数学者岡潔との名対談(初出「新潮」1965年10月號。全輯及び新潮文庫『対話 人間の建設』など多数の書籍に収録)の中に、芭蕉の「不易流行」といふ、多くの人がわかつた気になつて金科玉条の如く暗唱してゐるが、わかりさうで實はよくわからない言葉について、小林秀雄が、その本質をピタッととらへて語つてゐる発言がある。これに尽きると思ふのでブックマーク的に、以下抜粋しておく。
芭蕉に「不易流行」といふ有名な言葉がありますね。俳諧には不易と流行とが両方必要だと言ふ。これは歴史哲学ではありません。詩人の直観なのですが、不易といふのは、ある動かない觀念ではない。あなたのおつしやる記憶の力に關して発言されてゐるのではないかと思ふのですね。幼時を思ひ出さない詩人といふのはゐないのです、一人もゐないのです。さうしないと詩的言語といふものが成立しないのです。
誰でもめいめいがみんな自分の歴史をもつてゐる。オギャアと生まれてからの歴史は、どうしたつて背負つてゐるのです。傳統を否定しようと、民族を否定しようとかまはない。やつぱり記憶がよみがへるといふことがあるのです。記憶が勝手によみがへるのですからね、これはどうしやうもないことです。これが私になんらかの感動を与へたりするといふこともまた、私の意志ではないのです。記憶がやるんです。記憶が幼時のなつかしさに連れていくのです。言葉が発生する原始状態は、誰の心のなかにも、どんな文明人の精神のなかにも持続している。そこに立ちかへることを、芭蕉は不易と呼んだのではないかと思ひます。
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