いまだに「単位が足りないやも知れぬ」と焦る夢を定期的に見るが、その流れでふと思ひ出すのは、大学での近代文学の演習だ。高校まで本といふものを文学、学問として読んでこなかつた身としてはいろいろカルチャーショックがあつた。
それは明治の一冊の小説を1年かけて読むもので、細部にいたるまで徹底的に検証してゆくといふ。たとへば、主人公が通つたこの道はどんな傾斜で、周りに何が見え、どこそこまでの距離はいくらで、とか、なぜこの人はこの時かういふ態度を取つたのか、などなど。
「え? 作り話だのに?」と思つた。架空の話の内容を検証して何の意味があるのか?
しかし、この疑問はすぐ解消した、といふか、これはよい、これが学問なら俺は学者になれる、と思つた。結局なれなかつたが、在野の文学者を自称して今に至つてはゐる。要は、この検証は、作品を実際に生きるといふ試みだ。
実はこれと同じやうな事は、幼少時から漫画や映画において行なつてゐる。ジャッキー・チェンやテリー・ファンクに成り切つて酔拳やスピニング・トーホールドをかけるといつた可愛らしいものから、『あしたのジョー』の矢吹丈として生きる、といつたところまで。
文学研究者といふのは、それがそのまま大人になつた人種だ。作者なり作品が好きで好きでたまらないから、作り話なのに現実のことのやうに検証せずにはゐられない。絵空事を実際に生きてしまふ。
深くその作品に入り込むと、自他の区別がなくなつてくる。これは何かを好きになる人の常態だらう。
『あしたのジョー』に至つては、ジョーが漫画でしたことは、漫画の中の或る主人公のしたことなのか、自分がこの現実世界において実際にしたことなのか、区別ができない。
小林秀雄の言ふ無私の精神とはこのことだ。
俺が矢吹丈として、ホセとの試合後、このグローブを葉子に渡してくれと段平に託すとき、それは、唯一の確かな『あしたのジョー』批評なのである。
htmx.process($el));"
hx-trigger="click"
hx-target="#hx-like-count-post-32517802"
hx-vals='{"url":"https:\/\/ichirock.exblog.jp\/32517802\/","__csrf_value":"627c355d567597e04618ba3b6e6e21a56825b2ce2f8f6852b7668285feadde26265987012e8051909997ab9491aa452bbe3d0ed42174b1136953842cced19f7a"}'
role="button"
class="xbg-like-btn-icon">