ポツダム宣言の受諾と占領統治
1945年(昭和20年)7月
米英ソ三国首脳(アメリカのトルーマン大統領・イギリスのチャーチル首相・ソ連のスターリン共産党書記長)は、第二次世界大戦の戦後処理について協議するため、ドイツのベルリン郊外・ポツダムで会談を行った(ポツダム会談)。
この席で三者は、「日本に降伏の機会を与える」ための降伏条件を定め、中華民国の蒋介石・国民政府主席の同意を得て、7月26日、米英中の三国首脳の名でこれを発表した(「ポツダム宣言」)。
この「ポツダム宣言」のうち、特に憲法に関する点は次の点である。
●軍国主義を排除すること。
六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス
七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ
●民主主義の復活強化へむけて一切の障害を除去すること。 言論、宗教及び思想の自由ならびに基本的人権の尊重を確立すること。
十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ
日本政府は、先ずこれを「黙殺」すると発表し、態度を留保した。
アメリカ軍は翌8月6日に広島、同9日に長崎に原爆を投下、ソ連軍は8月8日に対日参戦。
ここに至って日本政府は戦争終結を決意、
8月10日
連合国にポツダム宣言を受諾すると伝達。
日本政府はこの際、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾」するとの条件を付した(8月10日付「三国宣言受諾ニ関スル件」)。
これは、受諾はするものの、天皇を中心とする政治体制は維持する、いわゆる国体護持を条件とすることを意味した。
連合国は、この申し入れに対して、翌8月11日に回答を伝えた。この回答は、アメリカの国務長官であったジェームズ・F・バーンズの名を取って「バーンズ回答」と呼ばれる。この「バーンズ回答」で連合国は、次の2点を明示した。
1.降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のためその必要と認める措置を執る「連合国軍最高司令官」 (SCAP) に従属する (subject to)。
From the moment of surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.
2.日本の最終的な統治形態は、ポツダム宣言に遵い日本国国民の自由に表明する意思に依り決定される。
The ultimate form of Government of Japan shall in accordance with the Potsdam Declaration be established by the freely expressed will of the Japanese people.
日本政府はこの回答を受け取り、御前会議により協議を続けた結果、
8月14日
ポツダム宣言の受諾を決定、連合国に通告。
ポツダム宣言の受諾は、日本国民に対しては、
8月15日正午
ラジオを通じて昭和天皇が「大東亜戦争終結ノ詔書」を読み上げる「玉音放送」で知らせた。この詔書の中では、「国体ヲ護持シ得」たとしている。
8月28日
連合国軍先遣部隊が厚木飛行場に到着。
8月30日
連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木に到着。
マッカーサーは、直ちに総司令部 (GHQ) を設置し、日本に対する占領統治を開始した。この占領統治は、原則として、日本の既存統治機構を通じて間接的に統治する方式を採り、例外的に特に必要な場合にのみ、直接統治を行うものとした。
9月2日
日本の政府全権が、横浜港のアメリカ戦艦・ミズーリ号上で、降伏文書に署名。
降伏により、日本は独立国としての主権を事実上失い、その統治権は連合国軍最高司令官の制約の下に置かれた。連合国軍最高司令官は、「ポツダム宣言」を実施するために必要な措置を執ることができるものとされた。
午前9時
まずマッカーサーが砲塔前で演説。
日本側からは、天皇および大日本帝国政府を代表して重光葵外務大臣が、また大本営を代表して梅津美治郎参謀総長が署名。
連合国側からは、まず連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが4連合国(米、英、ソ、中)を代表するとともに日本と戦争状態にある他の連合国のために署名。
その後、アメリカ合衆国代表チェスター・ニミッツ、中華民国代表徐永昌、イギリス代表ブルース・フレーザー、ソビエト連邦代表クズマ・デレヴャーンコ 、オーストラリア代表トーマス・ブレイミー 、カナダ代表ムーア・ゴスグローブ、フランス代表フィリップ・ルクレール、オランダ代表コンラート・ヘルフリッヒ、ニュージーランド代表レナード・イシットが署名。
日本政府および日本国民の
憲法改正動向
9月6日
「連合国最高司令官の権限に対する伝令書」(権限をポツダム宣言ではなく無条件降伏の上におくとした)が大統領名でマッカーサーのもとに送られる。
9月13日
近衛文麿、マッカーサーを訪問。
9月17日
重光葵外相辞任、後任に吉田茂任命。
GHQ、横浜から東京に移転。
9月22日
米国務省、「初期対日方針」(三省調整委員会「初期対日政策」と統合参謀本部「基本司令」)発表。※憲法改正はナシ
9月25日
『ニューヨーク・タイムズ』紙との会見。
予め用意された質問書への「回答正文」に「東條非難」、一面トップに掲載。※下記詳述
9月27日
天皇、マッカーサーを極秘訪問(両者会見に強い反対をしていた重光更迭で実現)。
「全責任」発言(1964『マッカーサー回顧録』)
↓
●2002年8月5日「朝日新聞」
当会通訳奥村勝蔵の後任通訳松井明が残した未完公文書コピーの存在が判明。松井は、奥村から削除した箇所があると伝えられていた。それは「全責任」ではないか。
●2002年10月上旬
豊下楢彦による「松井文書」の詳細な検討と分析→ 削除部は「全責任」でなく、「東條非難」ではないか。
●2002年10月、外務省公開文書「「マッカーサー元帥」との御会見録」奥村勝蔵通訳記録
「全責任」発言はなく、「遺憾」との発言のみが記録。
●2006年7月、情報公開請求
会見直前に新たに正文に東條の名が書き込まれていたことが判明。
↓
「東條非難」は確実。
なら「全責任」は矛盾。「遺憾」とあることから、
ただの「責任」発言はあり、奥村が削除したのはその「責任」ではないか。
「責任」発言にマッカーサーはゲタをはかせ「全責任」とした。東京裁判では表沙汰にせず裏で流通させ、検察側の証人に軍部の責任とさせた。
のちの9条においても、幣原喜重郎は「ただの」戦争放棄(相互)を述べたことにマッカーサーは同じくゲタをはかせ「特別な」戦争放棄(戦力不保持、交戦権の否認)とした。
「(加藤典洋『憲法9条』2019)
10月4日
マッカーサーは、東久邇宮内閣の国務大臣であった近衛文麿に、憲法改正を示唆。
総司令部は、治安維持法の廃止、政治犯の即時釈放、天皇制批判の自由化、思想警察の全廃など、いわゆる「自由の指令」の実施を日本政府に命じた。
10月5日
東久邇宮内閣は、この指令を実行できないとして総辞職。
10月9日
幣原喜重郎内閣が成立。
10月11日
幣原首相が新任の挨拶のためマッカーサーを訪ねた際にも、マッカーサーから口頭で「憲法ノ自由主義化」の必要を指摘された。
内大臣府:近衛文麿の動き
先にマッカーサーから憲法改正の示唆を受けた近衛(東久邇宮内閣の総辞職後は内大臣府御用掛)は、政治学者の高木八尺、憲法学者の佐々木惣一(10月13日内大臣府御用掛に任命)、ジャーナリストの松本重治らとともに、憲法改正の調査を開始。
10月8日
近衛は高木らとともに総司令部政治顧問のジョージ・アチソンと会談して助言を請い、「個人的で非公式なコメント」として12項目に及ぶ憲法の問題点の指摘や改正の指示を受けた。
11月1日
総司令部は「近衛は憲法改正のために選任されたのではない」として、マッカーサーが近衛に伝えた憲法改正作業の指示は、近衛個人に対してではなく、日本政府に対して行ったものであるとの声明を発表。これにより、近衛らの調査活動は頓挫した。
それでも近衛らは作業をつづける。
11月22日
近衛案(「帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要綱」)を天皇に奉答。
11月24日
佐々木案(「帝国憲法改正ノ必要」)を天皇に奉答(なお、総司令部の指示により、11月24日に内大臣府は廃止された)。
12月16日
近衛文麿、服毒自殺。
内閣:憲法問題調査委員会(松本委員会)の動き
10月25日
近衛らの作業と並行して、幣原内閣は、松本烝治・国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置して、憲法改正の調査研究を開始。
憲法問題調査委員会(松本委員会)のメンバー
委員長:松本烝治(国務大臣)
顧問:清水澄(学士院会員)、美濃部達吉(学士院会員)、野村淳治(東大名誉教授)
委員:宮澤俊義(東大教授)、清宮四郎(東北大教授)、河村又介(九大教授)、石黑武重(枢密院書記官長→法制局長官)、楢橋渡(法制局長官→内閣書記官長)、入江俊郎(法制局第一部長)、佐藤達夫(法制局第二部長) 後に、小林次郎(貴族院書記官長)、大池眞(衆議院書記官)、奥野健一(司法省民事局長)、中村健城(大蔵省主計局長、後に後任の野田卯一へ交替)、諸橋襄(枢密院書記官長、石黑の後任)らが加わった。
補助員:刑部莊(東大助教授)、佐藤功(東大講師)、窪谷直光(大蔵書記官)
嘱託古井喜実(元内務次官)
こうして、内閣と内大臣府の双方で、それぞれ憲法改正の調査活動が進められることに。このうち、近衛らの調査に対しては、近衛自身の戦争責任や、閣外であり憲法外の機関である内大臣府で憲法改正作業を行うことに対する憲法上の疑義などが問題視されて、批判が高まった。
かかる経緯をたどって、憲法改正作業は、内閣の下に設置された松本委員会に一本化されることに。
松本委員会は、
10月27日
第1回総会(以後、1946年2月2日まで7回開催)
10月30日
第1回調査会(小委員会)(以後、1946年1月26日まで15回開催)
12月8日
衆議院予算委員会で、松本委員長「憲法改正四原則」を示す。
「憲法改正四原則」の概要は次の通り。
1.天皇が統治権を総攬するという大日本帝国憲法の基本原則は変更しないこと。
天皇ガ統治権ヲ総攬セラルルト云フ大原則ハ、是ハ何等変更スル必要モナイシ、又変更スル考ヘモナイト云フコト
2.議会の権限を拡大し、その反射として天皇大権に関わる事項をある程度制限すること。
議会ノ協賛トカ、或ハ承諾ト云フヤウナ、議会ノ決議ヲ必要トスル事項ハ、之ヲ拡充スルコトガ必要デアラウ、即チ言葉ヲ換ヘテ申セバ、従来ノ所謂大権事項ナルモノハ、其ノ結果トシテ或ル程度ニ於テ制限セラルルコトガ至当
3.国務大臣の責任を国政全般に及ぼし、国務大臣は議会に対して責任を負うこと。
国務大臣ノ責任ガ国政全般ニ亙リマシテ、而シテ国務大臣ハ帝国議会ニ対シ、即チ言葉ヲ換ヘテ申セバ、間接ニハ国民ニ対シテ責任ヲ負フト云フコト
4.人民の自由および権利の保護を拡大し、十分な救済の方法を講じること。
民権ト申シマスカ、人民ノ自由、権利ト云フヤウナモノニ対スル保護、確保ヲ強化スルコトガ必要デアラウ
1946年(昭和21年)1月9日
第10回調査会(小委員会)に、松本委員長は「憲法改正私案」を提出。この「私案」は「憲法改正四原則」をその内容としており、委員会の立案の基礎とされた。
委員会は、この「憲法改正四原則」に基づいて憲法を逐条的に検討。
宮沢委員が「私案」を要綱化して松本がこれに手を加え、「憲法改正要綱」とした。
1月26日
第15回調査会では、この「憲法改正要綱」(甲案)と「憲法改正案」(乙案)を議論した。
内閣は1月30日から2月4日にかけて連日臨時閣議を開催して、「私案」「甲案」「乙案」を審議。
他方、近衛や松本委員会による憲法改正の調査活動が進むにつれ、国民の間にも憲法問題への関心が高まった。近衛や松本委員会の動き、各界各層の人々の憲法に関する意見なども広く報道され、政党や知識人のグループなどを中心に、多種多様な民間憲法改正案が発表された。しかし、その多くは大日本帝国憲法に若干手を加えたものであって、大改正に及ぶものは少数であった。
政党その他の団体による憲法改正試案
表題/作成団体(構成員等)/概要・特徴/発表日
憲法草案要綱[49]
憲法研究会 (高野岩三郎、鈴木安藏、室伏高信、杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄ら)。
1945年の10月から12月にかけて活動。
象徴的な天皇制を残しつつ国民主権の原則と直接民主制的諸制度を採用。
12月26日、首相官邸に提出。
12月26日、発表。
GHQは直ちにこれを英訳し、翌月の1月2日には、その内容に注目するとの書簡を作成した。
米国では国民主権が軽視されていたため、この「要綱」に基づき国民主権がGHQ案に盛り込まれたとされる。一方で、象徴天皇制という案は、これ以前に存在した。
しかし、「要綱」とは別に、より早い時期に憲法研究会のメンバーがGHQの要人に接触しているため、憲法研究会が象徴天皇制を発案し、GHQ要人を介してGHQ案に反映させたのだと、小西豊治は主張している。
日本共和国憲法私案要綱(改正憲法私案要綱)
高野岩三郎
憲法研究会の主軸であったにもかかわらず天皇制を残したことに関して不満を表明し、単独で高野が構想した。大統領を元首とする共和制を提示。
同年12月28日
自由黨 憲法改正要綱
日本自由党 (鳩山一郎総裁)
同党憲法改正特別調査会の浅井清(慶大教授)と金森徳次郎が中心となって作成。
1946年(昭和21年)1月21日
進歩黨 憲法改正要綱
日本進歩党 (町田忠治総裁)
天皇大権の一部を削除・廃止するが、天皇は「臣民の輔翼に依り憲法の条規に従ひ統治権を行ふ」。
同年2月14日
社会黨 憲法改正要綱
日本社会党 (片山哲書記長)
高野岩三郎、森戸辰男らが起草委員となる。「主権は国家(天皇を含む国民協同体)に在り」。統治権は分割し、主要部を議会に、一部を天皇に帰属(天皇大権大幅制限)。生存権の保障、死刑の廃止等。
同年2月14日
日本國憲法草案
憲法懇話会 (尾崎行雄、岩波茂雄、渡辺幾治郎、石田秀人、稻田正次、海野晋吉)
立法権を天皇と議会に認め、地方議会議員、職能代表、学識経験者からなる参議院を設置する。司法裁判所に違憲審査権を付与する。
同年3月5日
日本人民共和國憲法(草案)
日本共産党 (德田球一書記長)
天皇制を廃止して人民主権の原則を採用。自由権・生活権等について、社会主義の原則に基づいて保障。
同年6月29日 (骨子は前年11月11日発表)
なお、内閣情報局世論調査課が共同通信社調査部に委嘱して行った「憲法改正に関する輿論調査報告」(1945年(昭和20年)12月19日付、報告総数287件)では、全体の75%(216件)が「憲法改正を要する」としている[53]。
マッカーサー草案
12月27日
モスクワで、極東委員会の権限拡大合意。
1月7日
アメリカ本国からGHQに「日本の統治機構の改革」が届けられる。
総司令部は、当初、憲法改正については過度の干渉をしない方針であった。しかし総司令部は、1946年(昭和21年)の年明け頃から、民間の憲法改正草案、特に憲法研究会の「憲法草案要綱」に注目しながら、憲法に関する動きを活発化させた。
それでも、同年1月中は、日本政府による憲法改正案の提出を待つ姿勢をとり続けた。
1月26日
幣原喜重郎、用立ててもらったペニシリンの礼にマッカーサーを訪問。「特別の戦争放棄」を示唆、マッカーサーを感激させる(『マッカーサー回顧録』)※上述
マッカーサーの憲法改正権限(ホイットニー・メモ)
この1月時点で、マッカーサーが日本の憲法改正について、いかなる権限を持つのかという法的根拠、法的論点が総司令部内で問題となっていた。
2月1日
この点につき、総司令部の民政局長であったコートニー・ホイットニーは「現在閣下は、日本の憲法構造に対して閣下が適当と考える変革を実現するためにいかなる措置をもとりうるという、無制限の権限を有しておられる」と結論づけるリポートを提出。
ただしこのレポートでは、2月26日に迫った極東委員会の発足後は、マッカーサーの権限が無制限でなくなることも併せて指摘している。
毎日新聞によるスクープ報道の波紋
2月1日
毎日新聞が「松本委員会案」なるスクープ記事を掲載。この記事に載った「松本委員会案」とは、宮沢委員が提出した「宮澤甲案」であった。
この「宮澤甲案」の内容は、松本委員会に提出された草案の中では比較的リベラルなもので、内閣の審議に供された「乙案」に近かった。
政府は直ちに、このスクープ記事の「松本委員会案」は実際の松本委員会案とは全く無関係であるとの談話を発表した。
しかし、この記事を分析したホイットニー民政局長は、それが真の松本委員長私案であると判断し、また、この案について「極めて保守的な性格のもの」と批判し、世論の支持を得ていないとも分析した。
総司令部による意思決定
そこで総司令部は、このまま日本政府に任せておいては、極東委員会の国際世論(特にソ連、オーストラリア)から天皇制の廃止を要求されるおそれがあると判断し、自ら草案を作成することを決定した。
(本国には相談をもちかけない独断)
その際、日本政府が総司令部の「受け容れ難い案」を提出された後に、その作り直しを「強制する」より、その提出を受ける前に総司令部から「指針を与える」方が、戦略的に優れているとも分析した。
2月3日
マッカーサーは、総司令部が憲法草案を起草するに際して守るべき三原則を、憲法草案起草の責任者とされたホイットニー民政局長に示した(「マッカーサー・ノート」)。
三原則の内容は以下の通り。
1.天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。
Emperor is at the head of the state. His succession is dynastic. His duties and powers will be exercised in accordance with the Constitution and responsive to the basic will of the people as provided therein.
2.国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
War as a sovereign right of the nation is abolished. Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security. It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection. No Japanese Army, Navy, or Air Force will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon any Japanese force.
3.日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。予算の型は、イギリスの制度に倣うこと。
The feudal system of Japan will cease. No rights of peerage except those of the Imperial family will extend beyond the lives of those now existent. No patent of nobility will from this time forth embody within itself any National or Civic power of government.Pattern budget after British system.
この三原則を受けて、総司令部民政局には、憲法草案作成のため、立法権、行政権などの分野ごとに、条文の起草を担当する八つの委員会と全体の監督と調整を担当する運営委員会が設置された。
2月4日
会議で、ホイットニーは、全ての仕事に優先して極秘裏に起草作業を進めるよう民政局員に指示。以下はその会議における議事録。
Summary Report on Meeting of the Government Section, 4 February 1946, Alfred Hussey Papers; Constitution File No. 1, Doc. No. 4
that the only possibility of retaining the Emperor and the remnants of their owm power is by their acceptance and approval of a Constitution that will force a decisive swing to left. General Whitney hopes to reace this decision by persuasive arugument; if this is not possible, General MacArthur has empowered him to use not merely the threat of force, but force itself.[59][60][61]
ホイットニー准将は憲法起草チーム全員に対して「天皇とその権限を維持する唯一の可能性はGHQ草案の受諾以外にない」という恫喝を用いる権限、恫喝のみでなく実際に強制力を行使する権限がマッカーサー元帥から付与されていることを伝えた。
起草にあたったホイットニー局長以下25人のうち、ホイットニーを含む4人には弁護士経験があった。しかし、憲法学を専攻した者は一人もいなかったため、日本の民間憲法草案(特に憲法研究会の「憲法草案要綱」)や、世界各国の憲法が参考にされた。
民政局での昼夜を徹した作業により、各委員会の試案は、2月7日以降、次々と出来上がった。
これらの試案をもとに、運営委員会との協議に付された上で原案が作成され、さらに修正の手が加えられた。
2月7日
松本は「憲法改正要綱」(松本試案)を天皇に奏上。
2月8日
松本は「憲法改正要綱」(松本試案)を説明資料とともに総司令部へ提出。
この「憲法改正要綱」は内閣の正式決定を経たものではなく、まず総司令部に提示して意見を聞いた上で、正式な憲法草案の作成に着手する予定であった。
2月10日
最終的に全92条の草案にまとめられ、マッカーサーに提出された。マッカーサーは、一部修正を指示した上でこの草案を了承し、最終的な調整作業を経た上で、2月12日に草案は完成した。
2月13日
ホイットニーらは「憲法改正要綱」(松本試案)の受け取りを正式に拒否し、マッカーサーの承認を経て、いわゆる「マッカーサー草案」(GHQ原案)が日本政府に提示された。
2月4日に憲法起草チームの前で説明された恫喝は実際に2月13日のGHQ憲法草案提示時に実行された。
As you may or may not know, the Supreme Commander has been unyielding in his defense of your Emperor against increasing pressure from the outside to render him subject to war criminal investigation.[63]
It has been asserted that those who recorded Whitney's remarks "were ashamed of the methods employed" by Whitney, in particular, his "threats against the Emperor - against the man - not just the institution - which Hussey in 1958 still wanted Kades and Rowell to conceal from the Japanese Commission on the Constitution."[64][65]
日本政府案の作成と議会審議
2月13日に日本政府に提示された「マッカーサー草案」は、先に日本政府が2月8日に提出していた「憲法改正要綱」(松本試案)に対する回答という形で示されたものであった。
提示を受けた日本側、松本国務大臣と吉田茂外務大臣、通訳の白洲次郎は、総司令部による草案の起草作業を知らず、この全く初見の「マッカーサー草案」の手交に驚いた。
この日マッカーサー草案を手交された場において「案を飲まなければ天皇を軍事裁判にかける」「我々は原子力の日光浴をしている」などの恫喝的言動がなされた。
2月18日
「マッカーサー草案」を受け取った日本政府は、松本の「憲法改正案説明補充」を添えて再考するよう求めた。これに対してホイットニー民政局長は、松本の「説明補充」を拒絶し、「マッカーサー草案」の受け入れにつき、48時間以内の回答を迫った。
2月21日
幣原首相がマッカーサーと会見し、「マッカーサー草案」の意向について確認。
2月22日
閣議で、「マッカーサー草案」の受け入れを決定し、幣原首相は天皇に事情説明の奏上を行った。
2月26日
閣議で、「マッカーサー草案」に基づく日本政府案の起草を決定し、作業を開始。
松本国務大臣は、法制局の佐藤達夫・第一部長を助手に指名し、入江俊郎・次長とともに、日本政府案を執筆した。
3月2日
3人の極秘作業により、草案完成(「3月2日案」)。
3月4日午前10時
松本国務大臣は、草案に「説明書」を添えて、ホイットニー民政局長に提示。
総司令部は、日本側係官と手分けして、直ちに草案と説明書の英訳を開始。英訳が進むにつれ、総司令部側は、「マッカーサー草案」と「3月2日案」の相違点に気づき、松本とケーディス・民政局行政課長の間で激しい口論となった。
午後
松本は、経済閣僚懇談会への出席を理由に、総司令部を退出した。夕刻になり、英訳作業が一段落すると、総司令部は、続いて確定案を作成する方針を示した。午後8時半頃から
佐藤達夫・法制局第一部長ら日本側とともに、徹夜の逐条折衝が開始された。成案を得た案文は、次々に首相官邸に届けられ、3月5日の閣議に付議された。
5日午後4時頃
総司令部における折衝は全て終了し、確定案が整った。閣議は、確定案の採択を決定して「3月5日案」が成立、午後5時頃に幣原首相と松本国務大臣は宮中に参内して、天皇に草案の内容を奏上した。
翌3月6日
日本政府は「3月5日案」の字句を整理した「憲法改正草案要綱」(「3月6日案」)を発表し、マッカーサーも直ちにこれを支持・了承する声明を発表。
日本国民は、翌7日の新聞各紙で「3月6日案」の内容を知ることとなった。国民にとっては突然の発表であり、またその内容が予想外に「急進的」であったことから衝撃を受けたものの、おおむね好評であった。
3月26日
国語学者の安藤正次博士を代表とする「国民の国語運動」が、「法令の書き方についての建議」という意見書を幣原首相に提出した。これを主たる契機として、憲法の口語化に向けて動き出した。
4月2日
憲法の口語化について、総司令部の了承を得て、閣議了解が行われ、
4月3日から
口語化作業が開始された。まず、作家の山本有三に前文の口語化を依頼し、作成された素案を参考にして、入江・法制局長官、佐藤・法制局次長、渡辺佳英・法制局事務官らの手により、5日に口語化第1次案が閣議で承認された。
4月16日
幣原首相が天皇に内奏し、まず憲法を口語化した後、憲法の施行後には順次他の法令も口語化することを伝えた。
4月10日
衆議院議員総選挙。総司令部は、この選挙をもって、「3月6日案」に対する国民投票の役割を果たさせようと考えた。しかし、国民の第一の関心は当面の生活の安定にあり、憲法問題に対する関心は第二義的なものであった。
4月17日
政府は、正式に条文化した「憲法改正草案」を公表し、枢密院に諮詢した。
4月22日
枢密院で、憲法改正草案第1回審査委員会が開催された(5月15日まで、8回開催)。同日に幣原内閣が総辞職。
5月3日
極東国際軍事裁判、開廷。
5月22日
第1次吉田内閣が発足したため、枢密院への諮詢は一旦撤回され、若干修正の上、5月27日に再諮詢された。
5月29日
枢密院は草案審査委員会を再開(6月3日まで、3回開催)。この席上、吉田首相は、議会での修正は可能と言明した。
6月8日
枢密院の本会議は、天皇臨席の下、第二読会以下を省略して直ちに憲法改正案の採決に入り、美濃部達吉・顧問官を除く起立者多数で可決した。
6月20日
これを受けて政府は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、憲法改正案を衆議院に提出。
6月25日から
衆議院は審議を開始。
7月29日
小委員会で第9条の「芦田修正」提示。
芦田修正とは、憲法議会となった第90回帝国議会の衆議院に設置された、衆議院帝国憲法改正小委員会による修正である。
特に憲法9条に関する修正は委員長である芦田均の名を冠して芦田修正と呼ばれ、9条をめぐる議論ではひとつの論点となっている。
まず、帝国議会に提出された憲法改正草案第9条の内容は、次のようなものであった。
第9条
国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては永久にこれを抛棄する。
陸海空軍その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は認められない。
衆議院における審議の過程で、この原案の表現は、いかにも日本がやむを得ず戦争を放棄するような印象を与え、自主性に乏しいとの批判があったため、このような印象を払拭し、格調高い文章とする意見が支配的であった。そこで、各派から、様々な文案が示され、これらを踏まえて、芦田委員長が次のような試案(芦田試案)を提示した。
日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず、国の交戦権を否認することを声明する。
前項の目的を達するため国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
芦田試案について、委員会で懇談が進められ、1項の文末の修正や1項と2項の入れ替えなどについて、原案をもとにすることなどがまとまった。
芦田委員長は、これらの議論をまとめて案文を調整し、最終的に次のように修正することを決定した。
第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この修正について、総司令部側からは何ら異議もなく、成立に至った。
芦田修正では、「前項の目的を達するため」という一文が、後に9条解釈をめぐる重要な争点の一つとなり、芦田の意図などについても論議の的となった。
8月24日
若干の修正を加えて圧倒的多数(投票総数429票、賛成421票、反対8票)で可決。
8月26日
続いて貴族院が審議を開始。
10月6日
若干の修正を加えて本会議可決した。
10月7日
衆議院は貴族院回付案を可決し、帝国議会における憲法改正手続は全て終了した。
只今貴族院の修正に對し本院の可決を得、帝國憲法改正案はここに確定を見るに至りました(拍手)此の機會に政府を代表致しまして、一言御挨拶を申したいと思ひます、本案は三箇月有餘に亙り、衆議院及び貴族院の熱心愼重なる審議を經まして、適切なる修正をも加へられ、ここに新日本建設の礎たるべき憲法改正案の確定を見るに至りましたことは、國民諸君と共に洵に欣びに堪へない所であります(拍手)惟ふに新日本建設の大目的を達成し、此の憲法の理想とする所を實現致しますることは、今後國民を擧げての絕大なる努力に俟たなければならないのであります、政府は眞に國諸君と一體となり、此の大目的の達成に邁進致す覺悟でございます、ここに諸君の多日に亙る御心勞に對し感謝の意を表明致しますると共に、所懷を述べて御挨拶と致します(拍手) —1946年(昭和21年)10月7日衆議院本会議、吉田茂内閣総理大臣による政府所信
日本国憲法の公布と施行
1946年(昭和21年)10月29日、「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。
帝国議会における審議を通過して、
10月12日、政府は「修正帝国憲法改正案」を枢密院に諮詢(19日と21日に審査委員会)。
10月29日、枢密院の本会議は、天皇臨席の下で、「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した(美濃部顧問官など2名は欠席)。同日、天皇は、憲法改正を裁可した。
11月3日、日本国憲法が公布された。同日、貴族院議場では「日本国憲法公布記念式典」が挙行され、宮城前では天皇皇后が臨席して「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」が開催された。
本日、日本国憲法を公布せしめた。
この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであつて、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によつて確定されたものである。即ち、日本国民は、みづから進んで戦争放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、ここに、明らかに定めたものである。
朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任を重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。 —昭和天皇による日本国憲法公布の勅語、1946年(昭和21年)11月3日
1947年(昭和22年)5月3日に、日本国憲法は施行された。同日には、天皇臨席の下、皇居前広場で「日本国憲法施行記念式典」が開催された。
1948年(昭和23年)には、5月3日は憲法記念日とされ、「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。」趣旨の国民の祝日とされている。
占領下における日本国憲法の効力
日本国憲法が1947年5月3日施行されたものの、日本が独立を回復する1952年4月28日まで、占領下であったことから完全な効力を有していなかった。
最高裁は、1953年4月8日の大法廷判決(刑集7巻4号775ページ)において、日本国の統治の権限は、一般には憲法によって行われているが、連合国最高司令官が降伏条項を実施するためには適当と認める措置をとる関係においては、その権力によって制限を受ける法律状態におかれているとして、連合国司令官は、日本国憲法にかかわることなく法律上全く自由に自ら適当な措置をとり、日本官庁の職員に対し指令を発してこれを遵守実施することができるようにあったと判断している。
そして、いわゆるポツダム命令の根拠となった「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(昭和20年勅令第542号)について、憲法の外で効力を有したものと判断している。
その意味で、日本国憲法が完全に効力を有するようになったのは、1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約の発効により、日本に対する占領が終了した時ということができる。
さらに、主権回復時に米軍の占領下にあった地域(すなわち奄美群島、小笠原諸島、沖縄)について、憲法の効力が完全に及ぶまではさらに時間を要し、その返還の時、すなわち奄美(1953年12月25日)、小笠原(1968年6月26日)、沖縄(1972年5月15日)となった。
そして、日本政府が実効支配していない北方領土及び竹島については、憲法の効力はいまだ完全に及んではいない。