<   2018年 05月 ( 13 )   > この月の画像一覧

 

駅改札のタッチパネル考


なぜかねてより駅の自動改札のタッチパネルの位置を通路の内側(側面)に設置するよう提言をしてゐるかと言へば、俺は例によつて常に急いてゐるため、カバンやケツポケからSuicaなり定期券なりをいちいち取り出して上部のパネルにタッチしてる暇すら惜しいわけで、もしパネルが側面にあればSuicaらをカバン、ないしケツポケに入れたまま、クイッと尻を側面のタッチパネルに寄せるだけで通過できるといふのに、といふ事由による。2秒ぐらい節約できるのではないか。

しかしながら一向に採用される気配がないので、試しにケツポケにSuicaを入れたまま、上部のタッチパネルに気持ち寄せてみたところ、確りタッチしてないにもかかはらずピッと反応してみごと通過できた。
念には念を入れ、改札を出るときも同様にやつてみたところ、やはり通過できた。タッチパネルの認識範囲は案外広いことが判明。側面設置を採用しないのは、そんな几帳面にパネルに合はせなくても行けるんだよ、でも大つぴらにさう言つてしまふとアレなんで、だから察しろよ、といふ事だと分かつた。



by ichiro_ishikawa | 2018-05-09 19:41 | 日々の泡 | Comments(0)  

もののあはれを知るとは


科学的に世界を理解すること、道徳や倫理を基準に人間を把握することだけでは「はみ出てしまふ」、人間の何とも言はれぬ情緒をこそ、大事にしたい、そこに文学や歌の真髄がある、そこにしかない。
といふのが、もののあはれを知る、だ。
そこには科学も経済も倫理も、哲学も宗教もすべて含まれる。仏教もキリスト教も道教も神道もすべて。
もののあはれを知ることが本物の知性である。
といふかもののあはれを知らでは科学も経済も哲学も宗教も絵空事に堕す。
もののあはれを知るといふのを換言すれば「ああ、人間…、ああ、人生」である。

といふ当たり前の誰もが感じてゐることを、源氏物語と和歌の中に、いかにもののあはれを知る心がはたらいてゐるかを見出して実証したのが本居宣長だ。

で、そんな宣長すげえといふ思ひを無私の精神で表したのが小林秀雄で、その小林を清潔だといつて愛したのが池田晶子だ。

by ichiro_ishikawa | 2018-05-04 14:56 | 文学 | Comments(1)  

「もののあはれを知る」を知る


俺がいま「もののあはれを知る」を知ることに躍起になつて取り組んでゐることは、天国の母も知らないだらう。
本居宣長の源氏注釈書「紫文要領」と歌論「石上私淑言」を改めて新潮日本古典集成(1983)にて読んでゐる。
先日初めて成城学園の小林秀雄文庫を訪れ、小林の蔵書を弄つてゐたところ、本居宣長全集の「紫文要領」と「石上私淑言」ばかりにバリバリ書き込みやらアンダーラインやらがあつたことに触発されてのことだ。

小林秀雄「本居宣長」には、原典がふんだんに引用されてゐるため、あへて読む必要にかられなかつたのだが、ここに来て、やはり原典だらうといふことで、意を決して熟読玩味してゐる次第だ。

宣長は小林と同じことを言つてゐた。
いや小林が宣長と同じことを言つてゐるのか。
文学とは何か、物語、歌とは何か、
そして人生いかに生きるべきか、
がそこには詰まつてゐる。
無私を得ること、中庸を
なぜ小林が願つたか、わかる。

c0005419_16242110.jpg

《新潮日本古典集成》本居宣長集 本居宣長/著

源氏物語の正しい読み方を、初めて説いた「紫文要領」。和歌の豊かな味わい方を、懇切に手引きした「石上私淑言」。宣長の神髄が凝縮された二大評論を収録。 (新潮社)





by ichiro_ishikawa | 2018-05-02 16:06 | 文学 | Comments(0)