松任谷由実 前期 プロローグ


松任谷由実ディスコグラフィでも
書いたやうに、荒井、松任谷由実は以下のやうなピリオドに分けられる。

荒井由実時代 1972〜76(18〜22歳)
松任谷由実時代 前期 1977〜81(23〜27歳)
松任谷由実時代 中期 1982〜84(28〜30歳)
松任谷由実時代 後期 1985〜96(31〜42歳)

最強は荒井由実時代で、時代が下るにつれて相対的に魅力は下がつていく。
俺が多感であつた10代は80年代で、初接触が松任谷由実時代の後期であつたため、あまり魅力を感じられずに現在まで過ごしてきてしまつたことはこれまで何度か確認してきた。
しかし、「時代が下るにつれて相対的に魅力が下がつてくる」といつても、荒井由実時代がものすごすぎるゆゑの「相対的」であり、通年、相当のハイレベルであることは論を待たない。

ところでいま気になつてゐるのは、「松任谷由実時代 前期」である。70年代半ば、松任谷正隆と結婚してから「守ってあげたい」まで。引退するつもりであつたが、表現のデーモンが引つ込むことを許さず、むしろ新しいステージにて良作を量産せしめ、ついには松田聖子への楽曲提供といふ時代との蜜月を迎へる前の、松任谷由実20代中盤の充実期を、詳しく振り返つてみたい。

その前にまづ、前期の「前史」を踏まへておく。
Complex以前の18〜22歳において黄金のキャリアをすでに築き上げてしまつた吉川晃司と同様に、荒井由実もまた18〜22歳までに、その頂点を極めた。

1975年6月、21歳の時に「ルージュの伝言」を擁する傑作3rdアルバム『Cobalt Hour』を発表したあと、


8月1日 、バンバンに「『いちご白書』をもう一度」(作詞作曲)を提供。

10月5日、 6thシングル「あの日にかえりたい/少しだけ片想い」 リリース。


11月25日、デビュー以来バックバンドを務めるティン・パン・アレー(細野晴臣、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆)に「月にてらされて」提供(作詞)  。


12月に松任谷正隆と婚約。


年が明けて22歳になつた1976年3月5日、7thシングル「翳りゆく部屋/ベルベット・イースター」 リリース。



といふやうに、名曲「あの日にかえりたい」「翳りゆく部屋」と名シングルを連発するも(ちなみに各B面の「少しだけ片想い」は前述の『Cobalt Hour』からのシングルカット、「ベルベット・イースター」は1stアルバム『ひこうき雲』からの再収録)、後述する次の4thアルバムThe 14th Moon(1976年11月20日)には収録しない。


その代はりなのか、1976年6月20日、これまでを総決算するかのやうにベストアルバム『YUMING BRAND』をリリースし、そこに「あの日にかえりたい」「翳りゆく部屋」は収められることになる。

つまり、ここで荒井由実は一旦幕を閉じるはずだつた。

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しかし、その後も続けざまに、

1976年6月25日 、三木聖子に名曲まちぶせ」を提供(作詞作曲)、そして「中央フリーウェイ」といふ最高傑作までもが出来てしまふ(ギターで松原正樹が加入)。

そして、急遽、11月20日、その「中央フリーウェイ」を収めて4th『The 14th Moonをリリースするに至る。

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そして、1976年11月29日に横浜山手教会にて松任谷正隆と結婚。


まとめると、

『Cobalt Hour』後、「あの日にかえりたい」「翳りゆく部屋」「中央フリーウェイ」と名曲が溢れ出してしまつた。その合間にも「『いちご白書』をもう一度」「まちぶせ」と人への提供曲でも名曲が生まれてしまふ。そんなクリエイティビティの超充実が、1975年で終はるはずだつた荒井由実時代を1年延ばさせた。


そして、もう引退は諦め、

1977年から、「松任谷由実」として、新たな歩みを始めることになるのであつた。




# by ichiro_ishikawa | 2019-02-25 20:59 | 音楽 | Comments(0)  

センチメンタルシリーズ 母の思ひ出


大人になつてから、実家に帰るのは正月だけで、
とはいへ帰つても何もすることがなく、
ただ本ばかり読んでゐた。
本といつてもポータブルな文庫本で、
小林秀雄であり、
名文を舌で転がすやうに、
よく音読してゐたものだ。

御堂の脇の庫裡めいた建物で 、茶屋をやつてゐる 。天井も柱もすすけ切つて 、幾つも並んだ茶釜が黒光りしてゐる 。脂と汗で煮しめたやうな畳の上に 、午前の浄らかな陽が一杯に流れ込んでゐる 。
(「秋」)

の「脂と汗で煮しめたような畳の上に」
のところで、台所で何かを作つてゐた母が、
「うえー」と呻いた。
朗読を聞くともなしに耳に入れてゐたのであらう。
2011年ごろのことである。



# by ichiro_ishikawa | 2019-02-19 22:05 | 日々の泡 | Comments(0)  

デスクワークと俺


資料や本を読んだり、
メール作成、送信的な事務作業は、
煙草を吸いながらでないと出来ないから、
喫煙所にて、スマホで行ふ。

しかし周囲ではぷよぷよみたいなのをチコチコやつてゐる輩も多いことが示すやうに、
喫煙所=休憩所といふ認識が大半であり、
俺の作業も、傍目には麻雀アプリをやつてゐるのと変はらないせいか、
どうでもいい世間話をガンガン振られる。

「ちといまのつぴきならぬメール中なので」
などと本当のことを言ひたいところだが、
気弱ゆゑ、のつぴきならぬ作業を止め、
「最近あたたかくなつてきたよねえ」などと返す。
デスクに戻つたら戻つたで、
「ちよつといいですか?」と本当の仕事を振られる。

したがつてデスクワークは
代休を取つてやらざるを得ない。



# by ichiro_ishikawa | 2019-02-19 12:27 | 日々の泡 | Comments(0)  

鈍行でゆく


人はなるべく乗り換へせずに一本で目的地まで行くことを好むやうだが、俺は電車を乗り換へることを厭はない。 むしろ一本で行くことを避ける。もちろん各駅停車にしか乗らぬ。
それはいつだつて薄ら痛い腹が、いつ激痛に変はるやもしれぬ可能性を孕んでゐるからだ。

しかし俺が途中下車をするのは必ずしも腹痛だけが原因ではないことを知つておくのはよいことだ。

加齢とともに冷え性も加速し、この冬場においてはいよいよヒートテック3枚重ね、タイツ着用、マフラー2本巻きをベースにアウター含め8枚ほどの重装備にならざるを得ないのだが、そのとき困るのが、「背中かゆい病」が発症したときである。服の上から掻いても意味がないのは無論、中に手を入れるとしても重ね着し過ぎで腕が局所まで回らない。ケータイ孫の手を使ふにもいろんなものを分入つて奥地まで滑り込ませるのは難儀である。ましてや本も広げられない満員電車の中では何もできない。しかも一度むず痒いと思つたが最後、痒さは倍増してゆく。これほどの地獄はないと言つてよい。

そんなとき、途中下車して広いところに出て、ゆつくりと、思ふ存分、孫の手で背中を引つ掻くのであつた。
以上。

# by ichiro_ishikawa | 2019-02-15 23:52 | 日々の泡 | Comments(0)  

1997ベスト5

1997年は、1987年で終はつた日本のポップミュージックが10年の沈黙を経て新しい時代の幕開けを告げた年だつた。



1997年6月18日 

中村一義『金字塔』

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1997年9月21日

CHARA『Junior Sweet』

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1997年10月21日

サニーデイ・サービス『サニーデイ・サービス』

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1998年4月17日

BONNIE PINK『evil and flowers』

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1998年4月22日

Cosa Nostra『OUR THING』

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UA『アメトラ』 

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# by ichiro_ishikawa | 2019-02-15 23:43 | 音楽 | Comments(0)