批評と俺


いまだに「単位が足りないやも知れぬ」と焦る夢を定期的に見るが、その流れでふと思ひ出すのは、大学での近代文学の演習だ。高校まで本といふものを文学、学問として読んでこなかつた身としてはいろいろカルチャーショックがあつた。

それは明治の一冊の小説を1年かけて読むもので、細部にいたるまで徹底的に検証してゆくといふ。たとへば、主人公が通つたこの道はどんな傾斜で、周りに何が見え、どこそこまでの距離はいくらで、とか、なぜこの人はこの時かういふ態度を取つたのか、などなど。
「え? 作り話だのに?」と思つた。架空の話の内容を検証して何の意味があるのか?

しかし、この疑問はすぐ解消した、といふか、これはよい、これが学問なら俺は学者になれる、と思つた。結局なれなかつたが、在野の文学者を自称して今に至つてはゐる。要は、この検証は、作品を実際に生きるといふ試みだ。

実はこれと同じやうな事は、幼少時から漫画や映画において行なつてゐる。ジャッキー・チェンやテリー・ファンクに成り切つて酔拳やスピニング・トーホールドをかけるといつた可愛らしいものから、『あしたのジョー』の矢吹丈として生きる、といつたところまで。

文学研究者といふのは、それがそのまま大人になつた人種だ。作者なり作品が好きで好きでたまらないから、作り話なのに現実のことのやうに検証せずにはゐられない。絵空事を実際に生きてしまふ。

深くその作品に入り込むと、自他の区別がなくなつてくる。これは何かを好きになる人の常態だらう。
『あしたのジョー』に至つては、ジョーが漫画でしたことは、漫画の中の或る主人公のしたことなのか、自分がこの現実世界において実際にしたことなのか、区別ができない。

小林秀雄の言ふ無私の精神とはこのことだ。
俺が矢吹丈として、ホセとの試合後、このグローブを葉子に渡してくれと段平に託すとき、それは、唯一の確かな『あしたのジョー』批評なのである。



by ichiro_ishikawa | 2022-03-10 20:05 | 文学 | Comments(1)

 

Commented by 歌謡の本歌取りシリーズ(円周率 at 2024-09-12 16:01
 ≪…深くその作品に入り込むと、自他の区別がなくなつてくる。…≫で、江利チエミの「八木節」の本歌取りで、数学の基となる自然数(数の言葉ヒフミヨ(1234))を大和言葉の【ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と】に≪…ロックンロール…≫しタイ・・・

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 ヒフミヨは△廻し□なる

アー
ちょうと出ました 三角野郎が
四角四面の櫓の上で
音頭取るとは 恐れながら
しばし御免を こうむりまして
何か一言 読みあげまする
稽古不足で覚束ないが
平にその儀は お許しなされ
許しなされば ヒフミヨかかるで
オーイサネ

大和言葉のヒフミヨは
度胸すぐれた△野郎
〇泣かせの回転体で
取っておさえて三点ふかせ
今宵かぎりと〇から消える
ここにあわれはπと一よ
〇の形見のnを背負い
ひふみよいむなやこと
オーイサネ

聞いておくれよのろけじゃないが
逢うた初めはひと目で惚れて
思い込んでる〇の一
昼はまぼろし夜は夜で夢に
見ると云うても覚めればπ
一生他人にならないように
早いところで都合をつけて
そわせたまえや 〇と△
オーイサネ
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