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名曲「ルージュの伝言」荒井由実


荒井由実
ルージュの伝言

1975年2月20日 
レーベル 東芝EMI  EXPRESS
作詞・作曲:荒井由実/編曲:松任谷正隆
プロデュース:村井邦彦
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平野融 - ベース 
大野久雄 - ギター 
平野肇 - ドラムス 
吉原真紀子 - キーボード 
山下達郎、大貫妙子、吉田美奈子、伊集加代子 - コーラス


by ichiro_ishikawa | 2018-11-30 23:35 | 音楽 | Comments(0)  

連載 日本のロック史 60〜70年代(5)シュガーベイブ

シュガーベイブ

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第1期:1973年4月 - 1975年4月

山下達郎 – ヴォーカル、ギター、キーボード、コーラス

大貫妙子 – ヴォーカル、キーボード、コーラス

村松邦男 – ヴォーカル、ギター、コーラス

鰐川己久男 – ベース、コーラス

野口明彦 – ドラムス


1971年3月

大貫妙子、高校を卒業。陶芸家を目指し美術学校に入学。持病の肩こりが悪化し首が全く回らなくなり退学。

冬、ギターを持って渋谷ヤマハに譜面を買いに来たところ、入り口付近にたむろしていた林謙司と広瀬ジョージの2人に声をかけられ、グループ“三輪車”への参加を持ちかけられ参加を決める。翌日、当時彼らがすでに契約していたワーナー・パイオニアに行き大野という女性のディレクターを紹介され、実質的なプロとしてのキャリアがスタート。


1972年7月

山下達郎、同時に大学に進学した友人達(山下の中学時代のクラスメイトだった並木進、並木が高校で知り合った鰐川己久男と武川伸一)と3か月かけてアルバム『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を自主制作。アナログA面にザ・ビーチ・ボーイズ、B面にドゥーワップやロックンロールのカヴァーをそれぞれ収録。制作費は100枚で13万円。それをメンバー4人で25枚ずつ分け、友達に1枚1,500円で無理矢理売るが、結局最後はほとんどタダ同然で配布。

このレコーディング時に並木からの依頼でエコー・マシーンを貸すため並木の高校の友人の1年先輩の村松邦男がレコーディング・スタジオになっていた並木家を訪れ、「SINCERELY」のコーラスを手伝う。以後、並木家で行われていたセッションにギターを携え毎週、顔を出すようになる。


1972年

『ADD SOME~』レコーディング・メンバーの山下・鰐川・並木・武川に村松が加わり、アルバム・ジャケットのデザインを手がけた金子辰也が当時通っていた美術学校の文化祭に出演。

秋、大貫、三輪車のレコーディング制作がスタートするもやがて辞め、同年秋にジャズ喫茶“いーぐる”のオーナー後藤雅洋が“いーぐる”のすぐ傍にオープンさせた四谷のロック喫茶“ディスク・チャート”(夏に故郷の長崎ではっぴいえんどを招いてイベント“大震祭Vol.3”を主催した長門芳郎と長門の学生時代からの友人でバンド仲間でもあった小宮康裕の二人が店の運営を任されていた)にて閉店後、毎週水曜日に地下室でセッションが行うように。メンバーは大貫のほか、長門と小宮、すでにプロとして活動していた山本コウタローや徳武弘文。この時カメラマンのアシスタントをしていて後にシュガー・ベイブに参加する野口明彦。他に矢野や武蔵野タンポポ団の若林純夫、後に広告業界に身を置く下條高志などが参加して自作曲やCMソングの録音が行われていた。併せて、後にTVプロデューサーとなる日野原幼紀のアイデアで、大貫のソロ・デビューに向けたオリジナル曲のデモ・テープ制作も行われるようになり、「午后の休息」他数曲が録音される。


1972年11月

山下、自主制作盤のレコーディング・メンバーだった武川から彼の大学で評判になっていたディスク・チャートの存在を知らされる。しばらく講習がたて込んでいて行けそうもないという武川に代わって山下が『ADD SOME~』を置いてもらうように店に行き、チーフの長門と会う。音楽の趣味があったため話に熱が入り、結局持参したレコードはプレゼント。その場で聴いた長門は、山下のヴォーカルにすぐさま惹かれ、彼をディスク・チャートで閉店後地下室で行われていたセッションに誘う。


1972年12月

山下・鰐川・武川・村松、ディスク・チャートで閉店後地下室で行われていた大貫のデモ・レコーディングのセッションを見学。以後、山下は一人で足繁く通うようになり、やがて見学だけではおさまらず、コーラス・アレンジに意見を出したり、自分もギターを持ち込んで演奏に加わって歌うなど、次第にセッションに欠かせない存在となる。


1972年暮れ

山下はシンガーとしてソロ・デビュー計画があった大貫にバンドへの参加を持ちかける。大貫は参加を了承。併せて、キーボードへの転向も了承。 山下、鰐川にベースでメンバーになるよう説得。もともとギタリストだった鰐川は当初渋ったものの、バンドをやりたいとの思いに勝てず、これを了承。


1973年1月

山下、ギターは鰐川のほうが指は速かったが“フレーズが泣く”という理由で、すでに会社員として勤務していた村松を口説き、最終的には参加させる。


1973年3月

知り合いのつてを頼ってドラムのメンバー募集を開始。

1973年4月

応募してきたドラマーのオーディションを行うも惨敗。ディスク・チャートのセッションで顔見知りだった野口が最近ドラムを始めたことを山下が大貫から聞き、野口と会う。野口はバンド加入を了承、メンバーが決まる。

1973年5月

山下、長門にマネージャーになるよう依頼、長門も引き受けることを決める。バンド名は映画『砂丘』で使われていたヤングブラッズの曲名からとって“シュガー・ベイブ”に決定するがこの時、山下と長門は同じ名前を考えていた。

1973初夏

はちみつぱいのベーシスト、和田博巳の経営する高円寺のロック喫茶“MOVIN'”で伊藤銀次と駒沢裕城が『ADD SOME~』を聴き、大滝詠一に伝える。和田は、渋谷ヤマハで買い求めた『ADD SOME~』を、店でよくかけていたという。

1973年8月18日

山下、長門とともに福生の大滝宅を訪問。以後、大滝のレコード・コレクションを聴くため通い詰める。大滝、山下にはっぴいえんどラスト・ライヴでのコーラスを依頼する。

1973年8月23日

長門が故郷の長崎で友人たちと主催したイベント“大震祭Vol.4”にて、デビューコンサート(長崎NBCビデオ・ホール 共演 : グッド・モーニング, ドゥーワー・ブラザース)。大貫がMCを担当した、最初で最後のステージ。

1973年8月26日

日本テレビ系「遠くへ行きたい」放送。番組中、大貫が知床で切り株に腰掛けて「光の中へ」(山下作)と「港の灯り」(小宮やすゆう作)、列車の中で番組のテーマ曲「遠くへ行きたい」を歌う。

1973年9月

はっぴいえんどラスト・ライヴに向け、ココナツ・バンクと合同でリハーサルを行うためコーラス隊の山下、大貫、村松が数回、大滝宅を訪れる。音を出しながら曲の構成をまとめつつ、同時に山下がそれを横で聴きながらコーラスのアイデアを考えて、すぐにコーラスを試す。それを1曲ごとに行い、それらがある程度決まったらパーカッション部隊の鰐川・野口を呼んで、全員で仕上げのリハにとりかかるという段取りで進めることになった。

1973年9月10日

新宿ラ・セーヌ(共演 : ビートルズのコピーバンド)。

1973年9月11日

はっぴいえんどラスト・ライヴに向けた、ココナツ・バンクとの合同リハーサルのため、今度はメンバー全員で大滝宅を訪れる。リハーサルは以後数日行われる。

1973年9月21日

はっぴいえんどラスト・ライヴ“CITY-LAST TIME AROUND”にて大滝詠一、ココナツ・バンク、布谷文夫のコーラスに参加(文京公会堂)。後に『ライブ!! はっぴいえんど』として発売。


197310月

“三菱ラジオジーガム(日本語改作版)”レコーディング(HITスタジオ)。大滝のCMソングに、シュガー・ベイブがコーラスで初参加。

1973年11月9日

東洋大学“白山祭”。

1973年11月18日

跡見女子短期大学学園祭。

1973年12月17日

“HELLO! WE'RE SUGAR BABE”(青山タワー・ホール 共演 : 小宮やすゆうとレッド・アイ・エキスプレス, 山本コウタローと少年探偵団、 はちみつぱい)。ライブ中突然、山下がMCでこの年に発売された洋楽アルバムのベストテンとワーストテンを発表した。数日後、はっぴいえんどが所属していたプロダクション“風都市”が長門に接触、バンドと一緒の入社を打診してくる。メンバーと相談した結果、長門は承諾の返事をする。


1974年1月1日

マネージャーの長門とともに、風都市に入社。これを機に、それまで練習スタジオ代わりに使用していた並木宅から、風都市が契約していた新宿のスタジオでリハーサルを行うようになる。

1974年1月16日

“三ツ矢サイダー'74”レコーディング(~17日 ポリドール・スタジオ)

1974年1月24日

“三ツ矢サイダー'73 (Long Version)”レコーディング(ポリドール・スタジオ)。

19741月28日

“大滝詠一&鈴木茂コンサート”にゲスト出演(仙台市公会堂)。鈴木が風邪のため南佳孝が出演。

1974年2月15日

ファッションショーでの大貫のパフォーマンスに山下がバッキングで参加(有楽町・読売ホール)。

1974年3月2日

渋谷・ジァン・ジァン“昼の部”に初出演。

1974年3月

レコード会社へのプレゼン用デモ・テープ録りの話が具体化。4月の第1週にニッポン放送銀河スタジオでの録音決定が、長門からメンバーに告げられる。

1974年4月3日

デモ・テープ録音(ニッポン放送第一スタジオ)。

1974年4月

プロモーション用のとアーティスト写真撮影(六本木~新宿)。デモ・テープとアーティスト写真をセットにすることでレコード会社へのプロモーション効果を高めようと考へてゐた風都市の意向で、プロのカメラマンを起用しての撮影となつた。

1974年4月14日

新宿・サムライ。

1974年4月16日

大宮の女子高文化祭。

1974年4月18日

“HOBO'Sコンサート”に出演(池袋シアター・グリーン 共演 : 南正人)。

1974年4月24日

デモ・テープ録音(ニッポン放送第一スタジオ)。

1974年4月28日

渋谷・ジァン・ジァン“昼の部”(共演 : 生田敬太郎)。この頃、風都市を辞め、長門が友人たちと新しく設立した事務所“テイク・ワン”に移る。テイク・ワンはPAの会社と共同で笹塚のマンションに2LDKの部屋を借り、その所属アーティストの筆頭は山下洋輔トリオだつたので、後にシュガー・ベイブの山下と合はせて“ダブル山下の事務所”と言はれてゐた。テイク・ワンの真下の部屋はテイク・ワンと親しい関係の会社が借りてゐたが、そこには伊藤銀次が入り浸つてゐた。上下階での行き来も頻繁だつたので、これが「DOWN TOWN」をはじめとする山下・伊藤の共作曲誕生のきつかけとなつた。

1974年5月7日

山下、亀淵友香コンサートにコーラスで出演(青山・タワー・ホール)。当初、コーラスで参加予定だったシンガーズ・スリーが直前で不参加となり、丁度遊びに来てゐた大貫と村松をリハーサルなしで急遽ステージに上げ、なんとかこなした。この時客席で彼らを見てゐた荒井由実が後に、3人を自身のレコーディングに呼ぶ。

1974年5月8日

ラジオ関西公開録音。11日まで、初の大阪ツアー。

1974年5月9日

六番町コンサート(共演 : 布谷文夫&ココナツ・バンク、スターキング・デリシャス)。風都市マネージメントによる、最後のステージ。

19745月10日

大阪・DUKE。この日のライブ以降、テイク・ワンがマネージメントを手掛ける。

1974年5月11日

京都・拾得。山下は客からの「帰れ!」に落ち込んでゐたが、観に来てゐた山岸潤史の「本当は外人の方がもつと怖い。外人はノッてゐたから心配あらへん」との言葉に慰められる。

19745月19日

渋谷・ジァン・ジァン“昼の部”(共演 : 神山慶子)。

1974年5月中旬

高島屋ローズホール(共演 : オイルフッド・ブラザース)。

1974年5月28日

新宿厚生年金会館。

1974年6月9日

“第13回A・ROCK祭”に出演(日本青年館ホール 共演 : ミッキー・カーチス & ポーカーフェイス他)。

1974年6月21日

“7TH ステッチ・コンサート イシバシ・オン・ザ・ロック”にゲスト出演(御茶ノ水・日仏会館 共演 : スモーキー・メディスン、他アマチュア・バンド)。

1974年6月25日

“三愛バーゲンフェスティヴァル'74”レコーディング(アバコ・スタジオ)。山下にとつて初めて依頼されたCMソング。

1974年6月26日

“HOBO'Sコンサート”に出演(池袋シアター・グリーン 共演 : センチメンタル・シティ・ロマンス)。この時から、2組の長い交流が始まる。

1974年7月

“第11回三ツ矢フォーク・メイツ・フェス”公開録音の通しリハーサル(文化放送のスタジオ)。

1974年7月11日

文化放送“第11回三ツ矢フォーク・メイツ・フェス”公開録音に出演(有楽町・読売ホール 司会 : 小室等 出演 : 大滝詠一、布谷文夫、バック : 上原裕、伊藤銀次、駒沢裕城、田中章弘、岡田徹、シンガーズ・スリー、稲垣次郎セクション、飛び入りゲスト : 鈴木茂)。録音はAM放送用モノラル音源のみ。

1974年7月19日

山下と大貫、沢チエ“CHIE-BEAT POPS IN SO・GETSU”にコーラスで参加(草月会館ホール 出演 : 沢チエ、下田逸郎、矢野誠、ココナツ・バンク、鈴木顕子)。

1974年7月20日

バンド・リハーサル(エレック・スタジオ)。

19747月23日

“三ツ矢フルーツソーダ'74”レコーディング(TSC東京スタジオセンター)。

19747月28日

“7TH ステッチ・コンサート イシバシ・オン・ザ・ロック”にゲスト出演(日本青年館ホール 共演 : エディ藩 & オリエント・エキスプレス、ミッキー・カーチス & ポーカーフェイス、VSOP、他アマチュア・バンド10組)。その後、荒井由実のレコーディングに参加。「12月の雨」と「瞳を閉じて」でコーラスを担当。この頃からレコーディングでのコーラスは、主に吉田美奈子を加えた4人編成になる。

1974年7月30日

山梨県清里のスケート場(共演 : チャコとヘルス・エンジェルス、フレンズ、アンデルセン)。

1974年8月5日

センチメンタル・シティ・ロマンスの月例コンサートにゲスト出演(名古屋雲龍ホール)。

1974年8月8日

郡山“ONESTEP FESTIVAL”に出演。

1974年8月24日

千葉・セントラル・プラザ7Fホール。

1974年8月

山下・大貫・村松と吉田美奈子、ルネ・シマール日本公演のコーラス打ち合わせ(浜松町・アルファレコード)。大阪1回、東京2回のレコード発売記念コンサートでのコーラスを、シュガー・ベイブの3人に吉田を加えた4人が依頼を受けた。これは、コーラスでレコーディングに参加した荒井由実の所属するアルファレコードから来た話だつた。

1974年9月4日

山下・大貫・村松と吉田、ルネ・シマールのコンサートにコーラスで出演(大阪厚生年金会館)。

1974年9月6日

“不二家ハートチョコレート'74”レコーディング(赤坂ミュージック・スタジオ)。

1974年9月14日

山下・大貫・村松と吉田美奈子、ルネ・シマールのコンサートにコーラスで出演(~15日 渋谷公会堂)。

19749月

ルネ・シマールのコンサートの仕事の合間にテイク・ワンに、難航してゐたレコーディングの話が本決まりになつたとの連絡が入る。レコード会社はエレック、時期は10月末、レーベルは大瀧詠一の主催するナイアガラ。

1974年9月半ば

バンド、リハーサル(新宿・御苑スタジオ~エレック・スタジオ)。1か月半ほどの集中的なリハーサルの目的は、今までの曲のレパートリーのアレンジをレコーディング用に見直すことと、「DOWN TOWN」「過ぎ去りし日々」「風の世界」といった新曲の練習の二つ。10月末からのレコーディングまでの間、初めの1か月を新宿の御苑スタジオで、その後エレック社内のリハーサル室に移動して行はれた。

1974年9月26日

“伊勢丹どんな顔するかな”レコーディング(モウリ・スタジオ)。

1974年9月29日

横浜・グリーン・ピース。

1974年10月5日

渋谷・ジァン・ジァン“昼の部”(共演 : きりぎりす)。

1974年10月7日

“資生堂バスボン'74”レコーディング(TSC)。

1974年10月9日

山下、大滝とザ・キングトーンズのライヴを見に行く(新宿ルイード)。

1974年10月13日

“HOBO'Sコンサート”に出演(池袋シアター・グリーン)。

1974年10月25日

高千穂商科大学文化祭。

197410月28日

アルバム・レコーディング開始(~12月26日 エレック・スタジオ)。楽器のセッティング~音決め、「SHOW」レコーディング。

197410月29日

「DOWN TOWN」レコーディング(エレック・スタジオ)。以後、数曲のヴォーカル、ダビングは工事中の福生45スタジオで行ふ。

1974年11月3日

城西大学体育館“コマ祭”シェイキー・フラット・コンサート(共演 : 内田裕也 & 1815R&Rバンド、クリエーション、イエロー、ヘルハウス、ミルキーウェイ他)。

1974年11月6日

“らんまんコンサートVol.4 〜小坂忠・細野晴臣 再会…そして出発〜”にコーラスで出演(新宿厚生年金小ホール 共演 : 小坂忠、ティン・パン・アレー、細野晴臣、林立夫、松任谷正隆、矢野誠、伊藤銀次、吉田美奈子)。

197411月10日

金沢女子短期大学文化祭(共演 : 浅野由彦)。

1974年11月15日

センチメンタル・シティ・ロマンスの月例コンサートにゲスト出演(名古屋雲龍ホール)。

1974年11月23日

“ティン・パン・アレイ・セッション”(~24日 荻窪ロフト 共演 : 細野晴臣、林立夫、伊藤銀次、矢野誠、はちみつぱい、上原裕)。

1974年11月24日

横浜・グリーン・ピース。伊藤銀次、矢野誠等と布谷文夫のバックを担当。 12月6日、荻窪ロフト(共演 : 吉田美奈子)。

197412月11日

渋谷ヤマハ店頭。

1974年12月8日

“ホーボーズ・コンサート”に出演(池袋シアター・グリーン 共演 : 久保田麻琴と夕焼け楽団)。

1974年12月25日

山下と大貫、“荒井由実クリスマス・コンサート”にアンコールでゲスト出演、コーラスを担当する。

1975年1月14日

“SKYHILLS PARTY Vol.1”に出演(横浜市民ホール 共演 : 荒井由実 & ダディー・オー, 吉田美奈子)。

19751月15日

渋谷・ジァン・ジァン“昼の部”。

1975年1月24日

“シュガー・ベイブ セカンド・コンサート”(新宿厚生年金会館小ホール ゲスト&司会 : 細野晴臣、鈴木慶一 特別ゲスト : 大滝詠一 ダンサー : 荒井由実 & 横浜CLUB 162)。

1975年2月2日

山下、大滝・吉田美奈子・伊集加代子と共にかまやつひろし「お先にどうぞ」(作詞・作曲・編曲 : 大瀧)レコーディングにコーラスで参加(東芝EMIスタジオ)。 

1975年2月22日

荻窪ロフト(共演 : センチメンタル・シティ・ロマンス)。

19752月23日

渋谷・ジァン・ジァン(共演 : 中山ラビ)。

1975年3月7日

アルバム『SONGS』完成。

1975年3月

野口に代わって当時、ハイ・ファイ・セットのバッキング・メンバーだった上原裕(Ds)が参加。更に上原の意向で伊藤銀次(G)が加入。

1975年3月

鰐川に代わって当時、上原・伊藤と共にハイ・ファイ・セットのバッキング・メンバーだった寺尾次郎(B)が参加。鰐川は去年の秋頃からレコーディング終了後にバンドを辞めようと考えてゐた。そのため、正月明けから後任のベーシスト探しがメンバーやスタッフによつて始められたが、なかなかこれといつたメンバーが見つからなかつた。そんな折、2月に上原から「シュガー・ベイブに入れへんか」と勧誘を受けた寺尾が、メンバーになりたいと自らテイク・ワンに電話をかけてきた。元々、寺尾はシュガー・ベイブのファンで、事務所に何度もコンサート予約の電話をかけてゐたことから、スタッフとは懇意になつてゐた。

19753月

マネージャーが長門から柏原卓に交代する。

1975年3月22日

荻窪ロフト(共演 : 愛奴)。

1975年3月29日

“ベイ・エリア・コンサート スーパーロックジェネレーション”に出演(文京公会堂 出演 : ティン・パン・アレー、大滝詠一、ココナツ・バンク(伊藤銀次、上原裕、藤本雄志)、鈴木茂バンド(鈴木茂、佐藤博、林敏明、田中章弘)、小坂忠、吉田美奈子)。

1975年3月30日

千葉ヤマハ。



第2期:1975年4月 - 1975年6月

山下達郎 – ヴォーカル、ギター、キーボード、コーラス

大貫妙子 – ヴォーカル、キーボード、コーラス

村松邦男 – ヴォーカル、ギター、コーラス

伊藤銀次 – ギター

寺尾次郎 – ベース、コーラス

上原裕 – ドラムス


1975年4月4日

“ベイエリア・コンサート スーパーロックジェネレーション”に出演(大阪サンケイ・ホール)。

1975年4月5日

“ベイエリア・コンサート スーパーロックジェネレーション”に出演(名古屋市公会堂)。

1975年4月20日

“ブルース・パワー・スプリング・カーニバル・イン日比谷”に出演(日比谷野外音楽堂 共演 : ウエスト・ロード・ブルース・バンド、鈴木茂バンド、久保田麻琴と夕焼け楽団、ウィーピング・ハープ・セノオ & ヒズ・ローラーコースター)。この日のライブ写真が翌週の雑誌『週刊プレイボーイ』に掲載される。

1975年4月25日

アルバム『SONGS』とシングル「DOWN TOWN」を同時発表。以降、「雨は手のひらにいっぱい」のやうなメロディアスな曲から「WINDY LADY」のやうな16ビートの楽曲へと、次第に山下の作風に変化が生じる。




1975年4月26日

渋谷・ジァン・ジァン“昼の部”。

1975年5月4日

山下、アルバム『NIAGARA MOON』を明け方にミックス・ダウン中の大瀧に“滝の音がないとだめだよ”と助言。明日搬入予定にも拘らず白糸の滝に行って滝の音を録つた夜、戻つてくる。夜中じゅう山下の録音してきた滝の音がミックスされた後にマスタリング、翌5日に搬入された(六本木CBSソニースタジオ)。

1975年5月8日

バンド・リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。

1975年5月9日

“資生堂店頭BGM'75「南の島」”レコーディング(音響ハウス)。

1975年5月10日

山下・大貫・村松、コーラス・レコーディング 1日目(六本木CBSソニースタジオ)。

1975年5月11日

バンド・リハーサル(エレック・スタジオ)。その後、静岡放送の取材。

1975年5月13日

服飾メーカーのCMレコーディング(音響ハウス)。

1975年5月14日

バンド・リハーサル(~15日 渋谷ヤマハ)。

1975年5月16日

山下・大貫・村松、コーラス・レコーディング 2日目(六本木CBSソニースタジオ)。

1975年5月17日

バンド・リハーサル(~18日 福生45スタジオ)。

1975年5月19日

家電メーカーのCMデモ・レコーディング(音響ハウス)。その後、バンド・リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。

1975年5月20日

バンド・リハーサル(渋谷ヤマハ)。

1975年5月21日

FM東京“週刊FM サウンドスペシャル”に出演(目黒・パイオニア・スタジオ)。

1975年5月23日

バンド・リハーサル(四谷スタジオ)。その後、山下・大貫・村松、コーラス・レコーディング。この日予定されてゐた19日録音のCMデモの本録りはキャンセルになつた。

1975年5月24日

“ティン・パン・アレイ・フェスティバル”に出演(中野サンプラザ 出演 : 鈴木茂バンド、小坂忠 + ティン・パン・アレーら細野晴臣 + セッション・バンド, 大滝詠一 + セッション・バンド、バンブー、ブレッド&バター、トランザム + クニ河内、シュガー・ベイブ)。その後、山下・大貫・村松、コーラス・レコーディング(溜池・クラウン・レコーディング・スタジオ)。



第3期:1975年6月 - 1976年4月

山下達郎 – ヴォーカル、ギター、キーボード、コーラス

大貫妙子 – ヴォーカル、キーボード、コーラス

村松邦男 – ヴォーカル、ギター、コーラス

寺尾次郎 – ベース、コーラス

上原裕 – ドラムス


1975年6月

「DOWN TOWN」のラジオ・スポットCMのオンエアが始まる。

1975年6月1日

山下・大貫・村松、フジテレビ幼児向け番組のコーラス・レコーディング。その後、アーティスト写真の打ち合はせ。福生での撮影が決まる。

1975年6月2日

アーティスト写真撮影および、バンド・リハーサル(~5日 福生45スタジオ)。

19756月6日

自動車メーカーのCMソング・レコーディング(新橋・飛行館スタジオ)。

1975年6月11日

バンド・リハーサル(~13日 福生45スタジオ)。

1975年6月14日

バンド・リハーサル(チョコレートスタジオ)。

19756月15日

渋谷・ジァン・ジァン“昼の部”。この日を最後に伊藤がバンドを離籍。

1975年6月16日

製菓メーカーのCMソング・コーラス・レコーディング(アオイスタジオ)。

1975年6月18日

バンド・リハーサル(~20日 福生45スタジオ)。

1975年6月20日

“いちじく浣腸'75”レコーディング(音響ハウス)。

1975年6月22日

バンド・リハーサル(~23日 福生45スタジオ)。

1975年6月24日

“SKYHILLS PARTY Vol.2”に出演(横浜教育会館 共演 : センチメンタル・シティ・ロマンス、鈴木茂 & ハックルバック。

1975年6月25日

製菓メーカー、自動車メーカー、別の製菓メーカーのCMソング・レコーディング(KRCスタジオ, アオイスタジオ, 音響ハウス)。

1975年6月28日

センチメンタル・シティ・ロマンスの月例コンサートにゲスト出演(~29日 名古屋雲龍ホール)。

1975年7月

マネージャー牧村憲一立会いのもと、ナイアガラ・レーベルとのレコーディング契約を破棄。ただしコンサート等のバッキングは継続することで合意。

1975年7月

黒木真由美、アルバム『12のらくがき』発売。山下作曲・編曲「恋人と呼ばれて」「北極回り」収録。

1975年7月3日

バンド・リハーサル(~5日 福生45スタジオ)。

1975年7月6日

“うたのおーどぶる 第10回ポピュラー・ソング・コンテスト横浜大会”にゲスト出演(横浜市民ホール)。

1975年7月8日

アーティスト写真撮影(福生45スタジオ)。

1975年7月9日

バンド・リハーサル(高円寺・Sit-Inスタジオ)。

1975年7月11日

バンド・リハーサル(アダンスタジオ)。

1975年7月12日

高円寺・次郎吉。

19757月13日

TVK“ヤング・インパルス”公開放送に出演(共演 : 愛奴)。

1975年7月15日

家電メーカーのCMソング・レコーディング(音響ハウス)。 

1975年7月16日

文化放送“ハロー・パーティー”公開録音(文化放送内スタジオ)。

1975年7月18日

バンド・リハーサル(アダンスタジオ)。

1975年7月19日

渋谷・ジァン・ジァン“昼の部”(共演 : 音つばめ)。

1975年7月20日

荻窪ロフト(共演 : 愛奴)。初めて満員になる。

1975年7月23日

バンド・リハーサル(~25日 新宿・御苑スタジオ)。

1975年7月26日

“サマー・ロック・カーニバル”に出演(日比谷野外音楽堂 共演 : 鈴木茂&ハックルバック、頭脳警察、愛奴、上田正樹 & サウス・トゥ・サウス、サンハウス)。

1975年8月2日

バンド・リハーサル(福生45スタジオ)。

1975年8月5日

バンド・リハーサル(~6日 新宿・御苑スタジオ)。

1975年8月7日

九頭竜フェスティバルのリハーサルがこの日の午後行はれるため早朝5時、笹塚の事務所テイク・ワンに集合、6時出発。北陸ツアー開始(~18日)。

1975年8月8日

“福井・九頭竜フェスティバル”に出演(~9日)。

1975年8月10日

“金沢・百万石夏祭”に出演。

1975年8月11日

バンド・リハーサル(金沢VanVanスタジオ)。「WINDY LADY」と「愛は幻」の2曲を集中的に練習する。

1975年8月13日

バンド・リハーサル(~16日 金沢VanVanスタジオ)。山下が体調不良のため欠席、4人で行ふ。

1975年8月17日

“金沢・卯辰山フェスティバル”に出演(共演 : ジプシ・グッピー、バッド・ボーイズ、上田正樹 & サウス・トゥ・サウス、めんたんぴん、カルメン・マキ & OZ、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド)。

1975年8月18日

富岡市民会館(共演 : めんたんぴん)。

1975年8月21日

山下、センチメンタル・シティ・ロマンスのレコード発売記念コンサートにゲスト出演(御茶ノ水・日仏会館)。彼らの演奏をバックにハンド・マイクで「DOWN TOWN」を歌ふ。

1975年8月26日

新宿の喫茶店「嵐山」にて取材。

19758月29日

村松、CMレコーディング(世田谷・KRCスタジオ)。

19759月1日

デモ・レコーディング(渋谷・アダンスタジオ)。

19759月3日

コーラス・レコーディング(音響ハウス)。その後、酒造メーカーのCMレコーディング(アバコ・スタジオ)。

1975年9月4日

バンド・リハーサル(渋谷・アダンスタジオ)。

19759月5日

コーラス・レコーディング(モウリスタジオ)。

1975年9月7日

“うたのおーどぶる 第10回ポピュラーソングコンテスト北海道大会”にゲスト出演(札幌厚生年金会館)。

19759月8日

“ラグノオ シュガーレス・ケーキ'75”レコーディング(アオイスタジオ)。

19759月10日

バンド・リハーサル(渋谷・エピキュラススタジオ)。

1975年9月11日

バンド・リハーサル(サイコスタジオ)。その後、女性歌手のコーラス・レコーディング(キング・スタジオ)。

1975年9月12日

めんたんぴんのコンサート“MENTANPIN IN TOKYO”にゲスト出演(中野公会堂)。

1975年9月13日

神奈川大学学園祭(神奈川大学大講堂 共演 : めんたんぴん)。

1975年9月15日

バンド・リハーサル(渋谷・エピキュラススタジオ)。

1975年9月18日

自動車メーカーのCMレコーディング(~19日 音響ハウス)。

1975年9月23日

女性歌手のコーラス・レコーディング(アルファ・スタジオ)。

1975年9月26日

バンド・リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。

1975年9月27日

“ニューミュージック・コンサート”(芝・増上寺ホール 共演 : 久保田麻琴と夕焼け楽団、鈴木茂 & ハックルバック)。

1975年9月29日

バンド・リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。山下、大滝詠一のゴー・ゴー・ナイアガラ 第16回“NIAGARA SPECIAL 1”に伊藤銀次とゲスト出演。

1975年9月30日

電話リクエストの番組テーマソング, ジングル・レコーディング(音響ハウス)。

1975年10月1日

村松、大滝詠一のバックバンド・リハーサル。

1975年10月2日

バンド・リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。その後、村松、大滝詠一のバックバンド・リハーサル。

1975年10月3日

山下と大貫、ハイ・ファイ・セットとともに吉田美奈子のコンサートにコーラスでゲスト出演(中野サンプラザ)。後に『MINAKO II Live at Sun Plaza Hall October 3, 1975』として発売。

村松・寺尾・上原、文化放送“三ツ矢フォーク・メイツ・フェス”公開録音にゲスト出演する大滝のバックで参加(新宿厚生年金会館)。

1975年10月4日

“ニッポン放送ハンドメイド・スペシャル”公開録音(渋谷・エピキュラスホール 共演 : 荒井由実 & コズミックララバイ)。

1975年10月6日

荻窪ロフト。山下、大滝詠一のゴー・ゴー・ナイアガラ 第17回“NIAGARA SPECIAL 2”に伊藤銀次とゲスト出演。THE BEACH BOYS「DARLIN'」のカヴァーをオン・エア。

終了後、新会社を設立し新たにコロムビアと契約する大滝から、その第一弾として1973年からここまでの三人の活動を記録しておきたいという“トライアングル企画”が山下・伊藤の二人に提案される。

1975年10月9日

バンド・リハーサル(~11日 新宿・御苑スタジオ)。

1975年10月12日

“第10回ポピュラー・ソング・コンテスト名古屋大会”にゲスト出演(四日市市内の会場)。コンサート後、山下、四日市のレコード店「ワンワン」でのアマチュア・コンサートにゲスト出演。アマチュア・バンドの演奏をバックに「DOWN TOWN」を歌う。

1975年10月16日

バンド・リハーサル(渋谷ヤマハ)。

1975年10月17日

バンド・リハーサル(渋谷・エピキュラススタジオ)。

1975年10月18日

荻窪ロフト。

1975年10月19日

渋谷ヤマハ店頭。当時大学1年だった竹内まりやが、友人らと黒山の人だかりの中でシュガー・ベイブの演奏を聴く。

1975年10月27日

村松・寺尾・大貫、筒井康隆・山下洋輔『家』レコーディングに参加(六本木・フォノグラムスタジオ)。

1975年10月29日

バンド・リハーサル(~30日 渋谷・エピキュラススタジオ)。

1975年10月31日

石橋楽器“ステッチコンテスト・グランプリ”にゲスト出演(御茶ノ水・日仏会館)。

1975年11月3日

郡山・日大学園祭。

1975年11月7日

山下、『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』レコーディング開始(~11日 福生45スタジオ, 赤坂コロムビアスタジオ)。

1975年11月12日

アバコ・スタジオ。その後、バンド・リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。

197511月13日

バンド・リハーサル(~14日 福生45スタジオ)。

197511月15日

“TWILIGHT TIME CONCERT”(青山・VAN99ホール)。

197511月16日

下北沢・マライカ(昼)。その後、“ハックルバックさよならコンサート”にゲスト出演の大滝のバックで参加(新宿厚生年金会館小ホール 出演 : 鈴木茂 & ハックルバック、大滝詠一、トーマス・レディング)。

1975年11月19日

“ナショナルまきまきカール'75”レコーディング(アルファ・スタジオ)。

1975年11月20日

バンド・リハーサル(渋谷・エピキュラススタジオ)。

197511月22日

渋谷・ジァン・ジァン“昼の部”。その後、“大滝詠一 Live In 荻窪ロフト”にバックで参加(ゲスト : 吉田美奈子(Cho)、稲垣次郎(Sax)、臨時参加 : 矢野顕子(P))。

197511月23日

荻窪ロフト(共演 : フライング・グライダース)。

197511月24日

明治大学学園祭。 

1975年11月25日

“資生堂MG5'76”レコーディング(音響ハウス)。

1975年11月28日

バンド・リハーサル(渋谷・エピキュラススタジオ)。

1975年11月29日

駒場・東京大学農学部学園祭(共演 : めんたんぴん、金子マリ、中山ラビ)。

197511月30日

高円寺・次郎吉。 

1975年12月13日

バンド・リハーサル(渋谷・エピキュラススタジオ)。

1975年12月14日

名古屋ヤマハ店頭。

1975年12月15日

大滝のリハーサル(赤坂コロムビアスタジオ)。

1975年12月16日

“SKYHILLS PARTY Vol.3 –細野晴臣・大滝詠一 TROPICAL MOON–”に大滝のバックバンドで出演(横浜市民ホール 出演 : 細野晴臣、大滝詠一、南佳孝)。

1975年12月17日

バンド・リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。

1975年12月22日

バンド・リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。

1975年12月23日

“シュガー・ベイブ クリスマス・コンサート”(新宿厚生年金会館小ホール ゲスト : センチメンタル・シティ・ロマンス、坂本龍一(Key)、大滝(Vo, 2回目のアンコールのみ)、伊藤(G, 2回目のアンコールのみ)。

1975年12月28日

バンド・リハーサル(アダンスタジオ)。

197512月29日

女性歌手のコーラス・レコーディング(キング・スタジオ)。

197512月31日

“グッバイ・コンサート 第2部 : カモン・ロマンス・ベイビー”(オールナイト)に出演(名古屋雲龍ホール 共演 : センチメンタル・シティ・ロマンス、デキシー・ダウン、尾関ブラザーズ、愛奴)。


1976年1月

新年のミーティングの席上「ユカリ(上原)が辞める。代わりのドラマーがゐない」との理由でバンドの解散が、山下から大貫・村松・寺尾(上原は欠席)に伝へられる(新宿の喫茶店)。

1976年1月6日

女性歌手のコーラス・レコーディング(キング・スタジオ)。

19761月8日

“山下達郎のオールナイトニッポン”スタート(~9月28日)。

1976年1月18日

“下北沢から51年”に出演(玉川区民会館 共演 : センチメンタル・シティ・ロマンス、めんたんぴん、ハート・オブ・サタディ・ナイト(元 神無月)、ストロベリージャム他)。

1976年1月24日

下北沢ロフト。

1976年1月28日

“細野晴臣・大滝詠一 TROPICAL MOON”(仙台電力ホール 出演 : 細野晴臣、大滝詠一)。当初は大滝のバックバンドのみでの参加予定だったが、ゲストの鈴木茂が風邪で欠席のためシュガー・ベイブが急遽出演。

19761月29日

“三ツ矢サイダー'76”レコーディング 1日目(赤坂ミュージック・スタジオ)。

19761月31日

“大滝詠一コンサート”に大滝のバックで参加(~2月1日 各2回公演 神戸サンダー・ハウス)。

19762月14日

下北沢ロフト。

1976年2月16日

山下、大滝詠一のゴー・ゴー・ナイアガラ 第36回“NIAGARA TRIANGLE”に伊藤銀次とゲスト出演。

1976年2月19日

山下達郎のオールナイトニッポン 第7回“ナイアガラ・トライアングル特集”放送(ゲスト : 大滝詠一、伊藤銀次)。

1976年2月24日

“第2回音協スターライズ・コンサート”(都市センターホール 共演 : センチメンタル・シティ・ロマンス)。山下、解散を発表。

19762月27日

“三ツ矢サイダー'76”レコーディング 2日目(赤坂ミュージック・スタジオ)。

19763月4日

山下、吉田美奈子“MINAKO'S WEEK”にゲスト出演(新宿紀伊国屋ホール)。

1976年3月5日

大貫、吉田美奈子“MINAKO'S WEEK”にゲスト出演(新宿紀伊国屋ホール)。山下が大貫のバッキングで参加。

1976年3月7日

吉田美奈子“MINAKO'S WEEK”にゲストの大滝とともに山下が飛び入り出演(新宿紀伊国屋ホール)。ミナコ・バンドは“FLYING KID SCREW”と名付けられる。

1976年3月13日

山下、“ニッポン放送ハンドメイド・スペシャル”に出演(渋谷・エピキュラスホール 出演 : 南佳孝、山下達郎、吉田美奈子、大滝詠一)。

1976年3月20日

山下、文化放送“三ツ矢フォーク・メイツ・フェス”公開録音にゲスト出演する吉田美奈子のバッキングで参加(新宿厚生年金会館)。

1976年3月25

アルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』(山下・伊藤銀次・大滝詠一)発売。 同日、吉田美奈子、アルバム『FLAPPER』発売。「永遠に」「ラスト・ステップ」収録。

1976年3月29日

山下、“ナイアガラ・トライアングル コンサート”に出演(芝・ABC会館ホール 出演 : 伊藤銀次, 山下達郎, 大滝詠一)。

1976年3月31日

“シュガーベイブ 解散コンサート”(荻窪ロフト)。当初は1日だけの予定だったが、入りきれなかつた約100人のファンが居残り、店のスタッフと交渉。最終的にはマネージャー柏原のOKを受けて、翌日の追加公演が決定する。



1976年4月1日

“シュガーベイブ 解散コンサート(追加公演)”(荻窪ロフト)。同日、ナイアガラ・トライアングル、シングル「幸せにさよなら/ドリーミング・デイ」発売。

1976年4月4日

山下、大滝の“ナイアガラ・トライアングルDJパーティー”に伊藤と共にゲスト出演(日仏会館)。

1976年4月13日

山下達郎のオールナイトニッポン 第15回“シュガー・ベイブ特集 1”放送。

1976年4月20日

山下達郎のオールナイトニッポン 第16回“シュガー・ベイブ特集 2”放送(ゲスト : 大貫妙子、寺尾次郎、上原裕)。

1976年4月27日

山下達郎のオールナイトニッポン 第17回“シュガー・ベイブ特集 3”放送(ゲスト : 大貫妙子)。

1976年6月12日

大貫、アルバム『Grey Skies』レコーディング開始(~8月)。

1976年7月30日

山下、ソロ・コンサート(~31日 下北沢ロフト)。

1976年8月16日

山下、アルバム『CIRCUS TOWN』レコーディングの為渡米(~9月5日 8月17-26日:ニューヨーク、8月30日-9月3日:ロスアンジェルス)。

19768月28日

大貫、“デビュー・ライブ”(~29日 下北沢ロフト)。

1976年9月25日

大貫、ファースト・アルバム『Grey Skies』発売。「時の始まり」「約束」「愛は幻」収録。

1976年10月25日

山下、ファースト・アルバム『CIRCUS TOWN』発売。「WINDY LADY」「LAST STEP」収録。


1977年5月25日

伊藤、ファースト・アルバム『DEADLY DRIVE』発売。「こぬか雨」収録。

1983年 9月25日

村松、ファースト・アルバム『GREEN WATER』発売。「うたたね」収録。





by ichiro_ishikawa | 2018-11-30 20:57 | 音楽 | Comments(0)  

連載 日本のロック史 60〜70年代 (4)はっぴいえんどとその界隈

ザ・フローラル〜

エイプリル・フール


1968年2月11日

モンキーズファンクラブ日本支部の企画で結成されたGSバンド「ザ・フローラル」結成。

小坂忠(ボーカル)、菊池英二(ギター)、柳田博義(キーボード)ら。

1968年8月15日

シングル「涙は花びら」でデビュー。

1968年10月

シングル「さまよう船」発売。3・4日のザ・モンキーズ来日公演で前座と、3曲ほどバッキング。

1969年

全員女性のグループ・サウンズ、ピンキー・チックスのシングル「悲しき恋のバラード」の演奏担当。

1969年4月1日

小坂、柳田、菊池の3人を残し柳田の兄のバンド「ドクターズ」のベーシストだつた細野晴臣と彼が当時参加していたバンド「バーンズ」のドラマー松本零(松本隆)を勧誘しメンバー再編。細野のアイデアを採用し、バンド名をエイプリル・フール改名。アルバム『Apryl Fool』レコーディング。

1969年5月

新宿のゴーゴークラブ「パニック」に専属出演。 春〜夏、吉田喜重監督の映画『エロス+虐殺』のサウンドトラックをレコーディング(小坂、細野は不参加)。音楽監督は一柳慧。

1969年6月頃

細野・小坂・松本(アメリカン・ロック、フォーク・ロック、日本語ロック指向)と柳田・菊池(ブリティッシュ・ロック、プログレッシヴ・ロック、インプロヴィゼーション指向)の二派で音楽的亀裂が決定的となり解散が決まる。その後暫く残務処理が続く。

1969年9月12日

TBS「ヤング720」に出演。

1969年9月15 - 22日

翌年に力石徹葬儀の構成も手がけることになる東由多加が設立したミュージカル劇団、東京キッドブラザースのロック・ミュージカル「東京キッド」の劇伴を演奏。

1969年9月27日

アルバム『Apryl Fool』発売。ボブ・ディランの「プレッジング・マイ・タイム」をカバー。ジャケット写真は荒木経惟。日本語曲は「組曲:母なる大地」と「暗い日曜日」のみ。

日消ホールでアルバム発売記念フリーコンサート。

1969年10月15日

東京キッドブラザースのロック・ミュージカル「続・黄金バット」で演奏。

1969年10月26日

銀座「ジャンク」でラストライヴ。




ヴァレンタイン・ブルー

はっぴいえんど


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細野晴臣(1947年7月9日 – ) - ボーカル・ベース・ギター・キーボード・作曲。東京都港区白金出身。

大瀧詠一(1948年7月28日 – 2013年12月30日 ) ボーカル・ギター・作曲。岩手県江刺郡梁川村(現奥州市)出身。

松本隆(1949年7月16日 - ) - ドラムス・パーカッション・作詞。東京都港区青山出身。

鈴木茂(1951年12月20日 - ) - ギター・ボーカル。東京都世田谷区出身。


1969年10月28日

細野と松本が大瀧詠一、鈴木茂を引き入れて「ヴァレンタイン・ブルー」を結成しデビュー・ライブとなる“ロックはバリケードをめざす”(お茶の水全電通会館ホール)に出演。

年末、演奏をエイプリル・フールが担当した東京キッドブラザースのLP『LOVE & BANANA』発売。

1970年3月6日

遠藤賢司『niyago』レコーディングに参加。

3月、ヴァレンタイン・ブルー、バンド名を、はっぴいえんどに改名。

1970年3月23日

岡林信康『見るまえに跳べ』レコーディングに参加。

1970年4月

アルバム『はっぴいえんど』レコーディング。

1970年4月12日

“ロック叛乱祭”に出演(文京公会堂)。

1970年8月5日

アルバム『はっぴいえんど』発売。

1970年8月8日

“第2回全日本フォークジャンボリー”出演。

1970年10月

岡林信康とのコンサート・ツアー開始。

1970年12月1日

“岡林信康コンサート”をライヴ録音。

1971年1月16日

高田渡『ごあいさつ』レコーディングに参加。

1971年4月1日

シングル「12月の雨の日 / はいからはくち」発売。

1971年4月10日

加川良『教訓』レコーディングに参加。

1971年4月14日

“加橋かつみコンサート”出演。

1971年5月7日

アルバム『風街ろまん』レコーディング開始。

1971年8月7日

“第3回全日本フォークジャンボリー”出演。

1971年8月21日

“ロックアウト・ロック・コンサート”出演。

1971年11月20日

アルバム『風街ろまん』発売。


1971年12月10日

シングル「花いちもんめ / 夏なんです」、大瀧ソロ・シングル「恋の汽車ポッポ / それはぼくじゃないよ」同時発売。

1972年5月6日

“第2回春一番コンサート”出演。

1972年6月25日

大瀧、ソロ・シングル「空飛ぶくじら / 五月雨」発売。

1972年7月1日

“ラスト・はっぴいえんどツアー”開始。

1972年10月

渡米してロサンゼルスでアルバム『HAPPY END』をレコーディング。



大瀧詠一、細野晴臣


1972年11月25日

大瀧、ソロ・アルバム『大瀧詠一』発売。


1972年12月31日

はっぴいえんど、正式解散。

1973年2月25日

アルバム『HAPPY END』、シングル「さよならアメリカ さよならニッポン / 無風状態」同時発売。

1973年5月25日

細野晴臣ソロ・アルバム『HOSONO HOUSE』発売(当時埼玉県狭山市のアメリカ村にあった自宅で録音)

1973年9月1日

はっぴいえんどベスト・アルバム『CITY ⁄ HAPPY END BEST ALBUM』発売。

1973年9月21日

はっぴいえんどラスト・ライブ“CITY-Last Time Around”に出演。

1973年9月25日

細野ソロ・シングル「恋は桃色 / 福は内鬼は外」発売。

1974年1月15日

“CITY-Last Time Around”での模様を収録したライブ・アルバム『ライブ!! はっぴいえんど』発売。


1974年

細野晴臣、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆(後に佐藤博が参加)がキャラメル・ママ結成。1974年にティン・パン・アレーにバンド名を変更。

『キャラメル・ママ』(1975年)、『TIN PAN ALLEY 2』(1977年)のアルバムを残すほか、演奏・プロデュースチームとして多数のアーティストの楽曲に参加、荒井由実などのプロデュースも行う。



1974年6月25日

はっぴいえんどベスト・アルバム『SINGLES』発売。


1974年9月

大滝詠一、自らが作詞・作曲・編曲・プロデュース・エンジニア・原盤制作・原盤管理などをこなすプライベートレーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立し、エレックレコードと契約。

1975年

大滝詠一、はっぴいえんど、解散後初となるソロアルバム『NIAGARA MOON』を発表。

また、ラジオ関東(現在のアール・エフ・ラジオ日本)で、DJをつとめる番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』を開始。


1975年6月25日

細野晴臣、2ndアルバム『トロピカル・ダンディー』、3rd『泰安洋行』(1976年7月25日)、4th『はらいそ』(ハリー細野とイエロー・マジック・バンド、1978年4月25日)と続く「トロピカル三部作」で、ニューオーリンズや沖縄、ハワイ、中国などの音楽をごった煮にしたサウンド、南国・楽園志向にアプローチ。


1976年

大滝詠一、コロムビアレコードにナイアガラごと移籍する。その際の契約は福生45スタジオに当時最新鋭の16チャンネルのマルチトラックレコーダーを提供してもらう代わりに、3年でアルバム12枚を製作するという内容。

『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』

『GO! GO! NIAGARA』

『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』

1977年

『NIAGARA CALENDAR』

1978年

『LET'S ONDO AGAIN』を最後にコロムビアとの契約を解消。福生45スタジオの機材も売却。ナイアガラレコードも休業状態に陥る。


1978年9月21日

細野晴臣、『コチンの月 』細野晴臣 & 横尾忠則


1980年

大瀧詠一、プロデュースの仕事で出入りすることが多かったCBSソニーに移籍。旧友である松本隆と組んで、ナイアガラサウンドの集大成となる作品のレコーディングに取り掛かる。このレコーディングの最中に、女性向きと考えた「さらばシベリア鉄道」を太田裕美に提供。同曲は大瀧の曲で初めてのヒットシングルになった。

1981年3月

大瀧詠一、『A LONG VACATION』発売。

松田聖子『風立ちぬ』で初のチャート1位を記録。うなずきトリオのシングル『うなずきマーチ』では大滝作詞曲で初のチャート入り。

森進一の『冬のリヴィエラ』や小林旭の『熱き心に』など演歌系のジャンルにも進出。


1985年615日

はっぴいえんど、“国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW”に出演。


1985年9月5日

“ALL TOGETHER NOW”での模様を収録したライブ・アルバム『THE HAPPY END』発売。



小坂忠

(1948年7月8日、埼玉県志木市出身)


1969年

エイプリル・フール解散後、村井邦彦、川添象郎、ミッキー・カーチスらが設立したマッシュルーム・レーベルよりソロ・アルバム『ありがとう』をリリース。

1972年

林立夫、松任谷正隆、後藤次利、駒沢裕城と「小坂忠とフォージョー・ハーフ」を結成。

その他、CM音楽やNHK「おかあさんといっしょ」の作曲も手掛ける。

1975年

細野晴臣、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆を中心に結成されたティン・パン・アレーの演奏によるオリジナルアルバム『HORO』リリース。




布谷文夫

(ぬのや・ふみお、1947年1月25日 - 2012年1月15日)

北海道函館市出身。


1966年

専修大学経営学部在学中に友人と東京R&B5を結成し、音楽活動を始める。

1967年

東京R&B5解散。その後、大瀧詠一、洪栄龍らと共に『タブー』を結成。

1968年

ザ・ジャガーズの弟分バンドだったビッキーズに参加。

『東京R&B天国』(東京12チャンネル)の「R&B天国アマチュアバンドコーナー」に出演して5週連続勝ち抜きを果たす。

ビッキーズは、メンバー交代を経て竹田和夫、田代信一、野地義行の4人編成となり、ブルース・クリエイションに。

1969年

日本グラモフォン(ポリドール・レコード)よりアルバム『BLUES CREATION』を発表。

1969年9月

第1回の日本ロック・フェスティバルに出場。

1970年

ブルース・クリエイションを脱退。

洪栄龍、内藤正美らと『DEW』結成。

第3回全日本フォークジャンボリーに出場。2年でDEWを解散。

1972年

ソロシンガーに転向。8月にビクターレコード(ビクター・ポップ)より『空のベッドのブルース』を発表。

1973年5月

第3回春一番ライブ(大阪天王寺公園野外音楽堂)に、ごまのはえ(伊藤銀次が所属していたバンド)と共に出演。

1975年〜1976年

一時活動を中止。

1976年2月

大瀧詠一プロデュースによる『ナイアガラ音頭』(クレジットは“布谷文夫 with ナイアガラ社中”名義)を 日本コロムビアより発表。




ブルース・クリエイション

1971年

布谷文夫脱退後、大沢博美(ボーカル)、樋口晶之(ドラムス)にメンバーチェンジし、『悪魔と11人の子供達』をリリース。

1971年8月

カルメン・マキをボーカルに迎えて「第3回全日本フォークジャンボリー」に出演したのち、

日本コロムビアより『カルメン・マキ&ブルース・クリエイション』をリリース。

1972年

ブルース・クリエイションは解散し、竹田和夫は松本繁(ベース)、内藤正美(ドラムス)らとブラッディ・サーカスを結成するが短命に終わる。

1972年

竹田、松本、樋口、大沢でクリエイションを結成。

1972年

飯島義昭(ギター)が加入後大沢が脱退。ツイン・リード体制に。

1975年

東芝EMIより、内田裕也のプロデュースで、ハードロック的なアプローチを試みたファーストアルバム『クリエイション』をリリース。

1976年

セカンドアルバム『クリエイション・ウイズ・フェリックス・パパラルディ』をリリース。このアルバムはアメリカでは『FELIX PAPPALARDI & CREATION』としてリリースされ、同年7月より、パパラルディを加えたメンバーで、キッス、ジョニー・ウィンターなどと共に全米ツアーを行った。また、日本人単独アーティストとしては初の武道館公演を行った。

1977年

サードアルバム『ピュア。エレクトリック。ソウル』をリリース。このアルバムからは、「スピニング・トー・ホールド」が、アメリカのプロレス兄弟チーム、ザ・ファンクスの入場テーマ曲に使用され有名に。

その後、松本が脱退し山内テツ(ベース)が参加し、フリートウッド・マック、サンタナらとオーストラリアツアーを行った。

1979年

竹田和夫はこれまでのメンバーを刷新し、元ザ・カーナビーツで1977年には竹田和夫オールスターズにも参加したアイ高野をボーカルに迎え、フュージョン路線もまじえた『朝日の国』をリリース。

1981年

バンド名を「クリエーション」とし、『ロンリー・ハート (Lonely Hearts)』をリリース。表題曲「ロンリー・ハート」がドラマ『プロハンター』の主題歌に使われスマッシュ・ヒットとなった。



by ichiro_ishikawa | 2018-11-30 09:51 | 音楽 | Comments(0)  

連載 日本のロック史 60〜70年代 (3)フォーク〜ニューミュージック系

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俯瞰年表
1963年
ピート・シーガーが来日。
1964年
「原宿フーテナニー」 「銀座フーテナニー」開催。
1965年
日劇フォークソングフェスティバル開催。
1966年
ビートルズ来日。
マイク眞木「バラが咲いた」。
五つの赤い風船が活動開始。 
フジテレビ『フォークソング合戦』が放送開始。
日劇フォークソングフェスティバルにて高石友也がプロデビュー。

1967年
高石友也が大阪で初リサイタル。
東京日比谷野外音楽堂で、遠藤賢司小室等フォーク・クルセダーズ北山修:1965-68年、加藤和彦:1965-68年、平沼義男:1965-67年、はしだのりひこ:1967-68年その他により「ニューポート・フェスティバル・イン・ジャパン」開催。
フォーク・クルセダーズ「帰って来たヨッパライ」。

サンフランシスコ生まれの日系2世ジャズ・トランペッターの森山久の娘、森山良子「この広い野原いっぱい」でデビュー。


1968年
フォーク・クルセダーズ「イムジン河」発売自粛。

岡林信康が「くそくらえ節」「がいこつの唄」で登場、「山谷ブルース」発売禁止。

高田渡「自衛隊に入ろう」発表。

フォーク・クルセダーズ解散。
1969年
はしだのりひことシューベルツ「風」、ビリーバンバン「白いブランコ」。
東京新宿駅西口に現れたフォークゲリラに機動隊が動員され、ガス弾で弾圧される。
アンドレ・カンドレ(井上陽水)デビュー。
高石友也がさよならコンサート。
RCサクセション忌野清志郎 : vo,g、小林和生 : b,vo、破廉ケンチ : g,voがTBS系テレビ番組「ヤング720」出演。
1970年
「インターナショナルフォークコンサート」開催。前夜祭に遠藤賢司、あがた森魚その他出演。
吉田拓郎デビュー。
RCサクセション「宝くじは買わない」でシングルデビュー。

第2回全日本フォークジャンボリー開催。
1971年
はしだのりひことクライマックス「花嫁」。
第3回全日本フォークジャンボリー開催。
東京世界歌謡祭で上条恒彦が「出発の歌」グランプリ受賞。
天王寺野外音楽堂でコンサート「春一番」の第1回が開催。
忌野清志郎が活動拠点の一つとしていた渋谷のライブハウス「青い森」で古井戸の仲井戸麗市と出会う。 
北山修・加藤和彦「あの素晴しい愛をもう一度」。

赤い鳥後藤悦治郎 : g、平山泰代 : p、山本俊彦 : g、新居潤子 : vo,g、大川茂 : b)「竹田の子守唄」「翼をください」。

1972年
3月、吉田拓郎の「結婚しようよ」8月、「旅の宿」。

井上陽水「傘がない」

古井戸「さなえちゃん」

泉谷しげる春夏秋冬」

五輪真弓「少女」、ウィッシュ「ご案内」。
RCサクセション、3rdシングル「ぼくの好きな先生」、1stアルバム『初期のRCサクセション』。

チューリップ(財津和夫 : vo,g,kb、姫野達也 : vo,g,kb、安部俊幸 : g、上田雅利 : ds、吉田彰 : b)「魔法の黄色い靴」でメジャーデビュー。

1973年
ガロ(GARO)「学生街の喫茶店」。
かぐや姫南こうせつ : vo,g、山田パンダ : b,vo、伊勢正三 : g,vo「神田川」。
グレープさだまさし、吉田正美がデビュー。
海援隊武田鉄矢 : vo,g、 中牟田俊男 : g、千葉和臣 : g「母に捧げるバラード」。
なぎらけんいち(後のなぎら健壱)「悲惨な戦い」が自主規制。

チューリップ「心の旅」

1974年
山本コウタローとウィークエンド「岬めぐり」。
吉田拓郎とかまやつひろしが連名で「シンシア」を発表。
1975年
小室等・吉田拓郎・井上陽水・泉谷しげる、フォーライフ・レコード設立。
かぐや姫とよしだたくろうが中心となつて「つま恋コンサート」開催。約5万人の観客を動員。
1973年12月に発売された井上陽水のアルバム『氷の世界』が8月に日本レコード史上初めてアルバム100万枚を売り上げる。

チューリップ「サボテンの花」。
風 「22才の別れ」でデビュー。
バンバン「いちご白書をもう1度」、シグナルの「二十歳のめぐり逢い」。
1978年
長渕剛『風は南から』。

1979年12月1日
オフコース小田和正、 清水仁、 大間ジロー、松尾一彦、城間正博、鈴木康博)「さよなら」。




by ichiro_ishikawa | 2018-11-29 18:01 | 音楽 | Comments(0)  

コラム 60s後半〜70s半ばの日本のロックシーン爆発の秘密

日本の20〜30年代のジャズ、流行歌シーンに続き、60〜70年代のロックシーンを連載中だが、ポップミュージックの世界といふのは、20代の若者たちによつて作られるといふことがはつきりしてきた。
20年代は1900年代生まれ
30年代は1910年代生まれ
そして、
60年代は1940年代生まれ
70年代は1950年代生まれ
のやうに、それぞれの時代をリードしてきたのは、20代の若者たち。彼らが新しい音楽を作り上げてきたのである。

つまり60年代後半から70年代半ばにおける日本の音楽シーンの爆発は、1940年代後半生まれ(団塊)から50年代半ば生まれのミュージシャンによつてなされた。
彼らは80年代においてはベテランとして、90年代以降においては大御所として、いまもなほ強い影響力をもつて君臨してゐる(もはや鬼籍に入つた人もゐるが)。
そのベスト5。

1位 大滝詠一(1948年生まれ)
2位 はっぴいえんど細野晴臣1947年生まれ)
3位 シュガーベイブ大貫妙子1953年生まれ)
4位 山下達郎(1953年2月生まれ)
5位 井上陽水(1948年生まれ)
6位 荒井由実(1954年1月生まれ)
7位 中島みゆき(1952年2月生まれ)
8位 RCサクセション忌野清志郎1951年生まれ)
9位 YMO(坂本龍一1952年1月生まれ、高橋幸宏1952年生まれ)
10位 サディスティック・ミカ・バンド加藤和彦1947年3月生まれ、高中正義1953年3月生まれ、林立夫1951年生まれ、小原礼1951年生まれ)
11位 吉田拓郎(1946年生まれ)

超一流はこの1946〜1954といふ9年間に生まれた人たちであつた。

年齢順にソートをかけ、最年少の荒井由実を中1として学年に置き換えてみると、

大2
吉田拓郎(1946年4月生まれ)
加藤和彦(1947年3月生まれ)
大1
細野晴臣(1947年7月生まれ)
高3
大滝詠一(1948年7月生まれ)
井上陽水(1948年8月生まれ)
中3
忌野清志郎(1951年4月生まれ)
林立夫(1951年5月生まれ)
小原礼(1951年11月生まれ)
坂本龍一(1952年1月生まれ)
中島みゆき(1952年2月生まれ)
中2
高橋幸宏(1952年6月生まれ)
山下達郎(1953年2月生まれ)
高中正義(1953年3月生まれ
中1
大貫妙子(1953年11月生まれ)
荒井由実(1954年1月生まれ)

となる。
忌野から荒井由実までを擁するこの中学校、
さらにその上に拓郎から大滝、陽水がいるつていふ、
この大学付属の中高一貫校はヤバい。

なぜこの時期に才能が集中してゐるのか。
キーは「彼らが16歳だつたとき」である。
拓郎から荒井由実まで、
1962年〜70年である。

ビートルズの活動時期とピタッと重なるのであつた。

彼らが16歳といふ最も多感なとき、
ビートルズがものすごいことになつてゐた。
ビートルズの猛威にアジアの片隅の少年少女は、直接的にしろ間接的にしろ一斉に感化され、多くの才能が音楽に寄つた。
結果、彼ら彼女らは誕生し、日本のポップシーンは作られたのであつた。

以上。






by ichiro_ishikawa | 2018-11-29 01:45 | 音楽 | Comments(0)  

連載 日本のロック史 60〜70年代 (2)内田裕也界隈


内田裕也

1939年11月17日、兵庫県西宮市出身。

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1957年

高校卒業後、日本大学法学部の夜学中退。

バンド・ボーイとして音楽生活を開始し、間もなく佐川ミツオ(現・佐川満男)と共に、バンドボーイ兼ヴォーカルとしてロカビリーバンドのブルー・キャップスを結成。

1958年

自身がバンドマスターのブルージーン・バップスを結成。

メンバーには美川鯛二(現・中村泰士)、北原謙二など。

1959年

渡辺プロダクションに所属し、同年に日劇ウエスタンカーニバルへ初出場。

1960年

かまやつひろしなどとサンダーバードへ参加するが、ジャズ志向が強いバンドであつたため脱退し、山下敬二郎とレッド・コースターズ田川譲二とダブル・ビーツなどのバンドを渡り歩く。

1962年

寺内タケシとブルージーンズにヴォーカリストとして参加。

1966年6月

ビートルズ日本公演で、尾藤イサオとのツインボーカル、バックにジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズを従へた特別編成のバンドで前座として出演(「ウェルカム・ビートルズ」など数曲を演奏)。


同年、大阪のジャズ喫茶・ナンバ一番で活動してゐたファニーズ、のちのザ・タイガースをスカウト。

1967年

春頃から3か月ほどヨーロッパに渡る。オーストリア、ドイツ、イタリア、スペイン、ロンドン、フランスを放浪し、クリーム、ジミ・ヘンドリックス、ピンク・フロイド、ジャニス・ジョプリンなどを体験。

その経験を活かし、同年11月に麻生レミをヴォーカルとしてフラワーズを結成、ジャズ喫茶でのライヴ活動を展開(レコード・デビュー前の音源として、一柳慧の「オペラ横尾忠則を唄う」〈正式な発売は1970年3月〉がある)。

1969年1月

フラワーズのデビュー・シングル「ラスト・チャンス」、同年7月にはジャケットにメンバーのヌード写真を使用したアルバム「チャレンジ!」が発売。

1970年

前年年末にフラワーズへ参加したジョー山中(ヴォーカル、元・4.9.1〈フォー・ナイン・エース〉)、石間秀樹(リードギター、元・ビーバーズ)によりサウンド面が強化され、1970年1月26日に開催されたコンサート「ロックンロール・ジャム'70」(同録音は後にレコード化される)では石間がシタールを使用するなど、意欲的な演奏であつたが、同時期にメンバーの麻生レミ小林勝彦(スチール・ギター)が渡米のため脱退。このため、メンバーを新たにピックアップして同年春にはフラワーズをフラワー・トラベリン・バンドとして再編成するが、自身はヴォーカルを降りてプロデュースを担当する。


1973年

初のソロアルバム『ロックンロール放送局(Y.U.Y.A 1815KC ROCK'N ROLL BROADCASTING STATION)』を発表。10月、悠木千帆(現・樹木希林)と結婚。12月、年越しロックイベント「フラッシュ・コンサート」を開催。

1974年8月

ワンステップフェスティバル

1975年8月

第1回ワールドロック・フェスティバルの主催、ジェフ・ベックやニューヨーク・ドールズなどの来日に尽力するなど、1970年代中盤からは国外アーティストの招聘に労力を注いだ。



フラワー・トラベリン・バンド

ジョー山中:ボーカル(元4.9.1(フォー・ナイン・エース)

石間秀樹ギター(元ビーバーズ

上月ジュン:ベース元ザ・タックスマン。現小林ジュン)

和田ジョージドラムス


1970年10月

デビュー・アルバム『Anywhere』発表。

1971年4月

当時発足したばかりのワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)のアトランティック・レーベルから、フラワー・トラヴェリン・バンドとして2枚目のアルバム『SATORI』を発売。

1972年2月

ライトハウスのキーボード奏者ポール・ホファートのプロデュースによる3枚目のアルバム『Made in Japan』発売。

1973年2月

カナダより凱旋帰国後に行はれた1972年9月16日の横須賀文化会館でのライブ音源に、スタジオ録音の新曲を加えた2枚組として4枚目のアルバム『Make Up』発売。

1973年4月

京都円山公園でのコンサートを最後に活動を休止。






by ichiro_ishikawa | 2018-11-28 19:07 | 音楽 | Comments(0)  

連載 日本のロック史 60〜70年代 (1)GS界隈

ジャッキー吉川とブルーコメッツ
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ジャッキー吉川:ドラムス

小田啓義:オルガン、キーボード、ボーカル

高橋健二:ベース、ボーカル

三原綱木:ギター、ボーカル


1957年9月

大橋道二(ベース)、ロジェ滋野(ドラムス)ら米軍キャンプ回りのバンドマンを中心にブルー・コメッツ結成。専属シンガーを付け、渋谷のジャズ喫茶を中心に活動。

1959年6月

来日したジーン・ヴィンセントの地方巡演のツアーバンドに選ばれる。

1959年9月

一旦解散するが、彼らのファンだった鹿内タカシ(ボーカル)によって再興。

1960年4月

新メンバーで再スタートした。当初は鹿内タカシをメインに中尾ミエ、伊東ゆかり、園まり、こまどり姉妹、尾藤イサオ、アイ・ジョージら、多数の歌手のバックバンドとしてコンサートやスタジオ・レコーディングをこなす。フジテレビ「ザ・ヒットパレード」出演を機に注目を集める。

1961年

小田啓義(オルガン、ピアノ)が加入するが1年で「田代久勝とウエスタンキャラバン」に移籍。 

1962年

大橋の引退により高橋健二(ベース)が加入。

1963年

ジャッキー吉川(ドラムス)がリーダーになり、高橋が脱退し江藤勲(ベース)に交代。また井上忠夫(ボーカル、フルート、サックス)が加入。

1964年

小田が復帰し、三原綱木(ギター)も加入。 

1965年

江藤が脱退し、高橋が復帰。グループ・サウンズ全盛時代を築くメンバーがほぼ揃ふ。

1965年12月31日

ザ・ピーナッツのバックで第16回NHK紅白歌合戦に出演。 

バックバンドに飽き足らなくなった井上がバンドの方向性を見直す進言をし、ザ・ヒットパレードのディレクターであった椙山浩一(のちの作曲家すぎやまこういち)に相談をもちかけ、CBSコロムビアからのデビューに至る。

本格的なデビューに先駆けてマネージャー川村龍夫の助言により「デューク・エイセス」の当時のトップ・テナー、和田昭治にコーラスの猛特訓を受ける。  1966年2月10日

「サンダー・ボール/ミスター・キス・キス・バン・バン」

1966年3月10日

「青い瞳(英語) 」

1966年6月

ザ・ドリフターズや内田裕也らとともにビートルズの日本公演に前座として出演。

1966年7月10日

「青い瞳(日本語)」

1966年9月1日

「青い渚」

1966年11月1日

 「ブルー・シャトウ」(作詞:橋本淳/作曲:井上忠夫/編曲:森岡賢一郎)



1967年

美空ひばり「真赤な太陽」でバッキングを担当。

1968年

エド・サリヴァン・ショーに出演のため渡米。欧米のポピュラーミュージックの奧深さに圧倒された井上忠夫は帰国後すぐにグループの解散を打ち出す姿勢であつたが周囲の反対により断念、自らの活動を見直すことによって「脱GS宣言」を出す。

1968年10月15日

「さよならのあとで」

1971年1月10日

「雨の賛美歌」

1971年12月25日

カバーアルバム「G.S.R.」

1972年10月

コロムビアと契約を打ち切り、井上・高橋・三原の3人が脱退し、新メンバーが加入、ビクターから再デビュー。



ザ・スパイダース

1961年、田辺昭知(現・田辺エージェンシー社長)が結成。

田辺昭知リーダー、ドラムス

加藤充ベース

かまやつひろしギター、ボーカル

大野克夫オルガン、スチール・ギター

井上孝之ギター、ボーカル

堺正章ボーカル、タンバリン、フルート

井上順ボーカル、タンバリン、パーカッション

前田富雄ドラムス

代表曲 「夕陽が泣いている」、「なんとなくなんとなく」、「あの時君は若かった」




ザ・ゴールデン・カップス


デイヴ平尾:1944年11月17日 - 2008年11月10日。リーダー、ボーカル。

エディ藩:1947年6月22日 - 。ギター、ボーカル。

ルイズルイス加部:1948年11月5日 - 。ベース(エディ藩が脱退後はギター。後年、チャーに熱望されジョニー吉長と3人でジョニー、ルイス&チャー(後にピンククラウドと改名)を結成。

ケネス伊東:1946年1月1日 - 1997年3月2日。ギター、ベース、ボーカル。

マモル・マヌー:1949年6月3日 - 。ドラムス、ボーカル。


ミッキー吉野:1951年12月13日 - 。キーボード(後にゴダイゴのリーダーとして両バンドを兼務)。

林恵文:1951年5月11日 - 。ベース、藩が脱退後に加部と交代。

アイ高野:1951年1月12日 - 2006年4月1日。ドラムス(カップス以前は「ザ・カーナビーツ」、以後は竹田和夫率いる「クリエイション」のボーカルとして、それぞれヒットあり)。

柳譲治:1948年1月30日 - 2011年10月10日。ベース、ボーカル(柳ジョージとしてソロでヒットを出し成功)。

ジョン山崎:1950年7月29日 - 。キーボード。


1965年頃

横浜ののアマチュアバンド「スフィンクス」のボーカル、デイヴ平尾と芸能プロからのスカウトを受けていた「ファナティックス」のギター、エディ藩が出会ふ。

1966年

同時期に渡米してゐた平尾と藩はサンフランシスコでのゼムのライブ会場で偶然に再会。 

1966年11月

平尾が帰国。スフィンクスがバー「ゴールデン・カップ」の専属バンドになるに際して腕利きのメンバーを集めようと考え、アメリカで再会した藩を誘い、藩はケネス伊東を誘った。当初はベースに伊東、ドラムスにジョニー野村を据える予定だったが、野村は既にプロモーターを志して国際基督教大学に進学してゐた(その後、野村はゴダイゴのマネージャーとなる)ため、平尾の渡米中にスフィンクスのヴォーカルを担当してゐたマモル・マヌーがドラムスを担当し、マモルが同じ高校の先輩であったルイズルイス加部を誘つた。 

1966年12月3日

上記5人のメンバーで「平尾時宗とグループ・アンド・アイ」として活動をスタート。

1966年12月10日

ゴールデン・カップに来店していた「ナポレオン党」(カミナリ族、現在でいう暴走族のはしり)を取材していたTBSの撮影スタッフの目にとまり『ヤング720』でテレビ初出演。

1967年6月15日

テレビ出演をきっかけとして口コミで評判が広がり、妹から話を聞いてゐた歌手の黛ジュンが、東芝音楽工業(東芝レコード、現:EMIミュージック・ジャパン)の関係者をゴールデン・カップに連れてきたことを足掛かりに、シングル「いとしのジザベル」でレコードデビュー。


デビューに際し、グループ・アンド・アイでは分かりにくいためTBS『ヤング720』の担当ディレクターである高樋洋子によって「ゴールデン・カップス」へと改名された。

ザ・スパイダースのリーダー田邊昭知も熱心にスカウトに来たが、黛ジュンとの話が先だつたため、田邊昭知のスカウトは断つた。また、彼らを混血グループといふ触れ込みで売り出しを図つたのは、当時の東芝音楽工業の意向だとされてゐる。

1967年7月21日

東京のジャズ喫茶ラ・セーヌに初出演。

1967年8月26日

第31回日劇ウエスタンカーニバルに初出場。新人賞を獲得。 

1968年3月10日

1stアルバム『ザ・ゴールデン・カップス・アルバム』発売。

1968年4月1日

3rdシングル「長い髪の少女」が発売。


1968年7月8日

ビザの関係で伊東が一時活動休止(軍属であった父親が退職を決意したため)。ミッキー吉野が加入。 1968年9月1日

4thシングル「愛する君に」発売。


1968年10月21日

伊東が復帰。

1969年4月25日

藩と伊東がエディ藩グループ結成のため脱退。林恵文がベースとして加入し、加部がギターにコンバート。 

1969年12月28日

加入前のジョン山崎とルームというバンドを結成するため加部と林が脱退。マモルも作曲家の鈴木邦彦に熱望され、ソロ歌手になるため脱退。

1970年1月1日

エディ藩グループと合併し、藩と伊東が復帰、マモルの後任には、同年9月に解散したザ・カーナビーツのドラマー兼ボーカルであり、エディ藩グループのドラムスであったアイ高野が加入(高野には、マモルが使っていたパールのドラムセットが譲られた)。 

1970年8月31日

父親がカウアイ島で経営していたサーフボード店の後を継ぐため、伊東が完全に去る。

1970年9月1日

柳譲治が加入。

1971年1月

吉野が脱退。以降、山崎加入までは4人編成で活動を継続。

1971年7月3日

山崎が加入。

1972年1月1日

ゴールデン・カップスとして最後の仕事となる沖縄のディスコティックでの演奏最終日、最後の曲となる「長い髪の少女」を演奏中、会場内で火災が発生し、柳のベース以外は機材をすべて焼失。

1972年1月2日

解散。 






ザ・タイガース


沢田研二(ジュリー)1948年6月25日 - 。ボーカル、タンバリン。

岸部修三(サリー):1947年1月9日 - 。ベース、コーラス。

加橋かつみ(トッポ):1948年2月4日 - 。リードギター、コーラス、ボーカル、1969年3月に脱退。

森本太郎(タロー):1946年11月18日 - 。リズムギター、加橋かつみ脱退後はリードギター、コーラス。

瞳みのる(ピー):1946年9月22日 - 。ドラムス。

岸部シロー(シロー):1949年6月7日 - 。リズムギター、タンバリン、コーラス。1969年3月に脱退した加橋かつみに代わって参加。岸部修三の実弟。


1965年6月

1月に大阪で開かれたベンチャーズのコンサートに4人で出かけたことがきっかけで、瞳みのる、岸部修三(岸部一徳)、森本太郎、加橋かつみの(沢田を除く)4人が、京都市で「サリーとプレイボーイズ」を結成。

4人は、四条河原町のダンスホール「田園」に出演してゐた「サンダース」でボーヤ兼ボーカルだった沢田研二を勧誘。

1966年元日

沢田は正式に「サリーとプレイボーイズ」のメンバーとなり、あはせてバンド名を(バンド「リンド&リンダース」の命名で)「ファニーズ」に改称し、歌主体のいはゆるボーカル・インストゥルメンタル・グループとなる。リーダーは瞳に固定された。

大阪・難波のジャズ喫茶「ナンバ一番」の専属オーディションを受け、2月から週2日のステージを行う契約を結ぶ。

1966年5月

京都会館で開かれた「全関西エレキバンド・コンテスト」にローリング・ストーンズの「サティスファクション」で参加し、優勝。

1966年6月

「ナンバ一番」の人気投票で1位。  こうした人気に、東京に移る勧誘も複数持ちかけられた。  東邦企画の上条英男によるもの(他のバンドに、岸部・森本・沢田の3人を加入させる話。沢田が即座に拒絶)、ザ・スパイダースによるもの(マネージャーが「ナンバ一番」に来店した際に「リーダーの田辺も話したいと言つてゐる」と名刺を沢田に渡した)があったが、いづれも実現には至らず。

ブルージーンズの内田裕也が「ナンバ一番」のステージを観覧し、ファニーズに「東京に来る気があるか」と声をかけたが、その後3ヶ月ほど話は進展しなかった(この間、森本を除くメンバーはビートルズ日本公演の初日を観覧)。そこで、リーダーの瞳が単身で上京して内田に面会し、メンバーを東京に呼ぶ約束を取り付ける。

1966年9月

内田らブルージーンズが所属していた渡辺プロダクションのオーディションを受けることに。

1966年10月

「ナンバ一番」で開催されたオーディションを経て、ファニーズはナベプロと正式に契約を結ぶ。その後、「ナンバ一番」でさよなら公演、ファンクラブによる「お別れ会」をもって、関西での活動を終える。  

上京、「ザ・タイガース」としてテレビ出演編集 

1966年11月9日

東海道新幹線で上京。3日後、ポリドール・レコード(当時は日本グラモフォン、現在はユニバーサルミュージックに併合)のオーディションに合格し、レコード会社が決まる。メンバーは世田谷区烏山町に用意された住宅に入居し、渡辺プロマネージャーの中井國二を加えた6人で合宿生活を始めた。

1966年11月15日

初出演のテレビ番組『ザ・ヒットパレード』(フジテレビ系)収録当日、渡辺プロの制作部長から依頼を受けた番組ディレクターのすぎやまこういちが「大阪から来たわけ?じゃ、タイガースだ」と、ザ・タイガースというバンド名が与えられた。また、渡辺プロからの指示により、バンドのリーダーも瞳から岸部に変更された。

渡辺プロではなく内田裕也がすぎやまに売り込んだ初のテレビ出演では、当時アメリカ本国において、モンキーズに次ぐアイドル人気となっていたパンク・ロックバンドであるポールリビアとレイダース(英語版)の「KICKS(英語版)」を演奏。出演時間30秒。1967年2月5日

シングル「僕のマリー」(録音時点でのタイトルは「マリーの想い出」)でデビュー。


一方、内田と組んだ「内田裕也とタイガース」として前年12月からジャズ喫茶新宿ACBに出演し、ファニーズ時代と同じテイストの楽曲を演奏。

1967年1月15日

第31回日劇ウェスタンカーニバルで、内田と尾藤イサオのバックを引き受ける条件で、内田の用意した衣装を着て1曲だけ演奏する。内田の命で新宿ACB出演の際に、メンバーのニックネームと芸名が決められた。岸部は(リトル・リチャードのシングル「のっぽのサリー」に由来する「サリー」)、瞳は(キューピーに由来する「ピー」)、森本は(本名に由来する「タロー」)とされた。一方、沢田は、女優ジュリー・アンドリュースに由来する「ジュリー」と自ら名付け、加橋は、トッポ・ジージョに似ていることから新宿ACB支配人の命名で「トッポ」と名付けられた。また、芸名については、岸部は読みを変え(「しゅうぞう」から「おさみ」)、瞳と森本は表記を変えた。沢田は内田による芸名「沢の井謙」を拒否し本名の澤田を沢田と表記し、加橋は本名「高橋(たかはし)」の一文字を抜く形となった。  

1967年3月頃

人気が爆発。

1967年5月

セカンド・シングル「シーサイド・バウンド」。


テレビは渡辺プロ、ジャズ喫茶は内田とマネジメントが分かれていたが、ジャズ喫茶においても「ザ・タイガース」として扱はれ、内田はプロデュースに近い立場となつた。後に、内田は渡辺プロと対立、第32回の日劇ウェスタンカーニバル前日の5月4日に内田は「キャンティ」経営者の川添夫妻の援助で渡仏した。結果として、渡辺プロは自らの路線に合はない内田をザ・タイガースから切り離した形となつた。

1967年後半

活動の中心はジャズ喫茶からコンサートに変はり、テレビなどの芸能活動も増加。

1968年1月

4枚目シングル「君だけに愛を」。


1968年3月

5枚目シングル「銀河のロマンス/花の首飾り」(「花の首飾り」は加橋の初のメインボーカル曲)発売。

1968年3月10日

「花の首飾り」の新曲発表会を日本武道館で開催。

武道館コンサートをする初の日本人音楽バンドに。

となる。

1968年4月

初の主演映画『ザ・タイガース 世界はボクらを待っている』公開された。 

1968年7月

6枚目シングル「シー・シー・シー」。

1968年8月12日

日本初のスタジアム・ライブとなる「ザ・タイガース・ショー〜真夏の夜の祭典」を後楽園球場で開催。1968年11月25日

トータル・コンセプト・アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』を発売。

1969年

加橋脱退。代はりに岸部の弟で、以前からグループをサポートしていた岸部シローが加入し、第二期がスタート。

マスコミは当初、加橋を「失踪」と報道するが、すぐに渡辺プロ主導の芝居だとばれてしまい、渡辺プロは謝罪会見を開く。加橋が抜けてザ・タイガースの人気が下降するのを恐れての芝居だったが、今度は、加橋の一番の理解者でもあった瞳が、渡辺プロに不信感を抱くようになる。  さらに、

1969年夏

グループ・サウンズのブームが急速に沈滞化し、終焉の兆しを見せ始める。音楽シーンが多様化する中で、同年秋からはグループとしての活動よりもメンバー個々の活動が中心となった。瞳が脱退の意向を示したことも背景にある。

1970年4月26日

日本万国博覧会のEXPOホール・水上ステージにて「ザ・タイガース・ショー」で参加。

たのが目立つくらいだ。  メディアによる解散報道が相次ぐ中、ザ・タイガースは

1970年12月7日

解散を表明。

1971年1月24日

日本武道館にて事実上の解散コンサート「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」。

大幅に編集された実況録音盤(ライブアルバム)『ザ・タイガース・フィナーレ』として同年に発売。

コンサートの夜、内田主催で食事会が行はれ、5人のメンバー、そして会場の客席にゐた加橋も参加。宴の終わった後、瞳はトラックに家財道具を積み込み実家のある京都へ戻る。


by ichiro_ishikawa | 2018-11-28 00:12 | 音楽 | Comments(0)  

これつてすごくないですか?について


秋元康が2014、15年頃に「歌謡曲オールタイムベスト」的なテレビ番組(?)を久米宏と近田晴夫とやつてゐたのをYoutubeで最近知つて、大変面白く見た。


しかしその中で、本編とは関係ないところだが、ひとつものすごく気になつたことがあるので、今回は、それを憂ひてみようと思ふ。


番組内で秋元氏は、

「これつてすごくないですか?」

を連発していた。


この「すごくないですか?」の疑問形。

「すごくないですか?」と「質問される」のがかなはない。 同じ意味のことを言ふならば、問はず、

「これってすごいと思うんですよ」

と自己完結してほしいのであつた。

さうすれば、「さうですか」と相づちで済む。質問されると答えねばならぬ。


それがすごいかどうかは必ずしも即答できるものではない。様々な条件や状況を鑑みた上ですごいか否かは判断されねばならぬ。

しかし、この「すごくないですか?」は、持論を主張すると「同時に」、その主張を無理やり相手に肯定させる、マウンティング論法である。

これをやられると、どうしても「うん…す、すごい」と即答せざるを得ない。巻き込まれる。

仮にすごくないなら「いや、さうは思はぬ」と簡単に言へるのだが、 これをやられる多くのケースでは、

実際まあすごくなくはないが「すごい」といふ強い言葉が果たしてジャストかどうかは決めかねる、

といふ場合が多い。

かういふときに、さうした気持ちを丁寧に述べようと思ふと、


「え? それは、すごくないかどうか私に聞いてるのかね? いや、ちょつと待ちたまへ。貴様がこれをすごいと思ふ理由はわかつた。それを否定するつもりはない。思ふのは自由だからだ。但しその根拠はどうか。たぶんに自前の趣味に寄せてゐるだけといふところはないだらうか、私は訝るのである。なるほど確かに、すごくないとは思はないが、これが「すごい」といふ相当強い形容詞を冠せられるのに本当に相応しいかは即答しかねるのである。その貴様がすごいと言ふ根拠をもう少し吟味させてくれたまへ。一回寝かせてみる。そして改めてすごいかどうかを検証し、明日にでもまた連絡する」  


とならざるを得ない。 


テレビの構成作家の出である秋元氏は「尺」のプロ、「アングル」「編集」、話を分かりやすくスムーズに運ばせるプロであり、対話者に上述のやうに駄弁を労させることはタブーとする。一人語りにならず対話形式で、しかしながら議論は周到に避けながら、かつ「そうだねそうだねいいねいね」と盛り上がつてゐる空気を醸成するため、「すごくないですか?」といふ形式疑問文はおそらくは意図的に連打されてゐたのであつた。


以上、憂ひまで。




by ichiro_ishikawa | 2018-11-27 21:41 | 日々の泡 | Comments(0)  

連載 日本のロック史 60〜70年代 (0)前史:ジャズバンドのリーダーは芸能プロダクションへ


大正〜昭和の初めにかけて、民謡、流行歌がジャズの洗礼を受け西洋のエキスを注入し始めた日本のポップス界。

戦争による中断を経て、戦後のジャズバンドのリーダーたちは次々と芸能プロモータへと転身。テレビ放送を巧みに利用した彼らの活躍が歌謡界の黄金時代を作り上げていく。一方、1956年のエルヴィス・プレスリー、1964年のビートルズ革命によつて一気にロック化した欧米のポップシーンの波を受け、日本でも戦中・戦後生まれの若者たちによつて、60年代以降、新しい音楽を追求する多くのミュージシャン、バンドが現れる。

この時期には様々な形態による音楽が次々と登場するが、要は国内外のどの先達に影響を受けたかによつてその音楽性が決まつていくことがみてとれる。

本連載では便宜的にその音楽的傾向によるジャンル分けを施し、下記のやうなジャンルごとに整理していく。


1 GSからの流れ

2 内田裕也界隈

3 フォーク、ニューミュージック

4 はっぴいえんど界隈

5 シュガーベイブ

6 早川義夫、鈴木慶一

7 矢沢永吉界隈

8 ニューロック

9 ニューウェーブ、テクノ

10  九州のシーン


しかしその前に、さらに前史として、前述した、芸能プロモータへと転身した代表的な戦後のジャズバンドのリーダーをまづは見ておかむ。 本編で紹介するロックシーンは、当時はアンダーグラウンドな動きであり、あくまで表舞台では流行歌の流れから演歌、歌謡曲がシーンを席巻してゐたことを踏まへておきたい。


渡辺 晋

(わたなべ しん、1927年3月2日 - 1987年1月31日)

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渡辺晋とシックス・ジョーズ  渡辺晋(b) 松本英彦(ts) 安藤八郎(vib) 中村八大(p) 宮川協三(g) 南 広 (ds)

渡辺家は福岡市の出で、渡辺通一帯の大地主。

父親は日本銀行勤務。

1944年、早稲田大学専門部法律科に入学。

1951年、松本英彦(テナーサックス)、中村八大(ピアノ)、南広(ドラム)らと『渡辺晋とシックス・ジョーズ』を結成。

1955年4月、妻・美佐、松下治夫とともに渡辺プロダクションを設立。 タレントを抱えた自分のプロダクションの手で興行を行い、利益と権利を確保。またレコード会社の専属抱えだった歌手・作詞家・作曲家を渡辺プロの傘下に集結させ、芸能界初の月給制を導入。

さらにこれまでレコード会社で行われていた原盤制作を系列の渡辺音楽出版の手で作らせ、プロダクションに莫大な利益をもたらすようにした。こうして巨大化した渡辺プロはナベプロ帝国と呼ばれ、渡辺夫妻は芸能界のドンとして君臨するようになった。



堀 威夫

(ほり たけお、1932年10月15日 - )

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小坂一也とワゴン・マスターズ: 左から藤本精一、堀威夫、原田実、小坂一也、小山栄、鳥尾敬孝

浅野学園時代からサークルでバンド活動に勤しみ、1948年(昭和23年)バンド、ワイキキ・ハワイアンズを結成。

明治大学商学部時代の1952年(昭和27年)、小坂一也、井原高忠等とともに学生バンドのワゴン・マスターズにスカウトされ、ギタリストとして活躍。

卒業後、文化放送でのアルバイトを経て1957年(昭和32年)スウィング・ウエストを結成しリーダーとなる。

1960年(昭和35年)退団後東洋企画を設立し専務に就任するも内紛で追放され、同年に有限会社堀プロダクションを設立、代表取締役に就任する傍ら営業・制作マネジャーをも兼任する。

1963年(昭和38年)株式会社ホリプロダクションに社名変更し株式会社化、代表取締役社長に就任。



田邊 昭知

(たなべ しょうち、1938年11月15日 - )

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高千穂商科大学付属高等学校卒業。

10代の頃から米軍キャンプ廻りによりドラムを始め、オールスターワゴン、スウィング・ウエストにて活躍。

1961年に「田辺昭知とザ・スパイダース」を結成。

1966年には日本ビクターレコード事業部内のフィリップスレーベル(現:ユニバーサルミュージック)及び新興楽譜出版社と契約と同時に、グループ名を「ザ・スパイダース」に正式変更する。

同年ホリプロダクションから独立し、スパイダクションを設立。メンバーのプレイングマネージャーとしても先見の明を大いに発揮し、現在の田辺エージェンシーの基盤を創ることになる。

1970年にマネージメントに専念するため、シングルをリリースして第一線から引退。

1973年にスパイダクションの規模を拡大し、田辺エージェンシーに改称。

その後はタモリらを見い出し、芸能界のスターに育てている。

1991年には同事務所に所属していた小林麻美(小林は芸能界から引退)と結婚。


by ichiro_ishikawa | 2018-11-27 09:23 | 音楽 | Comments(0)  

Buffalo Springfield Last Time Around


Buffalo Springfield

Last Time Around


Released July 30, 1968 

Recorded February 1967 - April 1968

Length 32:54 

Label Atco 

Producer Jim Messina




Side One

On the Way Home

(Young) – 2:25 

Recorded November 15-December 13, 1967, Sunset Sound, Los Angeles, California. 

vocals: Richie Furay, Neil Young

background vocals: Stephen Stills

background vocals: Neil Young

guitar: Richie Furay

guitar: Stephen Stills

bass: Bruce Palmer

drums: Dewey Martin

piano: Neil Young

vibes: Stephen Stills

horns: unidentified


It's So Hard to Wait 

(Furay, Young) – 2:03 

Recorded March 9, 1968, Sunset Sound, Los Angeles, California. 

Lead vocals: Richie Furay

guitar: Richie Furay

guitar: Stephen Stills

drums: Dewey Martin

saxophone, clarinet: unidentified


Pretty Girl Why

(Stills) – 2:24 

Recorded February 26 & May 1967, Sound Recorders, Hollywood and Atlantic Studios, New York City. 

Lead vocals: Stephen Stills

vocal: Richie Furay

guitar: Richie Furay

guitar: Stephen Stills

guitar: Neil Young

bass: Jim Fielder.

drums: Dewey Martin


Four Days Gone

(Stills) – 2:53 

Recorded late 1967-early 1968. 

Lead vocals and piano: Stephen Stills

lead guitar solo: Neil Young  

guitar: Stephen Stills

B3 organ: Stephen Stills

drums: unidentified


Carefree Country Day

 (Messina) – 2:35 

Recorded late 1967-early 1968. 

Lead vocals, bass: Jim Messina

vocal: Richie Furay

background vocals: Stephen Stills

appears in some capacity : Neil Young


Special Care

 (Stills) – 3:30 

Recorded January 3–20, 1968. Sunset Sound, Hollywood. 

Lead vocals, pianos, B3, guitars, bass: Stephen Stills

drums: Buddy Miles.




Side two 

The Hour of Not Quite Rain

(Callen, Furay) – 3:45 

Recorded late 1967-February 1968. 

Lead vocals: Richie Furay.

bass, drums, harpsichord, orchestra: unidentified


Questions

(Stills) – 2:52 

Recorded February 16, 1968, Sunset Sound, Los Angeles, California. 

Vocals, guitars, bass guitar, Hohner clavinet: Stephen Stills

background vocals: Stephen Stills

guitar: Richie Furay

piano: Stephen Stills

B3 organ: Stephen Stills

drums: Jimmy Karstein


I Am a Child 

(Young) – 2:15 

Recorded February 5, 1968, Sunset Sound, Los Angeles, California. 

Lead vocals: Neil Young

guitar: Neil Young

harmonica: Neil Young

bass: Gary Marker

drums: Dewey Martin


Merry-Go-Round

 (Furay) – 2:02 

Recorded February 16-March 1968, Sunset Sound, Los Angeles, California. 

Lead vocals: Richie Furay

background vocals: Stephen Stills

guitar: Richie Furay

guitar: Stephen Stills

guitar: Neil Young

bass, drums: Jimmy Karstein

Harpsichord, calliope, bells: Jeremy Stuart


Uno Mundo

 (Stills) – 2:00 

Recorded February–March 1968, Sunset Sound, Los Angeles, California. 

Lead vocals: Stephen Stills.

guitar: Richie Furay

guitar: Stephen Stills

B3 organ: Stephen Stills

percussion: Stephen Stills

Handclaps: Stephen Stills

drums: Dewey Martin


Kind Woman

(Furay) – 4:10 

Recorded February–March 6, 1968, Atlantic Studios, New York City & Sunset Sound, Los Angeles, California. 

Lead vocals: Richie Furay

pedal steel guitar: Rusty Young

guitar: Richie Furay

bass: Richard Davis.(not Dickie Davis) 

bass, vocals: Jim Messina

piano, drums: unidentified



by ichiro_ishikawa | 2018-11-25 02:08 | 音楽 | Comments(0)