ズージャと俺

ジャズがわかつたのは30をとうに過ぎたころだつたか。それまでは、なんかダセエな、つまらんな、雰囲気ものだな、イージーリスニングだな、とわかつた風に見切つてゐた。つまり、「もつとロックに演れないものかね」。

まるで、寿司を食つて、こんなのカレーじやねえ。と言つてゐたやうなものだ。

寿司は寿司なのであつた。こんな当たり前のことに気づくのに相当な時間を要したといふのは滑稽なことだが、さういふことはある。

ジャズはロックではない。むしろ対極にある。といふことに気づいたときがジャズがわかつた瞬間だ。一番の違いはドラム、次にベース。つまりリズムだ。ビートだけでなく音色も違ふ。次に、ギターやサックス、ピアノなどの上物の音階。ロックでは絶対使はない音の連なり。
あとは、ソウルでなく技術を聴かせるといふ、そもそもの意図が異なる。名演あれど名曲なしといふ。演奏技術に眼目が置かれてゐるので、曲自体はどうでもいいといふか、なんでもよく、大抵スタンダードナンバーが選ばれる。落語のやうなものか。何を演るかでなく、どう演るか。
そして最後にアドリブ、即興である。インタープレイも含まれる。元曲をどうアレンジするか、どう構築するか、どう演者同士が響き合ふか。

さうしたジャズが目指してゐるものが分かり、それはロックが内包するもの目指すものとは全く違ふものだつた、といふことに気づいたとき、ジャズの魅力を味わへるやうになつた。
これを、わかつた元年としてゐる。西暦にして2005年ごろか。

しかし、てめえ自身が技術的にジャズを演れないためもあつてか、本当の細かいところはわかつてゐない。高度な音楽理論と、それを聴き分ける耳がないと、本当にわかつたことにはならない。ただ、わかつたことにはならないとわかつてゐることが救ひか。

だから、ウェスモンゴメリー、ジョーパス、パットメセニー、ジョンスコフィールド、マイクスターン、パットマルティーノ、バーニーケッセル、ケニーバレル、などなど好きなギタリストはあまたゐても、全部ほぼ同じに聴こえる。他の楽器もしかり。体系的なことも理解してゐない。
理解できるのは、それぞれの生年や出自ぐらい、つまり人となりの表層。これは伝記好きが高じてのものである。伝記には音楽的特徴もよく書かれてゐるが、使用されてゐる音楽用語がよく分からず、音として実感できない。だからヤク中だつたとか、神童だつたとか、バークレーで学んだとか独学だとか親指だけで弾いてゐるとか、どこそこのバンドにゐたとか、監獄にゐたとか周辺情報だけだ。

それでもいまは十分満足してゐる。ただ聴いてゐて心地良い。しかし前述のやうな細かい(ジャズプロパーにとつては大きな)違ひが分かれば、さらに深い森へと入つていけるのだらうし、行きたくもある。経験的に演奏に挑戦してみるのが一番良いと思ふのだが、ギター歴30年にしてEmをストロークするところで止まつてゐるので絶望的だ。1ミクロンも弾ける気がしない。

とまれ、カレーに飽きると寿司が食いたくなるといふことがある。逆もある。
いまはゲスとユーミンばかり聴いてゐた反動でパットメセニーばかり聴いてゐる。



by ichiro_ishikawa | 2019-05-20 02:53 | 音楽 | Comments(0)  

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