2019年 07月 04日 ( 3 )

 

「短歌について」小林秀雄(1934)


短歌について

1934年6月「日本歌人」(創刊号)

石川君から短歌について意見を徴せられましたが、何んとお答へしたらいゝか、實は意見らしい意見がある程、僕は短歌に親しむでゐないのです。
僕は「萬葉集」を好みます。それも色々讀んだ上での事ではなく、まあ讀んだと人に言ふ事の出來る歌集は、「萬葉集」一つしかないから、さう申し上げるので、この一事を以つてしてもまづお話にならない。従つて僕の短歌についての意見は、實際その道に苦労してをられる方々にはごく無責任な子供らしいものと思はれても仕方がないのです。
近頃の歌壇で、傳統的な格調の正しい歌をよしとするものと、自由に形式を破つて歌はうとする人が互に相争つてゐる樣に見受けます。くはしい議論は勿論僕にはよくわからぬのですが、たゞ僕の好むところを言へば、僕は傳統派です。
僕のわづかな知識によつてみても、歌壇の自由律主張者の歌がどれほど歌壇革命としての意味があるか疑問に思へます。第一廣く形式破壊運動としてみても、藝術の他の領域、例へば畫とか音樂だとか小說だとかの世界で現代烈しく行はれてゐる形式上の革命に較べれば、話しにならぬほど貧弱な中途半端なものと思はれます。革命と言つたつてたかゞ知れてゐる。どうせ反抗するなら何故そんな小さな穴の中で小さな叫びをあげてゐるか。それよりも傳統的な形式を生かさうとする方が、遥かに難かしい仕事であり、やり甲斐のある仕事だとまあ失禮かもしれぬが僕は思つてゐます。
短歌は、今日の文學的表現のうち最も傳統的な表現形式です。最も傳統的な表現形式であるといふ以外に短歌の特殊性があらうとも思へませぬ。それが厭なら他の藝術に赴くべきだ。若々しい反抗的情熱を中途半端な革命のうちで費ひ果すな、といふのが僕の意見であります。
藝術上の形式といふものが、人間の情熱の自由な表現の邪魔をすると單純に思ひこんでゐる人々へ、カントの說いた鳩を例としてジイドがどこかで書いてをりました。さういふ人達は、空氣がなかつたらもつと自由に飛べるだらうと考へる鳩の樣なものだ、といふのです。僕は短歌の形式は今日の情熱や思想をまもるには貧弱な文学形式だと思つてゐるが、その形式は鳩の群れで壊れるほど脆弱なものとは思ひませぬ



様々なる意匠を疑ひ伝統を重視する小林らしい考へであるが、このあと日本が戦争へ突入するなか西行、実朝へと赴き、つひには本居宣長を最後の大仕事にしていく、といふ事をどう考へるか。


by ichiro_ishikawa | 2019-07-04 23:19 | 文学 | Comments(0)  

小林秀雄 20代までの生活年表

まづ、ざつと30代に入るまでの歩みをまとめる。



[小学校]〜12歳

小2で親への恩返しを誓い、小6で第一次世界大戦の原因と現状を分析し、打つた男。


[中高(今の中高大)]13〜22歳

府立第一中学校(五年制、現・日比谷高)に入学。

第一高等学校(東京大学教養学部の前身)入試に失敗し一浪。翌年、第一高等学校の合格発表前日に父親を亡くす。合格し4月に入学するも、母親が肺患し鎌倉に転地療養させる。自身も盲腸周囲炎と神経症のため休学2年時に関東大震災。3年時に母親と同居を始め看病生活へ



[帝大(今の大学院的な)]23〜25歳

翌年、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学。春、神田をぶらぶら歩いてゐると向うからやつて来た見知らぬ男に、いきなり叩きのめされる。秋、中原中也の恋人長谷川泰子と出会ひ、奪ひ、11月から同棲。10月には盲腸炎(腸捻転?)で入院・手術。


[卒業後]26歳〜

泰子との生活にピリオドを打ち関西に逃走。約一年を大阪、京都、奈良で過ごす(この時の回想が20年後「秋」に結実)。

翌年、東京に戻り「様々なる意匠」を書き、本格的に批評家デビューを果たす。





1902年(明治35)

4月11日、東京市神田区神田猿楽町三丁目三番地(現千代田区猿楽町二丁目八番五号)❶に生まれる


父、小林豊造

1874年(明治7)兵庫県出石郡の清水家に生まれ、のちに旧但馬藩の家老職であつた小林家の養嗣子になる。

1899年(明治32)、東京高等工業学校に付設された工業教員養成所の金工科を卒業し、東京高工助教授、御木本真珠店貴金属工場長を経て、日本ダイヤモンド株式会社を設立した。

欧米各国に学び、日本で初めてダイヤモンドの研磨技術を習得し、また蓄音機のルビー針を開発した技術者でもある。

母、精子

明治13年、東京市牛込区牛込北山伏町14番地の城谷家に生まれる。女学校を卒業し、茶の湯、生け花、琴などにも通じていたという。


1904(明治37)2歳

6月3日、牛込の納戸町にて妹富士子生まれる


1910年(明治43)8歳

作文「おやのおん」   


1914年(大正3年)12歳小6

秋、学芸会で世界大戦の原因から現状を演説


1915年(大正4年)13歳一中1年

3月 白金尋常小学校卒業   

4月 東京府立第一中学校(現・都立日比谷高等学校)入学

芝区白金今里町七十七番地❷に住む


1917年(大正6年)15歳一中3年

12月、父豊造、日本ダイヤモンド株式会社設立、専務取締役


1920年(大正9)18歳浪人

3月 府立一中(五年制)卒業。一高入試に失敗、浪人


1921年(大正10)19歳一高1年

3月20日 父豊造、四六歳で死没   

3月21日 第一高等学校(東京大学教養学部等の前身)合格発表

4月 第一高等学校文科丙類(文学)入学。野球部入部後、すぐ退部。マンドリンクラブ結成   

10月 盲腸周囲炎と神経症のため休学   

この年、母精子、肺患のため鎌倉に転地療養   


1923(大正12)21歳一高2年

9月1日 神田須田町❸で関東大震災に遭遇  

9月6日 船と徒歩で鎌倉に療養中の母に会いに行く


1924年(大正13)22歳一高3年

2月? 母と妹の三人で豊多摩郡杉並村馬橋226番地❹に転居  

6月10日 「一ツの脳髄」を書き上げる  


1925年(大正14)23歳帝大1年

3月 第一高等学校卒業     

4月 東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学

この頃か   神田の本屋でランボオの「地獄の季節」に初めて出会ふ

4月初め 富永太郎を通じて中原中也を知る  

9月 中原中也の帰郷中に長谷川泰子に会う     

10月8日 大島に旅行(泰子は待ち合わせに間に合わず)、帰京後盲腸炎(腸捻転?)で入院・手術 

11月下旬 杉並町天沼❺に長谷川泰子と同棲  


1926年(大正15/昭和元)24歳帝大2年

鎌倉町長谷大仏前❻に住み、逗子町新宿の池谷信三郎方に仮寓したりする  

2月 「佐藤春夫のヂレンマ」を文藝春秋に発表(初の商業誌掲載)

10月 「ランボオI」を「仏蘭西文学研究」に発表


1927年(昭和2)25歳帝大3年

5月 初めての単行本『エドガー・ポー』を新しき村出版部より刊行

8月3日 大阪毎日新聞・東京日日新聞主催の第一回全国都市対抗野球大会が神宮球場で開催され、後の巨人の水原監督らとともに神奈川代表で出場。台湾の台北チームと戦う。(→「スポーツ」1959年1月)  

9月? この頃目黒❼に住む  


1928年(昭和3)26歳

2月 豊多摩郡中野町谷戸(東中野)❽に転居     

3月 東京帝国大学卒業           

5月25日 長谷川泰子と別れ、関西へ向かう❾

月末、大阪の日蓮宗の寺に宿坊する  

6月   京都奈良市の割烹旅館江戸三に宿泊、奈良市幸町の志賀直哉邸に出入り

9月 妹、富士子が高見澤(田河水泡)と結婚     

10月20日 母が関西へ     

11月17日 西村孝次と二月堂へ           


1929年 (昭和4) 27歳

1月末 奈良より帰京し、東京府下滝野川町田端155番地➓に住む

4月 「改造」の懸賞論文のため「様々なる意匠」執筆、改造社社員の深田久弥に渡す                 9月 「改造」の懸賞評論で「様々なる意匠」が第二席に

10月~ 『文学』(第一書房)同人に、ランボオ「地獄の季節」を創刊号から訳載  


1930年(昭和5年)28歳

4月 『文藝春秋』で「アシルと亀の子」発表、以後文芸時評の連載開始


1931年(昭和6)29歳

*この頃、母とともに鎌倉町佐介通二〇八番地に転居    (11)




by ichiro_ishikawa | 2019-07-04 21:26 | 文学 | Comments(0)  

年代別 小林秀雄の足跡まとめ

〜20代

「おやのおん」

一高(今でいふ大学)不合格、一浪

ランボオ

長谷川泰子〜奈良逃亡

「様々なる意匠」


30代〜40代前半(戦前)

「Xへの手紙」

「ドストエフスキイの生活」「歴史について」

「私小説論」

「作家の顔」

「思想と実生活」 

「パスカルの『パンセ」について」

『歴史と文学』

「戦争と平和」「当麻」「無常といふ事」「徒然草」「西行」「実朝」


40代後半(戦後)

「コメディ・リテレール」

母、精子死去

『モオツァルト』

「秋」

「ゴッホの手紙」連載開始      


50代

「中庸」

「近代絵画」連載開始

「感想」(ベルクソン論)連載開始


60代

「感想」(ベルクソン論)の中断

本居宣長の執筆開始

「考へるヒント」

岡潔との対談「人間の建設」  


70〜80代

本居宣長の完結



by ichiro_ishikawa | 2019-07-04 00:25 | 文学 | Comments(0)