青年と中年


自分が青年時代であつた頃のことを思ふと「青年時代は不愉快だ」といふゲーテのことばが、実に真実を語つてゐると感じられる。壮年になつてもつと愉快になつたわけではないが、少なくとも青年時代よりはウソのつき方もうまくなつた。青年時代は、イバラの森を裸で歩いてゐるやうなもので、生傷の絶え間がなかつた。着物を着ればよささうなものを、あらゆる着物は虚偽だと信じてゐたから、裸でゐるよりほかはなかつた。そして青年時代の唯一の誇りは「自分は決して人に理解されない」と信じてゐたことだ。
だから、青年の気持ちはわかる、とか、学生諸君の気持ちはわかる、とか言ひ暮らしてゐるお人よしの大人たちを見ると「可哀想に。かれらの唯一の誇りまで奪はうとするなよ」と忠告してやりたくなる。
かういふ点では、今も昔も、青年といふものは格別に変はつたわけではないのである。

発掘原稿「現代青年論 〝弱い父親〟への反逆」三島由紀夫(1969年「京都新聞」「新潟日報」「北國新聞」など。全集未収録)
「新潮」2019年5月号より抜粋


ここで言ふ青年とは、三島の時代から20年後に、長渕剛「お家へかえろう」(1990)において「敗戦直後に生まれた40代は、つまらねえ日本的資本主義を作っちまった」と歌はれた、『Live '89』において「誰それがくっついた、はなれたのってニュースでやってる」「いい歳こいた四十過ぎのおっさん」と語られた、いはゆる団塊の世代。

彼ら「青年」は、中年になつたとき、自らが「あんなおつさんにだけはなりたくない」と指した、まさにそんなおつさんになつてゐた。

そして、新人類から、バブル世代、団塊ジュニア、ロスジェネ、悟り世代、そして現在の平成くんまで含めて、その時々の青年は、必ず「自分は決して人に理解されない」との誇りをもつて不愉快で、のちに例外なく「今時の若者は」「俺が若い頃は」と漏らす中年に成り下がる。

それは、なぜか。人生の重力。
扱ふべきテーマはこれであらうと考へてゐる。



by ichiro_ishikawa | 2019-05-03 15:01 | 文学 | Comments(0)  

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