立法の経緯 2

審議過程での第9条への反対 


1946年(昭和21年)の憲法改正審議で、日本共産党の野坂参三衆議院議員は自衛戦争と侵略戦争を分けた上で、「自衛権を放棄すれば民族の独立を危くする」と第9条に反対し、結局、共産党は議決にも賛成しなかった。  


また、南原繁貴族院議員も共産党と同様の「国家自衛権の正統性」と、 将来、国連参加の際に「国際貢献」で問題が生ずるとの危惧感を表明している。それは「互に血と汗の犠牲を払うこと」なしで「世界恒久平和の確立」をする国際連合に参加できるのか?という論旨であった。

これらの危惧感は後の東西冷戦終結後、現実問題として日本に生じ、結果的にPKOなどの派遣を憲法の無理な解釈で乗り切ろうとする事態が生じている。(この憲法の推進を行ったダグラス・マッカーサー自身も日本再独立後にこの事項を作った事を戦後の米軍の負担増という点から後悔し、旧軍を最低限度の人数と装備で存続させるべきであったと一生の悔いにしていたとの逸話がある)  



制定過程を巡る議論 

法的有効性について次のような議論がある。  


●日本が被占領国で主権を失っていたときに半強制的に制定された歴史権益上の事実があったこと(当時の国際条約(成文国際法)は現在ほど発達しておらず、極東国際軍事裁判においても裁判官側はすべて連合国側の人物だったことなどもその証左である[63])、また、先述している通り、もともと、現行日本国憲法においては松本烝治を中心とした松本試案による憲法をGHQに提出しているが、GHQ側が拒否しダグラス・マッカーサーにより独自に作成されたマッカーサー草案が大本になっていること[64]。 


●戦勝国である連合国側の協定(国連憲章)での「敵国条項(53条、77条、107条)」がまだ有効であったとき制定された(この敵国条項は現在死文化しており、1995年(平成7年)の国連総会で削除が採決されたが、現在も憲章に残ったままである)うえ、日本の主権が回復するのはサンフランシスコ条約効力発生時、すなわち、1952年(昭和27年)4月28日のことである。 


●第二次世界大戦にいたる経緯のなかで、戦勝国である連合国側の反省として、戦争拡大責任に関する歴史検証が確立される前に制定された[65]。 



朝鮮戦争と

アメリカの改憲・派兵要求 


朝鮮戦争勃発によってアメリカから、日本を朝鮮戦争に派兵させるため改憲要求が出された。アメリカの要求に対抗するため総理大臣吉田茂は社会党に再軍備反対運動をするよう要請した[66]。


# by ichiro_ishikawa | 2019-06-04 00:58 | 文学 | Comments(0)  

第9条の解釈上の問題

第9条の解釈上の問題 


憲法9条の規定については、

●憲法9条の法的性格

●第1項の「国際紛争を解決する手段としては」という文言の意味

●第2項前段の「戦力」の定義

●同じく第2項前段の「前項の目的を達するため」という文言の意味

●第2項後段「交戦権」の定義

などについて議論がある。



第9条の法的性格

憲法9条の法的性格については、次のような説がある。


法規範性はなく理想的規範にすぎないとみる説[67] 

憲法規範には為政者を直接的に拘束する現実的規範と為政者の目標を示す理想的規範とがあり本条は後者にあたるとする[68]。 


法規範性はあるが裁判規範性が極めて希薄であるとみる説[69] 

憲法規範の規範的性格は各条項の間で同じではないとし、憲法規範には裁判規範と政治規範とがあり、本条は高度の政治性を有することなどから裁判規範性が極めて希薄な政治規範であるとする[70]。 


法規範性も裁判規範性も認められるとする説[71] 

法規範性も裁判規範性も認められるが、国際情勢等の著しい変化により憲法の変遷を生じているとする説[72] ただし、本説にいう「憲法の変遷」は、通常の憲法学における「憲法の変遷」の概念とは異なるものであるとの指摘がある[73]。 



「日本国民」の解釈

憲法9条は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という文で始まる。この「日本国民」とは個々の国民ではなく全体としての日本国民もしくは一体としての日本国民を指すとされる[74]。本条の趣旨からみて個々の国民を指すとみるべきではなく[75]、通例においても個々の国民を指す場合には「すべて国民は」(例として日本国憲法第25条・日本国憲法第26条)あるいは「国民は」(例として日本国憲法第30条)の文言が用いられることが根拠とされる[75][76]。

そして、「日本国民」というこの文言は日本国と同義であるとされる[77]。

なお、この点については、日本国民と一体化した日本国政府と同義であるとみる説[78]がある一方で、主権者としての日本国民を指すのであって日本国政府と同義ではないとする説[79]もある。

百里基地訴訟第一審判決では日本国政府を含むとしている。  

以上のように「日本国民」は全体としての国民あるいは一体としての国民を指すとみるべきと理解されており[80]、このことから個々の国民が自由な意思で各自の判断の下に外国軍隊や国連軍に志願し参加することは直接本条の問題とするところではないとみるのが多数説である[81][82][83]。

これに対して国連軍への参加の場合を除いてこのような行為は憲法の精神に反するとみる見解もある[84]。しかし、この見解に対しては憲法は基本的には国民ではなく国家機関を直接の対象とする法規範であり(憲法の対国家性)、本条中の「国権の発動たる」の文言からも「日本国民」の文言に個々の国民を含めて考えるには無理があるとの批判がある[85]。

なお、本条の問題とは別に立法政策によってこれらの行為を禁止することは可能であると考えられている[86]。  


このほか国民が個人の立場で軍需産業に従事することは本条に反すると説く見解があるが[87]、「日本国民」は個々の国民を意味するものではないとみる立場からはこのような解釈は妥当ではないという批判がある[75]。 



「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の解釈

憲法9条第1項の「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」は戦争放棄の動機ないし目的について示したものと考えられ[88][89]、マッカーサーノートの「日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる」に通じるものである。  なお、ここにいう「正義と秩序を基調とする国際平和」は憲法前文第2項の「恒久の平和」と同じ意味と解されており[90]、憲法前文第2項にいう「専制と隷従、圧迫と偏狭」の支配する状態とは区別される国際社会を意味するものとされる[91]。  



「国権の発動たる戦争」等の定義


「国権の発動たる戦争」

憲法9条第1項の「国権の発動たる戦争」とは、国際法上、宣戦布告又は最後通牒という形で明示的に、あるいは武力行使による国交断絶という形で黙示的に戦争の意思表示が表明されることを要件とし、戦時国際法規が適用される国の主権の発動として行われる武力(兵力)による国家間の闘争(形式的意味の戦争)をいう[92][93][94]。


 なお、この「国権の発動たる」という部分は、旧来、国際法において戦争が国家の主権に属する権利として発動されてきたものであるとの観念を表現したものとされ[95]、国権の発動でない戦争というものが存在しその意味での戦争は放棄しないという趣旨ではないとされる[96]。  



「武力の行使」 

憲法9条第1項の「武力の行使」とは、宣戦布告等の手続がとられず「戦争」の意思表示を示さないで行われる戦時国際法の適用を受けない武力(兵力)による国家間の闘争(実質的意味の戦争)をいう[97][98][99][100]。  


事実上の戦闘が継続的な敵対関係へと発展して戦争となった場合には「国権の発動たる戦争」と「武力の行使」との区別は難しくなるが、「国権の発動たる戦争」と「武力の行使」とは放棄の条件の点では同じ扱いとなるという解釈をとる限り厳密に区別することは実益に乏しいとされる[101]。  


なお、日本国憲法では「国権の発動たる戦争」(形式的意味の戦争)と「武力の行使」(実質的意味の戦争)を分けているが、国連憲章2条4では「use of force(武力の行使)」として双方を区別せずに扱っている[102]。  


「武力による威嚇」 

憲法9条第1項の「武力による威嚇」とは、現実的な武力行使には至らないものの、武力を背景に自国の要求を容れなければ武力を行使するとの態度を示して相手国を強要することをいう[103][104][105]。  


第1項の「武力」と第2項の「戦力」との関係であるが、多数説は武力の行使も実質においては戦争にかわりないことなどを根拠として第1項の「武力」と第2項の「戦力」は同義であるとみる[106]。

これに対して、第1項では「武力」、第2項では「戦力」とあえて異なる文言が用いられていることから両者は異なる概念であるとする説もある。そのうちの一説として、第1項でいう「武力」は第2項でいう「戦力」よりも広い概念で「武力」には警察力が含まれ、外国から不法に侵入してきた軍隊を警察力で排除することは「武力の行使」にあたるとする説がある。しかし、この説に対しては「武力の行使」でいう「武力」に警察力を含むと解釈するならば、これと並列的に列挙されている「武力による威嚇」でいう「武力」にも警察力を含むこととなるが、警察力による外国への威嚇などというものは考えられないとの批判がある[107][108]。

第1項の「武力」と第2項の「戦力」とは異なるとする説としては、上の説のほかに、後述されている「国際紛争を解決する手段としては」の文言が「武力による威嚇又は武力の行使」にのみかかるとみる説があり、「戦力」を手段とするものが「(国権の発動たる)戦争」であり、外国軍隊の不法な侵入を排除するための「戦力」に至らない程度の「武力」による自衛権の行使が憲法上認められるとする解釈をとる構成上、「武力」と「戦力」は異なるという立場をとる[109](次節を参照)。  



「国際紛争を解決する手段としては」の解釈

憲法9条第1項にある「国際紛争を解決する手段としては」の文言のかかる範囲とその意味については、次のような説がある[110][111][112][113]。  


●「国際紛争を解決する手段としては」の文言は、「国権の発動たる戦争」、「武力の行使」、「武力による威嚇」のすべてにかかるとする説

「国際紛争を解決する手段としては」の文言は「武力による威嚇又は武力の行使」の部分だけでなく「国権の発動たる戦争」の部分にもかかると解釈するのが通説である[114]。 

そして、「国際紛争を解決する手段としては」の文言の意味をどう捉えるかという点をめぐって、さらに以下のように細分される。 


◯およそすべての戦争は国際紛争を解決する手段としてなされるのであるから、この文言はなんらの留保たり得ず、第1項ですべての戦争を禁じているとする説(峻別不能説=一項全面放棄説)[115][116] 

この見解は憲法9条第2項を待たずに第1項ですべての戦争が放棄されているとみる説である(本説で説かれる根拠や本説に対する批判については次節参照)。 


◯不戦条約1条や国際連合憲章2条3項などでの国際法上の用例に従った解釈をすべきであるとして、第1項の「国際紛争を解決する手段としては」とは侵略戦争の放棄を意味しているとする説

(広義の限定放棄説=一項における限定放棄説)[117] 

この見解は第2項前段の「前項の目的を達するため」の解釈によって、さらに第2項によってすべての戦争が放棄されているとみる遂行不能説(二項全面放棄説)と第2項においても自衛戦争は放棄されていないとみる限定放棄説(狭義の限定放棄説)に分かれる(各説で説かれる根拠や各説に対する批判については次節参照)。 



●制定時の英文の9条1項をもとに、「国際紛争を解決する手段としては」の条件の文言は「武力による威嚇又は武力の行使」の部分にのみかかると解釈し、自衛のための武力の行使は許容されているとみる説[118][注釈 2] 

この見解は第1項の「国権の発動たる戦争」の手段が第2項の「戦力」であるとみて両者を結びつけて解釈し[119]、憲法9条2項で全面的に放棄されたのは「国権の発動たる戦争」を遂行するための「戦力」であり[120]、自衛戦争を含むすべての戦争と国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇及び武力の行使は否定されているが、外国軍隊の不法な侵入を排除するための武力による自衛権の行使は許容されており、そのための「武力」は保持しうると解釈する(非戦力的武力合憲説)[121][122]。 

この見解に対しては憲法制定過程(3月2日案)において二つの文が一つの文にまとめられた結果、最終的な日本語の正文では「国際紛争を解決する手段としては」の文言が「武力による威嚇又は武力の行使」の部分だけでなく「国権の発動たる戦争」の部分にもかかる表現になっているとの批判がある[123][124]。 なお、前述されているように、この見解は「戦力」と「武力」は同義であるとする多数説の立場と異なり、「戦力」と「武力」とは異なる性質のものであるという解釈をとるが、このような解釈をとるとき「戦力なき武力」というものをどのように捉えるかという問題を生じるといわれる[125]。 



「前項の目的を達するため」の解釈

憲法9条第2項前段は戦力不保持について定めるが、これには「前項の目的を達するため」という文が付されており、この文言の意味については戦力不保持の動機を示すものとみる説戦力不保持の条件を示すものとみる説がある[126]。

このうち「前項の目的を達するため」を戦力不保持の動機を示すものとみる説には、第2項の「前項の目的」とは、第1項前段の「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の部分を指すとする一項前段動機説、第1項全体の指導精神ないし趣旨を指すとする一項全体動機説、第1項後段の「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」の部分を戦力不保持の動機として指すとする一項後段動機説がある[127]。

また、「前項の目的を達するため」を戦力不保持の条件とみる説としては、第1項後段の「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」の部分を戦力不保持の条件として指すとする一項後段不保持限定説がある[128]。  



学説の分布

以上の第1項の「国際紛争を解決する手段としては」の文言と第2項の「前項の目的を達するため」の文言の法解釈のとり方によって次のような説に分類される[129][130][131][注釈 3]。  


峻別不能説(一項全面放棄説) 

およそすべての戦争は国際紛争を解決する手段としてなされるもの(侵略戦争と自衛戦争との峻別は困難)であり、憲法9条第1項の「国際紛争を解決する手段としては」の文言はなんらの留保たり得ず、憲法9条第1項の規定によって全ての戦争が禁じられており、憲法9条第2項の「前項の目的を達するため」とは憲法9条第1項全体の指導精神を受けて全ての戦争放棄という目的を実効化するためであるとみる説[注釈 4][132][133]。 

一般に本説は第2項は第1項の実効性を確保するために定められたとみるもので、第2項冒頭の「前項の目的」とは憲法9条第1項全体の指導精神を指すとする一項全体動機説と結びつき、第2項前段は戦争の全面的放棄という第1項の目的を達するため一切の戦力の不保持を定めたものとみる(戦力全面不保持説と結びつく)[134]。 峻別不能説では国際紛争を解決する手段でない戦争はありえない(自衛戦争も国際紛争の存在を前提とする)とし、憲法に宣戦等に関する規定がないこと、本条全体の解釈として一切の戦争を放棄しているとみるのであれば「国際紛争を解決する手段としては」の文言も国際法上の用例に拘泥すべきでないこと、憲法第9条第1項ですべての戦争が放棄されたと解さなければ第2項の交戦権の否認との整合性がとれなくなること、憲法前文第2項は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と謳っていること、多くの戦争が自衛目的という名目で行われてきたという歴史的経緯などをその根拠として挙げる[135][136]。 

峻別不能説の法解釈に対しては、平和という国際関係と密接な関連性を有する憲法9条の解釈においては文言についても国際法上の用例を尊重すべきであり、憲法9条の成立の経緯の点からみても妥当ではないとの批判がある[137][138]。

具体的には峻別不能説では「国際紛争を解決する手段としては」の文言は何らの留保たり得ないと解釈するため、この文言の規範的意味を希薄化させるものであるとの批判[139]、あるいは、この文字が不必要ということになってしまうとの批判[140](第一項で全ての戦争が放棄されているという結論を導くのであれば「国際紛争を解決する手段としては」という文言がないほうが意味が明瞭になるという奇妙なことになるとの指摘[141])がある。 

そもそも憲法9条の成立の経緯の点において、マッカーサーノートでは「紛争解決のための手段としての戦争」と「自己の安全を保持するための手段としての戦争」が別々に定められていた。「自己の安全を保持するための手段としての戦争」が立法過程を経て放棄の対象から削られた経過から、自衛のための戦争は否定されていないとする指摘がある[142]。

さらに、自衛戦争は他国からの急迫不正の侵略行為(武力攻撃)に対して、これを排除するためにやむを得ずなされる性格のものであり、被侵略国にとっては国際紛争を解決する手段としての戦争とはいえないという指摘[143]があるほか、第1項ですべての戦争が放棄されているとするならば第2項は確認規定にしか過ぎなくなるという指摘[144]がある。比較法の見地からも、イタリア共和国憲法第11条など日本国憲法第9条第1項と同様に「国際紛争を解決する手段としての戦争」の放棄を謳っている憲法の下での法解釈においても自衛戦争は放棄されていないと解釈されていることも本説の問題点として指摘されている[145]。 

なお、長沼ナイキ事件第一審判決は「憲法は第九条第一項で自衛戦争、制裁戦争をも含めたいかなる戦争をも放棄したものであるとする立場があるが、もしそうであれば、本項において、とくに「国際紛争を解決する手段として」などと断る必要はなく、また、この文言は、たとえば、一九二八年の不戦条約にもみられるところであり、同条約では、当然に、自衛戦争、制裁戦争を除いたその他の不法な戦争、すなわち、侵略戦争を意味するものと解されており(このことは同条約に関してアメリカの国務長官が各国に宛てた書簡に明記されている。)、以後、国際連盟規約、国際連合憲章の解釈においても、同様の考えを前提としているから、前記した趣旨に解するのが相当と思われる。

したがって、本条項では、未だ自衛戦争、制裁戦争までは放棄していない」と本説のような解釈に否定的な立場をとった[146]。 


遂行不能説(二項全面放棄説) 

憲法9条第1項の「国際紛争を解決する手段としては」の文言は不戦条約など国際法上の用例に従って侵略戦争の放棄を意味すると解釈すべきであるが、憲法9条第2項の「前項の目的を達するため」は憲法9条第1項の「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」するという文言あるいは憲法9条第1項全体の趣旨を戦力不保持の動機として示したものであり、憲法9条第2項の規定(戦力の不保持・交戦権の否認)によって「戦力」の遂行が困難となるために、結局、すべての戦争が放棄されているとみる説[注釈 5][147][注釈 6]。 


本説の解釈は、第9条第1項はまず従来の諸外国の例にならい侵略戦争の放棄を明らかにしたものであり、その上で、憲法は第9条第2項でこの目的を達するための手段として一切の戦力の不保持と交戦権の否認をとったものであり、その結果として事実上すべての戦争が放棄されたものとみる(戦力全面不保持説と結びつく)[148]。 

遂行不能説の根拠としては、平和という国際関係と密接な関連性を有する憲法9条の理解にとっては、「国際紛争を解決する手段としては」の文言についても国際法上の用例に従って理解することが有益かつ実定法上望ましいことが挙げられている[149]。

また、「前項の目的を達するため」の文言は立法過程において第1項冒頭への文言の追加に呼応して加えられたものであり、第2項の冒頭にも重ねて「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」するためとすべきところを重複を避けるために「前項の目的を達するため」と受けたものであるから条件ではなく動機を示したものとみるべきであるという点も根拠として挙げられている[150]。 

遂行不能説は憲法学上の多数説となっている[151][152]。 

判例では長沼ナイキ事件第一審判決がこの説を採ったものといわれており[153]、「国際紛争を解決する手段として放棄される戦争とは、不法な戦争、つまり侵略戦争を意味する」とし、また、「「前項の目的」とは、第一項を規定するに至った基本精神、つまり同項を定めるに至った目的である「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求(する)」という目的を指す」(一項前段動機説)とした上で、「本項(第二項)でいっさいの「戦力」を保持しないとされる以上、軍隊、その他の戦力による自衛戦争、制裁戦争も、事実上おこなうことが不可能となったものである」と判示した[146]。

そして、憲法9条と自衛権の関係について後述の非武装自衛権説に立って、「自衛権を保有し、これを行使することは、ただちに軍事力による自衛に直結しなければならないものではない」とし、自衛権の行使方法として外交交渉、警察力による排除、群民蜂起等を挙げ、「自衛権の行使方法が数多くあり、そして、国家がその基本方針としてなにを選択するかは、まったく主権者の決定に委ねられているものであって、このなかにあって日本国民は前来記述のとおり、憲法において全世界に先駆けていっさいの軍事力を放棄して、永久平和主義を国の基本方針として定立したのである」と判示した[146]。 

一方で、基本的には本説と同様の法解釈に立ちつつ、憲法9条と自衛権の関係について後述の自衛力論に立って、憲法第9条で放棄の対象となっている「戦力」に至らない程度の必要最小限度の実力(自衛力・防衛力)を保持することは憲法上否定されておらず、国際法上において国家固有の権利として認められている自衛権に基づいてその自衛行動が認められるとする見解(後述の自衛力論)をとる立場もあり、政府見解も基本的に遂行不能説と同様の法解釈に立ちつつ自衛力論をとる立場をとっている[154][152][155]。 

政府見解は憲法制定時より憲法9条第1項では自衛戦争は放棄されていないが、第2項の戦力不保持と交戦権の否認の結果として全ての戦争が放棄されているとする遂行不能説に立ちつつ[156][157][158]、交戦権を伴う自衛戦争と自衛権に基づく自衛行動とは異なる概念であるとし、このうち自衛権に基づく自衛行動については憲法上許容されているとの解釈のもと[159][160]、その自衛行動のための「戦力」に至らない程度の実力についてのみ保持しうるとしている[161]。 自衛行動の範囲について、当初、政府見解は交戦権を伴う自衛戦争と個別的自衛権に基づく自衛行動とは異なる概念であるとの構成をとり[159][160]、わが国は集団的自衛権を国際法上保有しているが、憲法上その行使は許されないという立場をとっていた[162]。

しかし、自衛権の発動としての自衛行動の範囲については、その後、2014年の閣議決定により集団的自衛権についても密接な関係にある他国への攻撃であり、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合などに限って必要最小限度の範囲で行使可能とする政府見解の見直しが行われることとなった[163]。 

政府見解は憲法9条第2項前段の解釈につき「憲法第9条第2項の「前項の目的を達するため」という言葉は、同条第1項全体の趣旨、すなわち同項では国際紛争を解決する手段としての戦争、武力による威嚇、武力の行使を放棄しているが、自衛権は否定しておらず、自衛のための必要最小限度の武力の行使は認められているということを受けている」との立場をとっており[164]、第2項の「前項の目的」は第1項全体の趣旨を指すとしつつ、第1項では国際紛争を解決する手段としての戦争、武力による威嚇、武力の行使を放棄しているが、自衛権は否定しておらず、自衛のための必要最小限度の武力の行使は認められていると解釈している[165]。 以上のように政府見解は基本的には遂行不能説と同様の法解釈を基礎とする法的構成に立っているが[166][167]、「戦力」に至らない程度の必要最小限度の実力(自衛力・防衛力)を保持することは憲法上否定されていないとしており、「自衛権」と「戦力」の理解の点で学説の遂行不能説とは少なからず異なっていると言われている[168][169]。

この点については、政府見解が立脚しているはずの戦力全面不保持説と矛盾する結果をもたらすことになっているとの指摘[170]や2項後段の解釈の方法などの点を除けば結論において実質的に後述の限定放棄説(自衛戦争許容説・戦力限定不保持説)に接近しているという指摘[171]もあるが、政府見解は自衛のための「戦力」については保持しうるとする立場(自衛戦争許容説・戦力限定不保持説)を公式には採用しておらず[172]、あくまでも遂行不能説と同様の法解釈を基礎としながら「戦力」に至らない程度の実力のみ保持しうるとの法的構成に立脚している[173][174][175](自衛力による自衛権説(自衛力論)に立つ場合の、自衛力と憲法9条第2項後段(交戦権の否認)の規定との関係については後述の「交戦権」の解釈を参照)。 

なお、本説に立った上で第2項の「前項の目的」とは第1項後段の「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」の部分を指すとする一項後段動機説がとられることもあるが、この説では憲法9条2項の前段ではなく後段の交戦権の否認の規定によってすべての戦争が放棄されると解釈する[176]。 

遂行不能説の法解釈に対しては、すべての戦争の放棄という1つの目的のために2つの違った趣旨の規定を置いたことになり、憲法9条は立法技術的にみて拙劣な規定ということになってしまうとの批判がある[177][178]。 


限定放棄説(狭義の限定放棄説・侵略戦争放棄説・自衛戦争許容説・戦力限定不保持説) 

憲法9条第1項の「国際紛争を解決する手段としては」の文言は侵略戦争を放棄したものと解すべきで、憲法9条第2項の「前項の目的を達するため」は憲法9条第1項の侵略戦争放棄という目的を達成するための戦力不保持の条件を示したものであるから自衛戦争は許容されているとみる説[注釈 7][179][180]。 


本説は第2項の「前項の目的」とは第1項後段の「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」の部分を戦力不保持の条件として指すとする一項後段不保持限定説から導かれ[181]、一般には自衛戦争のための「戦力」を保持することは否定されていないとする後述の自衛戦力肯定説(戦力限定不保持説)と結びつく[182]。 限定放棄説では侵略戦争と自衛戦争の区別は可能であるとし、1928年のパリ不戦条約の締結時においても自衛戦争まで放棄するものではないことは締約国の了解するところであったこと、本条の立法上の経緯、特に既述の芦田修正や憲法9条の制定過程において極東委員会が、当時、このような解釈の可能性を認めており、そのために憲法66条2項に文民条項を入れることを強く要求したとされること[53]、また、世界平和を最高の目的とする国際連合においても国連憲章51条において自衛権を認めていることなどを根拠とする[183][184]。

この説の法解釈からは自衛戦争について憲法は許容しており、その扱いは立法政策上の問題であるとする[185]。 判例では百里基地訴訟第一審判決がこの説を採ったものといわれており[186]、「わが国は、外部からの不法な侵害に対し、この侵害を阻止、排除する権限を有するものというべき」とし、また、「「前項の目的」とは第一項全体の趣旨を受けて侵略戦争と侵略的な武力による威嚇ないしその行使に供しうる一切の戦力の保持を禁止したものと解するのが相当」とした上で、「わが国が、外部から武力攻撃を受けた場合に、自衛のため必要な限度においてこれを阻止し排除するため自衛権を行使することおよびこの自衛権行使のため有効適切な防衛措置を予め組織、整備することは、憲法前文、第九条に違反するものではない」と判示した[187]。 

このほか国民主権の国家における国民は憲法やその前提となる国家の存立について責任を有するとともに、日本国憲法第13条の規定は基本的人権に加えられる国内外からの侵害を排除することを要請すると説く学説もあり[188]、百里基地訴訟第一審判決も「国家統治の根本を定めた憲法は、国としての理念を掲げ、国民の権利を保障し、その実現に努力すべきことを定めており、しかも、憲法前文第二項において、「われらの安全と生存」の「保持」を「決意」していることによっても明らかなように、憲法は、わが国の存立、わが国民の安全と生存を、その前提として当然に予定するところであるから、わが国の主権、国民の基本的人権の保障を全うするためには、これらの権利が侵害されまたは侵害されようとしている場合、これを阻止、排除しなければならないとするのが、憲法の基本的立場であるといわなければならない」と判示している[189]。 

限定放棄説の法解釈に対しては、戦力不保持を定めた9条2項の存在理由がなくなるもしくは極めて不明確になるとの批判があり[190]、また、自衛戦争のための「戦力」と侵略戦争のための「戦力」を区別しうるのか、あるいは自衛戦力の保持が可能であるとすれば軍隊の設置や戦争の遂行についての規定が憲法に規定されていて然るべきはずであるといった批判がある[191]。

遂行不能説(二項全面放棄説)の立場では憲法9条第1項の段階では自衛戦争は放棄されていないと解釈するが、この遂行不能説(二項全面放棄説)の立場をとる論者からは、自衛のための戦力保持が可能であるとするのであれば、第1項では侵略戦争のみを放棄しているのであるから自衛戦争のための「戦力」を保持しうるのは自明で第2項は全く不必要のはずであり、あえて戦力の不保持について規定する第2項の存在理由が説明できなくなるとの指摘がある[192]。 

「自衛戦争」の概念については学説上の混乱が問題点として指摘されている[193]。 

国際法(国連憲章)との関係上、限定放棄説において許容される「自衛戦争」とは当事者が法的に平等な地位において戦う闘争(full-blown selfdefence)ではなく、武力攻撃に対する自衛行動(limited selfdefence)にとどまるものであるとの見解がある[194]。

このような点から、本説に立った上で、憲法9条第2項前段により「戦力」は保持できないとして後述の自衛戦力肯定説をとらずに、人員・装備の点で「戦力」に至らない程度の「自衛力」を保持することはできるとする後述の自衛力論と結び付けて説く学説もある[195][注釈 8]。

ただ、限定放棄説(自衛戦争許容説・戦力限定不保持説)に対しては文理解釈や憲法の体系的解釈の点で難があるとの指摘があり、政府見解は前述のように交戦権を伴う自衛戦争と自衛権に基づき必要最小限度の範囲で行使される自衛行動とは概念を異にするとの立場をとりつつ、自衛行動のための「戦力」に至らない程度の実力についてのみ保持しうるとしており(後述)[196]、法解釈の構成上は本説(自衛戦争許容説・戦力限定不保持説)ではなく遂行不能説を基礎とする法解釈に立ちつつ後述の自衛力論をとる立場に立っている[152][197][注釈 9]。 


なお、「自衛戦争」の概念について、憲法第9条の解釈において従来の論者は「自衛戦争」の中に侵略的自衛戦争と自衛行動の双方を含意して用いてきたが、この二つは交戦法規の適用対象あるいは許容される軍事行動の態様の点で異なるとの指摘がある[198]。

一方で「自衛戦争」と「自衛行動」という概念の区別が議論に混乱をもたらしているとする見解もあり、政府見解の「自衛のための戦力」とは異なる「自衛力」また「自衛戦争」とは異なる「自衛権の発動」という理論構成について議論に混乱をもたらしているとする見解もある[199]。  

交戦権にかかる峻別不能説・遂行不能説・限定放棄説については、峻別不能説・遂行不能説・限定放棄説との関係を参照。  



自衛権の問題

自衛権の意義

自衛権(個別的自衛権)とは「外国からの違法な侵害に対して、自国を防衛するために緊急の必要がある場合、それに武力をもって反撃する国際法上の権利」と定義され、国際連合憲章51条ではこの個別的自衛権に加えて集団的自衛権も規定する[200]。この国際連合憲章51条を以下に引用する。


  この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。 


自衛権の行使

国際法上、自衛権の行使が正当化されるためには、違法性、必要性、均衡性の要件を満たすことが必要と考えられている[201][202]。  

●違法性

侵害が急迫または現実のものであって、その行為が違法(不正)なものであること。 

●必要性 

侵害排除という目的を実現するために一定の実力を行使する以外に選択する手段がないこと。 

●均衡性 

自衛のための実力行使は必要な限度で行使され、侵害行為に対して均衡を失わない程度のものであること。 


憲法9条と自衛権

憲法9条と自衛権の関係については、次のような説がある[203][注釈 10]。  


●自衛権放棄説

憲法9条は自衛権を放棄しているとする説[204]。 本説では自衛権が武力の行使を伴うことは不可避であり、日本国憲法の下では自衛権は放棄されているとみる[204]。 

本説に対しては、日本も主権国家である以上は自衛権そのものまで放棄しているとみることはできないのではないかとの指摘がある[205]。 


●自衛権留保説

◯自衛力なき自衛権説(非武装自衛権説) 

憲法9条は自衛権を放棄してはいないが、軍事力を伴わない手段に限られるとする説[206]。 

本説では国際法上において国家固有の権利として認められている自衛権は放棄されてはいないが、憲法9条第2項により「戦力」や「武力」を用いた自衛権の行使は禁じられているとみる[207]。 

判例では長沼ナイキ事件第一審判決がこの説を採ったものといわれる[208]。 

本説では軍事力を伴わない手段として、具体的に外交交渉、警察力、群民蜂起などを挙げる[209]。 

本説に対しては、外交交渉、警察力、群民蜂起による自衛権の行使という観念は、伝統的な「自衛権」の概念とは異なるものであり、一定の客観的な意味と役割を有しているはずの「自衛権」の固有の意味を失わせ異質化させるものであるとの指摘がある[210]。 


◯自衛力による自衛権説(自衛力肯定説・自衛力論) 

憲法9条は自衛権を放棄しておらず「戦力」に至らない程度の実力(自衛力・防衛力)の範囲において自衛権が認められるとする説[211]。 本説では国際法上において国家固有の権利として認められている自衛権は放棄されておらず、その自衛行動をとるために必要とされる「戦力」に至らない程度の実力を保持することは憲法上否定されていないとみる[212]。 政府見解(公定解釈)はこの立場をとっている[213]。判例では砂川事件上告審判決がこの説を採ったのではないかとみる見解がある一方[214]、この事案が駐留米軍に関するものであったことから、日本独自の自衛力を保持することの是非についてまでは明らかとなっていないとみる見解もある[215]。 学説においては本説の根拠として、国際法上において国家固有の権利として認められている自衛権は放棄されておらず、憲法が無防備・無抵抗を定めているとみることは正当でないが、憲法第9条に戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認が定められており、そのほか憲法に宣戦など戦争に関する規定が全くないことから、自衛権の行使は必要最小限度に限られ、その自衛行動をとるために必要とされる「戦力」に至らない程度の実力を保持することは憲法上否定されていないとみる[216]。本説は「戦力」に至らない程度の自衛のための必要最小限度の実力についてのみ保持しうると解釈するものであり、その一定の制約から伝統的な「自衛権」の概念は憲法上維持できないとみる点で自衛戦力許容説とは法理論上は異なる立場となる[217][218]。 本説に対しては自衛権の存在をもって直ちに憲法上の自衛力の保持の容認に繋がるか疑問であるとの指摘[219]や、「自衛力」と「自衛の戦力」との相違が必ずしも明確ではないとの指摘がある[220]。 自衛戦力による自衛権説(自衛戦力肯定説) 憲法9条は自衛戦争のための「戦力」を保持することを否定していないとする説[221]。 本説は上の限定放棄説と結びつく説であり[222]、憲法上、自衛戦争は放棄されておらず、そのための「戦力」を保持することも許容されているとみる[223]。 本説に対しては憲法9条の理解が形式的に過ぎ、戦力不保持について定める第2項前段の解釈の点で問題があるとの指摘がある[224]。 判例において百里基地訴訟第一審判決や長沼ナイキ事件第二審判決ではこのような解釈がとられたが、一方、砂川事件第一審判決ではこのような解釈に否定的な判断がなされた[225][226]。 本説は憲法上、自衛目的のための「戦力」の保持は可能であり、伝統的な「自衛権」の概念が憲法上も維持されるとみる点で上の他の説とは異なる[227][228]。 なお、政府見解(公定解釈)は自衛力による自衛権説に立っており、「「戦力」に至らない程度の必要最小限度の実力」は保持できるが「戦力」は保持できないとしているので自衛戦力肯定説とは異なる[229]。 



集団的自衛権

集団的自衛権とは「他の国家が武力攻撃を受けた場合、これに密接な関係にある国家が被攻撃国を援助し、共同してその防衛にあたる権利」と定義される[230]。国際連合憲章51条に定められている。日本の集団的自衛権について国際法上は、日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)第5条(C)が「連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する。」と定め、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言(日ソ共同宣言)第3項は「日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、それぞれ他方の国が国際連合憲章第51条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有することを確認する。」と定める。  


当初、政府見解はわが国は集団的自衛権を国際法上保有しているが、憲法上その行使は許されないという立場をとり[162]、1981年(昭和56年)の政府答弁書も「我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている」[231]と述べていた。  


しかし、2014年、閣議決定により、密接な関係にある他国への攻撃であり、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合などに限って必要最小限度の範囲で集団的自衛権も行使可能とする政府見解の見直しが行われることとなった[163]。  



「戦力」の解釈

「戦力」の内容

憲法9条第2項の「戦力」の内容については、次のような説がある[232][233][234][235][236]。  


●戦力全面不保持説

憲法9条第2項は一切の「戦力」の保持を禁じているとする説。「戦力」の内容の具体的基準をめぐって以下のような説に分かれる。 


◯潜在的能力説

憲法第9条第2項にいう「戦力」とは戦争に役立つ可能性のある潜在的能力をすべて含むとする説[237]。

本条英文「other war potential」などを根拠とする[238][239]。 

この説に対しては警察力、重工業施設、港湾施設、航空機や空港・飛行場、航空工学の研究など科学技術、エネルギー資源等までも「戦力」に含まれうることとなり広汎に過ぎ失当であるとの批判がある[240][241][242]。 


◯超警察力説

憲法第9条第2項にいう「戦力」とは警察力を超える程度の実力をいうとする説[243]。この説からは一般に憲法9条第2項にいう「戦力」とは「軍隊」あるいは「軍備」を指すものであるとし、「軍隊」を「外敵の攻撃に対して実力をもって抵抗し、国土を防衛することを目的として設けられる人的および物的手段の組織体」と定義する[244]。 


◯近代戦争遂行能力説

憲法第9条第2項にいう「戦力」とは近代戦争遂行に役立つ程度の装備・編成を備えるものをいうとする説[245]。1952年(昭和27年)に第四次吉田茂内閣によって政府見解として示されたものである[246][247][248]。 


◯超自衛力説

憲法第9条第2項にいう「戦力」とは自衛のための必要最小限度を超える実力をいうとする説[249]。

1954年の自衛隊発足に伴って第一次鳩山一郎内閣によって示されたもので[250]、現在の政府見解(公定解釈)の立場である[251]。

憲法第9条第1項は自衛権を否定しておらず、その否定されていない自衛権の行使の裏付けとなる自衛のため必要最小限度の実力は憲法第9条第2項にいう「戦力」にはあたらず、それを超えるものが憲法第9条第2項にいう「戦力」であると解釈する[252]。 


◯戦力限定不保持説(自衛戦力肯定説) 

憲法第9条第2項は自衛のための「戦力」まで禁ずるものではないとする説[253]。 「戦力」の判断基準 編集 「戦力」にあたるか否かの判断基準については、その実力組織を利用する者の目的という主観的観点から判断すべきとする主観説もあるが、実力組織そのものの性質という客観的観点から判断すべきとする客観説が通説となっている[254]。  不正規兵 編集 義勇隊(義勇兵)、組織的抵抗運動体、群民蜂起といった国際法にいう不正規兵は戦時において自然発生的に生じるものであり、憲法第9条第2項にいう「戦力」にはあたらないとされる[255]。  その他 編集 自衛隊員(幹部自衛官を除く)が入隊時に朗読、署名捺印をする服務の宣誓には三島事件以降、「日本国憲法の遵守」という文言が挿入された。  海上保安庁法には「この法律のいかなる規定も海上保安庁又はその職員が軍隊として組織され、訓練され、又は軍隊の機能を営むことを認めるものとこれを解釈してはならない」とする規定がある[256]。  矢部宏冶は著書「知ってはいけない隠された日本支配の構造」(講談社現代新書)で1945年終戦・占領時は、各国軍隊は国連の元に国連軍として各国を防衛する理想から世界にゆだねたが、1950年の朝鮮戦争で冷戦が始まり国連軍が機能しないのに、その後に憲法改正されないので矛盾が生じたとしている。  



「交戦権」の解釈

「交戦権」の内容

憲法9条第2項後段にある「交戦権」の内容については、次のような説がある[257][258]。  


●広く国家が戦争を行う権利をいうとする説[259] 

この説からは憲法9条2項後段は実質的には憲法9条1項と同じことを別の表現を用いて規定したものということになる[260]。なお、現代においては戦争が全面的に違法化されており国家が戦争を行う権利などありえようはずもないとして、本説における交戦権の否認の意味は事実上の戦争の放棄を意味するものとなるとの指摘がある[261]。 

この説に対しては、憲法9条2項後段が1項の規定との重複する内容のものとなってしまうとの批判[262]や国際法上の通常の用例に反する解釈であるとの批判[263]がある。 


国際法において交戦国に認められている権利の総体をいうとする説[264] 

この説からは具体的には船舶の臨検・拿捕、占領地行政等の権利などが「交戦権」に含まれるとする[265]。 この説に対しては「国の交戦権」の字句からみて日本語として無理のある解釈であるとの批判[266]がある。 


●上の両者をすべて含むとする説[267] ただし、広く国家が戦争を行う権利をいうとする説でいう交戦権は国際法において交戦国に認められている権利の総体をいうとする説でいう交戦権を包含する関係にあることから[268]、これら両者をすべて含むとするこの説でいう「交戦権」は結論的には広く国家が戦争を行う権利をいうとする説での「交戦権」と重なり合うとみられている[269]。そのため、この説は広く国家が戦争を行う権利をいうとする説と異なる説であるとする独自の存在意義に乏しいとの批判がある[270]。 


これらの説のうち「国際法において交戦国に認められている権利」をいうとする説が多数説となっている[271][注釈 11]。判例においても「国際法上の概念として、交戦国が国家として持つ権利」をいうとし(長沼ナイキ事件第一審判決、百里基地訴訟第一審判決)、政府見解も「交戦者として戦時国際法上認められている権利」をいうとしている[272]。  



峻別不能説・遂行不能説・限定放棄説との関係


上のように「交戦権」については「広く国家が戦争を行う権利」とみる説と「国際法において交戦国に認められている権利」とみる説がある[273]。  


憲法第9条第2項後段の交戦権の否認については、同項前段の「前項の目的を達するため」の文との関係が問題となるが、学説の多くは「前項の目的を達するため」の文は後段の「国の交戦権は、これを認めない」の部分にまでかからないとみている[274]。  


限定放棄説では憲法9条第2項前段の「前項の目的を達するため」を侵略戦争放棄という目的を達成するための条件を示したものとみるが、この文が句点によって区切られた憲法9条第2項後段の「国の交戦権は、これを認めない」の文言にまでかからないのではないかという問題を生じる[275][276]。この点については、限定放棄説から、「交戦権」の内容を「国際法において交戦国に認められている権利」と解釈し、憲法9条2項後段の交戦権の否認については、あえて他の国家に対して国際法上の交戦権を主張しない趣旨であるとみる説がある[277]。一方でこのような解釈とは異なり、そのまま「前項の目的を達するため」の文は後段の「国の交戦権は、これを認めない」の部分にまでかかり、交戦権の否認も侵略戦争放棄という目的を達成するための限定的なものとなるとする説もある[278]。この説によれば、憲法第9条第2項後段は、万が一、侵略的な行動を犯した場合にも交戦国の権利を主張できないという趣旨であるとの帰結となり、二重に侵略行動を抑圧するものであるとする[279]。なお、前述のように、政府見解は基本的には遂行不能説と同様の法解釈に立ちつつ「前項の目的を達するため」の文は憲法9条第2項後段の「国の交戦権は、これを認めない」の文にまでかからないとした上で、交戦権は全面的に否認されているが交戦権とは区別される自衛行動権(自衛権の行使として自国に対する急迫不正の武力攻撃を排除するために行われる必要最小限度の実力を行使する権利)については憲法上否認されていないと解釈する[280]。  


一般に限定放棄説からは「交戦権」を「広く国家が戦争を行う権利」と解釈すると結局のところ全面放棄となってしまうため、「交戦権」については「国際法において交戦国に認められている権利」と解釈する説とのみ結びつくと考えられている[281]。これに対して、峻別不能説及び遂行不能説からは、「交戦権」について「広く国家が戦争を行う権利」とみる説と「国際法において交戦国に認められている権利」とみる説のいずれの説とも結びつくといわれる[282]。  


峻別不能説(一項全面放棄説)に立って、「交戦権」を「国際法において交戦国に認められている権利」とみる説からは、憲法9条2項後段は憲法9条1項の戦争の全面的放棄の裏付けとして国際法上の観点から規定されたものと説明される[283]。また、峻別不能説(一項全面放棄説)に立って「交戦権」を「広く国家が戦争を行う権利」とみる説からは、憲法9条第1項は事実上の戦争を禁じるものであり、第2項は法上の戦争も否認するものであると説明される[284]。  


遂行不能説(二項全面放棄説)に立って、「交戦権」を「国際法において交戦国に認められている権利」とみる説からは、憲法9条2項前段は物的な面から、憲法9条2項後段は法的な面から戦争を不可能にする趣旨であると説明される[285]。また、遂行不能説(二項全面放棄説)に立って「交戦権」を「広く国家が戦争を行う権利」とみる説からは、憲法9条2項後段は憲法9条前段の戦力不保持とあわせて一切の戦争が行えなくなったことを示すものと説明される[286]。  


なお、「戦力」に至らない程度の実力を「自衛力」あるいは「防衛力」として認め、これについては保持しうるとする自衛力による自衛権説をとる場合の自衛力の行使と交戦権の否認との関係については次節参照。  



自衛力・防衛力との関係


憲法9条2項前段によって不保持の対象となっている「戦力」を保持することはできないが、「戦力」に至らない程度の実力(自衛力・防衛力)については保持することが認められるとする「自衛力による自衛権説」に立つ場合、その自衛力の行使と憲法9条2項後段(交戦権の否認)との関係が問題となる。この点について、自衛のための必要最小限度の自衛力の行使の関係においてのみ例外的に交戦権が存在しているとみる見解[287]がある一方、政府見解のように憲法9条2項前段の「前項の目的を達するため」は憲法9条2項後段(交戦権の否認)にはかからないので交戦権は全面的に否認されているが、交戦権とは区別される自衛行動権については憲法上否認されていないとみる見解[288]もある。この点について、昭和44年の参議院予算委員会において高辻正己内閣法制局長官(当時)は「あくまでも憲法の第九条二項が否認をしている交戦権、これは絶対に持てない。しかし、自衛権の行使に伴って生ずる自衛行動、これを有効適切に行なわれるそれぞれの現実具体的な根拠としての自衛行動権、これは交戦権と違って認められないわけではなかろうということを申し上げた趣旨でございますので、不明な点がありましたら、そのように御了解を願いたいと思います」[289]と述べている。  


なお、自衛行動の範囲、自衛のための武力行使の要件についての政府の憲法解釈は2014年7月に変更されている[290]。  


従来の武力行使の3要件[290] 

1.

我が国に対する急迫不正の侵害があること これを排除するために他に適当な手段がないこと 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと 2014年7月に閣議決定された武力行使の新3要件[290] 我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること 


2.

これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと 


3.

必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと 



自衛行動の地理的範囲


政府見解では我が国が自衛権の行使として我が国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することのできる地理的範囲は、必ずしも我が国の領土、領海、領空に限られるものではなく、自衛権の行使に必要な限度内で公海・公空に及ぶとする[291]。  


また、武力行使の目的をもって自衛隊を他国の領土、領海、領空に派遣することは、一般に自衛のための必要最小限度を超えるものであって、憲法上許されないが[292]、わが国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対して誘導弾等による攻撃が行われた場合に、その攻撃を防ぐのに必要最小限度の措置をとること、たとえば誘導弾等による攻撃を防御するのに、他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくということは、法理的には自衛の範囲に含まれ可能であるとする[293]。  



保有しうる兵器の範囲


政府見解では性能上専ら他国の国土の潰滅的破壊のためにのみ用いられる兵器については、いかなる場合においても、これを保持することが許されないとし、例えばICBM、長距離戦略爆撃機、攻撃型空母については保有することが許されないとする[294]。  


一方、兵器の範囲が自国防衛のみに限定されるという制約は、日本が防御や隠密性に優れた兵器開発に力を注ぐ事となったとして、CNNはこの制約がむしろ日本の戦力をさらに強化するのに役立ったという見方があると報じた[295]。  



戦時国際法及び国際人道法の適用


交戦権の否認との関係で戦時国際法及び国際人道法の適用が議論されることがあるが、1978年(昭和53年)の衆議院内閣委員会において真田秀夫内閣法制局長官(当時)は「憲法の制約内における実力行使はできるわけでございますから、その実力行使を行うに際して既述されている戦時国際法規は適用があります。たとえば、侵略軍の兵隊を捕虜にした場合にはその捕虜としての扱いをしなければならないというようなことは当然適用があるということでございます」[296]と述べている。また、同委員会において柳井俊二外務省条約局法規課長(当時)は「一九四九年のいわゆるジュネーブ諸条約その他条約がございまして、これはわが国も締約国になっておりますし、これらの条約に規定されましたところのもろもろのルールというものはわが国についても適用があるというふうに考えております」[297]と述べている。さらに、平成2年の国際連合平和協力に関する特別委員会において柳井俊二外務省条約局長(当時)は「我が国が紛争当事国にならない場合におきましては、自衛官もあるいは文民もいわゆる第四条約、これは戦時における文民の保護に関する千九百四十九年のジュネーヴ条約でございますが、この文民の保護に関する条約のもとで保護を受けるということでございまして、この場合におきましては、自衛官の場合もあるいはそれ以外の文官の場合も特に変わりなく人道的な保護を受けるということでございます。(中略)このようなことは実際上は余り考えにくいわけでございますけれども、ある国が我が国をいわば紛争当事国とみなすというようなことを全く理論的に考えました場合におきましては、この自衛官は国際法上軍人とみなされますから捕虜の待遇を受けるわけでございます。この場合におきましては、ヘーグ条約あるいは捕虜の待遇に関する千九百四十九年のジュネーヴ条約の保護を受けます。そして文民の方々は、先ほど挙げましたジュネーブ第四条約、文民の保護に関する条約の保護を受けることになります」と述べている[298]。  



憲法改正権との関係

●憲法改正無限界説 

憲法改正に限界はないとする説からは憲法9条も当然に改正しうるとする[299]。 


●憲法改正限界説 

◯憲法改正には限界があるが、国民主権原理のみが憲法改正の限界にあたるとし、憲法9条は憲法改正の限界に含まれない(憲法9条第1項の「永久に」に法的意味はなく国家の方針を示した宣言的文言である)とする説[300] 


◯憲法改正には限界があり、憲法9条第1項については憲法改正の限界に含まれるとみる説[301] 


◯憲法改正には限界があり、憲法9条第1項・第2項ともに憲法改正の限界に含まれるとみる説[302]



# by ichiro_ishikawa | 2019-06-03 00:50 | 文学 | Comments(0)  

憲法第9条 立法の経緯1


憲法改正要綱と

マッカーサー・ノートと

GHQ原案

終戦後、憲法改正に着手した日本政府は大日本帝国憲法の一部条項を修正した、陸海軍をまとめて「軍」とする、軍事行動には議会の賛成を必要とする、という規定のみを盛り込んで済ませるつもりであった。 



「憲法改正要綱」(松本案)

1946年(昭和21年)2月8日

憲法問題調査委員会(松本烝治委員長)がGHQに提出。


憲法改正要綱

五 

第十一条中ニ「陸海軍」トアルヲ「軍」ト改メ且第十二条ノ規定ヲ改メ軍ノ編制及常備兵額ハ法律ヲ以テ之ヲ定ムルモノトスルコト(要綱二十参照) 

六 

第十三条ノ規定ヲ改メ戦ヲ宣シ和ヲ講シ又ハ法律ヲ以テ定ムルヲ要スル事項ニ関ル条約若ハ国ニ重大ナル義務ヲ負ハシムル条約ヲ締結スルニハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要スルモノトスルコト但シ内外ノ情形ニ因リ帝国議会ノ召集ヲ待ツコト能ハサル緊急ノ必要アルトキハ帝国議会常置委員ノ諮詢ヲ経ルヲ以テ足ルモノトシ此ノ場合ニ於テハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ報告シ其ノ承諾ヲ求ムヘキモノトスルコト 



これに対して、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)では戦争と軍備の放棄の継続が画策されていた。その意思は、憲法草案を起草するに際して守るべき三原則として、最高司令官ダグラス・マッカーサーがホイットニー民政局長(憲法草案起草の責任者)に示した「マッカーサー・ノート」に表れている。

その三原則のうちの第二原則は以下の通り。  


マッカーサー三原則(「マッカーサーノート」)

第二原則 (原文)  

War as a sovereign right of the nation is abolished. Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security. It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection. 

No Japanese Army, Navy, or Air Force will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon any Japanese force. 

(日本語訳)  

国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる

日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。 



この指令を受けて作成された「GHQ原案」(マッカーサー草案)には次の条文が含まれていた。

なお、この段階では現行の9条に相当する条文は8条に置かれていた。  


GHQ原案 

(原文)  

Chapter II Renunciation of War Article VIII War as a sovereign right of the nation is abolished. The threat or use of force is forever renounced as a means for settling disputes with any other nation. 

No army, navy, air force, or other war potential will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon the State. 

(外務省仮訳)  

第二章 戦争ノ廃棄 

第八条 

国民ノ一主権トシテノ戦争ハ之ヲ廃止ス

他ノ国民トノ紛争解決ノ手段トシテノ武力ノ威嚇又ハ使用永久ニ之ヲ廃棄ス 

陸軍、海軍、空軍又ハ其ノ他ノ戦力ハ決シテ許諾セラルルコト無カルヘク又交戦状態ノ権利ハ決シテ国家ニ授与セラルルコト無カルヘシ 


次のような点でGHQ原案はマッカーサー・ノートとは異なる。  


1.

マッカーサー・ノート第二原則第2文「even for preserving its own security(自己の安全を保持するための手段としてさえも)」に該当する部分が削除された。 

これはすべての国は自国を守る固有の権利を有しており、自衛権の存在・行使を明文で否定することは不適当であるとGHQ原案の作成にあたった運営委員会の法律家らが考えたためとされる。マッカーサーも後年の回想録の中で憲法9条は自衛権まで放棄したものではないと述べている。 


2.

「The threat or use of force(武力による威嚇又は使用)」の文言が加えられた。 

これは前年に国際連合原加盟国によって調印されていた国連憲章2条4を受けたものとされている。 


3.

「forever(永久に)」の文言が加えられた。 


4.

マッカーサー・ノート第二原則第3文に該当する部分については修正ののち前文第2項冒頭に回されることとなった。 


5.

マッカーサー・ノート第二原則第4文に該当する部分については段落を分けないこととした。 


6.

「other war potential(その他の戦力)」の文言が加えられた。 


これは第一次世界大戦以後の戦争が国家の総力戦となったことを意識したものとされている。 


7.

「any japanese force(日本軍)」から「the state(国)」に文言がそれぞれ変更された。 


なお、GHQ案の第一次案では二段落構成から一段落構成に改められていたが、最終案では二段落構成に戻されている。  



3月2日案と3月5日案 

GHQ原案を受けて日本政府が起草した3月2日案では次の文章となっている。  


3月2日案

第二章 戦争ノ廃止 

第九条 戦争ヲ国権ノ発動ト認メ武力ノ威嚇又ハ行使ヲ他国トノ間ノ争議ノ解決ノ具トスルコトハ永久ニ之ヲ廃止ス。 陸海空軍其ノ他ノ戦力ノ保持及国ノ交戦権ハ之ヲ認メズ。 


次のような点で3月2日案はGHQ原案とは異なる。 


1.

第1章に条文が追加されたため、第2章の第8条であった本条は繰り下がって第9条となった。 


2.

第1項の第1文と第2文はつなげられ一つの文となった。 


3.

「他国トノ間ノ争議ノ解決ノ具トスルコトハ」の文言が戦争にもかかるように解釈しうることとなった。 


4.

「廃棄」から「廃止」に改められた。 


5.

第2項の最後の部分が「之ヲ認メズ」に改められた。 


さらに議論が重ねられ、3月5日案では次の文章となっている。 


3月5日案 

第二章 戦争ノ抛棄 

第九条 国家ノ主権ニ於テ行フ戦争及武力ノ威嚇又ハ行使ヲ他国トノ間ノ争議ノ解決ノ具トスルコトハ永久ニ之ヲ抛棄ス 陸海空軍其ノ他ノ戦力ノ保持ハ之ヲ許サス。国ノ交戦権ハ之ヲ認メス 


次のような点で3月5日案は3月2日案とは異なる。  


1.

「国家ノ主権ニ於テ行フ戦争」という表現に改められた。 


2.

「他国トノ間ノ争議ノ解決ノ具トスルコトハ」の文言について、国家の主権において行う戦争と武力の威嚇・行使とが「及」で結ばれることとなったため、国家の主権において行う戦争にもかかることが明確になった。 


3.

「廃止」から「抛棄」に改められた。 


4.

第2項は「之ヲ許サズ」、「認メズ」と分けて書き改められた。 



憲法改正草案要綱

1946年(昭和21年)3月6日に政府案として発表された「憲法改正草案要綱」には次の文章が含まれている。  


憲法改正草案要綱

第二 戦争ノ抛棄 

第九 国ノ主権ノ発動トシテ行フ戦争及武力ニ依ル威嚇又ハ武力ノ行使ヲ他国トノ間ノ紛争ノ解決ノ具トスルコトハ永久ニ之ヲ抛棄スルコト 陸海空軍其ノ他ノ戦力ノ保持ハ之ヲ許サズ国ノ交戦権ハ之ヲ認メザルコト 



憲法改正草案

1946年(昭和21年)4月17日に政府案として発表され枢密院に諮詢された「憲法改正草案」では次の条文となっている  


憲法改正草案(政府原案) 

第二章 戦争の抛棄 

第九条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。 第二項 陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない。国の交戦権は、認められない。 


次のような点で憲法改正草案は要綱とは異なる。  


1.

条文が口語化された。 


2.「戦争及」を「戦争と」に改めた。 


3.「具」を「手段」に改めた。 


4.

第2項は二つの文に分離された。 


5.

「之ヲ」の文言を取り除き、第二項について「許されない」、「認められない」とした。 


6.

表題を「戦争の抛棄」とした。 



枢密院での審議を受け、政府が若干の修正を行った上で1946年(昭和21年)5月25日に改めて枢密院に諮詢した案では次の条文となっている。  


憲法改正草案(政府修正案) 

第二章 戦争の抛棄 

第九条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。 第二項 陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。 




衆議院での審議と芦田修正 


憲法改正草案の案文は枢密院で可決され、1946年(昭和21年)6月25日に衆議院に上程された。そして、芦田均が委員長を務める衆議院帝国憲法改正案委員小委員会においていわゆる芦田修正が加えられた。  


芦田修正は第90回帝国議会の衆議院帝国憲法改正小委員会での審議過程において第9条に加えられた修正であり、第1項冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の文言を加えた。これは1946年2月3日にマッカーサーがホイットニー民政局長に示したマッカーサー・ノートにおける「日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる」が復活したもので、憲法前文第2項の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と一連のものであると考えられる。  


第2項冒頭に「前項の目的を達するため」の文言を入れた修正を指す。特に第2項冒頭の修正を指して用いられることもある。 


第90回帝国議会の衆議院帝国憲法改正小委員会は1946年(昭和21年)7月25日から8月20日にかけて13回にわたって開催された。帝国議会に提出された際の憲法改正案の案文は次のようなものである。 


憲法改正草案

第二章 戦争の抛棄

第九条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。 第二項 陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。 


この案文については、積極的な印象がなく自主性が乏しいとの意見が出されたため、7月29日に芦田委員長は次のような試案を提示した。  


芦田試案 

第二章 戦争の抛棄 

第九条 日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず。国の交戦権を否認することを声明す。 第二項 前掲の目的を達するため、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを抛棄する。 


このうち「声明す」の文言については文語体であり口語体の条文にはふさわしくないとして「宣言する」に改められた。7月30日の小委員会は金森国務大臣が出席して開かれたが、この段階での試案の案文は次のようなものとなっていた。  


第九条 日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力は、これを保持せず。国の交戦権は、これを否認することを宣言する。 

第二項 前掲の目的を達する為め、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 


この試案では原案(政府案)における第1項と第2項の順序が入れ替えられていたが、犬養健議員から第1項と第2項の順序をもとの原案(政府案)のままに戻し、その冒頭に「日本国民は・・・」の文言を入れてはとの提案がなされた。

このほか、語尾の「宣言する」について、言い放つことで自主性が出るとして、「放棄する」に修正された。

また、「抛棄」の字句が漢字制限の関係で「放棄」に改められた。その結果として次のような法文となった。  


日本国憲法 

第二章 戦争の放棄 

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 

第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 


1946年(昭和21年)8月24日、衆議院本会議での委員長報告において芦田均はいわゆる芦田修正について「戦争抛棄、 軍備撤退ヲ決意スルニ至ツタ動機ガ、 専ラ人類ノ和協、 世界平和ノ念願ニ出発スル趣旨ヲ明カニセントシタ」ものであると述べている。

その後、この修正について芦田は、自衛戦力を放棄しないための修正であり、このことは小委員会の会議録にも書かれていると発言している。ところが、のちに公開された小委員会の速記録や『芦田均日記』からは修正の意図がこのような点にあったかは必ずしも実証的には確認できないといわれる。

ただし、国際法の専門家である芦田が自衛のための戦力保持の可能性を生じることとなった点について気付いていなかったとは思われないとみる見方もある。

このようなこともあって芦田の真意は未だに謎とされている。  


芦田の真意の問題は別として、総司令部や極東委員会は芦田修正の結果として「defence force」を保持することが解釈上可能になったと考えられるようになったといわれる。  

芦田修正について総司令部からの異議はなかったといわれる。

これに対して極東委員会の反応は異なっていた。芦田修正については、自衛(self-defence)を口実とした軍事力(armed forces)保有の可能性があるとした極東委員会の見解が有名であり、この見解の下、芦田修正を受け入れる代わりに、文民統制条項(civilian)を入れるよう、GHQを通して日本国政府に指示し、憲法第66条第2項が設けられることとなった。


# by ichiro_ishikawa | 2019-06-02 23:32 | 文学 | Comments(0)  

日本国憲法の制定


ポツダム宣言の受諾と占領統治


1945年(昭和20年)7月

米英ソ三国首脳(アメリカのトルーマン大統領・イギリスのチャーチル首相・ソ連のスターリン共産党書記長)は、第二次世界大戦の戦後処理について協議するため、ドイツのベルリン郊外・ポツダムで会談を行った(ポツダム会談)。

この席で三者は、「日本に降伏の機会を与える」ための降伏条件を定め、中華民国の蒋介石・国民政府主席の同意を得て、7月26日、米英中の三国首脳の名でこれを発表した(「ポツダム宣言」)。


この「ポツダム宣言」のうち、特に憲法に関する点は次の点である。  


軍国主義を排除すること。 


六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス 


七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ 


民主主義の復活強化へむけて一切の障害を除去すること。 言論、宗教及び思想の自由ならびに基本的人権の尊重を確立すること。 


十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ 


日本政府は、先ずこれを「黙殺」すると発表し、態度を留保した。

アメリカ軍は翌8月6日に広島、同9日に長崎に原爆を投下、ソ連軍は8月8日に対日参戦。


ここに至って日本政府は戦争終結を決意、

8月10日

連合国にポツダム宣言を受諾すると伝達。


日本政府はこの際、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾」するとの条件を付した(8月10日付「三国宣言受諾ニ関スル件」)。

これは、受諾はするものの、天皇を中心とする政治体制は維持する、いわゆる国体護持を条件とすることを意味した。  


連合国は、この申し入れに対して、翌8月11日に回答を伝えた。この回答は、アメリカの国務長官であったジェームズ・F・バーンズの名を取って「バーンズ回答」と呼ばれる。この「バーンズ回答」で連合国は、次の2点を明示した。


1.降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のためその必要と認める措置を執る「連合国軍最高司令官」 (SCAP) に従属する (subject to)。 


From the moment of surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms. 


2.日本の最終的な統治形態は、ポツダム宣言に遵い日本国国民の自由に表明する意思に依り決定される。

 

The ultimate form of Government of Japan shall in accordance with the Potsdam Declaration be established by the freely expressed will of the Japanese people. 


日本政府はこの回答を受け取り、御前会議により協議を続けた結果、

8月14日

ポツダム宣言の受諾を決定、連合国に通告。

ポツダム宣言の受諾は、日本国民に対しては、

8月15日正午

ラジオを通じて昭和天皇が「大東亜戦争終結ノ詔書」を読み上げる「玉音放送」で知らせた。この詔書の中では、「国体ヲ護持シ得」たとしている


8月28日

連合国軍先遣部隊が厚木飛行場に到着。


8月30日

連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木に到着。

マッカーサーは、直ちに総司令部 (GHQ) を設置し、日本に対する占領統治を開始した。この占領統治は、原則として、日本の既存統治機構を通じて間接的に統治する方式を採り、例外的に特に必要な場合にのみ、直接統治を行うものとした。


9月2日

日本の政府全権が、横浜港のアメリカ戦艦・ミズーリ号上で、降伏文書に署名。  

降伏により、日本は独立国としての主権を事実上失い、その統治権は連合国軍最高司令官の制約の下に置かれた。連合国軍最高司令官は、「ポツダム宣言」を実施するために必要な措置を執ることができるものとされた。


午前9時

まずマッカーサーが砲塔前で演説。  

日本側からは、天皇および大日本帝国政府を代表して重光葵外務大臣が、また大本営を代表して梅津美治郎参謀総長が署名。  

連合国側からは、まず連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが4連合国(米、英、ソ、中)を代表するとともに日本と戦争状態にある他の連合国のために署名。

その後、アメリカ合衆国代表チェスター・ニミッツ、中華民国代表徐永昌、イギリス代表ブルース・フレーザー、ソビエト連邦代表クズマ・デレヴャーンコ 、オーストラリア代表トーマス・ブレイミー 、カナダ代表ムーア・ゴスグローブ、フランス代表フィリップ・ルクレール、オランダ代表コンラート・ヘルフリッヒ、ニュージーランド代表レナード・イシットが署名。  




日本政府および日本国民の

憲法改正動向


9月6日

「連合国最高司令官の権限に対する伝令書」(権限をポツダム宣言ではなく無条件降伏の上におくとした)が大統領名でマッカーサーのもとに送られる。


9月13日

近衛文麿、マッカーサーを訪問。


9月17日

重光葵外相辞任、後任に吉田茂任命。

GHQ、横浜から東京に移転。


9月22日

米国務省、「初期対日方針」(三省調整委員会「初期対日政策」と統合参謀本部「基本司令」)発表。※憲法改正はナシ


9月25日

『ニューヨーク・タイムズ』紙との会見。

予め用意された質問書への「回答正文」に「東條非難」、一面トップに掲載。※下記詳述


9月27日

天皇、マッカーサーを極秘訪問(両者会見に強い反対をしていた重光更迭で実現)。

日本国憲法の制定_c0005419_15334739.jpg
「全責任」発言(1964『マッカーサー回顧録』)
●2002年8月5日「朝日新聞」
当会通訳奥村勝蔵の後任通訳松井明が残した未完公文書コピーの存在が判明。松井は、奥村から削除した箇所があると伝えられていた。それは「全責任」ではないか。
●2002年10月上旬
豊下楢彦による「松井文書」の詳細な検討と分析→ 削除部は「全責任」でなく、「東條非難」ではないか。
●2002年10月、外務省公開文書「「マッカーサー元帥」との御会見録」奥村勝蔵通訳記録
「全責任」発言はなく、「遺憾」との発言のみが記録。
2006年7月、情報公開請求
会見直前に新たに正文に東條の名が書き込まれていたことが判明。
「東條非難」は確実。
なら「全責任」は矛盾。「遺憾」とあることから、
ただの「責任」発言はあり、奥村が削除したのはその「責任」ではないか。
「責任」発言にマッカーサーはゲタをはかせ「全責任」とした。東京裁判では表沙汰にせず裏で流通させ、検察側の証人に軍部の責任とさせた。
のちの9条においても、幣原喜重郎は「ただの」戦争放棄(相互)を述べたことにマッカーサーは同じくゲタをはかせ「特別な」戦争放棄(戦力不保持、交戦権の否認)とした。
「(加藤典洋『憲法9条』2019

10月4日

マッカーサーは、東久邇宮内閣の国務大臣であった近衛文麿に、憲法改正を示唆。  

総司令部は、治安維持法の廃止、政治犯の即時釈放、天皇制批判の自由化、思想警察の全廃など、いわゆる「自由の指令」の実施を日本政府に命じた。


10月5日

東久邇宮内閣は、この指令を実行できないとして総辞職。


10月9日

幣原喜重郎内閣が成立。 


10月11日

幣原首相が新任の挨拶のためマッカーサーを訪ねた際にも、マッカーサーから口頭で「憲法ノ自由主義化」の必要を指摘された。




内大臣府:近衛文麿の動き


先にマッカーサーから憲法改正の示唆を受けた近衛(東久邇宮内閣の総辞職後は内大臣府御用掛)は、政治学者の高木八尺、憲法学者の佐々木惣一(10月13日内大臣府御用掛に任命)、ジャーナリストの松本重治らとともに、憲法改正の調査を開始。


10月8日

近衛は高木らとともに総司令部政治顧問のジョージ・アチソンと会談して助言を請い、「個人的で非公式なコメント」として12項目に及ぶ憲法の問題点の指摘や改正の指示を受けた。


11月1日

総司令部は「近衛は憲法改正のために選任されたのではない」として、マッカーサーが近衛に伝えた憲法改正作業の指示は、近衛個人に対してではなく、日本政府に対して行ったものであるとの声明を発表。これにより、近衛らの調査活動は頓挫した。

それでも近衛らは作業をつづける。


11月22日

近衛案(「帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要綱」)天皇に奉答。

11月24日

佐々木案(「帝国憲法改正ノ必要」)を天皇に奉答(なお、総司令部の指示により、11月24日に内大臣府は廃止された)。

12月16日

近衛文麿、服毒自殺。



内閣:憲法問題調査委員会(松本委員会)の動き


10月25日

近衛らの作業と並行して、幣原内閣は、松本烝治・国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置して、憲法改正の調査研究を開始。  


憲法問題調査委員会(松本委員会)のメンバー

委員長松本烝治(国務大臣) 

顧問清水澄(学士院会員)、美濃部達吉(学士院会員)、野村淳治(東大名誉教授) 

委員宮澤俊義(東大教授)、清宮四郎(東北大教授)、河村又介(九大教授)、石黑武重(枢密院書記官長→法制局長官)、楢橋渡(法制局長官→内閣書記官長)、入江俊郎(法制局第一部長)、佐藤達夫(法制局第二部長) 後に、小林次郎(貴族院書記官長)、大池眞(衆議院書記官)、奥野健一(司法省民事局長)、中村健城(大蔵省主計局長、後に後任の野田卯一へ交替)、諸橋襄(枢密院書記官長、石黑の後任)らが加わった。 

補助員:刑部莊(東大助教授)、佐藤功(東大講師)、窪谷直光(大蔵書記官) 

嘱託古井喜実(元内務次官) 


こうして、内閣と内大臣府の双方で、それぞれ憲法改正の調査活動が進められることに。このうち、近衛らの調査に対しては、近衛自身の戦争責任や、閣外であり憲法外の機関である内大臣府で憲法改正作業を行うことに対する憲法上の疑義などが問題視されて、批判が高まった。


かかる経緯をたどって、憲法改正作業は、内閣の下に設置された松本委員会に一本化されることに。



松本委員会は、

10月27日

第1回総会(以後、1946年2月2日まで7回開催)

10月30日

第1回調査会(小委員会)(以後、1946年1月26日まで15回開催)

12月8日

衆議院予算委員会で、松本委員長「憲法改正四原則」を示す。

「憲法改正四原則」の概要は次の通り。


1.天皇が統治権を総攬するという大日本帝国憲法の基本原則は変更しないこと。 

天皇ガ統治権ヲ総攬セラルルト云フ大原則ハ、是ハ何等変更スル必要モナイシ、又変更スル考ヘモナイト云フコト 


2.議会の権限を拡大し、その反射として天皇大権に関わる事項をある程度制限すること。 

議会ノ協賛トカ、或ハ承諾ト云フヤウナ、議会ノ決議ヲ必要トスル事項ハ、之ヲ拡充スルコトガ必要デアラウ、即チ言葉ヲ換ヘテ申セバ、従来ノ所謂大権事項ナルモノハ、其ノ結果トシテ或ル程度ニ於テ制限セラルルコトガ至当 


3.国務大臣の責任を国政全般に及ぼし、国務大臣は議会に対して責任を負うこと。 

国務大臣ノ責任ガ国政全般ニ亙リマシテ、而シテ国務大臣ハ帝国議会ニ対シ、即チ言葉ヲ換ヘテ申セバ、間接ニハ国民ニ対シテ責任ヲ負フト云フコト 


4.人民の自由および権利の保護を拡大し、十分な救済の方法を講じること。 

民権ト申シマスカ、人民ノ自由、権利ト云フヤウナモノニ対スル保護、確保ヲ強化スルコトガ必要デアラウ 


1946年(昭和21年)1月9日

第10回調査会(小委員会)に、松本委員長は「憲法改正私案」を提出。この「私案」は「憲法改正四原則」をその内容としており、委員会の立案の基礎とされた。

委員会は、この「憲法改正四原則」に基づいて憲法を逐条的に検討。

宮沢委員が「私案」を要綱化して松本がこれに手を加え、「憲法改正要綱」とした。


1月26日

第15回調査会では、この「憲法改正要綱」(甲案)と「憲法改正案」(乙案)を議論した。

内閣は1月30日から2月4日にかけて連日臨時閣議を開催して、「私案」「甲案」「乙案」を審議。






他方、近衛や松本委員会による憲法改正の調査活動が進むにつれ、国民の間にも憲法問題への関心が高まった。近衛や松本委員会の動き、各界各層の人々の憲法に関する意見なども広く報道され、政党や知識人のグループなどを中心に、多種多様な民間憲法改正案が発表された。しかし、その多くは大日本帝国憲法に若干手を加えたものであって、大改正に及ぶものは少数であった。


政党その他の団体による憲法改正試案

表題/作成団体(構成員等)/概要・特徴/発表日 


憲法草案要綱[49]

憲法研究会高野岩三郎、鈴木安藏、室伏高信、杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄ら)。

1945年の10月から12月にかけて活動。

象徴的な天皇制を残しつつ国民主権の原則と直接民主制的諸制度を採用。

12月26日、首相官邸に提出。

12月26日、発表。

GHQは直ちにこれを英訳し、翌月の1月2日には、その内容に注目するとの書簡を作成した。

米国では国民主権が軽視されていたため、この「要綱」に基づき国民主権がGHQ案に盛り込まれたとされる。一方で、象徴天皇制という案は、これ以前に存在した。

しかし、「要綱」とは別に、より早い時期に憲法研究会のメンバーがGHQの要人に接触しているため、憲法研究会が象徴天皇制を発案し、GHQ要人を介してGHQ案に反映させたのだと、小西豊治は主張している。


日本共和国憲法私案要綱(改正憲法私案要綱)

高野岩三郎

憲法研究会の主軸であったにもかかわらず天皇制を残したことに関して不満を表明し、単独で高野が構想した。大統領を元首とする共和制を提示。

同年12月28日 


自由黨 憲法改正要綱

日本自由党 (鳩山一郎総裁)

同党憲法改正特別調査会の浅井清(慶大教授)と金森徳次郎が中心となって作成。

1946年(昭和21年)1月21日 


進歩黨 憲法改正要綱

日本進歩党 (町田忠治総裁)

天皇大権の一部を削除・廃止するが、天皇は「臣民の輔翼に依り憲法の条規に従ひ統治権を行ふ」。

同年2月14日 


社会黨 憲法改正要綱

日本社会党 (片山哲書記長)

高野岩三郎、森戸辰男らが起草委員となる。「主権は国家(天皇を含む国民協同体)に在り」。統治権は分割し、主要部を議会に、一部を天皇に帰属(天皇大権大幅制限)。生存権の保障、死刑の廃止等。

同年2月14日 


日本國憲法草案

憲法懇話会 (尾崎行雄、岩波茂雄、渡辺幾治郎、石田秀人、稻田正次、海野晋吉)

立法権を天皇と議会に認め、地方議会議員、職能代表、学識経験者からなる参議院を設置する。司法裁判所に違憲審査権を付与する。

同年3月5日  


日本人民共和國憲法(草案)

日本共産党 (德田球一書記長)

天皇制を廃止して人民主権の原則を採用。自由権・生活権等について、社会主義の原則に基づいて保障。

同年6月29日 (骨子は前年11月11日発表)


なお、内閣情報局世論調査課が共同通信社調査部に委嘱して行った「憲法改正に関する輿論調査報告」(1945年(昭和20年)12月19日付、報告総数287件)では、全体の75%(216件)が「憲法改正を要する」としている[53]。  






マッカーサー草案


12月27日

モスクワで、極東委員会の権限拡大合意。

1月7日

アメリカ本国からGHQに「日本の統治機構の改革」が届けられる。


総司令部は、当初、憲法改正については過度の干渉をしない方針であった。しかし総司令部は、1946年(昭和21年)の年明け頃から、民間の憲法改正草案、特に憲法研究会の「憲法草案要綱」に注目しながら、憲法に関する動きを活発化させた。

それでも、同年1月中は、日本政府による憲法改正案の提出を待つ姿勢をとり続けた。  


1月26日

幣原喜重郎、用立ててもらったペニシリンの礼にマッカーサーを訪問。「特別の戦争放棄」を示唆、マッカーサーを感激させる(『マッカーサー回顧録』)※上述



マッカーサーの憲法改正権限(ホイットニー・メモ) 


この1月時点で、マッカーサーが日本の憲法改正について、いかなる権限を持つのかという法的根拠、法的論点が総司令部内で問題となっていた。


2月1日

この点につき、総司令部の民政局長であったコートニー・ホイットニーは「現在閣下は、日本の憲法構造に対して閣下が適当と考える変革を実現するためにいかなる措置をもとりうるという、無制限の権限を有しておられる」と結論づけるリポートを提出。

ただしこのレポートでは、2月26日に迫った極東委員会の発足後は、マッカーサーの権限が無制限でなくなることも併せて指摘している。  


毎日新聞によるスクープ報道の波紋


2月1日

毎日新聞が「松本委員会案」なるスクープ記事を掲載。この記事に載った「松本委員会案」とは、宮沢委員が提出した「宮澤甲案」であった。


この「宮澤甲案」の内容は、松本委員会に提出された草案の中では比較的リベラルなもので、内閣の審議に供された「乙案」に近かった。

政府は直ちに、このスクープ記事の「松本委員会案」は実際の松本委員会案とは全く無関係であるとの談話を発表した。  


しかし、この記事を分析したホイットニー民政局長は、それが真の松本委員長私案であると判断し、また、この案について「極めて保守的な性格のもの」と批判し、世論の支持を得ていないとも分析した。  



総司令部による意思決定


そこで総司令部は、このまま日本政府に任せておいては、極東委員会の国際世論(特にソ連、オーストラリア)から天皇制の廃止を要求されるおそれがあると判断し、自ら草案を作成することを決定した。

(本国には相談をもちかけない独断)


その際、日本政府が総司令部の「受け容れ難い案」を提出された後に、その作り直しを「強制する」より、その提出を受ける前に総司令部から「指針を与える」方が、戦略的に優れているとも分析した。  


2月3日

マッカーサーは、総司令部が憲法草案を起草するに際して守るべき三原則を、憲法草案起草の責任者とされたホイットニー民政局長に示した(「マッカーサー・ノート」)。

三原則の内容は以下の通り。


1.天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。 

Emperor is at the head of the state. His succession is dynastic. His duties and powers will be exercised in accordance with the Constitution and responsive to the basic will of the people as provided therein. 


2.国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。 

War as a sovereign right of the nation is abolished. Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security. It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection. No Japanese Army, Navy, or Air Force will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon any Japanese force. 


3.日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。予算の型は、イギリスの制度に倣うこと。 

The feudal system of Japan will cease. No rights of peerage except those of the Imperial family will extend beyond the lives of those now existent. No patent of nobility will from this time forth embody within itself any National or Civic power of government.Pattern budget after British system. 


この三原則を受けて、総司令部民政局には、憲法草案作成のため、立法権、行政権などの分野ごとに、条文の起草を担当する八つの委員会と全体の監督と調整を担当する運営委員会が設置された。


2月4日

会議で、ホイットニーは、全ての仕事に優先して極秘裏に起草作業を進めるよう民政局員に指示。以下はその会議における議事録。 


Summary Report on Meeting of the Government Section, 4 February 1946, Alfred Hussey Papers; Constitution File No. 1, Doc. No. 4  


that the only possibility of retaining the Emperor and the remnants of their owm power is by their acceptance and approval of a Constitution that will force a decisive swing to left. General Whitney hopes to reace this decision by persuasive arugument; if this is not possible, General MacArthur has empowered him to use not merely the threat of force, but force itself.[59][60][61]  


ホイットニー准将は憲法起草チーム全員に対して「天皇とその権限を維持する唯一の可能性はGHQ草案の受諾以外にない」という恫喝を用いる権限、恫喝のみでなく実際に強制力を行使する権限がマッカーサー元帥から付与されていることを伝えた。  


起草にあたったホイットニー局長以下25人のうち、ホイットニーを含む4人には弁護士経験があった。しかし、憲法学を専攻した者は一人もいなかったため、日本の民間憲法草案(特に憲法研究会の「憲法草案要綱」)や、世界各国の憲法が参考にされた。


民政局での昼夜を徹した作業により、各委員会の試案は、2月7日以降、次々と出来上がった。


これらの試案をもとに、運営委員会との協議に付された上で原案が作成され、さらに修正の手が加えられた。


2月7日

松本は「憲法改正要綱」(松本試案)を天皇に奏上。

2月8日

松本は「憲法改正要綱」(松本試案)を説明資料とともに総司令部へ提出

この「憲法改正要綱」は内閣の正式決定を経たものではなく、まず総司令部に提示して意見を聞いた上で、正式な憲法草案の作成に着手する予定であった。  


2月10日

最終的に全92条の草案にまとめられ、マッカーサーに提出された。マッカーサーは、一部修正を指示した上でこの草案を了承し、最終的な調整作業を経た上で、2月12日に草案は完成した。



2月13日

ホイットニーらは「憲法改正要綱」(松本試案)の受け取りを正式に拒否し、マッカーサーの承認を経て、いわゆる「マッカーサー草案」(GHQ原案)が日本政府に提示された。 

2月4日に憲法起草チームの前で説明された恫喝は実際に2月13日のGHQ憲法草案提示時に実行された。  


As you may or may not know, the Supreme Commander has been unyielding in his defense of your Emperor against increasing pressure from the outside to render him subject to war criminal investigation.[63]  


It has been asserted that those who recorded Whitney's remarks "were ashamed of the methods employed" by Whitney, in particular, his "threats against the Emperor - against the man - not just the institution - which Hussey in 1958 still wanted Kades and Rowell to conceal from the Japanese Commission on the Constitution."[64][65]



日本政府案の作成と議会審議


2月13日に日本政府に提示された「マッカーサー草案」は、先に日本政府が2月8日に提出していた「憲法改正要綱」(松本試案)に対する回答という形で示されたものであった。

提示を受けた日本側、松本国務大臣と吉田茂外務大臣、通訳の白洲次郎は、総司令部による草案の起草作業を知らず、この全く初見の「マッカーサー草案」の手交に驚いた。


この日マッカーサー草案を手交された場において「案を飲まなければ天皇を軍事裁判にかける」「我々は原子力の日光浴をしている」などの恫喝的言動がなされた。 


2月18日

「マッカーサー草案」を受け取った日本政府は、松本の「憲法改正案説明補充」を添えて再考するよう求めた。これに対してホイットニー民政局長は、松本の「説明補充」を拒絶し、「マッカーサー草案」の受け入れにつき、48時間以内の回答を迫った


2月21日

幣原首相がマッカーサーと会見し、「マッカーサー草案」の意向について確認。


2月22日

閣議で、「マッカーサー草案」の受け入れを決定し、幣原首相は天皇に事情説明の奏上を行った。  


2月26日

閣議で、「マッカーサー草案」に基づく日本政府案の起草を決定し、作業を開始。

松本国務大臣は、法制局の佐藤達夫・第一部長を助手に指名し、入江俊郎・次長とともに、日本政府案を執筆した。


3月2日

3人の極秘作業により、草案完成(「3月2日案」)。


3月4日午前10時

松本国務大臣は、草案に「説明書」を添えて、ホイットニー民政局長に提示。

総司令部は、日本側係官と手分けして、直ちに草案と説明書の英訳を開始。英訳が進むにつれ、総司令部側は、「マッカーサー草案」と「3月2日案」の相違点に気づき、松本とケーディス・民政局行政課長の間で激しい口論となった。

午後

松本は、経済閣僚懇談会への出席を理由に、総司令部を退出した。夕刻になり、英訳作業が一段落すると、総司令部は、続いて確定案を作成する方針を示した。午後8時半頃から

佐藤達夫・法制局第一部長ら日本側とともに、徹夜の逐条折衝が開始された。成案を得た案文は、次々に首相官邸に届けられ、3月5日の閣議に付議された。


5日午後4時頃

総司令部における折衝は全て終了し、確定案が整った。閣議は、確定案の採択を決定して「3月5日案」が成立、午後5時頃に幣原首相と松本国務大臣は宮中に参内して、天皇に草案の内容を奏上した。


翌3月6日

日本政府は「3月5日案」の字句を整理した「憲法改正草案要綱」(「3月6日案」)を発表し、マッカーサーも直ちにこれを支持・了承する声明を発表。

日本国民は、翌7日の新聞各紙で「3月6日案」の内容を知ることとなった。国民にとっては突然の発表であり、またその内容が予想外に「急進的」であったことから衝撃を受けたものの、おおむね好評であった。  


3月26日

国語学者の安藤正次博士を代表とする「国民の国語運動」が、「法令の書き方についての建議」という意見書を幣原首相に提出した。これを主たる契機として、憲法の口語化に向けて動き出した。


4月2日

憲法の口語化について、総司令部の了承を得て、閣議了解が行われ、


4月3日から

口語化作業が開始された。まず、作家の山本有三に前文の口語化を依頼し、作成された素案を参考にして、入江・法制局長官、佐藤・法制局次長、渡辺佳英・法制局事務官らの手により、5日に口語化第1次案が閣議で承認された。


4月16日

幣原首相が天皇に内奏し、まず憲法を口語化した後、憲法の施行後には順次他の法令も口語化することを伝えた。  


4月10日

衆議院議員総選挙。総司令部は、この選挙をもって、「3月6日案」に対する国民投票の役割を果たさせようと考えた。しかし、国民の第一の関心は当面の生活の安定にあり、憲法問題に対する関心は第二義的なものであった。


4月17日

政府は、正式に条文化した「憲法改正草案」を公表し、枢密院に諮詢した。


4月22日

枢密院で、憲法改正草案第1回審査委員会が開催された(5月15日まで、8回開催)。同日に幣原内閣が総辞職。


5月3日

極東国際軍事裁判、開廷。


5月22日

第1次吉田内閣が発足したため、枢密院への諮詢は一旦撤回され、若干修正の上、5月27日に再諮詢された。


5月29日

枢密院は草案審査委員会を再開(6月3日まで、3回開催)。この席上、吉田首相は、議会での修正は可能と言明した。


6月8日

枢密院の本会議は、天皇臨席の下、第二読会以下を省略して直ちに憲法改正案の採決に入り、美濃部達吉・顧問官を除く起立者多数で可決した。  


6月20日

これを受けて政府は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、憲法改正案を衆議院に提出。


6月25日から

衆議院は審議を開始。



7月29日

小委員会で第9条の「芦田修正」提示。

芦田修正とは、憲法議会となった第90回帝国議会の衆議院に設置された、衆議院帝国憲法改正小委員会による修正である。


特に憲法9条に関する修正は委員長である芦田均の名を冠して芦田修正と呼ばれ、9条をめぐる議論ではひとつの論点となっている。  


まず、帝国議会に提出された憲法改正草案第9条の内容は、次のようなものであった。  


第9条 

国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては永久にこれを抛棄する。 

陸海空軍その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は認められない。 


衆議院における審議の過程で、この原案の表現は、いかにも日本がやむを得ず戦争を放棄するような印象を与え、自主性に乏しいとの批判があったため、このような印象を払拭し、格調高い文章とする意見が支配的であった。そこで、各派から、様々な文案が示され、これらを踏まえて、芦田委員長が次のような試案(芦田試案)を提示した。  


日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず、国の交戦権を否認することを声明する。 

前項の目的を達するため国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 


芦田試案について、委員会で懇談が進められ、1項の文末の修正や1項と2項の入れ替えなどについて、原案をもとにすることなどがまとまった。

芦田委員長は、これらの議論をまとめて案文を調整し、最終的に次のように修正することを決定した。  


第9条 

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 


この修正について、総司令部側からは何ら異議もなく、成立に至った。

芦田修正では、「前項の目的を達するため」という一文が、後に9条解釈をめぐる重要な争点の一つとなり、芦田の意図などについても論議の的となった。


8月24日

若干の修正を加えて圧倒的多数(投票総数429票、賛成421票、反対8票)で可決。  


8月26日

続いて貴族院が審議を開始。

10月6日

若干の修正を加えて本会議可決した。

10月7日

衆議院は貴族院回付案を可決し、帝国議会における憲法改正手続は全て終了した。  


只今貴族院の修正に對し本院の可決を得、帝國憲法改正案はここに確定を見るに至りました(拍手)此の機會に政府を代表致しまして、一言御挨拶を申したいと思ひます、本案は三箇月有餘に亙り、衆議院及び貴族院の熱心愼重なる審議を經まして、適切なる修正をも加へられ、ここに新日本建設の礎たるべき憲法改正案の確定を見るに至りましたことは、國民諸君と共に洵に欣びに堪へない所であります(拍手)惟ふに新日本建設の大目的を達成し、此の憲法の理想とする所を實現致しますることは、今後國民を擧げての絕大なる努力に俟たなければならないのであります、政府は眞に國諸君と一體となり、此の大目的の達成に邁進致す覺悟でございます、ここに諸君の多日に亙る御心勞に對し感謝の意を表明致しますると共に、所懷を述べて御挨拶と致します(拍手) —1946年(昭和21年)10月7日衆議院本会議、吉田茂内閣総理大臣による政府所信 



日本国憲法の公布と施行 



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1946年(昭和21年)10月29日、「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。 


帝国議会における審議を通過して、

10月12日、政府は「修正帝国憲法改正案」を枢密院に諮詢(19日と21日に審査委員会)。

10月29日、枢密院の本会議は、天皇臨席の下で、「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した(美濃部顧問官など2名は欠席)。同日、天皇は、憲法改正を裁可した。

11月3日日本国憲法が公布された。同日、貴族院議場では「日本国憲法公布記念式典」が挙行され、宮城前では天皇皇后が臨席して「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」が開催された。   


本日、日本国憲法を公布せしめた。  

この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであつて、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によつて確定されたものである。即ち、日本国民は、みづから進んで戦争放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、ここに、明らかに定めたものである。  

朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任を重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。 —昭和天皇による日本国憲法公布の勅語、1946年(昭和21年)11月3日 


1947年(昭和22年)5月3日に、日本国憲法は施行された。同日には、天皇臨席の下、皇居前広場で「日本国憲法施行記念式典」が開催された。

1948年(昭和23年)には、5月3日は憲法記念日とされ、「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。」趣旨の国民の祝日とされている。  



占領下における日本国憲法の効力 


日本国憲法が1947年5月3日施行されたものの、日本が独立を回復する1952年4月28日まで、占領下であったことから完全な効力を有していなかった

最高裁は、1953年4月8日の大法廷判決(刑集7巻4号775ページ)において、日本国の統治の権限は、一般には憲法によって行われているが、連合国最高司令官が降伏条項を実施するためには適当と認める措置をとる関係においては、その権力によって制限を受ける法律状態におかれているとして、連合国司令官は、日本国憲法にかかわることなく法律上全く自由に自ら適当な措置をとり、日本官庁の職員に対し指令を発してこれを遵守実施することができるようにあったと判断している。

そして、いわゆるポツダム命令の根拠となった「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(昭和20年勅令第542号)について、憲法の外で効力を有したものと判断している。  


その意味で、日本国憲法が完全に効力を有するようになったのは、1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約の発効により、日本に対する占領が終了した時ということができる。  

さらに、主権回復時に米軍の占領下にあった地域(すなわち奄美群島、小笠原諸島、沖縄)について、憲法の効力が完全に及ぶまではさらに時間を要し、その返還の時、すなわち奄美(1953年12月25日)、小笠原(1968年6月26日)、沖縄(1972年5月15日)となった。

そして、日本政府が実効支配していない北方領土及び竹島については、憲法の効力はいまだ完全に及んではいない。






# by ichiro_ishikawa | 2019-06-02 10:41 | 日々の泡 | Comments(0)  

50年の体得

50年近く朝起きて食つて寝てを繰り返してゐると、自ずと体得されるものといふのはあり、「汚れ取り」と「食事」において、一応の結論めいたものがすでに成立してゐる。

まづ「汚れ取り」とは、具体的には歯磨きや食器洗ひや雑巾がけに於いてであり、その際のコツは、「スピード」であることが決定してゐる。
つまり肝心なのは、強さではなく、小刻みに速く動かすこと、である。歯ブラシ然り、スポンジ然り、雑巾然り。
試しに或るガンコな汚れを強くこすつてみても、なかなか落ちないことが分かるだらう。そこで、力は入れずとも小刻みに、速くこすつてみるがよい。みごとに落ちてゐるはずだ。

次に「食事」とは、提供する、される食事のメニューに於いて何が重要かといふことであり、それは「量」であることが決定してゐるのである。
味でも盛り付けでもない。一汁一菜、栄養バランス的なことに於いても、何を置いてもその「量」が最重要ファクターなのであつた、実は。
いくら美味しからうが、盛り付けにセンスが光らうが、栄養バランスが絶妙だらうが、量を間違へれば全て台無し。量が適切ならば、まづからうが、バランスが偏つてようが、オーケーであるといふか、それは美味いしバランスも整つてゐることなる。

カレーが盛りすぎであれば、どんなに美味であつても最後はゲフゲフとなり、「何か最初は良かつたけど、結果そんなでもなかったな」と呟いてゐる自分に気づくだらう。逆に少なすぎれば、「美味かつたがなんか物足りないな、〆にポテチでも食ふか」と、なる。
それが、量がズバリ適切であれば「最高に美味かつたな」となるわけである。

以上。

# by ichiro_ishikawa | 2019-05-28 21:30 | 日々の泡 | Comments(0)