ロックとは何か

 「ロックとは何か」という、手垢に塗れまくった問いを改めてシリアスに考えたい。
 まず、最初に細かいことで、ある意味どうでもいいことだけれど、ロックとは言わずロックンロールと言いたい。ロック&ロールなのであって、つまり、揺れて転がる、といった意味で、ロールは、転がる石にコケは生えない、の転がるである。ロックは物理的側面を、ロールは精神的有り様を言っている。だから、ロックというと「皮パンにエレキギター」「不良」といった、怠惰な発想に基づく微妙な誤解がはびこる。ロックンロールと言うと長いからロックと言うのなら問題ないのだけれど、ロックンロールと言うと古臭いからロックと言うのだったら、大問題だ。とりあえず、ここではロックンロールと言うことにする。
 ロックンロールは音楽的意味と精神的意味の2様がワンセットとなっている。
 ロックンロールの父はやはり、エルヴィス・プレスリー(54年)だろう。
 黒人のブルーズ、R&B、白人のロカビリー、フォーク(民族音楽)をごちゃ混ぜに消化したエルヴィス・プレスリーが、1954年にギターをかき鳴らして腰を揺れ動かしてシャウトした、そこに音楽的起原がある。

well you can do anything but lay off my blue suede shoes
何をしたっていいけどな、俺の青いスウェードの靴は踏むんじゃねえぜ
「blue suede shoes」ELVIS PRESLEY(カール・パーキンス作・石川一郎訳)
 これは、ロックンロールの精神面の何たるかを最も言いえたフレーズとして人口に膾炙しているが、異存はない。これがロックンロールである。
 この感じを別の言葉で説明することは難しい。詩だからだ。
「Don't Think. Feel」とブルース・リーの名言を拝借して済ませたい。
 以上、俺も正しいと思う一般論。
 これから、俺の考えを述べる。
 たとえば、「貫く」ということか? という。みんなが右向きゃ右を向くという愚行に対するアンチなのかと。
 結果としてそうなる場合もある、とは言える。
 実は、ロックンロールとは何々だの何々は人の数だけある。そのすべてが正解であると同時に間違いだ。ロックンロールは何々だ、と言った瞬間にそれはもうロックンロールでなくなってしまうからだ。
 たとえば、「ロックンロールとは貫くこと」。正解のひとつだ。しかし、もし「つらぬく」ことが目的になってしまった時点で、あるいはモットー、スローガン、生き方になってしまった時点で、それはロックンロールではない。カッコ悪いからだ。

 ロックンロールはもっと柔軟でしなやかなものだ。
 前述したことと多少かぶるけれど、ロックンロールとは、ロック&ロールなのであって、つまり、「揺れ転がる」。凝り固まっていない状態だ。時に応じて、貫いたり、妥協したり、クールだったり、ホットだったり。俺はこういう人間だと限界を設定しないこと。
 その局面局面でズバリ正解していこうという精神の有り様だ。
 その正解の物差は内なる普遍的なコモン・センス(英)、ボン・サンス(仏)、常識(日)である。常識というと、「常識を覆すことがロックンロールだ」とよく言うように、ロックンロールの対極にあるようだけれど、実はそうではない。前述のフレイズは、正確に言い直せば「常識と誤解されているものを正すことがロックンロールだ」である。常識というやつはもっと深いものだ。一般に人が言うところの常識とはマニュアル、規則、慣習みたいな意味であろう。だから俺はフランス語でこれをいうことにしている。ボン・サンス。良識のほうが正しい訳であろうか。そうした普遍なるボン・サンスを尺度にしているからこそ、ロックンロールはポップ・ミュージック足りうるのである。女子供を含めた万人に開かれているのである。
 局面局面でズバリ正解していこうという精神の有り様、がロックンロール。
 つまりカッコいいのがロックンロール。
 だからアコースティク・ギター1本で眼鏡でネルシャツでもロックンロールなことはあるし、エレギギターを歪ませて皮パン穿いて中指立てたところで、それがロックンロールとは限らないのである。
 80年代に勃興したヒップホップ、テクノは、ロックンロールである。ロックンロールが形骸化・様式化・メジャー化(誤解を許容し過ぎた)してきた状況を切り裂くために黒人はヒップホップへ白人はテクノへ向かったのである。ロックンロールが常に変化していくのは、局面局面が常に変化しているからである。
 諸行無常の世界にあってズバリ正しくありたいと、普遍が希求している、これがロックンロールである。

by ichiro_ishikawa | 2004-02-05 03:15 | 音楽 | Comments(1)  

Commented by 1729 akayama at 2018-08-10 18:16 x
 ≪普遍が希求している、これがロックンロール≫
 空海の「声字実相」の≪声≫を音で≪普遍≫にし、声の主の「揺れ転がる」を≪ロックンロール≫で捉える≪実相≫は、岡潔の言う〔理性〕と見える。
 「声字実相」を実装しているは、【数】だ、【数】が≪ズバリ正しくありたい≫との事を≪ロックンロール≫的に掴む。
 言葉でのセンテンスにおいて主語と述語の入れ替えは、完全に包摂しない。
 だから言語は、数学記号としての【=】の意味を決して獲得し得ないのだ。【数】は、ヒューリスティクス(発見的方法)の只管による【数である】事そのものの数理哲学としての作用素(1 0 ∞)で生まれて来たようだ。
 人類が十進法で手に入れた西洋数学の成果(e π)、虚数(i『動的作用を持つ』)とそしてオイラー等式(exp【iπ】)からの贈り物として{数である}事とが見える。
日常生活で四次元まで表象できる【数】が、数学共同体の指し示す自然数【0 1 2 3 ・ ・ ・ 】の意味として数【0 1】の数【1】が、カオス表示(e π)と虚数(i)からの双対性でみえる。
 特に、【数】が、【量】と【数(順序)】の両性を獲得するのは、一次元の離散数と二次元の実数とのヒューリスティクスによる互酬性原理を内包していることだ。
 人の徳としての互酬性原理を【数】が、隠し持っていたことは驚異か理性と言うべきか。
 このことから、算数の演算子の【= + - × ÷】が分るというか、操れるのだ。
 数理哲学としての作用素(1 0 ∞)は、≪ロックンロール≫そのものだ。 
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