赤穂浪士と俺
俺が今「赤穂浪士」を読んでいることを知っている人は、人の鞄を覗き見た奴か、半蔵門線か銀座線で俺の背後にこっそり立っていたことのある人間だ。
なぜ今「赤穂浪士」か。
不合理は重々承知。負けも必定。しかしそれでもやらねばならぬ事というものがある。恩に報いる。それが出来ずして何が男ぞ。という気分に今あるからか。そうかもしれぬ。そんな気もする。だが、否。
浅野内匠頭が吉良上野介に切り掛かった時、思い知ったかと大声を発したらしい。
だが、「思い知ったのは当人であった事に、間違いあるまい。ところで、彼は、何を思い知ったのか」と、小林秀雄が俺に思わぬ問いを浴びせて来たからである。
さらに、事件を巡り、当時の儒者たちがその正、不正をやかましく論じていた時、
「近松門左衛門は、ただこれは芝居になると考えていた。事件は、まず何を措いても劇的であると考えていた」
という、エピソードが面白かったからである。
小林秀雄は視点が秀逸だ。奇を衒っているわけではない。ただ、無私の精神で事の本質に迫ろうと思うと、そういう視点が立ち表れてくるだけの話だ。
「事件は、極くつまらぬ事から起こった二人の武士の喧嘩に始まり、決着のつかなかったところを、人数を増やした大げんかで始末をつけたというだけの事だ」(以上、すべて「考えるヒント2」収録の「忠臣蔵」より)。
ただそれだけのことが、なぜ俺の心を捉えて離さないのか。離さない、その当の物は何か。それを明らかならしめる事は、すなわち、己を知る事であろう。
とすれば、己を知るために、今俺は「赤穂浪士」を読んでいる、という事になるな。
それに関連するかどうかは分からない。
多分しないのだが、今、気になってしようがない小林秀雄の講演CDの中の言葉。
無私ってものは、得ようとしなければ得られないものだ。
客観的になるって事とは違う。
そこに、何にも私を加えないで、そこに私が出て来るってことがあるのだ。
自分で自分を表そうったって、そんなもの表れやしないよ。
自分で自分を表そうなんてやつは、気違いです。自己を主張してる人はみんな狂的です。あれは本当にすぐ病院に行かなきゃいかんです。自己を主張する者は、それが傷つけられると人を傷つける。
結局ドストエフスキイが分からなかったのは、キリスト教が分からなかったからだ。
てめえの願いを聞いてくれない神なんていたっていなくたって同じだ。
山には山の神がいて、海には海の神、森には森の神がいる。
日本古来深く信じられて来た八百万の神。
それが一番しっくりくる。
by ichiro_ishikawa | 2008-08-07 02:06 | 文学 | Comments(3)