日
自主制作シングル「地獄へドライブ/キングスネークブルース」。
1975年6月25日
シングル「ロックンロールの真最中/レモンティー」。

テイチクレコード/ブラックレーベルより1stアルバム『有頂天』にてメジャーデビュー。
日比谷野外音楽堂にてデビューライブ。
その後、ゴダイゴやcharと共に全国ツアーを回る。
1975年11月25日
爆弾/雨」「夢みるボロ人形/あの娘は18才」
1976年6月25日
2ndアルバム『仁輪加』。
1978年3月25日
3rdアルバム『ドライヴ・サンハウス』発売。同日、解散を決定。
解散後、柴山は作詞家としてルースターズやシーナ&ザ・ロケッツ、アクシデンツ、UP-BEATなど福岡県、北九州のバンドに詞を提供。
鮎川は後期メンバー川島一秀、浅田孟(元THE MODSのメンバー)と夫人シーナを加えシーナ&ザ・ロケッツ結成。

シーナ&ザ・ロケッツ
シーナ:ボーカル、タンバリン
鮎川誠:ギター、ボーカル 作曲 A&R アレンジ レパートリー
浅田孟:ベース
奈良敏博:ベース
川嶋一秀:ドラムス
元サンハウスのギタリスト鮎川誠が妻・シーナと共に福岡から上京し結成。

1978年
シングル『涙のハイウェイ』でデビュー(当時の名義は「鮎川誠&シーナ・ロケット」「鮎川誠&ミラクルメン」)。
1979年
アルファレコードへ移籍。イエロー・マジック・オーケストラメンバーの協力を得て、アルバム『真空パック』を発表。
シングル「ユー・メイ・ドリーム」がJALの「マイ・ハート・キャンペーン」のCM。

その後、アメリカのA&Mレコード、フランスのスカイドッグ・レコードなど海外でもアルバムを発売。



by ichiro_ishikawa | 2018-12-01 20:20 | 音楽 | Comments(0)  

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