2009年 12月 20日 ( 3 )

 

エセー「辺境人 1」


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「世界標準に準拠して振る舞う事は出来るが、
世界標準を新たに設定する事は出来ない」

 小林秀雄賞作家、内田樹が、日本人を辺境人として定義し、その特徴を挙げている本で、まさに、と深く納得してしまう言質が続く。
 政治、官僚、財界、メディア、教育、文化、スポーツ、すべて日本はダメだ。とは皆がしたり顔で言う。どうダメかというと、他国と比べて劣るから、という論理だ。それだけだ。学ぶべき見本は常に外部にあり、それと比べて相対的に劣位にある日本。では、どうすればいいか。他国を学ぶこと。やはりそういう結論になる。そういう結論にしかならない。ところが、この学ぶ事が日本人はたいそう得意である。追いつこうと努力することができる。ただ、抜かす事は出来ない。決定的に出来ない。なぜなら、抜かすためには、新たな世界標準を作り出さなければならないから。新たに独特で普遍的なものを創造する、ということが日本人はどうしても出来ない。

 そう述べる本書は、だから日本人はダメだというのではなく、こういう世界に類い稀なこの辺境人としての日本人が、その特性を生かして何ができるか、ということを論じている。
 しかし、面白いのは、本論であるそこでなく、前述した序章の部分。辺境人としての日本人の定義だ。日本人のきょろきょろする特性、真似は得意だが創造が致命的にできない、という端的な事実の証明の部分だ。それがいいか悪いかは兎も角、そうした辺境人という日本人の現実を直視する、ということがここでは一番重要だ。日本人は面白い。変わっている。その認識の上で、次にどうするかは、それこそ、この本を読むのではなく、手ぶらで考えなければならない。お手本はお手本でしかない。お手本には近づけるが、追い越せない。新しいものは創造できない。

 俺も、そうした典型的な日本人だが、手ぶらで考える、という事を習慣にはしている。別に世界標準を創造する日本人の出現を待っているわけではないし、ましてや自分がそうしたいわけでもできるわけでもないけれど、そこを意識するのとしないのでは、庶民であれ、何をするにも、その生き方が根本から変わってくる様な気はしている。

by ichiro_ishikawa | 2009-12-20 22:06 | 文学 | Comments(0)  

エセー「耳を澄ませ」

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負けない技術──20年間無敗、伝説の雀鬼の「逆境突破力」

 この本がいい。講談社プラスアルファ新書だ。文学ではない。非常にライトな実用書というか、ちまたでもてはやされそうな処世術指南書だ。だが、これは、内容がいい。
 著者は、男なら誰もが知る雀鬼・桜井章一。裏麻雀の世界で無敗を誇った男だが、麻雀の事は書かれてはいない。では何が明かされているかというと、ズバリ無私と中庸の精神、だ。小林秀雄の核を、うんと実地に引っ張って、極めて簡単に書いている。著者は言う、俺は簡単な事しか分からない、簡単な事ほど難しいという人もいるが、ここでいう簡単とはただ簡単なことだ。簡単な事をシンプルにやる。それだけだ。(注:原文notママ)
 以下、つらつらと要点を俺の言葉で抜粋的に書き連ねてみる。

 「勝ちたい」というのは満足の渇望で、それは欲望と同じで限度がない。「負けない」というのは満足ではなく納得だ。「勝ち」だけを欲する人は「得る」ばかりを求めるが、自然の摂理に則れば、得たものは失う定めにある。寄せる波はやがて引く。「得る」一辺倒より、「得て捨てる」というバランスの取れた生き方がいい。
 というと、後ろ向き、諦念、のように見受けられるやも知れぬがそうではない。「勝ちたい」は厚化粧、「負けない」はすっぴん。究極の攻めだ。化粧をして奇麗な人であるより、スッピンが奇麗な方がいいに決まっている。
 「守り」ということについても、ひと味違う。守りとは「逃げ」ではなく、「受け」だという。何でも面白く受け入れる。逃げでは、攻めに入るときに立て直しが必要だが、受けていれば、その反動をそのまま攻めに転じられる。瞬時にそのまま攻められる。
 片付ける、という言葉は勝負の世界で勝つ事を意味するが、普段から、物事をさっさと片付けていく事だという。そのためには、間に合わせる、済ませるということを習慣にしていなければならない。必要な事だけを考え、シンプルに実行していく事が必要だ。
 また、平常心を大切にする事が大事だという。それは動じない心ではなく、日常を大切にする事だと。そんな当たり前の気持ちこそが平常心で、準備・実行・後始末、を当たり前にこなしていく。
 得意・不得意も、「流れ」として考える、などというのは、特に雀鬼らしい考え方だ。得意なことや不得意な事があるのではなく、いい流れと悪い流れがある、という認識の転換だ。常に主体である自分は自然の一産物としてとらえている。
 「勝つ」ということは「負ける」人が存在するという事だ。「被害者」と「加害者」がいる。自分だけが勝って、自分だけが被害者なのではない。そうした全体をとらえる事だ。
 最もよく感じたのは、「目」より「耳」を使え、というくだりだ。麻雀でもなんでも、目、見るというのは重要だが、それより「耳を澄ます」ことで、より見えるものがある。確かにそうだろう。「画家は対象を目があるから見るのではなく、目があるのにもかかわらず見るのである」という言葉と同じことを言っている。

 以上、かなりてめえの言葉で勝手に要約してしまったが、概ねポイントは押さえているはず。だが、もっと具体的にきちんと書いてあるので、原本を読まれたし。ついでに、さらに勝手にまとめれば、以下の様なことになる。
 得て失う、生まれて死ぬ、という自然の摂理を受け入れる、自分だけでなく他者を生かす、事物はすべて変化していく、そういう流れを常に見極め、柔らかく自在に対応していく、勝ち・負けより、いい勝負をすることが大事、すると負けない、ということだ。
 麻雀をやる俺は、麻雀において至極尤もだ、という感慨を覚えるし、人生に処する際の根本の態度だ、と思えるのだった。

by ichiro_ishikawa | 2009-12-20 01:07 | 文学 | Comments(0)  

エセー「キッチンと俺」


 俺の家にはキッチンと居間と書斎があるが、起きているとき、最もどこにいる時間が長いか。
 このブログをよく読んでいる人なら、書斎と思うだろうが、違う、かといって居間でもなく、実はキッチンだ。
 というとイージーな輩は、料理に目覚めたか?などと思いそうだが、今さらそんなものに目覚めねえ。ではなぜキッチンに居続けているかというと、煙草を吸う為だ。我が家は賃貸なので居間や書斎で煙草を吸うと壁が汚れ、出て行くときに張り替え料として30万円取られるから、そこでは吸えないのだ。かといってベランダはさみい。そんなわけで、自ずと換気扇のあるキッチンに行くことになる。だが、キッチンは本来料理をするところなので、料理しやすい様な作りになっており、そこでは、ただ煙草を吸う、という行為しか出来ない。しかも、煙草を持つ手を常に換気扇に掲げ、かつ、煙を吐き出す時も口を上に向けて、と不自由極まりない。煙草を吸うのはリラックスする為なのはずだ。これでは所期の目的に適っていない。
 そこで、キッチンに脚の長いリクライニングチェアと高い小テーブルを配置し、塩こしょうなどの小物入れにはライターと煙草を収納し、水とジャックダニエルズとヴァンを並べ、そこで煙草を吸いながら読書や書き物が出来る様にした。つまりキッチンを書斎風にあしらった。幸いなのか不幸なのか、我が家には冷蔵庫やレンジという根幹たるキッチングッズがないため、そういうスペースを確保する事が出来た。逆境を勝負所として認識し、新しい試みをこなしていく俺の技術が発揮されたというわけだ。

by ichiro_ishikawa | 2009-12-20 00:23 | 日々の泡 | Comments(0)