カテゴリ:日々の泡( 199 )

 

頭痛と俺


ドタマがうすら痛いという在り方が常態であることは、
俺が、苦しいことなど人に語らずドブに捨てちまったら一生ダンマリ決めているため、
ほとんどの人は知らないはずだ。

とはいえ、最近、「うすら痛い」から、「グワッと痛い」のが常態と化しているため、
いよいよ、下図の16点を常に同時に押し続けるヘッドギアが必要とされている。


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by ichiro_ishikawa | 2009-04-27 20:48 | 日々の泡 | Comments(0)  

エセー「酒と俺 2」


俺が無類の酒好きであることは、どうやらあまり知られていないようだ、
というか、むしろ下戸、と大きな勘違いをしている輩が実に多いのは、意外なことだ。
小林秀雄や池田晶子が酒好きなので、彼らへの憧れから見栄を張っている、と思われているのも実に心外なことだ。
なぜ、そうした誤解が生まれるか。
おそらくは、酒の席でも俺が常にウーロン茶やコーヒーを飲んでいる、
という、事象の表面しか見ない、明らかに思考放棄な怠惰な人間が多いという、単純なことに過ぎまい。
俺が、ウーロン茶やコーヒーを飲むのは、ウーロン茶やコーヒーが酒と同様に好きであることもそうだが、何より、酒を飲むと1/2の確率で後頭部の奥がピキピキ痛みだすため、そしてこの痛みが普通の人ならその場でのたうち回るであろうほどの尋常でない痛みだからである。

一方、俺が、物質、眼に見えるのもの全般を軽視していることはよく知られることだ。
とはいえ、「俺」は、この脳を中心とする、社会便宜上、石川一郎と名付けられた物質となぜか常にともに「いる」。だが、この物質が、実は「俺」にはすごく邪魔であり、できれば切り離して、ただ「俺」だけで在りたいという強い欲求がある。
眼を瞑り、前後左右上下不覚の状態、この俺を「俺」と呼んでいる「これ」だけで「在る」状態、いわば「存在」だけである状態、がいい。
俺が、世でのあらゆる行為の中で「眠る」というアクションが最も好きなのもそういうことだ。
また、海で波にさらわれると、それに近い状態になることを知って以来、毎年海に行っては、波にさらわれ溺れているのも、実はそういうことだ。
その「存在」自体を、「俺」と呼ぶと混乱するならば、シンプルに「魂」と呼んでも「精神」と呼んでもいい。「ソウル」、「スピリッツ」と。

ところで、酒は「スピリッツ」というじゃないか。
つまり、人類は、酒を「精神」と同じもの、少なくともその例えと見なしてきたのだ。
酒とは精神であったのだ。
そんなわけで、物質としての俺を1/2の確率で常に悩ませるこの酒を、俺は愛してやまない。

by ichiro_ishikawa | 2009-04-19 00:36 | 日々の泡 | Comments(0)  

年末年始の計画


 随筆「年末年始と俺」で幕を開けた2008年のロックンロール・ブック、ユニークユーザー数は1日平均100人、2004年からの累計では8万人を目前にしており、固定客はいるなと、感慨深い。うち顔が浮かぶのは10人ぐらい、あとの80人は通りすがりで、常連読者は20人と推定している。検索ワードは「池田晶子」と「氷室 身長」が常に上位。池田晶子について書く事は俺のライフワークだから、それで引っかかって行き着いてくれる人がいる事は光栄だが、「氷室の身長」に言及した事は一度もない。というか、氷室の身長を知りたい人がなぜそんなにいるか。とはいえ、それを知る事を目的に当ブログに辿り着いても記事のどこにも載っていないことで消化不良を起こしている輩がいると思うと心が痛いので、いまここに記そう。氷室はライブ映像などで見る限り、布袋の隣にいるとすごく小さく見えるが、布袋は2m越えのため、誰が並んでもすごく小さく見えるため、その実身長が分かりにくいのだが、テレビ出演した際の古館伊知郎、浜田や松本との比較から、ズバリ170cm。これは確かだ。

 さて、2008年最後の投稿は、年末年始08/09の計画だ。08年1月に書いた「年末年始と俺」では、計画を立てずにだらだらと過ごしてしまった猛省をつらつらと述べたが、二の轍は踏まぬ。前回の時点で既に二の轍どころか36の轍を踏んでいるのだが、今回こそは、ついに、1年でもっとも輝かしい年末年始を充実させんとす。

 とはいえ、すでに27(土)〜30(火)まで無駄にしてしまった。この4日間でいかにいろいろな事ができたはずかを思うと、その後悔の念だけで、年越しをしてしまいそうなので、これから1月4日までの5日間に賭けるために、がっつりと予定を立てておこう。

12月31日(水)
今日で1年が終わってしまう事を悔やむ。来年で38になるという驚愕の事実を直視する。早く随筆家になるために何をしたらいいか考える。

1月1日(木)
競馬予想で食うためのスキームを確立させる。まだ4日も休みがある事を喜ぶ。

1月2日(金)
休みがあと3日しかない事を焦る。

1月3日(土)
休みはあと2日あるが、よく考えたら普通の土日じゃん、という世の陥穽を見抜く。

1月4日(日)
憂鬱。心の旅に専念(心の旅とは、小学校の頃から「明日学校に行くたくねえ病」を患っている俺が、毎長期休暇の最終日に心を落ち着かせる治療の事)。

by ichiro_ishikawa | 2008-12-31 00:47 | 日々の泡 | Comments(1)  

ある夜の修羅場


 男の豪華ディナーというと、普通は、コンビニの弁当かパスタかの2択なわけだが、
俺ともなると、おにぎし2個と「からあげクン」のセットという独自メニューをもっているから、選択肢も潤沢なわけだ。この組み合わせが、腹の足し的にも美食的観点からも大いにアリである事に気づいている人はそう多くない。
 この日も、俺には「3」択があったわけだが、めぼしいパスタも弁当もなかったため、その「黄金のセット」に及ぶことになった。
 注意しなければならないのは、あまり時間が遅いと、からあげクンが切れている事がままある、という事。
 レジ横をチラ見すると、3個ほど残っている。俺はおにぎしの具ナンバーワンであるこんぶと、第2位であるところの明太子のおにぎしをわしづかみにすると、勇んでレジに持っていった。
 話はやや思い出横町に逸れるが、レジ横商品を購入する際、そのアナウンスのタイミングはなかなかどうして難しい。店員がバーコードをひと通りなぞり終わるのと、合計金額を告げてくるその微妙な合間に、「あと、からあげクンを」というセリフを滑り込ませなければならないのだ。早すぎても遅すぎてもダメだ、コンマ数秒のタイミングが命である。
 とはいえ、タイミングの良さで食っている俺ともなると、そんな所作はもはや容易い。問題は「あと、からあげクンを」の「を」にある。
 常に、最小限の文言で己が意志を正確に伝える事にエネルギーを費やす俺が、この「を」にたどり着くまでの道のりは決して短くなかった。「○○をください」だとやはり長いし、いささか丁寧すぎる。「○○」と商品名だけ言うのも店員に威張っているようで、品格を貶める。そうした模索の末たどり着いた決まり文句が「○○を」なのであった。威圧的でもなく、へりくだり過ぎもせず、若干ハードボイルド、という絶妙な発明なのであった。
 ただし、欠点は商品名が50音でいう「お」の段の言葉で終わるときだ。例えば、からあげクンの中でのぶっちぎりの1位である「からあげクンレッド」。「からあげクンレッドを」というと、得てして「からあげクンレッドー」と聞こえ、店員から、「不用意にオンビキをまぜるチャライ奴」というレッテルを貼られてしまう危険性を常に孕んでいる。この「を」をきちんと「を」と認識させる事は意外と骨が折れるのであった。

 話を明るい表通りに戻すが、なんとこの日は、その「レッド」が売り切れで「レギュラー」と「チーズ」しかなかったのである。なんてことだ! そこまで見てなかった!
 すでに店員はこんぶのおにぎしのバーコード読みに入っているので、このタイミングでパスタか弁当にシフトすることは不可能だ。
「やむをえまい、ほかの味で手を打つか…」
 すでに口が「レッド」を食う体勢に入っていたので、プレーンなレギュラーでは欲求を満たせない、味的には真逆だが、濃い味を欲する俺の口を満たすのはどちらかといえば「チーズ」であろう。そう瞬時に判断した俺は、店員がバーコードをひと通りなぞり終わるのと、合計金額を告げてくるその微妙な合間に、「あと、からあげクンチーズを」と言い放った。そしてその絶妙な間でのアナウンスに満足げな店員が、レジ横の温ものボックスに手を入れんとしたとき、俺はミスを犯してしまった。
「レッドはないもんね…」
 そう発語してしまったのである。
 無駄だった。完璧に無駄な一言だった。あれほど文言を削りに削ってきた俺とした事が、全く無意味な一言を発してしまったのである。合理性の面から言っても無駄だ。レッドがないのは自明だからだ。その証拠に、「あいにく切らしてます」という定型文を誘ってしまった。このキャッチボール、たったの2文とはいえ、まったく無意味だ。切らしているのを俺は知っていた。この時間帯からあげ直すことがあり得ない事も知っていたし、よしんばあげ直してくれるとしても、そんなの待ってられねえ。そこまでして別に食いたくねえ。
 では、なぜ俺はその無駄な一言を発したのか。店員との会話の間が居心地悪かったからか。そんなわけはない。コンビニでの店員と客との会話の間なんてものは無いし、仮にあったとしても、ちぃーっとも気にならない。そも、これは会話なんていう上等なものではない。ただの記号の示し合いだ。
 ではなぜか。なぜ無駄な一言を発したか。
 「こんぶと明太子のおにぎしと、からあげクンチーズというセットが“ベスト”というジャッジを下したが故の今回のセレクトでは決してないぜ」という思いを、やはり伝えたかったのだ。「こんぶと明太子のおにぎしと、からあげクンレッド、これこそが男の黄金のディナーである、ということは知り抜いている、だが今晩は売り切れだから、チーズで妥協している、そういうディシジョンなんだよ」、と。いや、これはどうしても伝えねばならなかった。無駄な一言を発するという愚行に及んでまで、伝えねばならなかったのである。
 笑わば笑え。ただ、男には、口に出しちゃいけねえ事がある一方で、どうしても伝えなければならぬ事、というものがあるのを知っておくのはよい事だ。

by ichiro_ishikawa | 2008-10-15 01:49 | 日々の泡 | Comments(0)  

16歳と俺


 金、金、金。金追いかけたら、一夜にして幸せがすり抜けた。
 追いかけてばかりいるうちに、頭も禿げてきた。

 俺は今「銭儲け」を最大の目的としている組織の一歯車として、組織から金をもらっているため、仕事をするときは、「一挙手一投足はすべて金儲けのため」を信条に、日々、人殺しをしているわけだが、組織で働いている以上、その人間の全言動はその組織の利益に繋がっていくものでなければならないのは、ごく当たり前のことだ。

 ただ、金、金、あからさまに公言するのはみっともないし、また、「本当はやりたくないがしょうがなく」、という心持ちで職務をこなしてると、どうしてもその行為にイヤイヤ感がにじみ出て、結果、成果を残せない。ただしここでは成果をあげる事が最大の目的であるから、その職務中は、やりたくない事を、「どうしてもやりたい事」に精神的に転化させる必要がある。つまり、芝居をうつ必要がある。しかも千両役者でなければならない。本当の顔なぞ間違っても見せてはならぬ。ただ状況によっては、本当の顔を見せているフリは必要だ。大人のたしなみと言えばそれまでだが。

 組織の利益を二の次にして、てめえのやりたいことばかり追求するという、「仕事」と「やりたいこと」を混同する輩がよくいるが、そういう人は、自営すればいいのであり、組織から金をもらっていながら、てめえのやりたいことが実現できなくて愚痴ばかり足れている奴は、何を勘違いしているのだろう。

 やりたくないことをやるからこそ金がもらえる。困難な事をこなすからこそ金がもらえる。やりたいことだけを、楽なことだけをしても、金はもらえない。経営者でなくとも、ちょっと考えればすぐ分かることだ。どこのお人好しが、その人間の「やりたいこと」に金を出すのだろう。
 「それじゃモチベーションがあがらない」? 貴様のモチベーションを高めるために、他人は動かない。組織から外れるがいい。だが自分の看板だけを頼りに自らの手で仕事を取って「他者のために」動けるのか? 無理だろう。だったら四の五の言わず、組織の目的をてめえの最大目的にして、額に汗水たらせ。多少の対価は払ってやるからよ。歩合制だがな。

 労働のバージョンは、二つだけだ。
 ひとつは、てめえのやりたい事が他者の要求に直結して、やりたい事を果たす事が仕事になる。ひとつは、やりたい事が他者の要求に直結しないので、やりたいくないが他者の要求を満たす事をやる。
 前者はほとんどない。一流のスポーツ選手やアーティストとて、必ず「他者の要求」に意識的で、結局、程度の差こそあれ、後者に属する。
 つまり、前者は「天才」で、後世までその名を残すごく一部の偉人だけだ。とすると、我々、普通の人々にとって、労働とは他者の要求を満たす事、これでしかない。

 とまあ、こういう凡庸な事を、俺は高校生の頃から考え続けていて、40近くなった今でも、同じように考えている。要するに、やりたい事をやれていない葛藤を未だに抱え込んで生きている、ということだ。

 ただ、高校生の頃とちょっと違うのは、もはや、やりたい事がなく、やりたくない事だけがある、ということだ。やりたい事と言えば、旅をしたい、音楽をずっと聴いていたい、本を読んでいたい、ずーっと寝ていたい、といった幼稚な、趣味レベルの話だ。
 そうなると、「他者のために」、「やりたくない事」を全うする事で得られる対価というもの、つまり金、これを手に入れる事自体が生きる目的となっていく。

 これはヤバい。周り見てみな。いっぱいいるはずだ、こういう輩が。金が正義のこの俗世で表通りを闊歩している人間が、どんなにスマートなIT長者であれ、「右曲がりのダンディー」の一条まさとのような仕事も遊びもクールにこなす人間であれ、一様に、醜い事を、「俺たち」は知っている。

「あんな大人になりたくない」と肝に銘じたはずが、「あんな大人」になりつつある。
 欲望に流されない、強靭な精神力が必要だ。
 仕事にうつつを抜かしている場合ではない。
 とりあえず、どこから始めよう。聖書でも読もうか。

 一流の書物を読み、精神を陶冶する。それぐらいしか、生きる目的は見当たらない。

 ブログやSNSといういかにも俺が忌み嫌いそうな類いのことを、その当人が4年もやっているのは、媒体は何であれ、「書く」という行為が、それが精神との深い対話であれば、人間の営為のうちで、もっとも精神を鍛え得るものであるという信念に基づく。
 できれば一週間に一度は、その陶冶を意識的に行っていきたい。書くと考えるはイコールだ。大した事しか書けないのは大した事を考えていないからだ。そも、そんな大した器でもないのだから、大した事を考える必要もないのかもしれないが、その陶冶への意志を放棄してしまうと、何か大事なものを失っていくような気がするのである。そんなもの元々ないのかもしれないが、そこがこれからの生命線であるような気がしている。転がり落ちるのは本当に容易い。のぼろうとは思わないが、コケは生やすまい。

by ichiro_ishikawa | 2008-10-13 18:57 | 日々の泡 | Comments(0)  

10勝記念・下柳写真集

 去る8月21日(木)、下柳が4年連続2ケタ勝利を達成。40歳代での年間10勝以上は史上5人目の快挙。最多勝、最優秀防御率の2冠を祈念し、下柳写真集をここに繰り広げん。

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by ichiro_ishikawa | 2008-08-23 01:18 | 日々の泡 | Comments(0)  

競馬と俺 プロローグ


 俺が春ぐらいから毎週末、時には平日も、競馬をやっていることを知る人は…、結構いるがそんなにはいまい。ブログを更新しなくなったのもそのせいだ。
 テレビを見るのが時間の無駄かつバカになると悟った1989年以来、うちにはテレビが無いが、競馬を始めて半年弱、競馬も相当、時間の無駄でバカになる。

 とはいえ、テレビは見ないが、競馬は続行だ。
 なぜか。負けがかさんでいるからだ。額は言うまい。もう引き戻れない額だとだけ言おう。それを回収せねばならない。

 賭けた馬は来ない。賭けないと来る。不思議なものだ。
 外出すると雨が降る、常態としてドタマと腹がうすら痛い。元来、地球との相性がそうとう悪い俺だが、その悪さが、競馬のような舞台では、如実に表れる。天が俺を笑う。

 競馬なんてレジャーだ、十分楽しんだし、それに払った代価だ。そう思えばいいか。否。熱しにくく冷めにくい質(たち)の俺は、何ごとでも一旦掴んだら離さない覚悟で事に処す。
 周囲からは「終わった…」と吐き捨てられ、友は去り、恋人もやがては離れていくだろう。……親には内緒だ。

 競馬はレジャーじゃない。賭けだ。人間の思惑などまったくおかまいないしの、理性がまったく太刀打ちできない自然。支配はできぬ。従うまでだ。自然の一部と化すように、俺は、馬に賭けよう。親には内緒だ。

by ichiro_ishikawa | 2008-08-11 01:51 | 日々の泡 | Comments(0)  

下柳、1日で5勝


 5月26日(月)、中5日の先発。現在、最強と思しき、中島・ブラゼル・G.G.佐藤・中村・ボカチカという超重量打線を持つ西武打線を完璧に押さえた不惑・下柳。同じく不惑・金本がサヨナラ・タイムリーで応えた。星は付かなかったものの、この日の投球は5勝分の価値アリ。
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by ichiro_ishikawa | 2008-05-27 23:30 | 日々の泡 | Comments(0)  

バタバタしていた俺が悪い


 開幕から2ヶ月になるが、一回神宮で観戦しただけで、テレビ中継はまだ一度も見ていない。
おかげで新戦力の新井や平野、フォード、バルディリス、さらには、昨シーズン活躍を見せた桜井、林も実は未だ顔が分からない。ネットの文字データ観戦・新聞記事後追い派のデメリットだ。

 5月20日(火)、セパ交流試合の開幕戦、下柳が中5日で先発。3-0で迎えた7回、まだ無失点ながら、二死一二塁というピンチを招き、110球で降板。自慢の中継ぎ渡辺、ウィリアムスがことごとく打たれ、逆転負け。自身に黒星はつかなかったが、開幕から続いていた下柳先発試合のチーム連勝も7で止まった。
 ピンチとはいえまだ一二塁。しかも二死なので「ここは続投」と岡田にテレパシーを送ったが、届かなかったか、あるいは届くも却下されたのか。神と岡田のみぞ知ることだが、まあ、渡辺もウィリアムスも責めまい。こういうときはある。岡田も責めまい。定石っちゃあ定石通りに動いたともいえよう。ただやはり…と、たらればをフルに駆使して、未練タラタラで試合を反芻してみてしまうのが俺だ。
 ところが当の下柳はどうだ。

「しゃあない。それが野球。バタバタしていた俺が悪い」

 俺は下柳のこういうところにも惚れている。

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by ichiro_ishikawa | 2008-05-21 02:00 | 日々の泡 | Comments(0)  

ゴトシと俺


 俺が「動く前に熟考する」気質であることは度々開陳して来たが、例えば、大学卒業前、就職活動をする際には、まず「働くとはどういうことか」を考える必要があった。講談社現代新書の黒井千次「働くということ」から入り、様々な書物に当たった。ここで俺らしいのは、友人や先輩なり身近な生身の人間には一切聞かなかったということで、そもそもそういう人が周りにいなかったのだけれど、だから、どうしても観念論になり、本質論になりがちだった。すると流れで、「他者とは何か」、「生きるとは何ごとか」、極まって「己とはなんぞ」までに至る。長考に入り、やっと腰を上げ、履歴書を買いに行くという塩梅であった。この時点で、すでにビジネスマンとして落第だ。おれが経営者なら絶対にこんな奴は雇わない。
 そんな中、小林秀雄は、「動く」と「熟考する」が二つのことではないこと、「黙って事に処せ」ということを、俺に知らせた。以来、俺は、熟考と動くを分けて考えず、黙って事に処しているつもりだ。
 つもりなので、本当はそうではない。そも、こういう内容のブログを書いている時点ですでに熟考もしていないし動いていないし、何より黙っていない。小林秀雄の文を抱きしめるのには、強靭な精神と肉体が必要とされる。

 働くというのは、つまるところ、他者に貢献する事だ。だから自分のやりたい事をやってもそれが他者になんらかの「利益」をもたらさなければ「仕事の」意味はなさない。百も承知だ。他者へ何らかの利益をもたらすために自分ができる事をする、これが仕事だろう。その、「何らかの利益」の「量」が多ければ、「ビッグビジネス」になるし、「質」が高ければ「いい仕事」、になる(とりあえず「何らかの利益」の定義は置いておく)。ほとんどの人は「量」と「質」、双方を求め、そこそこの「量」にそこそこの「質」のモノを提供しているというのが実情だろう。悪い仕事をビッグビジネスにしている人、いい仕事を細々とやっている人、いい仕事でビッグビジネスを作り上げている人は、ごく稀だろう。
 いい仕事でビッグビジネスを作り上げるのには大いなる才が必要で、俺にはハードルが高すぎるので、悪い仕事でビッグビジネスをするか、いい仕事を細々とやるかで、この10数年、いまだに揺れているのだが、やっぱり、いい仕事を細々とやっていきたいというのが本音だ。
で結局、まだ動いてはない。

by ichiro_ishikawa | 2008-04-26 17:01 | 日々の泡 | Comments(0)