久しぶりに書いたラブレター

最近、好きな人ができた。
小太りでやや不細工なその人の名は、
福田和也。
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この人は、実はいい。

池田晶子の連載コラム「人間自身」を読むためにコンビニで「週刊新潮」をめくる中、同誌に交じっている福田和也の「闘う時評」という連載がたまたま目に留まり読んでみたのがファースト・コンタクト。こいつはちょっとすげえのかも、と思っていると、文芸誌「en-taxi」が創刊。リリー・フランキーを真に分かっていることが発覚し、ますますその信頼は強まった。さらに旧作を読み進めるうち古本屋で「人でなし家業」という文庫にぶち当たり、その類まれなる才への信頼は、いよいよ揺るぎないものとなった。

この、「人でなし家業」なる本は、「Wooo」とかいうエロ雑誌に90年代に連載されていたものをまとめた時評集で、世の事象についての洞察が酒場トークの文体でスパーン!スパーン!と綴られている。

福田の文を評価した同誌編集長から、「おまえ面白いから、なんか書いて。うちは詩人の田村隆一先生が人生相談の連載コラムを書いているエロ雑誌だ」と執筆依頼を受けた。送られてきた見本誌を見ると、広告はほとんどQ2、本当に田村隆一が書いていたが、それ以外は女の裸で埋め尽くされていた。「田村隆一先生同様、仕事を厳選する」福田は、二つ返事でOKした。

このエロ雑誌は、なかなか秀逸で、衆議院か何かの選挙開票が予定より遅れ、開票を受けての分析記事の掲載を専門誌や総合誌が軒並み見送る中、そのエロ雑誌は印刷所の輪転機を当然のように止め福田に原稿を書かせるという無駄な英断を下す。

読んでいるのはいつ死んでもいい虫けら、世になんの影響力もないアナーキーなエロ雑誌の中で、福田は、至極デリケートなトピックに関して、すこぶる過激な論法と論調で鋭く本質を抉りまくる。ガラは悪いが、語られている内容はえらく的を射ていて、痛快この上ない。

そんなある日、そういや福田和也の経歴的なものについて何も知らねえなと、ちょっと探ってみる気になり、ウィキペデアを覗いてみると、
「福田が著書で間違いを連発、なんとかという文化人に指摘されている」
という趣旨の記述があった。

「フランス革命の『サン・キュロット』というのはズボンを履かないということ」
→正しくは長ズボンを履く下層階級の人々

「ベトナムにはメコンデルタに厖大な油田がある」
→メコンデルタは大米作地帯

「ベルサイユ条約の孤児であったソビエトと……」
→ソビエトではなくドイツ

「マレー半島、インドシナなどに広範な植民地をもち、中国にも多くの利権を持つイギリスとアメリカについて……」
→インドシナはフランスの植民地

などなど、なんとかという文化人は、福田の無教養ぶりを批判しているという。

なんか腑に落ちないというか、いやな気持ちになった。
その辺のことを分析してみたい。

上のような誤りは、どうでもいい、と思ってしまう癖(へき)がある俺には。

誤字脱字などまったくとるに足らず、差別語不快語、大歓迎、事実誤認も肝の大勢に影響がなければまったくかまわない。自分で訂正しながら理解していくからである。そも主体的な情報収集、知識培養とはそういうものであろう。正確な情報が自動的に与えられるなんて思っちゃいけない。だからそうしためちゃくちゃな文章でも、字面や音、言葉の運びが美しかったり、肝が至極全うであったり、本質を鋭く抉ってさえあれば、良しとする傾向がある。
ちまちまと間違いを指摘するという行為の裏には、己が教養の高さの誇示、あるいは正論を傘に人を貶めるという手口が透けて見えていやらしい。ちっちぇえ。

それらの事実誤認が、どういう本の中で、どんな文脈で記述されているかによって、間違いの事の重要さは異なるが、福田のその間違いに関しては、おそらく大勢に影響のない範囲なのではないかと、俺は想像する。なにより福田和也には、そんなちっちぇえミスを補って余りある、執筆量と、本質を鋭く抉る洞察力と、粋なセンス・オブ・ヒューモアがある。

by ichiro_ishikawa | 2006-08-31 20:13 | 文学 | Comments(0)  

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