2010年 02月 14日 ( 4 )

 

抄録「写生に就いて」


 実相に観入しておのずから感ずる衝迫、すなわちうたごごろを歌い上げることが、写生であり、短歌の根本である。ひとつの方法や主義というものではない。いわば芸術全般の根本である。あまりにも簡明で物足りなくとも、真相とはこういう当たり前の事、常識なのである。ただこの当たり前の事を実行する人は少ない。この実相への観入を緩めまいと努める事は大変難しいが、それが全てある。実相実相へと歩兵のようにひたすら歩むだけだ。観入の実行を突き詰めて行けば、感動は自ずから流露する。

 まるで小林秀雄の言葉のようだが、「斎藤茂吉歌論集」の要約である。全編に渡ってただそれだけを説いている。その歌への覚悟は痛切極まりない。

by ichiro_ishikawa | 2010-02-14 22:20 | 文学 | Comments(0)  

エセー「テレビと私」


 新聞のテレビ欄をまず開かないのは、テレビがないので見る必要がないのと、万が一面白い番組、たとえば「親子ジグザグ」再放送などを発見してしまうと悔しいからだが、テレビ欄は表4的なページにある為、意図せずしてつい見てしまう事もある。
 本日、何とはなしに瞥見すると異変に気づいた。第8チャンネルが東京12チャンネルの位置にある。地デジの並びになっていた。12は7に、10は5になっていた。8のスタッフは、12の位置に追いやられるとしても8という数字に拘泥したのだな。
 だが元12が長年占めていたこの右端というポジションは、12チャンの番組ラインナップの内容とも無関係ではないだろうが、私が最も好きな位置で、まずここを見る、時にはここだけを見るという習慣があった。私にとっては一番高い価値を持つ場所だ。
 この12が築き上げてきた孤高のポジションは、メジャーと千葉テレビなどUHF的な局の中間という微妙ながらジャストな位置だ。メジャーとマイナーの間、アンビバレントでグレーな部分、ギリギリの境界線、みたいな、流動的だがそこしかないという一点を常に目指す傾向にある私にとっては、12チャンの居方は、性に合っていたと言える。

 幼少の頃、午後6時台というのは遊びから帰宅し晩ご飯ができるまでのくつろぎの時間帯で、他のチャンネルがニュースしか放送していない時、変なアニメをやっていたのが12チャンだ。
 他のラインアップも秀逸で、国際プロレスや三菱ダイヤモンド・サッカー、ザ・スターボウリングといったニッチスポーツ、三波伸介の凸凹大学校、山城新伍の独占!男の時間、おとなの時間、ドバドバ大爆弾、ヤンヤン歌うスタジオなどの中崎タツヤ的大人に向けたバラエティ、モンティ・パイソンやファミリー・タイズ、特攻野郎Aチーム、特捜刑事マイアミバイスといった海外ものも気が利いていた。
 おそらく今の12チャンは、テレビ東京という名に変わっているし、もはやメジャーで、クオリティも落ちているに違いない そもテレビは1990年で終わったのだ。「とんぼ」の最終回でドラマ界は終焉を迎え、「ザベストテン」「夜のヒットスタジオ」「東京イエローページ」が終わった事で、エンタメ提供というテレビの役目はなくなった。そも情報としての価値はテレビには全くないし、ニュースも新聞でよく、電子ブックならなお良い。DVDを見るときにテレビはやはり必要か、との自問自答も一瞬起こったが、PCで見れば場所を増やさずに済むし、タルコフスキーなど映像が優れた映画は、映画館で特集されるのを待てばいい、と、立ち消えかかっていたところ、この地デジの並びで、いよいよ自分とは全く関係のない世界だという事を思い知った。

by ichiro_ishikawa | 2010-02-14 20:22 | 日々の泡 | Comments(0)  

エセー「独詠」


 世間がやけに賑やかで読書に集中できず、やるかたなく、レイ・チャールズ、そしてアリーサ・フランクリンというソウルミュージックの最高峰を大音量で聴いていた。
 あなたも参加したらいいと、隣人は親切だが、その手の喧噪に今の私は溶け込めない。作り笑いも歪む。ちょっとやる事があるので。互いにそれが方便であることを認めつつ、社交上での形式的な取引はつつがなく成立する。
 辞退の真の理由はやはり、宴終了後の己が帰路。一時の高揚は素の憂愁をさらに増長させる。そして実は、それ以上に、OFFになっためいめいの後ろ姿が堪らない。

 ソウルミュージックからジャズへと盤を変え、ポール・ブレイ、ミンガス&ブレイキーのピアノ・トリオが何回かリピートし終わったあと、斎藤茂吉歌論集に傍線を施しているうちに、いつの間にか眠っていた。目覚めるととっくに陽は沈み、まわりの家の窓ガラスに明かりが灯り、緊張した空気の中をみぞれがしんしんと舞っている。銀色の涙がこぼれ落ち、私は煙草に火をつけ、しけた気分でプカプカ吸い始めた。

by ichiro_ishikawa | 2010-02-14 18:09 | 日々の泡 | Comments(0)  

実験「ものを介さない会話」


 音楽とか映画とか本とか、そうしたものを通してしかコミュニケーションが取れないというのはどうなのか、という問題に対して、それらを通さない会話というものを試みてみんとす。

「よう、兄弟、どう?」
「何が」
「いや、こう、何か…日々こう、なんか、生きる…、どう?」
「うーん…、何が」
「何とかじゃなく、なんかこう…、人生…いや、暮らし…いやなんかこういう…、どう?」
「…じゃあお前どう?」
「そうさなあ、まあ、芳しくない」
「調子ってことか」
「いや調子じゃなく、世界っつうか…いや内も外もない、こう…」
「さっぱり分かんねえな。まとまってから言えよ」
「果たしてまとまるのかっていう」
「別に質問ないんだろ」
「ない」
「質問式じゃない会話だってあるぞ」
「じゃあそれやろう」
「昨日食ったカレー美味かった」
「カレーというモノが登場しちゃダメじゃん」
「ああそうか。じゃあ、最近天気悪いな」
「天気もダメじゃん。対象があっちゃダメじゃん」
「ああ。うーん、最近調子どう」
「調子っていうのも対象じゃん」
「それもナシ? じゃあ普遍どう? もダメだな」
「そうだな」
「じゃあ何も言えないな」
「そうだな。真善美であれ、うんこであれ、何かについてしか語れないな」
「ただ語るって、ないな」
「てことは鼻歌を歌い合うしかないな。歌詞があると何かについて語ることになっちゃうからな。ラーラララー♪ はい、お前」
「ルールルルー♪…これはコミュニケーションか?」
「なんか通い合ってはいるだろ」
「でもそれも音を介してるからダメでは?」
「そうだ。あ、そも、言葉自体、ダメじゃん」
「そういうことなのか?」
「いや、わからん」
「ちょっとズレてきてねえか」
「かもな」
「この企画失敗だな」
「もうちょっと考えてからだな」

by ichiro_ishikawa | 2010-02-14 01:33 | 文学 | Comments(0)